「館蔭の杜」を眺めつ つれづれに

窓外の森を眺めながら時々の想いを綴る

判在家という所

2015年02月28日 | 日記
住んでいる近くの地名に「判在家」という所がある。
地図を見ると周囲は 判在家西、判在家後、判在家向河原、判在家向河原下 など判在家に囲まれた地名である。

ここには、以前にも触れたが「根白石村名起因の石」という大きな石がある。
繰返すが、その昔、源頼朝が奥州に向う途中に立ち寄り、狩りをした際に家臣が大きな鹿を追い詰めて射止めたと思いきや、大きな白い岩だったことから、頼朝が面白がり「ここを根白石村と呼ぼう」といったとの故事から村名がつけられたと言われているが、「将軍様が滞在した所」という意味で、このあたりを「判在家」という地名で呼ぶようになったのだろうと勝手に思ったりしている。


因みに、近くには民間の野球場があり朝野球などに使われて地域の自慢の一つにもなっているが、昨秋には有名なプロ野球OBが訪問したことが紹介されている。

また、この近くには「福沢城」と「小角城」の二つの古城跡があり、そのまま地名として残っている。


◇正面は根白石バイパスと泉ケ岳・宮床へ ◇右手は判在家付近、先は根白石町内へ続く

孫の授業参観

2015年02月25日 | 日記
今日は6年生の孫娘の授業に、いつものことながら親の代役として行って来た。

入学式か卒業式位しか親の参観をしてもらったことがない自分としは「子供は口では言わないが密かに父兄の参観を望んでいるのではないだろうか」と想いながら少し早めに行ってみた。

まだ、どなたも見えていない教室に近づくと、生徒が皆廊下に出てきて「・・・・・の爺ちゃんだ」と言って賑やかだった。

誰れの父兄かを生徒は皆分かっているようで、これも小さな学校の良さなのかなと思いなから孫と目を合わせると、はにかみながらもまんざらでもなさそうな顔をしていたので先ずはひと安心した。

授業内容は「25才の私」ということで、25歳になった時の自分を想像して、それまでに何をどう取り組むかという設計図を描いて発表するものだった。

子供それぞれの努力目標なので中身は様々だが、全員がパワーポイントを使ったプレゼンテーションンで堂々とした発表には驚いた。60年前の自分には考えもつかないことだった。

生徒は14人、父兄も全員揃ったが、私のほかはすべて母親で、ほかの生徒の発表にも普段の様子を知っているような感じで聞いていた。

孫娘の夢も知ることができたし、変わるかもしれないが、それに向かって自分で努力していくだろうと期待しながら、懇談会は失礼して帰って来た。

帰りに、今日の様子を振り返りながら、小さな古い建物を写真に写してきた。



(音楽・理科教室・・・・ 屋根には松の若木が生えていた)



(校舎の北側1)



(校舎の北側2)



(校舎の北側3)



(尊徳さんは今日も読書 ・・・・・ )



(北側昇降口から泉ケ岳を望む)




蔵王の峰が輝いて

2015年02月20日 | 日記
今朝は雪もなく穏やかな朝だ。二階の窓から南西方向に蔵王の峰が朝日を受けて輝き浮き上がって見えた。


先日の雪がすっかり融けた麓の山はメタセコイヤの光る並木と杉と松と雑木のコントラストが美しかった。


北の窓からは泉ケ岳が頂上に雪をかぶって迫るように輝いていた。

朝と昼過ぎに地震 !

2015年02月17日 | 日記
朝8時過ぎに地震があった。大きな横揺れが長く、最初は眩暈と勘違いしたが地震と気付き、震源地が遠く大きな地震だなと思った。
テレビを入れると「三陸沖、震度4」とのこと、割と大きくはないと思い直したが「津波注意報」とか「避難勧告」と長時間の特別ニュースが続いた。
昼過ぎに、三陸沖で震度5強の規模の地震があったことを車のラジオで聞いて驚き、改めて東日本大震災のことや、これまで遭遇した地震のことを思い出していた。

不謹慎かもしれないが、自分は、これまで大きな地震を何回も経験したが、その割には被害が少なかったなと思っている。

1.十勝沖地震(青森市で転勤直後、勤務中)
  1968.5.16 3階の事務室の巨大なコピー機が4~5メートル動きまわり、1階への歩行避難が困難、町中であちこち火の手が上がった。自宅は油の瓶が割れただけ。1カ月以上災害復旧の仕事を応援。故郷に通じるローカル鉄道が廃止に追い込まれた。

2.宮城県沖地震(仙台市で勤務終了直前)
  1978.6.12 4階事務室が大きくうねるような揺れ、停電、断水等で生活不自由、カセットコンロ入手困難、自宅は被害余りなし。

3.三陸はるか沖地震(八戸市で仕事納めから帰宅直後)
  1994.12.28 凄かった、酔いが醒めた、長期間、仕事で災害復旧に携わる、20日頃過ぎて阪神淡路大震災発生

4.岩手・宮城内陸地震(仙台市で会議会場ホテルに向うバスの中で)
  2008.6.14 バスが横に揺れて転覆しそうだった。ホテルではトンガのラグビー選手が外に出て皆震えていた。会議は行うことができたが、参加者が半減。県北で甚大な被害。

5.東日本大震災(仙台市で売却自宅の片付けの最中)
  2011.3.11 空家同然の家の掃除中でトイレの中で身動きができなかった。
家に戻る途中にガソリンスタンドの辺りが異常に渋滞しているのが不思議に思えた。後で、ガソリンの確保が始まっていることに気付いた。
しばらく経って、ハッと孫たちのことを思い出しあわてて迎えに出掛けた。小学2年の孫はラスト2番目の引き取りとなってしまった。
保育所の2人の孫は、近くの小学校の校庭に避難していて寒さと怖さで泣いていた。気付くのが遅くなったことを後悔し済まない気持ちで一杯だった。
大津波と大震災の状況を翌日になって知った。千年に1度と言われる大震災となった。
越した家は土台がひび割れ,陶器が大分割れたが被害は比較的少なかった。2日後には電気水道が復旧したが、ガソリンの入手が非常に困難な状況だった。






新雪吹雪

2015年02月14日 | 日記
今朝は6時頃になって急に雪が降り出し、瞬く間に10センチほど積もりました。
明るくなる頃には止みましたが、風が強く山の方は新雪が竜巻のように舞い上がってとても印象的だったので、窓を開けてシャッターを切りました。



木造校舎(根白石小学校)

2015年02月09日 | 日記
孫達の通っている学校は今ではあまり見ることのできない木造平屋の小学校である。

昭和5年の建築で85年近くになるという。もしかして日本一古いのではないだろうか。
その佇まいは、小さい頃に遊んだ故郷の景色を思い出させてくれる。

東日本大震災でもほとんど被害がなかったようで、被災した鉄筋コンクリートの中学校校舎の修理の間、仮校舎として生徒を受け入れたという。



校門から入ってすぐのところに二宮金次郎の像が立っていた。
これも今はあまり見かけることがない。



正面玄関の入口には鐘が吊り下げられていて、今は使われていないだろうが時どきにその音が聞こえてきそうな気がする。



今は、生徒数が百名足らずということで、教室などは余裕があるようだ。廊下は鏡のように磨かれて周囲を映し出し、木目が浮き上がっていて長い歴史を感じさせる。



教室の天井や欄間、音楽室と言われる部屋の造作も時代を感じさせるものであった。



ここで学ぶ子供達にはおおらかで人を思いやる心が自然に培われるような気がしてほのぼのした気持ちになった





館蔭の村祭

2015年02月08日 | 日記
この地区での村祭りは、なんといっても館蔭の杜にある神社の神輿渡りだ。
兎口神社の豪華な神輿がお祓いを受けた後に下道に降りてきてぐるーっと村の道を練り歩く。

古い歴史があるが今は地区町内会のの運営行事となっているようだ。



白い装束に身を包んだ男たちが泉ケ岳を遠くに見ながら威勢よく道々を練り歩く風景は、収穫の秋を一層盛り上げてくれる。

この神輿は、昭和になって新造されたものだが、それ以前の神輿は仙台青葉神社から貰い受けたものもので、1トン近くもある大型のものだったと伝えられている。



青葉神社の神輿担ぎ手は根白石の若者が多かったことがご縁で神輿を更改した際に貰い受けたいう。


この日は、子供会自慢の手造り神輿も繰り出して、元気な声を張り上げる。



家々からみんな外に出てはご祝儀を差し出して元気付をする・・・・・ほのぼのとして長閑な秋祭りである。


祭りを終えた孫たちは、日陰の長くなった坂道をゆったりととした足取りで家路につく。


 
帰りの道は遠かった ・・・・・・・・





我が家のペット(犬)

2015年02月02日 | 日記
我が家には今、猫のほかに犬もいる。名前を「リュウ」という。
この犬は同居の娘が飼い始めたもので12~3才になる黒の雑種(シェパードとラブ)で、越してきてからは親の私達が世話役になっている。
私と同じでそろそろ口の白髪が目立ってきた。




以前住んでいた家では、ラブラドールを飼っていた。
猫と同じで、娘たちがどうしても飼いたいと県北まで出かけて行って買い求めてきたものだった。
「この子が一番かわいかった」というだけあって、なるほど愛くるしく男前の犬だった。娘たちが「ジャッキー」と読んで大いに可愛がった。



後で気が付いたが左の前足が曲がっていた。
それでも家族は「どこのワンちゃんよりかわいい」と大事に育ててきた。
名犬にしようと犬の学校に2カ月ほど預けて訓練もしたが、男ぶりは抜群だが期待したようにはなかなかお利口にはなれなかった。



おっとりとして人懐こく猫たちとも仲良しでなかなかいい犬だったが、皮膚が弱くて口の周りと足の辺りを気にすることが多く、年を重ねるごとにずいぶん医者のお世話になった。



体重は36キロと重く、15歳を過ぎたころからは足腰が弱くなって後脚に車椅子様のものをつけて散歩するようになったが、次第しだいに散歩もできなくなった。
パンツをつけて貰って、玄関で介護してもらうようになって半年余り経ったころ、買い物から帰ったら眠るようにして冷たくなっていた。


人間にしたら100才は超えていただろうが不憫でならなかった。今は、先に逝った五右衛門とともに葛岡霊園に眠っている。


いろいろと「思い出を有難う」と感謝の気持ちで時々思い浮かべている。