私は自由気ままに生きている。

―東京暮らし・子無し中年主婦の気ままな日常―

猫ちゃんの思い出ー飼い主の成長

2017-06-21 19:29:50 | うちの猫ちゃん
猫ちゃんが亡くなってそろそろ三ヶ月となる。
そんなに経ったのが信じられないのだが、
この三ヶ月私はただやる気なくぼーっと過ごしていただけだった。
どろどろと本を読んだり映画を見たりしていただけ。
(もちろん仕事には行っているが。)
最近になって少しはやる気が湧いてきた感じもするのだが、まだ行動にはでていない。
ジョギングを再開したいのと、徹底的な身辺整理と、あと洋裁、図書館通いなど。


それと先日、地元でやっている猫の譲渡会も行ってきた。
生後二ヶ月くらいの仔猫ばかり参加していて、里親希望者がわんさかいるような譲渡会。
仔猫は可愛かったのだが、どうも飼いたいという気持ちが湧かなかった。
最近では、亡くなった猫ちゃんの思い出だけで生きていけるような気もしている。
成り行きに任せて、もしよい出会いがあったらということにするかもしれない。


それで、譲渡会で仔猫を見てきたせいか、
亡くなった猫ちゃんが小さかった頃のことをあれこれ思い出した。
まず、なぜ飼うことになったのかであるが、
知人宅で生まれた仔猫を見に行ったのがきっかけなのだが、
それでその日のうちにもらってきてしまったというのは、
やはり私の中に寂しいという気持ちがあったからなのかもしれない。
自分の寂しさを紛らわすために猫ちゃんをもらってきたということなのだ。
突然仔猫をもらってきたから、
夫(その頃はまだ夫ではなかったが)は驚いたというか怒っていたね。
返してこいとまで言われたが、何やかんやで飼い続け、
最終的には夫もすっかり猫好きになってしまったのだが。
それでも、夫は初めて猫を飼うことになったので、
早朝の運動会にはかなり参っていたというか怒っていたね。
猫ちゃんのことでよく喧嘩をしたものだった。


そういうスタートだったから、私は身勝手な飼い主だったのだ。
夫からあまりにも苦情を言われて、猫ちゃんを疎ましく思ってしまった時期もある。
小さかった頃はお転婆具合が酷くて叱ってばかりだった。
いろいろ要求してくるので鬱陶しいとまで思っていた。
まったく酷い飼い主である。
私は毒親ならぬ毒飼い主だったのだ。


それがいつの間にか、猫ちゃんのほうが人間に合わせてくるようになり生活が落ち着いた。
仔猫時代、超早起きで早朝から騒がしかったのが、いつの間にか大人しくなったのだ。
さらには人間が起きる時間に一緒に起きるようにまでなった。
(目が覚めると、枕もとで猫ちゃんにじーっと見つめられていることも。)
生きていくための適応能力といえばそれまでであるが、今思えば何とも健気である。
そのあたりからペットと飼い主の関係が急速に深まったように感じる。
私も過去の行いを後悔し、その罪を償うようにまさに猫可愛がりするようになったのだ。


実家でいろいろペットを飼ってきたとはいえ、
赤ちゃんのうちから自分が母親代わりになり
責任もって動物を育てたのは亡くなった猫ちゃんが初めてだったのだ。
自分の至らなさとか身勝手さとか、いろいろな気づきがあったね。
子供がいる人なら子育てを経て成長できるということなのだろうが、
私の場合はそれがペットだったというそれだけのことなのだけれど。



猫ちゃんの思い出ー飼い猫の生き様

2017-05-15 22:52:16 | うちの猫ちゃん
もし輪廻転生というものがあるとしたらの話。
人間に大事に飼われて、人間と心を通わせた動物は生まれ変わったら人間になるのではないか。
なぜそう思うのかというと、うちの猫ちゃん晩年ますます人間みたいになっていたからである。
やはり飼い猫だから、もともと人間の真似をしているようなところはあったのだが。










お得意のポーズ。炬燵からの上半身出し。




私のベッドで枕使って寝てる姿がなんか人間ぽかった。


晩年は私に対していろいろ文句を言うようになったし、
(もちろん人間の言葉ではないが)
おまえらの食ってるものよこせとしつこく要求してきたし、
(以前は人間の食べ物にそれほど関心がなかった)
独りぼっちを嫌がるようになったし。


そういえば、余命を宣告されてから(宣告されたのは飼い主だが)
具合がよくなったり悪くなったりを繰り返しながらだいぶねばったのだ。
私はてっきり、具合が悪くなったらだんだん動かなくなって
最後は寝たきりになるのかと勝手に想像していた。
だけど実際は、ふらふらになって倒れたりしながらも死ぬ直前まで活動を続けていた。
食べること、排泄することを何とか自力でやろうとしている姿が必死に見えた。
そういう姿を目の当たりにしたから、何とかしてやりたいと私も協力して介護したのだ。
すると今度は、私の介護に応えるように猫ちゃんはさらに生きようとしているように見えた。
もちろん、猫ちゃんは自分の死を理解していなかっただろうが、
私の様子から別れが来ることは理解していたような気がする。
だからこそ、あのような最期を迎えたのではないかと思えてならないのだ。


猫ちゃんはもともと半ノラ状態の仔猫だった。
友人の家に出入りしている猫が仔猫を産んだというので見に行き、
あまりに可愛くてそのまま連れて帰ってきてしまったのだ。
あれから18年。
一匹の猫の生涯を見届けたわけだが、
最期は飼い猫の生き様を見せつけられたなぁといった感じ。
別れはつらかったけれども、18年間寄り添ってくれたことに感謝している。

四十九日法要

2017-05-10 22:18:22 | うちの猫ちゃん
前回の更新から1か月以上経ってしまった。
初夏を思わせるような日もあるくらいに季節が移り変わっていた。
清々しい季節なので気分が晴れる日ももちろんあるのだが、
相変わらず猫ちゃんのことでめそめそすることが多い。
とくにこの数日がそうで、おそらく四十九日を迎えるということと関係がありそうだ。
実は霊園から法要のお知らせが来ていて、こないだの日曜日に夫と行ってきたのだ。
火葬の日もそうだったが、法要の日も天候に恵まれていた。
うちの猫ちゃん、晴れ女(晴れ猫?)だったのだろうか。
とにかく飼い主としては気持ち的にもだいぶ助かってありがたかった。


それで、日曜日にお坊さんに拝んでもらってから、どうも猫ちゃんがもう家にいないらしい。
それまではまだ家にいるとなんとなく感じていたのだが。
私は無宗教だし、神様とか仏様とか霊とか、信じていないというか
これまで真剣に考えたことがなかった。
そういう人間が、四十九日の法要で猫ちゃんが旅立ったと一応感じているのだ。
それで、猫ちゃん(の魂)がいなくなったから急に寂しさが沸き上がっているというわけだ。
寂しいのと同時に、猫ちゃんの魂はどこに行ったのか、
生まれ変わったのか、とかしょうもないことをあれこれと考えている。
私はスピリチュアルな人間ではないのだが。


あれこれ考えたのだが、死後の世界とか輪廻転生とかはっきり答えが出せるものでもない。
スピリチュアルな人間でないから、私自身はそういうものはないと考えている。
だけど、もしかしたらあるかもしれないし、
あると思っていたほうが自分のためになるような気がする。
ということで、あの世かこの世でまた猫ちゃんと出会えると思うことにした。
実家で飼っていた歴代の犬さん猫さんもあの世で待っていると思えば
自分の死もそんなに悪くない、というかむしろ楽しみになってくる。
もちろん死後の世界なんてないかもしれないが、
その時は自分も死んでいるからどうでもよいだろう。








十年前の猫ちゃん。
若いしきゃわいいのう。

猫ちゃんの思い出ー最後の日

2017-04-01 22:53:53 | うちの猫ちゃん
自分でもうじうじし過ぎだと思うのだが、やはり毎日猫ちゃんのことを考えている。
まだ猫ちゃんが亡くなって間もないし仕方ないだろう。
それで、最近は猫ちゃんが残してくれたものについて考えることにしている。
自分勝手かもしれないが、猫ちゃんを思い出して苦しくなるのは嫌なのだ。


猫ちゃんとの最後の日の話。
仕事から帰るとおしっこを垂れ流して倒れるようにぐったりしていたのだ。
慌てて声をかけると、辛うじて目をうっすら開けて反応があった。
一人で心細い中何とか頑張って、私の帰宅を待っていたのだろう。
とにかく間に合ってよかったのだが、もう今にも死んでしまいそうだった。
この状態で飲み物・食べ物を受け付けるかわからなかったが、
急いで栄養と水分を補給をさせることにした。
栄養ドリンクを水で薄めたものに、アミノ酸サプリを砕いて溶かした。
それをスポイトで口の中へ流し込む。
何とか飲んでいるらしかった。
ちょっとずつ、ちょっとずつ飲ませた。
飲ませながらも、もうだめだろうと思い夫に連絡する。
しばらくすると、猫ちゃんの手足がピクピクしだした。
これはお別れの合図なのか、それとも…


またしばらくすると、今度は頭を動かすようになった。
どうやら息を吹き返したらしい!
ちょうどその頃、夫から折り返し電話があった。
声を聞かせたいというので、携帯を猫ちゃんの耳元に近づけた。
猫ちゃんは頭をもたげて、目を見開いてしっかり聞いているようだった。
夫の声を聞いて、もうひと踏ん張りしようと気力が湧いたようだ。
またしばらくすると、今度は上半身をしきりに動かすようになった。
もしかしたらトイレかな。
抱っこしてトイレに連れていくと、案の定おしっこをした。
またしばらくゆっくり休ませたら、今度は歩くようになった。
かなりフラフラであるが、自分でトイレにも行き、ご飯も食べたのだ。


猫ちゃんも疲れていただろうが、私も日頃の看病で疲れていた。
猫ちゃんが復活したところで安心し、猫ちゃんのそばで毛布をかぶって寝てしまった。
気が付いたら、猫ちゃんは私にぴったりくっついて眠っていた。
おそらく苦しいからか、もう最近はこのようにくっついて寝ることはなくなっていたのだ。
今考えると、あれは最後に添い寝してくれたのだ。
親バカかもしれないが、うちの猫ちゃんは優しいところがあったのだ。
まったく、飼い主思いのいい猫だったよ。








このところ、猫ちゃんの写真をグーグルフォトで整理していた。
パソコンやら携帯やら、いろいろなところに保存してある写真をすべて引っ張り出してみた。
グーグルフォトでアルバム作ると、勝手に時系列に並べてくれるのですごく助かるね。
毎日眺めてるけど、これではなかなかペットロスから抜け出せないかもしれないよ。
上の写真は5年前のもの。

ペットロス。

2017-03-28 13:02:06 | うちの猫ちゃん
猫ちゃんが亡くなって四日経ったが、
毎日猫ちゃんのことを思い出しては涙を流す日々を送っている。
まだ亡くなったばかりだしそんなもんだろうと思うのだが、
それにしても毎日生きているのが辛い。
なぜ辛いのかというと、いなくなった寂しさからではないと思う。
猫ちゃんを苦しめたのではないか、もっと早くに病気に気付けばよかったのではないか、
もっと運動させればよかったのではないか、もっと家にいてやればよかったとか、
そんなことが頭の中をグルグルと堂々巡りしている。
これがいわゆる、多くの人が患う一般的なペットロスなのだろう。
だから、きっとそのうちに立ち直れるとは思うのだが。


猫ちゃんに対してしてあげられなかったことよりも
してあげられたこと、楽しかったことを考えたほうがいいとは頭で理解しているのだが、
思考とは裏腹に、どうも私の感情は自責の念に囚われてしかたがない。
猫ちゃんはそんなこと気にしてないし恨んでなんかいないよと思う自分のいるのだが、
それは自分の都合のいいように解釈したいだけではないのかという
もう一人の自分もいるのだ。
まったく堂々巡りなのである。


子供の頃、実家で飼っていた犬を最後まで飼うことができなかった体験がある。
この体験が私の内面に相当な影を落としているのは自覚していて、
だからこそ猫ちゃんは最後までしっかり添い遂げようと思っていた。
その願いは叶ったことになるのだが、不思議なことにまったく克服できた感じはしない。
これは、猫ちゃんをがんという病気にしてしまったことによるのか。
それでは、がんにならなかったら、将来納得のいく最期を迎えさせることが可能だったのか。


冷静に考えると、この苦しみは私の性格的なことに起因していているだけなのだ。
どんなにやってあげたって、私は後悔ばかりする質の人間なのだ。
こういう人間はペットを飼うのに向いていないのかもしれない。
それでも、やっぱり犬や猫と暮らす生活はとても幸せで、穏やかで、魅力的なのである。
まったくどうにも踏ん切りがつかないが、
おそらく次の子を迎え入れることでしか私は生きていくことができなそうだ。
まぁすぐにという話ではない。
とにかく今は、亡くなった猫ちゃんに感謝と謝罪の気持ちを送りながら生活していこうと思う。





そんなに思い悩むなよなー。