最近、お風呂にはまっています。
と言っても、僕の地元の温泉街の湯船に比べれば、足を思い切り伸ばすことも出来ないちんけな湯船なのですが、
そういう広々とした開放感ではなく、温度感知に関する気持ちよさに酔いしれています。
というのも、湯船のお湯の温度を逐一で測っていたら、湯船に入る瞬間にあまりの幸福感に声が
「あふぅ…おぉぉっ
気持ちいい~
幸せ~
」
と声が漏れ出る究極の適温を見つけたのです
って言っても、一般的な温度なんだけどね。
俺にとってはすごいディスカバリーであり、ついついはまってしまってます。
なにせ、その温度を維持していると「気持ちいい」センサーが抜群に働くのはもとより、汗が著しくいい感じにじわ~~っと転がりでてくるのですよ。
そして、湯上りも湯冷めしにくい感じ。
自分的にその温度は、42~43度なのですね。ね、一般的でなんもおもろくないでしょ。
でも、今の時期、この温度をうちで維持するのはけっこうな至難の業。すぐ冷めちゃうんだよね。湯船に使って5分もしないうちに30度台なってたり。
うそ~ん
みたいなことしょっちゅうです。
それにしても、思わず
「気持ちいい」
「幸せ」
とかいう脳が喜ぶような、α波だかドーパミンだかがでそうな言葉が無意識に口をついて出ることって大切ですよね。
今、この
無意識に口をついて出るこの感覚と言うか衝動と言うか、感動的な身体の物理的行動に注目しています。
あまり普段って、
「気持ちいい」
とか
「幸せ」
って声に出して言わないよね。
声に出してみるとね、意外とこれが頭にすーーーっと入ってきて、
実際よりももっと脳から身体にかけて、気持ちいいという暗号のようなものが
組み込まれていく気がするんだよね。いわゆる暗示みたいなものなんだけど、
それが信号のように各々の神経を介して、あらゆる臓器、細胞に送り届けられていく気がするんだ。
体を根本的に養っているのは一番に、自分の意思、志向性、つまり、心の部分だと僕はこの病気を通して思っている節があるから、なおさらそれを感じる。
だから、
ご飯を食べても、心から
「おいしい、こんなおいしいもの食べれて幸せだな
」
と思い、食べるたびに
「普通にうまいうまい。」
「これ、おいしいね。」
とか、
「おいしかった~」
「幸せ。満足」
と、言うようにしている。普段からみんながそうしているように。
でも、一人ご飯だとそれも寂しい。
最近は、バラエティ番組を見ながらご飯を食べることをしなくなった。ご飯に集中し、その味を噛み締めて食べるようにしている。そうするとおのずと感謝の気持ちもきれいな泉のように湧き出てくる。(でも、NHKはかけてる。BGMに)
だって、医学的根拠はよくわからないけど、
落語や笑いを見た後の人の免疫があがるというデータが本当ならば、
それと同じように、「おいしい」、「気持ちいい」、「嬉しい」などの
ある意味ポジティブな感情は、絶対に免疫を上げる手助けとなりうるだろうと思う。
結局のところ、免疫なんてものは、実は単純なもので細胞自身と自分自身のコミュニケーションのやり取りがメインでつかさどられていて、細胞を支配できる自分自身の心があれば、ある程度自分の身体を支配できる気がする。ま、非科学的な理想郷の話ですが。
でも、ねずみとかの動物が、ストレスに極度に弱いって言う話があるでしょ。ストレスの多いところにいると、すぐ死んじゃうらしいんだよね。
彼らもそういう「生きている」という感覚が遮断された結果、細胞自身のコンビネーションの秩序が乱れに乱れ、ついにはただの細胞と言うものでしかなくなっていっちゃうんじゃないのかなーなんて思うんだけどどうなんだろう。
話は戻って、声に出す、ということは、英語のリスニング、スピーキング、歌詞を覚えることに関しても、必要不可欠な学習方法で、ただ頭の中で読んだだけじゃ、その美しいチョウ達は羽ばたかない。口から発することの繰り返しで、ようやく体がなじんで習得していくもの。これとはまた話が違うとは思うが、そういう原理的なところは似ていると思う。つまり、声に出さないと、脳も心も身体も細胞にも伝わらない、響かないのだろうとおもうのである。
そして、現実に束縛された生活なんてたかが知れてるわけで、そこから何か楽しいことや気持ちいいことを見つけることは、意外に難しいもの。
病気を体験した人は特に、過去からの挑戦状に今だに苦しめられている人がたくさんいて、現に完治のお墨付きをもらった今でさえも、その不安と恐怖に脅え続ける人がたくさんいる。
完治とは別だけど僕もそう。それでも、今では開き直る術を覚えたのか、なんとかなるショーで、それほど不安を感じることはなく、ただただ毎日を楽しく、幸せを噛み締めながら生きている。
ただ、過去に負った経験、トラウマ的感覚は、消えることはない。脳にしっかり焼き付けられていて、同じような境遇が起るたびに、心が雪崩で崩れそうになることがある。
では、なぜそうなってしまうのか。それは人間のサガなのであろうか。
いいんや、そんなことはない。ある程度は回避できるものであると思う。
きっと、これも執着心からきているのだろう。
まず、人間と言うのは、過去にあった出来事を今と対比し、似たものがあれば、ジグソーパズルの一こまのようにそれと重ねてしまう傾向があるように思う。
特に悪い傾向の一こまに対しては、似ているだけなのに、あたかもそれが魔界暗黒から送られてきたパズルと同じパズルであるように洗脳されてしまう部分がいたし方あるようだ。それが心や脳の中で色濃くでてしまうのである。そして、脳はそれを同じものと認識してしまい、その闇に覆い飲み込まれて周りが見えなくなってしまうのである。(自分自身で強制的にその闇を認識させてしまっている。
いや、してしまいたいのである。)
それは、なんとも悲劇的なことだと思う。
ならばどうすればいいのか。
僕が今思うのは、
現実を離れればいい。おおいに妄想すればいいと思うのです。現実なんてとても小さな世界。脳の中で感じ取って目から見えたものを見ることしか出来ないようなちぽけな世界。(他にもいろいろ機能はあるが)
妄想は無限に広がる宇宙的空間。同じ脳から作り上げる世界にしても、ここには限界がない。
今ここにある現実に縛られ、現実ばかり見る必要などどこにもない。それで苦しむくらいなら、馬鹿みたいにおもしろい妄想で自分の好きな楽しい時間を自分なりに構築して、ひとりでニヤニヤ笑ったり、明日へのレールでも作っていればいいと思う。そのほうが俄然楽しいと思う。
たとえば、レンタルショップに行ったとしよう。レンタルしていたCDを店員さんに返却したら、
「中身が入っていませんよ。」
と言われた。あ、本当だ。
そして、店員さんに謝る。俺。
「ごめんなさい。戻ってきて持ってきます。」
そしたら、店員さん。
「空ららい、からららい、からららいらいらい、早くいけいけGOGO!!」
「わかった、いくいくGOGO!!」
これで二人は仲良し!なぁ~んて。
でも~、楽しくない?
しかも、いきなり二人ともこの寒空にランニング、半ズボン、鉢巻になってたりしたら。
当たり前の世界なんて当たり前で何にも面白くない。
あたり前々後あたりがちょうどいいのかな?
と、いうわけで、全部非科学的に何の理論その他を無視して、自論で書きましたので、間違い等は受け流してください。
ではでは…