「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

「武士道の言葉」その40 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その3

2016-04-05 11:26:41 | 【連載】武士道の言葉
「武士道の言葉」第四十回 大東亜戦争・祖国の盾「特攻」その3(『祖国と青年』27年11月号掲載)

美しき祖国への信

神州の尊、神州の美、我今疑ハズ、莞爾トシテユク。萬歳。 (黒木博司海軍少佐「遺書」)

 昭和十八年になると、米軍の反転攻勢が強まり、不利な戦況を挽回するには物量の差を跳ね返す様な「一人千殺」の必勝兵器の開発が必要との声が、現場の潜水艦将校の中から起って来る。その様な中、呉軍港外の秘密基地にあって甲標的(特殊潜航艇)の艇長教育を受けていた黒木博司中尉と仁科関夫少尉は、世界最優秀の九三式魚雷を改造する人間魚雷の構想をまとめ上げ、その構想を実現すべく海軍省軍務局に出頭して膝詰め談判を行った。昭和十八年十二月二十八日の事である。
だが、その情熱は諒とするも、「必死必殺」の人間魚雷の採用には軍当局も難色を示し、許可は下りなかった。それでも二人は血書、上申を繰り返す。試作艇の開発が始まったのは十九年二月二十六日。七月下旬には完成し、黒木大尉・仁科中尉が試乗。八月一日、海軍大臣の決裁が下り、『回天一型』が誕生した。

 人間魚雷を操縦して狭い水道や種々の難関を突破して敵艦に見事体当たり出来る為には搭乗員に対する、心技体の向上訓練が欠かせなかった。訓練の一回だけで黒髪が真っ白になる程心身を消耗したとの話があるが、余程の精神力・使命感・胆力・平常心が備わらなければ人間魚雷での戦果を挙げる事は出来ない。その訓練の先頭に立ったのが黒木大尉だった。

 ところが、十九年九月六日十八時二分、黒木大尉と樋口大尉が乗る回天は、訓練中に海底に沈坐し、操縦不能となる。黒木中尉は迫り来る死と戦いながら遺書を認めた。「事前ノ状況」「応急措置」「事後の経過」「追伸」と後生に托す為に、問題点を考察して書き続けた。そして七日四時四十五分「君ガ代斉唱。神州の尊、神州の美、我今疑ハズ、莞爾トシテユク。萬歳。」と記し、六時「猶二人生存ス。相約シ行ヲ共ニス。萬歳」と書き絶筆した。黒木少佐の神州不滅の絶対の信こそが回天を生み出したのである。




今日のこの日の為に

   明治天皇御製
あらはさん秋は来にけり丈夫がとぎしつるぎの清きひかりを
(義烈空挺隊・町田一郎陸軍中尉)

 陸上自衛隊西部方面総監部がある熊本市の健軍駐屯地の中に「義烈空挺隊」の慰霊碑があり、毎年五月二十四日には自衛隊の主催で慰霊祭が行われている。

 昭和二十年五月二十四日、健軍飛行場を飛び立った十二機(各十四人搭乗)の九七式重爆撃機は沖縄を目指した。沖縄に上陸した米軍の北(読谷)飛行場、中(嘉手納)飛行場を強襲して破壊する事がその任務だった。十二機中一機は北飛行場に突入成功、七機が撃墜され、四機は突入を断念し引き返した。胴体着陸した爆撃機に搭乗していた空挺部隊は、敵戦闘機二機、輸送機四機、爆撃機一機を破壊し、二十六機に損傷を与え、ドラム缶六百本の集積所二か所を爆破、七万ガロンの航空機燃料を焼失させた。

 元々、義烈空挺隊は、日本の各地を空襲するB29爆撃機の発進基地である、サイパンのアスリート飛行場の破壊を主任務として編成された。だが、中継基地である硫黄島の戦況悪化により、沖縄戦への投入となったのである。空襲に苦しむ国民の仇を討つ可く、爆撃機の飛行場への特別攻撃隊として編成されたのだ。義烈空挺隊は、陸軍挺身第一連隊(空挺落下傘部隊)の一箇中隊(隊長・奥山道郎大尉)と、隊員達を載せて敵飛行場に強行着陸する第三独立飛行隊(隊長・諏訪部忠一大尉)で編成された部隊である。

 挺身部隊はレイテ島の戦いで各地の飛行場に空挺作戦を行い成果を挙げていた。戦争末期の七月には、サイパン・グァムへの陸海合同での空挺攻撃、原爆投下後は原爆集積地であるテニアン島への空挺作戦も立案された。
 町田一郎中尉は、第三独立飛行隊所属で、義烈空挺隊四番機の操縦手である。その四番機が唯一突入に成功し、多大な戦果を挙げた。町田中尉は、群馬県出身の二十二歳だった。

掲載した歌は、昭和十九年中頃、挺進練習部の構内にあった独身将校宿舎の廊下に張り出されたものだと言う。町田中尉は、明治天皇御製「あらはさむときはきにけりますらをがとぎし剣の清き光を」(明治37年)を自らの信條として、書き写されたのであろう。顕すべき決戦の時に向って、日々訓練に励み、力量を高め上げて行ったその誇りと決意が、この御製に映し出されたのである。中尉が磨き上げた剣の清き光は敵を斃し、赫々たる戦果を顕した。

 吾々も人生の勝負の時に備えて、日々魂と力量とに磨きをかけて、国家社会に役立つ日本人に成らねばならない。



一気に登り極めんこの一筋の道を

数々の道はあれども一筋に登り極めん富士の高嶺を(第16独立飛行中隊・小坂三男陸軍中尉)

 B29爆撃機を中心とする無差別絨毯爆撃は沖縄以外にも46都道府県428市町村に対して行われ、その死者数は56万2708人(ウィキペディア・朝日新聞社『週刊朝日百科 日本の歴史 12 現代 122号・敗戦と原爆投下』)に達している。史上稀にみる無差別殺戮を米国は敢行したのである。

 B29は完全与圧室を装備し、高度一万メートルでも乗員は酸素マスク無しで操縦が出来た上に、最大速度は576キロでゼロ戦よりも速かった。超高空に飛来して爆撃するB29には高射砲も届かず、防弾装備が優秀で20ミリ機関砲でもあまり効果が無かった。それ故、体当たりして落とす他に道が無かったのである。B29に最初に体当たり攻撃をしたのは、十九年八月二十日山口県の小月飛行場第4戦隊の野辺重夫軍曹だった。同年十一月七日、帝都防空担当の陸軍第10飛行師団は隷下の各飛行戦隊に各四機宛の体当たり特攻隊を編成させ、震天制空隊と命名した。

 超高度で飛来するB29に対して体当たり攻撃をするにはかなりの技量が必要となる。しかも、装備品を出来るだけ軽くした上に、酸素マスクを着用しての急上昇である。だが、その一方では、体当たり直後に脱出し、落下傘で生還する事が可能でもあり、抜群の技量を持つ操縦者には生還が求められても居た。

 帝都防衛の陸軍飛行第244戦隊は、撃墜84機(B29は73機)撃破94機(同92機)という大きな戦果を上げている。小林戦隊長を始め数名のパイロットは二回体当たりを敢行し、生還している。熊本出身の四宮徹中尉は昭和十九年十二月三日、来襲したB29に三式戦闘機を以て体当たりし、左翼の半分が千切れたが無事帰還している。中尉はその後、第19振武隊隊長となり四月二十日に沖縄で特攻、散華している。

 小坂三男中尉は関西・中京地区の防空に当る第16独立飛行第82中隊に属し、二十年一月三日、堺市上空でB29に体当たりして散華した。小坂中尉のこの歌には、超高空を飛ぶB29爆撃機に真直ぐに向って上昇する戦闘機の一筋の姿が映し出されていると共に、富士の高嶺に象徴される丈夫の気高き生き方に肉迫せんとする、高き志と強靭なる意志が映し出されており、空対空特攻隊員の心意気が見事に表現されている。



日本人の永遠の生命

来る年も来る年も又咲きかはり清く散る花ぞ吾が姿なる(第141振武隊長・長井良夫陸軍中尉)

 鹿児島には海軍特攻隊が出撃した鹿屋・指宿、陸軍特攻隊出撃の知覧・万世など、様々な所に特攻隊の慰霊碑が建立されている。特に知覧と鹿屋は有名で、遺書や遺影なども数多く展示され、特攻隊を偲ぶ聖地となっている。

知覧の兄弟基地である万世は、戦後長い間、世の人の記憶から忘れ去られていた。万世に慰霊碑が建立され、初めての慰霊祭が斎行されたのは昭和47年の事である。慰霊祭を契機として遺族の方々が持たれていた遺稿や遺影が明らかとなり、昭和49年に慰霊戦記『よろづよに』(430頁)が出版される。この出版によって遺族の輪が更に広がり、昭和51年には改訂増補版として『万世特攻隊員の遺書』(478頁)が刊行される。その様な中で特攻遺品館の建設構想が生まれ、一億円の浄財募金が集まり、更に地元の加世田市が二億五千万円を追加計上して、市の事業として特攻遺品館(平和祈念館)が平成五年に完成した。それに併せて『陸軍最後の特攻基地 万世特攻隊員の遺書・遺影』(529頁)が出版された。更に平成二十三年には集大成版である『至純の心を後世に 陸軍最後の特攻基地・万世』(561頁)が出版された。

これら一連の事業を起案し推進されたのが、飛行66戦隊所属で、万世飛行場で沖縄特攻作戦に従事し特攻隊の発進援助に当っていた苗村七郎氏である。戦後大阪に戻った苗村氏は、昭和三十五年の鹿児島再訪以来、平成二十四年に九十一歳で亡くなる迄、終生万世特攻隊の慰霊顕彰に尽くされた。

 万世では、桜花爛漫の四月下旬に毎年慰霊祭が斎行されている。桜の如く散った特攻隊員の御魂を偲ぶ最良の時であるからだ。万世から飛び立ち、二十二歳で散華した第141振武隊隊長の長井良夫少尉(宮城県出身)の辞世は、特攻隊員の心象を美しくも見事に表現している。長井少尉の魂は、毎年毎年咲き代わり、咲いては散り、散っても翌年再び咲き匂う桜と化し、永遠の大和魂に成っている。長井少尉の生命は個としてではなく、桜の木々に亘る大生命へと溶け込んでいる。

国の生命とはその様なものではないのだろうか。祖国日本の永遠を信じて生命を捧げた者達は、国の生命と一体となり、祖国日本の永遠によって無窮の生命を得るのである。特攻隊員たちが身を捧げて守らんとした祖国日本の生命を私達も守り抜き、祖国の生命に何時の日か帰し得る人生を全うしたい。
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