「敵は本能寺にあり」と主君の織田信長を倒したとされる明智光秀
天下を見据えたその矢先、山崎の戦いで豊臣秀吉によって討ち取られてしまいました。
そんな光秀には、その後も生き延びたという説が残されています。
死んだのは影武者の方で、本物の光秀はある寺に逃げ込んだといいます。
その寺の住職は光秀の弟で、そこに身を隠し、関ヶ原の戦いでは家康軍に味方しようと戦場へ向かいます。
ところが、時遅く、戦はすでに決着がついていました
帰るに帰れなくなり、今度は誤って川に落ちて死亡したとし、比叡山に登って天海というなの僧になります。
それから12年後の1612年、駿府に家康を訪ね、信頼を集めるようになりました。
家康は関ヶ原の戦い後、政僧と呼ばれる僧たちの意見や助言を受け、さまざまな政策を実行していきました。
その中に、天海という名の僧がいたといいます。
もし天海が光秀だったとしたら、秀吉に討ち取られたどころか、徳川幕府の全国支配に貢献したことになります。
比叡山には、慶弔20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれている石灯籠があります。
慶長20年といえば、豊臣家の滅亡寸前で、「願主光秀」が明智光秀だとしたら、彼は山崎の戦いで死ななかったということになります