「未理解同調性」・・・この言葉が、キーワードです。
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「未理解同調性」とは、理解していないのにかかわらず、あたかも理解したかのように同調する行為のことを言います。
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裁判員制度の講習会でこの言葉を知りました。
講師は第九法律事務所、岡島 実弁護士(西表リゾート開発差止訴訟・名護市重度障害者再審査請求『ヘルパー介護時間に対する』等)、でした。(プロフィールに岡島さんご自身も聴覚障害と書かれてありました。)
難聴者の聞こえの状態は、個人差があります。補聴器や人工内耳を装着していたとしても、完璧に聴きとれていない状態にあります。
その聴きとれていない部分を含め、難聴者が話しを理解しようとするとき、次のような行動をします。
①今までの経験から判断する。(聞き流し、わかったようなふりをする。)
②その場の雰囲気でわかったふりをして、一生懸命、頭の中で話しを再構築させ理解しようとする。(頷きながら、時には、はいはいと適当に相槌を打ちながら理解したふりをする。)
③言葉の最初と最後が分かった場合、まん中の言葉を置き換えて理解しようとし、自分なりの判断をする。
④皆が笑えば、意味がわからないまま笑う。
⑤話に加わることを諦める。
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結果として、返事を求められることがあると、別の内容のことを話してしまうことがある。
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こういった行動は、一般(健聴)の方には、場合によっては理解されない行動パターンだと思います。
したがって、違和感を持つことになるかもしれません。
「聞こえていないのなら、聞こえないって言って!」と思う方がいることも知っています。
多くの難聴者は、最初は、聞き直していたと思います。ところが、何度もそういったことをしていると、聞き直された方が不機嫌になることを経験します。そして、このような問い合わせをすることに勇気が必要になり、躊躇するようになります。
皆が笑っているのに、どういったところに可笑しなことがあるのか聞き直すのは、その場の雰囲気を壊すことになります。
全てが聴き取れない場合と、一部が聴き取れない場合では、対応が違ってきます。
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身体のどこも、普通の方と同じであれば、隣に、聴覚障害者がいても気付くことできません。
ましてや、話すことができる難聴者や中途失聴者の場合は、判別することが出来にくいと思います。
聴こえることが当たり前の社会システムの中で、当然、情報が伝わっているだろうと判断することは普通のことだろうと思います。
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もっと困ったことには、話しをしていて、辻褄の合う回答や頷きがあれば、誰もが聴こえているものだと判断すると思います。
ここに「未理解同調性」の問題が発生するのです。
けして、難聴者が故意にこういった行動をするのではありません。むしろ、今までの生活経験から、相槌を打った方がスムーズにことが進むことや、相手に不快な思いを持たせずに済むということを学んでいったことからでた、生活の知恵的な行動だとタクは思います。
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このことを、岡島さんが「難聴者」が犯罪を疑われたとき、警察官などの職務質問に聞こえないのに、笑ったり、頷いたりし、犯してもいない罪を認める結果になることを指摘していました。(「犯行の自白性の問題」)
裁判員制度以前に、裁かれる方の問題を指摘し、こういった中での審理がはたして有効なのか・・・・、例えば聴き取れないが故に、悪意を持った人を信じ、犯罪を犯したときに、それは犯罪の事実だけを見て判決をすれば良いのかという本質的なことがあるということです。
つまり、充分な情報保障があれば、聴覚障害者が犯罪を犯すことはなかったのではということです。
耳が聞こえている普通の方であっても、「自白」ということで選挙違反の嫌疑をかけられ冤罪になった鹿児島での事件では、決めつけのような捜査や自白誘導や精神的な脅迫状況心理が問題になり「自白」の信用性をとわれました。難聴者の場合、犯行について聴取の時に頷いたという事実で自白したと捉えかねないことになります。
逆に、手話のできる方を信じ、詐欺事件に巻き込まれ被害に遭う聴覚障害者の事件も昨今あり、いかに聴覚障害者が手話という方法で話ができるということに安心感を持ったかが伺われます。
狭い世界の中だけの情報を頼りにせずに判断するには、スムーズにコミュニケーションが取れる、当たり前の情報保障があり、情報を選別できるということが必要になります。
そして、保障されるだけでなく、それを通じ、聴覚障害者自身が話しをすることができ、一般の方との信頼関係を持てる状況が必要となっています。(情報保障の手段はいろいろあります。)
そういった情報保障があって、初めて裁判員制度に対応できることを考えていかなければならないと、改めて認識いたしました。
もちろん、タクの場合は、自己の行動パターン・・・「未理解同調性」について、反省もしていくことも大切だと理解しています。
ただ、日本語は難しい・・・あの人「は」・「が」・「も」・「に」・「の」・「や」・・・・によって話しの内容が違ってくるのだけれども、これが正確に聴こえているのかは、誰にも判断できません。
次回は「裁判員制度で心配していること 3」を掲載する予定です。
今勤めている会社にも同じ傾向がある若い子が一人います。先輩の機嫌を損ねるのが恐くて、作業内容を分かってないのに分かったと言ってしまうようです。周りの反応はやはり『分からないなら何で分かった振りをするんだよ!』の一点張りです。とにかく、違った角度から考えてみるとか、他人の立場になってみるとか言う事が出来ない人が多いですね。その若い子は障害は全く持っていないので、『仕事なんだから人の機嫌なんか気にしないで、仕事を覚える事を最優先した方が良いヨ。』と助言しています。本当は周りがその子に合わせて仕事を教えるのが良いのですけどね。
障害を持っている人にそう言った傾向が出てしまうのは当然ですよね。それはある意味、人の気持ちを思いやれる優しさでもある訳です。そう言う部分に劣等感を持たず、前向きに考えて貰いたいと思います。
本当は、そういったことを、玄太さんのブログでコメントすればよいのだけれども・・・、現状は、聴くことのできるメロディーと聴き取り難いメロディーがあり、過去に好きだった曲が、全く別な曲として聴こえる状態になる場合もあるので、少し、自分が納得でき自信がついてからにします。
「未理解同調性」については、身近なことで、怒りをかっています。(笑)
家内の話しに頷いて聴いていると、「聞こえていないんでしょ」と怒られます。ずばり、本当に聞き取れていない部分がありまして、全体での会話で理解しようとする自分に気付きます。
難聴者の場合、自分が経験してきたことであれば、なんとなく、理解している気持になるようです。しかし、いったん自分が知らない世界の話題になると心の中で慌てるようです。ここで、孤立感を持つ方が出てきます。
現象としての「未理解同調性」でなく、このような特性がある自分を見つめ直す必要がありそうです。