朝晩の冷え込みがいっそう強くなった。
本格的な冬の到来である。
外来では、感冒症状を訴える患者さんが増えている。
それと、インフルエンザワクチンの予防接種を希望する患者さん。
外来の看護師さんは毎日目の回るような忙しさ。
看護師さん自身が風邪をひく事もあるが、休んでなんていられない。
必要最低限の人数でやっている、中小病院はどこも同じである。
そんなある日、一枚の紙切れが回ってきた。
A4の紙に、「院内感染対策委員会及び医療安全委員会のお知らせ」とある。
院内感染対策委員会と医療安全委員会は、全ての病院に設置が義務付けられて
いる委員会で、院内で発生した事故や感染症、抗生剤の使用状況などについて、
毎月1回の会議が開かれている。
仕事の段取りを付けて、私も参加しなければならない。
仕事の合間や家に帰って、抗生剤の使用状況や薬剤部に関する事故などを報告書
にまとめ、会議に参加した。
会議室に入ると、院長先生、医局長、総師長、各部看護師長、検査部長、検査部主任、
事務部長などが顔をそろえていた。
医局長の司会で会議が始まった。
「まず、第1号の議案ですが、今月院内で確認された感染症の症例について・・・」
検査部から症例報告があり、看護部から治療経過などが説明される。
薬剤部からは、使用された抗生剤の推移と偏りの有無などを述べる。
続いて事故報告、看護部から患者さんの転倒事故について説明と対策など
が述べられた。
会議も順調に進み、院長先生が早く終わりたそうな顔をしているのがわかった。
それを見て、司会をしていた医局長が、
「他に議題がなければ、この辺で・・・。」
と、言った所で、外来の看護師長が突然口を開いた。
「すいません、もう1ついいですか?テレビなどで新型インフルエンザの対策など
について、最近情報が流れていますが、当院では新型インフルエンザに対する
マニュアルがありません。是非、当院でもマニュアル化して欲しいのですが・・・。」
新型インフルエンザとは、人類のほとんどが免疫を持っていないために、容易に
人から人へ感染するものであり、世界的な大流行(パンデミック)が引き起こさ
れ、大きな健康被害とこれに伴う社会的影響が懸念されるインフルエンザである。
政府も新型インフルエンザの発生に備えた行動計画を定め、同計画に基づいた
準備を進めており、各施設でも具体的な対策を策定するよう求めていた。
いざという時のために、準備しておく必要があるのではないか、という提案である。
すると、院長先生がめんどくさそうな顔をしながら、口を開いた。
「うちみたいな小さな病院じゃあ、新型インフルエンザなんかに対応できないよ。
このあたりで新型が出たら、外来をやめてみんな家でじっとしておくしかないね。
新型にかかった患者はほとんど死んでしまうんだから、かかった患者が死んで
しまうのをじっと待つしかないさ。」
シーンとした空気が流れた。
確かにそうかも知れない。
一昔前の設備や機器しかない小さな病院では、パンデミックに対応できないこと
が皆想像できた。
外来をやめて患者を拒絶する。
法律に違反する行為であるが、感染の拡大を抑える最も有効な手段のように思えた。
しかし、頭では理解できるが、何か納得いかない感じもする。
「せめて、N95のマスクだけでも購入してもらえませんか?」
外来の看護師長が私の顔を見た。
N95のマスクは、新型インフルエンザ対策として厚生労働省が推奨している
マスクである。
20枚入りで4000円ほど、現在品切れで、予約注文となっており、(ネットでは、
20枚6000円で売られているものもある。)タイプも折りたたみのものから
カップ式のものまで様々で、現在数社から販売されているが、すでに品不足が
続いている。
「N95のマスクは既に品切れ状態でして・・・、注文してもいつ来るかわからない
状況です。」
再びシーンとした、冷たい空気が流れた。
「国や自治体が何とかしなければ、我々には何も出来ないよ。ハイ終わり。」
その一言で、会議が終了した。
皆席を立ち、職場へ戻ってゆく。
皆それぞれに暗い表情を浮かべていた。
現実に起こっていない事象に対して、真剣に準備が出来ない。
ただ、言い知れぬ不安だけが胸の中に渦巻いている、そんな表情である。
ふと思った。
院長先生の子供が感染した場合も、同じように見捨てることが出来るだろうか?
もちろん、将来は今より具体的な対策が考えられ、当院も少なからず対応
しなければならない状況にあると思う。
もし、自分の息子が感染したら・・・、と想像できないのでは、と思った。
対岸の火事・・・、どこかそういった感覚である。
会議室を出てゆく時、ふと後ろを振り返った。
離れの休館にある、広いが暗く冷たい会議室。
なぜか、この部屋に何台くらいベットを並べられるかな?・・・なんてことが頭をよぎった。
この時は、そんな日が本当に来るとは想像もしていなかった。
※ご注意
この物語はフィクションであり、登場する人名や場所、
事件などは実在するものと関係ありません。
なお、薬剤名は実在しますが、その使用方法は医師に
直接お尋ねになり、参考にすることはご遠慮下さい。
本格的な冬の到来である。
外来では、感冒症状を訴える患者さんが増えている。
それと、インフルエンザワクチンの予防接種を希望する患者さん。
外来の看護師さんは毎日目の回るような忙しさ。
看護師さん自身が風邪をひく事もあるが、休んでなんていられない。
必要最低限の人数でやっている、中小病院はどこも同じである。
そんなある日、一枚の紙切れが回ってきた。
A4の紙に、「院内感染対策委員会及び医療安全委員会のお知らせ」とある。
院内感染対策委員会と医療安全委員会は、全ての病院に設置が義務付けられて
いる委員会で、院内で発生した事故や感染症、抗生剤の使用状況などについて、
毎月1回の会議が開かれている。
仕事の段取りを付けて、私も参加しなければならない。
仕事の合間や家に帰って、抗生剤の使用状況や薬剤部に関する事故などを報告書
にまとめ、会議に参加した。
会議室に入ると、院長先生、医局長、総師長、各部看護師長、検査部長、検査部主任、
事務部長などが顔をそろえていた。
医局長の司会で会議が始まった。
「まず、第1号の議案ですが、今月院内で確認された感染症の症例について・・・」
検査部から症例報告があり、看護部から治療経過などが説明される。
薬剤部からは、使用された抗生剤の推移と偏りの有無などを述べる。
続いて事故報告、看護部から患者さんの転倒事故について説明と対策など
が述べられた。
会議も順調に進み、院長先生が早く終わりたそうな顔をしているのがわかった。
それを見て、司会をしていた医局長が、
「他に議題がなければ、この辺で・・・。」
と、言った所で、外来の看護師長が突然口を開いた。
「すいません、もう1ついいですか?テレビなどで新型インフルエンザの対策など
について、最近情報が流れていますが、当院では新型インフルエンザに対する
マニュアルがありません。是非、当院でもマニュアル化して欲しいのですが・・・。」
新型インフルエンザとは、人類のほとんどが免疫を持っていないために、容易に
人から人へ感染するものであり、世界的な大流行(パンデミック)が引き起こさ
れ、大きな健康被害とこれに伴う社会的影響が懸念されるインフルエンザである。
政府も新型インフルエンザの発生に備えた行動計画を定め、同計画に基づいた
準備を進めており、各施設でも具体的な対策を策定するよう求めていた。
いざという時のために、準備しておく必要があるのではないか、という提案である。
すると、院長先生がめんどくさそうな顔をしながら、口を開いた。
「うちみたいな小さな病院じゃあ、新型インフルエンザなんかに対応できないよ。
このあたりで新型が出たら、外来をやめてみんな家でじっとしておくしかないね。
新型にかかった患者はほとんど死んでしまうんだから、かかった患者が死んで
しまうのをじっと待つしかないさ。」
シーンとした空気が流れた。
確かにそうかも知れない。
一昔前の設備や機器しかない小さな病院では、パンデミックに対応できないこと
が皆想像できた。
外来をやめて患者を拒絶する。
法律に違反する行為であるが、感染の拡大を抑える最も有効な手段のように思えた。
しかし、頭では理解できるが、何か納得いかない感じもする。
「せめて、N95のマスクだけでも購入してもらえませんか?」
外来の看護師長が私の顔を見た。
N95のマスクは、新型インフルエンザ対策として厚生労働省が推奨している
マスクである。
20枚入りで4000円ほど、現在品切れで、予約注文となっており、(ネットでは、
20枚6000円で売られているものもある。)タイプも折りたたみのものから
カップ式のものまで様々で、現在数社から販売されているが、すでに品不足が
続いている。
「N95のマスクは既に品切れ状態でして・・・、注文してもいつ来るかわからない
状況です。」
再びシーンとした、冷たい空気が流れた。
「国や自治体が何とかしなければ、我々には何も出来ないよ。ハイ終わり。」
その一言で、会議が終了した。
皆席を立ち、職場へ戻ってゆく。
皆それぞれに暗い表情を浮かべていた。
現実に起こっていない事象に対して、真剣に準備が出来ない。
ただ、言い知れぬ不安だけが胸の中に渦巻いている、そんな表情である。
ふと思った。
院長先生の子供が感染した場合も、同じように見捨てることが出来るだろうか?
もちろん、将来は今より具体的な対策が考えられ、当院も少なからず対応
しなければならない状況にあると思う。
もし、自分の息子が感染したら・・・、と想像できないのでは、と思った。
対岸の火事・・・、どこかそういった感覚である。
会議室を出てゆく時、ふと後ろを振り返った。
離れの休館にある、広いが暗く冷たい会議室。
なぜか、この部屋に何台くらいベットを並べられるかな?・・・なんてことが頭をよぎった。
この時は、そんな日が本当に来るとは想像もしていなかった。
※ご注意
この物語はフィクションであり、登場する人名や場所、
事件などは実在するものと関係ありません。
なお、薬剤名は実在しますが、その使用方法は医師に
直接お尋ねになり、参考にすることはご遠慮下さい。