「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

新渡戸稲造2 日本を背負い、天皇の大御心を体して戦い抜いた真の愛国・国際人

2011-08-04 13:13:18 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人第二十七回(『祖国と青年』23年7月号掲載) 

新渡戸稲造―「内なる光」に生きた国際人2

日本を背負い、天皇の大御心を体して戦い抜いた真の愛国・国際人


   実践に裏打ちされた教育者

 新渡戸稲造が自分の信條を月に託した二首の和歌がある。

●見る人の心ごころにまかせおきて高嶺に澄める秋の夜の月

●わづかなる庭の小草の白露を求めて宿る秋の夜の月

一首目は、世間の声を気にせずに、自らの「内なる光」によってのみ生きる孤高の信條を託し、二首目は、高嶺に澄める月も、求める者があれば地上に下って姿を映し出して導くという、教育者としての使命を表している。

新渡戸は第一高等学校校長時代次の如く学生に教え諭した。

●私の考えるところは試験の成績は悪くてもよい。同級生に後れてもよい。人の物笑いになってもよい。落着いて自分の心を練って、学問することを考えてもらいたい。

新渡戸は、自己に対する尊敬の念の確立によってこそ真の自主性は生れると「人格主義」を説き、教育方針として、人格性clean heart・社会性sociality・教養clear headを強調した。大正二年に校長を辞任した際、「教育は精神である」「第一は忠君愛国。言葉ではない。その精神を日常生活にあらわすという事である。」「第二は諸君をなるべく自由に伸ばしたいと思った。ある程度までは事あれ主義である。」「第三は品行よりも品格という事を重く見ている。」と述べたと言う。

新渡戸は、自宅とは別に一高の近くに一軒家を借り、週に一回学生との面談の日を持った。新渡戸の学生指導は極めて実践的かつ具体的なものだった。

●意志の鍛錬は何程心理学倫理道徳論を説いても実行しなければ効果皆無、故に少なる事でも実地の鍛錬に如く方法はないと思う。(略)例えば冷水浴の如き(略)それから小さなことながら生徒に日記を書かせる。毎日一行でも二行でも宜いから撓まなく書かせる。私の愚論では少し厭き易いことを繰返すということが意志の錬磨になると思う(略)大抵日常起こる事物に就ては子供心にも善悪の弁別は付いているのに、悪と知りつつ為すのは子供に限らず吾々でも意志の弱き故である。故に、此処だぞ、此処が悪人と善人となる界だぞ、と分別のつき次第善を取る意志と勇気を実行するが即ち実践教育の粋である。(「教育家の教育」)

●孝行は理屈以外のことであって、実行にあるのである。(略)孝道の如きは、心を落付けて、父母が己のためにしてくれたことを顧みて、感謝の涙を一滴流して、親を思うことが、即ち孝道であって、かくするには一瞬時間に出来ることであって、理屈を言うて論文を書くに五年間かかるよりも、一分間に両親の恩を悟る方が孝道に適う。かつこれでこそ孝道が分ったというものである。倫理的の行為は吾輩議論がと思わない。実行だと思う。(「今世風の教育」)

そして、葉書を直に一枚出す事を勧めた。新渡戸自身も三つの「行」を課していた。それは、朝の冷水浴(禊ぎ)・毎日の英文日記・母の誕生日に独り籠もって母からの書簡を読む、である。新渡戸は、尊敬するキリスト・ソクラテス・ジャンヌダルク・リンカーンを自宅で祀って祈りを捧げていたという。新渡戸自身が意思の人・行の人物だった。

●わが日本国民の大多数は忠君愛国という錦の御旗を自分の前に麗々しく飾り立てて、その蔭の暗い所で一杯機嫌で寝転んでいるが、我輩はこの錦の御旗を自分の背後に立てたい。(略)身をもって錦の御旗を包むようにいたしたい。

更に新渡戸は「教育の目的は人格形成にあるから、大学人もその目的に奉仕すべきである。大衆に阿るのではなくて、理想と確信を堅持して、しかも平易に民衆に語らねばならぬ。」として当時大学教授には考えられない通俗雑誌への執筆もあえて行った。それらは、『修養』『世渡りの道』『自警』等として纏められ、今日でも読む事が出来る。執筆の際新渡戸は、お手伝いの女性に読み聞かせて理解出来る様に言葉を選んだという。新渡戸は、日常生活を重視し、「義務」即ち、「義」の務めを果たす生き方に価値を置いていた。

●死の価値を定むるものは生であると思う。しかして生の価値を定むるものは義務である。

●自分現在の義務を完全に尽くす者が、一番偉いのである。

●そもそも真の成功とは、自分自身の心をしっかりと確立することにある。自分の内面をかえりみて恥かしくない、と思うならばそれが成功である。

現代人の生き方の指針として新渡戸は、大正八年に雑誌『実業之日本』に「平民道(デモクラシー)」を掲載した。

●僕のいわゆる平民道は予て主張した武士道の延長に過ぎない。(略)僕は今後の道徳は武士道にあらずして平民道にありと主張する所以は高尚なる士魂を捨てて野卑劣等なる町人百姓の心に堕ちよと絶叫するのではない。已に数百年間武士道を以て一般国民道徳の亀鑑として町人百姓さえあるいは義経、あるいは弁慶、あるいは秀吉、あるいは清正を崇拝して武士道を尊重したこの心を利用していわゆる町人百姓の道徳を引上げるの策に出でねばなるまい。


    国際社会での活躍


 新渡戸は明治四十四年には日米交換教授として渡米し、六つの大学他で百六十六回の英語講演を行った。

その後第一次世界大戦後の国際連盟事務局事務次長に日本を代表して就任。大正九年にジュネーブに赴任し、十五年まで七年間務めた。国際連盟の事務次長を引き受ける際、中国に対する二十一ヵ条要求や山東問題などで日本は第二のドイツになるのではとの批判があり、友人達は危惧したが、新渡戸は決然として次の様に語った。

●だからこそ出て行かなければならないのではないですか。日本は決して好戦的ではないこと、国際協調こそ基本とするものである事をこの国際連盟の場で立証すべきです。損しても良い、馬鹿を見てもかまわないと覚悟を決め、何をやるにしても日本人らしく立派にふるまえば、だんだんと了解されるばずです。

新渡戸は、「行動は自分一人にとどまらず日本という国に跳ね返ってくるので注意に注意を重ねなければならない」と自らを戒め、常に日本を背負って活躍した。更には、知的協力委員会(後のユネスコ)の設立にベルグソン・アインシュタイン・キュリー夫人等と共に携わった。

C・J・Lベイツ氏は新渡戸の事を「新渡戸博士の心細やかな礼儀は、博士に出会う栄に浴したすべての人の心を魅了したし、博士の透きとおるばかりの正直は、博士と関わりをもつすべての人の信頼をかちえた。にもかかわらず博士は、およそ祖国に加えられた中傷や不正には、すぐさま憤りを発し怒りを燃やす心をもっておられた。」と回想している。

帰国後に出した『東西相触れて』には、国を背負って国連の議場に立つ各国代表者の姿に感動した事を記し、特に、第一次世界大戦の敗北を乗り越えんとするオーストリア宰相ザイペル氏の演説に胸が痛くなり、「報国の丹心とは斯くの如きものか」と感動している。これらの体験から新渡戸は「弁舌なるものの力は舌の先の芸でなく、演者の人格にあり」「如何に言語風俗が異なると雖も『誠』は万国共通の代物だ、之さえ有ればどんな遠い邦にも渡られる。」と述べている。

新渡戸は、滞在先に日本庭園を造って日本文化を伝え、ジュネーブの人々の間でも人気が高かった。

一九二四年(大正十三年)、新渡戸に衝撃を与える出来事が起った。米国で排日移民法が成立したのである。新渡戸は「アメリカは友情を裏切り、信義を破った。それはシーザーの胸を刺したブルータスの剣と同じく、もっとも残酷な一太刀である。」と記し、撤回されるまで米国の地は踏まないと決意した。


    真の愛国者にして国際人


 新渡戸は真の愛国者でありかつ国際人であった。

●真の愛国者にして国際心の持ち主とは、自国と自国民の偉大とその使命とを信じ、かつ自分の国は人類の平和と福祉に貢献しうると信じる人である。国際心を抱こうとする人は、まず自分の足で祖国の大地にしっかりと根を下さねばならない。それから頭を挙げて、広々とした世界を見まわすと、自分がどこに立っているか、どちらへ向って行かねばならぬかがわかるのである(『編集余録』)

新渡戸に言わせれば、愛国心の反対は、国際心や四海同胞心ではなく狂信的愛国主義であり、国際心は愛国心を拡大したものだった。

新渡戸は、日本文明に対する確固たる信念を把持し、日本の国体についても深い見識を持っていた。ロンドンで出版した書物の中で新渡戸は「日本の君主制の倫理的基礎」と題して大嘗祭の秘儀を紹介している。

●わが国の歴史の初期(七世紀と言う人々がある)以来、天皇即位礼に関連して大嘗祭という秘儀が執り行われている。(略)これは純然たる祖先崇拝―「現在」には義務を、「未来」には奉仕を誓いつつ、「過去」に忠誠を尽くすことである。(略)筆者は、日本の天皇の即位が久しくこの秘儀によって聖化されている事実を強調したいと思う。(略)この夜の儀式は最高の教育形式でもある。初めて皇位に即かれる方は御自身よりも優れた存在と差し向かいになられ、それらの存在に敬意を致し服従なされねばならないのである。〈略〉明治天皇は折に触れて個人的感慨を託された多数の御製を残された(総計九三、〇三二首)。天皇がこの国土を統治されるのは父祖の力ばかりでなく、父祖の徳によるものであり、また天皇としての御職務は委託されたものであり、国家を管理することであるというお考えが、御製の中に実にしばしば繰り返されている。われわれは明治天皇に、即位礼の秘儀に象徴されている理念の化身を見る。(略)アリストテレスの論点にもどろう。同じ書に次の謎めいた言葉が続く。『徳と政治的能力に優れた一族を生来生み出すことのできる国民は、王制に相応しいのである。』(略)つまり、国民が王座を占める人を訓練して徳の道を歩ましめることができるならば、『君主制』は最善の政治形態であると言っているのである。(『日本人の特質と外来の影響』)


   昭和天皇の大御心を体して


 昭和天皇は、国連事務次長を退任して帰国した新渡戸を招かれて報告をお聞きになられた。それを契機に新渡戸は天皇の御信任を忝くするに至る。

昭和四年には太平洋問題調査会理事長に就任。京都で開かれた第三回太平洋問題会議の議長を務めた。この会議の間、支那代表の徐博士が日本を誹謗中傷する事に腹を据えかねた新渡戸は「廊下で徐博士を捉へ胸ぐらをつかんで暴力にも訴へかねまじき気勢を以て其誤謬を論難した」(長尾半平「友人として見たる新渡戸君」)という。

昭和六年に満州事変が起ると、日米関係が悪化した。新渡戸は昭和天皇のご意向を受けて、七年四月から一年間渡米してわが国の立場を伝えるべく講演して回った。

『編集余録』に新渡戸は「ある方面の頼み」「ご奉公」「暗夜に飛びこむような気持ちがしますが、報国の一念以外の他意はありません」「国を思ひ世を憂ふればこそ何事もしのぶこころは神ぞ知るらん」「“汝の内なる光に頼って行け”(Go on, depending on the light that is within you!)わたしは利害や野心は持っていなかったので、大いに勇気づけられた。わたしは自分自身に言った―私は純粋だから、十倍の力が出るのだ。」とその覚悟を記している。新渡戸七十一歳の時である。

昭和八年には御進講後の東京女子大での講演で次の様に語っている。

●私は目のあたりお近く陛下にお接しする機会を得て、常に思うが、陛下は無私誠実、寛厚な御方で、このような天皇を戴いているのはまことに有り難い。日本人は日本のために、自分の持てる才能を生かして、国のため、世界のために尽すことがすなわち陛下に忠誠を尽すことであり、国民としての義務をはたすことでもある。私はいくら個人的に攻撃されたり、悪口を言われても、この陛下の為には、苦しい中にも張合さえ感ずる。
 
昭和八年八月、太平洋問題会議がカナダで開かれ、新渡戸は日本代表としてバンフに赴いた。新渡戸はその年三月に出された「国際連盟脱退の詔書」の中の陛下の御言葉を引用して、国際平和を希求し、友邦の誼を失わず、国際信義を重んじるとの陛下の大御心を説明した。

だが日本の孤立は避け難く、状況は中々好転しなかった。『編集余録』には、

●真の暗闇だ、今は…明かりは見えない…。どうか精神の武器を備えた勇敢な兵士と、心に真理を秘めた真の古武士を送って欲しい…偽者はお断りだ…

●橋はけっして一人では架けられない。何世代も受け継いではじめて架けられるものだ。

との新渡戸の悲壮な叫びが綴られている。会議終了後、新渡戸は妻が待つヴィクトリア市に移動し、その地で病床に伏し、遂に十月十六日に昇天した。享年七十二歳だった。

病床での最期の言葉は次のものだったという。

●まだ、死ぬわけにはいかない。祖国への奉仕が終わってしまうまでは死ぬわけにはいかないんだ。
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