タローの犬小屋DX

僕は、何を探しているんだろう?
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百年の憂鬱

2011-08-28 00:08:31 | 日々
おそらく苦しい思いをするだろうことは分かっていた。
けれど、その衝動を抑えることはできなかった。

『すばる』9月号に掲載されていた、伏見憲明「百年の憂鬱」を読んだ。Twitterのつぶやきで紹介されていて、どうしようもなく気になってしまったので、今日、本屋で買ったのだった。では、いったい何が気になったかといえば、登場人物が置かれた状況そのもの、だと言えるだろう。
語り手である主人公・義明は四十代半ばを過ぎた中年のゲイ、文筆業の傍らバーのマスターをしている。そこに現れたのが、日本人とアメリカ人のハーフでモデルのような容姿のユアン、二十歳。二人は惹かれ合い、体を重ねるようにもなるのだけれど、義明には二十年来の恋人がいた。

それは、いつかの僕らだった。

「大人」と「子ども」の恋愛というのか、若く情熱的でときに強烈な嫉妬深さを見せるユアンと、それを愛しく眺めながら軽くいなす義明。二人のような直裁なやりとりをしたことはなかったけれど、僕はいつでも口に出せない言葉に傷ついていた。「体の関係はもうない」としても、「恋人というより家族」だとしても、「愛してる」と言われようと、不安も不満も心のどこかにあって、でも、それをぶつければ関係が破綻していくような気がしていた。元来臆病な僕にとって、それはもはや本能的な防御反応と言えたかもしれない。
すでに終わったことをまた引っ張り出して、彼氏を責めるつもりは全くない。何と言っても、今は十分に幸せなのだし。それなら何が言いたいのかと問われたら、あの頃は分からなかったことが、少しだけ理解できたということ。恋人のことをかけがえない存在とし、失うことはできないと分かっていながら、若いユアンのことも「遊び」ではないと言い切ってしまう義明の気持ちを、いつかの君の上に重ねてみる。矛盾したように見える複雑な感情を、きっと君も抱えていたんだろうね。



泣いて困らせたけれど、「別れてほしい」とは言わなかった。
別れたことに安堵したけれど、それでもやっぱり泣いた。
幼い僕は、自分の気持ちしか見えていなかったのだろうと思う。



僕らはこれから、どうなっていくのかな。正しい関係性を手にして、いつまでそれを握りしめていられるだろう? いつか「家族」みたいな関係になって、そのうちにセックスもしなくなるのだろうか。それも幸せだと言って、受け入れてしまうのかな。例えば、僕が他の誰かと遊びの恋愛をして、君はそのことに薄々気づきながら「仕方ない」と素知らぬ顔をしたり、するのだろうか。

いや、何も心配することはない。
僕は君を愛してる。ただ、それだけ。



でも、愛って何だ?