先日行われた大野城の石勺(こくじゃく)遺跡D地点の現地説明会。
ぜんぜん知らなかったんだけど、石勺遺跡ってのは、縄文時代後期~奈良時代あたりを中心に、江戸時代までの長期にわたる複合遺跡。
要するに、このあたりは川も近くて環境が良いので、人間の生活が古代から連綿と続いてきたということでしょう。
戦後までは田園地帯だったのが、ここ数十年で急速に宅地化&近代化。
大野城市の中心部にあって、すでに遺跡の大部分は調査済みで、市街地の建物や道路の下に埋まっている模様。
まあ、博多の博多遺跡みたいなもんでしょう。
芝居見物なんかでたまに利用していた大野城まどかぴあなんかもこの遺跡の上に建てられていて、建物の脇にはその旨を書いた説明板があるのを今回初めて発見した。
![]() | でも、説明板は白く塗り潰されってるっぽい。何か都合の悪いことでも起きたのだろうか(辛うじて読める程度の中途半端な潰し具合がまた怪しい…)。<?td> |
で、今回現地説明会のあったD地点は埋め戻されて曙公園になっていたところで、「心のふるさと館(仮称)」とかいうのを建てることになったんで、未調査部分を発掘調査してみたということらしい。
今回の調査での大きな成果は、古墳時代中期の滑石生産工房と思われる建物が見つかったこと。
滑石(かっせき)とは臼玉(臼のような形の玉としか説明のしようがない)や勾玉の材料となるやわらかい石の総称だそうで、その材料から完成品(つまりは臼玉や勾玉)、未完成品や失敗作などが竪穴建物の跡からごっそり出てきたらしい(説明してるようで説明になってない?)。
ほかには弥生時代後期~古墳時代前期の長方形の竪穴式住居跡、ちょっと低くなった窪地のようなところからは大量の土器の破片が転がっていた。
ところで、古墳時代となるとたぶん奴国後の話ということになると思うけど、場所的には石勺遺跡自体が奴国に含まれるのかどうか?
担当者によると、確かに奴国の周辺集落には違いないが、人口も多そうだし、牛頸川や御笠川を使って他地域とやりとりする独立した集落みたいな感じだったんではなかろうかとのこと。
福岡平野で見つかっている玉造りの遺跡の中では規模は小さい方らしいけど、時期的にはこの地方の玉造りの先駆けと言えるんではないかということでした。
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写真は竪穴式住居跡だけど、ここから滑石が出た訳じゃない。工房の建物はこの奥で、なんとすでに埋めらてるっつか、土砂置き場に困ったとは言え、説明会する前に埋めるかよ(^⪍^;)。ちなみに住居跡の十字の間仕切りみたいなものは発掘の都合によるもので、部屋が仕切られていた訳ではありません。 |
![]() | 発見された生産過程の滑石。玉とか言うんでもっときれいなものかと思ってたら、意外と地味ですな…。 |
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ふるいを使って苦労して小さな玉とかを見つけたんですよという証拠の品。奥が発掘現場。 |
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土器などその他の出土品。手前のミニチュア土器は、昔もこんなもの作ってたんだって感じ。実用性はないみたいなので祭祀用でしょうとのこと。 |
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落ち込み(窪み)のところには大量の土器が。不燃物置き場みたいな感じだったのかな? |
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