「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

志士を育てた心の学問 佐藤一斎2

2010-02-16 21:06:49 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人 第八回(『祖国と青年』22年11月号掲載)

志士を育てた心の学問 佐藤一斎2

『重職心得箇条』及び『言志晩録』『言志耋録』を読む


 文政九年(1826)、一斎五十五歳のとき、岩村藩主となった松平乗美の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意」を著し藩政に尽力した。この「重職心得箇条」は藩の要路に立つ家老達の心得を十七ヶ条に纏めたもので、岩村藩のみならず、様々な藩で写し読まれた。一斎は言う。

●重職と申すは、家国の大事を取り計らふべき職にして、此の重之字を取り失ひ軽々しきはあしく候。大事に油断ありては、其職を得ずと申すべく候。先づ挙動言語より厚重にいたし、威厳を養ふべし。(略)〈第一条〉(自らの重い立場を自覚して、厚重さや相応しい威厳を身につける事)

●大臣の心得は、先づ諸有司の了簡を尽さしめて、是を公平に裁決する所、其の職なるべし。(略)人々に択り嫌いなく、愛憎の私心を去って用ゆべし。(略)平生嫌いなる人を能く用ゐると云ふ事こそ手際なり。此の工夫あるべし。〈第二条〉(私心を去って公平に人物を用いよ。嫌いな人物をも使える人間たれ。)

●重職たるもの、勤め向き繁多と云ふ口上は恥づべき事なり。仮令世話敷くとも、世話敷きと云はぬが能きなり。随分手のすき、心に有余あるに非ざれば、大事に心付かぬもの也。重職小事を自らし、諸役に任使する事能はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職事多きになる勢いあり。〈第八条〉(忙しいなどとは決していうな。些事を省いて大局を考察できる余力を持て。)

この他にも、自分の考えを確り持った上でこれ迄の遣り方を取捨選択すべき事や、風儀は上に立つものから起こって来る事、財政が逼迫した時でも藩内を明るく保つべき事など、現代にもそのまま通用する心得が記されている。

 佐藤一斎は「陽朱陰王」(表面は朱子学を標榜するが、裏では陽明学を教えていた)と言われるが、それは、朱子学と陽明学を対立的に捉える言葉である。一斎は言う。

●孔・孟は是れ百世不遷の祖なり。周・程は是れ中興の祖、朱・陸は是れ継述の祖、薛・王は是れ兄長の相友愛する者なり。〈晩26〉(孔子・孟子から始まり、宋代の周敦頤・程明道・程伊川が再び興隆せしめ、南宋の朱熹・陸象山はそれを受け継ぎ、明代の蒒敬軒・王陽明は兄の様に優しく吾々を導いてくれているのだ。)

朱子学も陽明学も儒学の流れの中で時代に応じて生れた学問であり、兄弟学なのである。確かに幕府は官学である昌平黌では、朱子学以外の学を講じる事を禁じたが、七十歳で昌平黌儒官に任じられる前の一斎は、林家の塾長(私塾)という立場であり、陽明学も講義する事が可能だったのである。一斎六十三歳の時に師事した山田方谷は陽明学を一斎に学び、同時期に佐久間象山は朱子学を一斎に学んでいる。当時、山田方谷は一斎の下で学ぶ喜びを次の様に書き送った。「翁の道は、先づ其の大いなるものを立て、華を去り実に就き、人をして性命道徳の源に優游自得せしむ。是を以て日にその教へを聞くを楽しむ。」

文政十年(1827)五十六歳の時、一斎は王陽明歿後三百年を祭り、五十八歳の時に『大学古本王文成公旁釈』五十九歳の時に『伝習録欄外書』(王陽明語録の解説書)を著している。六十二歳の時には陽明学者で有名な大塩中斎と文の遣り取りをしている。
  
   円熟味を増した『言志晩録』

天保十二年(1841)林述斎が七十四歳で没したため、一斎は幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。七十歳の時である。『言志四録』の三冊目の『言志晩録』は一斎が六十七歳の時から七十八歳までの心境を綴ったものである。日本儒学界最高責任者としての強い自覚と厳しい求道、そして円熟なる境地を言葉の端々から伺う事が出来る。晩録冒頭の言葉には、「聖学」を任じる一斎の強い使命感が伺われる。

●学を為すの緊要は、心の一字に在り。心を把つて以て心を治む。之を聖学と謂ふ。政を為すの着眼は、情の一字に在り。情に循つて以て情を治む。之を王道と謂ふ。王道・聖学は二に非ず。〈1〉(学問の急所は「心」にある。己の心を確り摑むのが「聖学」である。政事の着眼は「情」にある。情を以て人の情を治める政事を「王道」と言う。その意味で同じものなのだ。)

『言志四録』の中で有名かつ後世の人々の指針となった事場が続く。

●一燈を提げて暗夜を行く。暗夜を憂ふること勿れ。只だ一燈を頼め。〈13〉(回りを恐れるのではなく、自らの掲げる心の燈(良知)を指針として生きていけ。※陽明学の精髄を表した言葉である。)

●少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、則ち老いて衰へず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。〈60〉(人生学び続ける事によって花開いて行く。)
心の有り方についての箴言が続く。

●濁水も亦水なり。一たび澄めば清水と為る。客気も亦気なり。一たび転ずれば正気と為る。逐客の工夫は、只だ是れ克己のみ。只だ復礼のみ。〈17〉(己の欲望に打ち勝ち、礼を守る事によって、正しい自分を取り戻すのである。)

●我は当に人の長処を視るべし。人の短処を視ること勿れ。短処を視れば、則ち我れ彼に勝り、我れに於て益無し。長処を視れば、則ち彼れ我れに勝り、我れに於て益有り。〈70〉(他人の長所に目を向けよ。その事で自分も伸びる。)

●心は現在なるを要す。事未だ来らざるに、邀ふ可からず。事已に往けるに、追ふ可からず。纔に追ひ纔に邀ふとも、便ち是れ放心なり。〈175〉(現在に生きよ。過去や未来に捉われれば、心は浮ついてしまう。)

●富人を羨むこと勿れ。渠れ今の富は、安くんぞ其の後の貧を招かざるを知らむや。貧人を侮ること勿れ。渠れ今の貧は、安くんぞ其の後の富を胎せざるを知らむや。畢竟天定なれば、各々其の分に安んじて可なり。〈190〉(富もも貧も移り変わるものであり、究極は天が定めたものなのだ。それ故、自分に与えられた分に安んじようではないか。)

●怨に遠ざかるの道は、一箇の恕の字にして、争を息むるの道は、一箇の譲の字なり。〈213〉(「恕」思いやりの心、と「譲」人に譲る心が大切である。)

●父の道は当に厳中に慈を存すべし。母の道は当に慈中に厳を存すべし。〈229〉(父母それぞれに道がある。)

●我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。仮令我れ寿を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ。今幸に生れて人たり。庶幾くは人たるを成して終らむ。斯れのみ。本願此に在り。〈283〉

『言志録』に於て「古今第一等の人物を以て自ら期すべし。」との高い志を述べた一斎だったが、ここでは「人たるを成して終らむ」と静かに人生目標を記している。だが、時間を超えた二つの言葉は同じ意味であり、真実に「人たるを成す」事は血の滲む修養・求道の果てにしか無いのである。『言志録』を記した四十代の炎気が、七十代には静かに燃え続ける種火となっている。大横綱の双葉山が目指した「木鶏」の境地ともいうべき表面は静かだが不動の強さを持つ求道心となっている。

    求道の集大成『言志耋録』

 『言志四録』の最後を飾る『言志耋録』は、一斎八十歳から八十二歳の求道録である。一斎の学問を集大成するかの如く、僅か二年で三百四十条が記されている。

●経書を読むは、即ち我が心を読むなり。認めて外物と做すこと勿れ。我が心を読むは、即ち天を読むなり。認めて人心と做す事勿れ。〈3〉(聖人の書である四書五経を読むのは、自分の心を読んでいるのであり、それは天に繋がる真理を読んでいるのである。)

●古の学者は、能く人を容る。人を容るる能はざる者は、識量浅狭なり。是れを小人と為す。今の学者は、見解、累を為して、人を容るる能はず。常人には則ち見解無し。卻りて能く人を容る。何ぞ其れ倒置すること爾るか。〈13〉(昔の学者は能く人を受け容れる度量を備えていたが、今の学者にはそれが無く、人を非難ばかりしている。それでは心の狭い小人と同じだ。)

●自ら欺かず。之れを天に事ふと謂ふ。〈106〉

●人心の感応は、磁石の鉄を吸ふがごときなり。「人の情測り難し」と謂ふこと勿れ。我が情は即ち是れ人の情なり。〈117〉

自己と他者と天とが一体となる、陽明学で言う「万物一体の仁」の境地が示されている。更には、達人とも言うべき人の姿が描かれている。

●霊光の体に充つる時、細大の事物、遺落無く、遅疑無し。〈67〉

『耋録』には人生を振り返っての箴言や、養生の工夫等も多く記されている。そして、最後に一斎は自らの臨終の心得について幾条か記している。その最後の二つを紹介する。

●誠意は是れ終身の工夫なり。一息存すれば一息の意有り。臨歿には只だ澹然として累無きを要す。即ち是れ臨歿の誠意なり。〈339〉(静かに安らかに他者に迷惑を及ぼさないのが臨終の際の「誠意」の工夫である。)

●吾が躯は、父母全うして之れを生む。当に全うして之れを帰すべし。臨歿の時は、他念有ること莫れ。唯だ君父の大恩を謝して瞑せんのみ。是れ之れを終を全うすと謂ふ。〈340〉(主君や父母の恩に只感謝して人生を終える。)

だが、一斎には更に六年の寿命が与えられた。執筆を終えた年にペリーが来航、翌安政元年(1854)八十三歳の時、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎を助け外交文書の作成などに尽力した。一斎は、海防策・時務策の中で「農兵採用論」「条件付貿易容認論」「艦船反対論」を述べている。安政六年(1859)九月二十四日(暦は変わるが西郷南洲の命日と同じ)、昌平黌の官舎で逝去(八十八歳)(この年十月二十七日には吉田松陰先生が処刑されて亡くなっている)。明治維新の九年前だった。お墓は六本木の浄土宗深廣寺にある。門下生は全国に及び一千名を下らない。一斎の「言志」は、幕末維新期の青年達に不動の人生哲学として刻まれ、維新の大業を成就する信念の力を与えた。
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