蛭谷(筒井八幡社)の氏子狩について、轆轤師の元締めの一家である大岩家(助左衛門)の日記に、天正十四年四月十九日付で
筒井八幡社の修理改修費用寄進依頼の為、諸国に遷移した轆轤師へ奉加勧進を始めたとの記載がある。
その日記の中に、江州高島郡麻生山の氏子狩についての部分を抜粋するが、
明暦五年四十五戸、寛文十年五十一戸、貞享四年二十五戸、文政十五年十二戸、弘化三年九戸、明治十五年と
あるが、一方の近江高島郡誌の麻生山の氏子戸数は八十戸(年代不詳)が有ったが、天保の大飢饉で激減して、
僅か八戸になったとの記載がある。
氏子狩帖冊と郡誌の数字上の差は、郡誌がいかなる資料に依拠したのか不明だが、検索する史料によってこのような
差異が生ずる事を承知しておくべきであろう。
木地師、轆轤師は金屋衆としての職能の分担も担っていたことは、先の拙稿でも言及してあるが、それは鉱石選鉱用の
淘汰鉢、鉱石搬出用の滑車、絞車などは彼ら木地師、轆轤師の技術なくしては制作出来なかったからである。
木地師、轆轤師の発祥が江州であった事、鍛冶師、金屋衆の全国的な活動域拡大と、近江商人の経済活動の諸国伝播の
広範拡大と規模は、相互の活動と無関係ではなかった。
むしろ、相乗効果で飛躍的に発展したのである。
轆轤師と関連のある地名について列挙するが、それは
六郎、呂久呂、六呂師、六呂木、轆轤貝津(ろくろげつ)、六郎原、六郎田、小六、小六谷、呂久、
六呂見、六郎丸などが挙げられる。
木地師、轆轤師そもそもが轆轤の技術をもって生業をしていたことは当然であるが、同じ木工加工で制板や制柱、
日用品の杓子、下駄も同様の生業であった。
小椋谷で制造をした杓子は、近江多賀大社の御王杓子として、護符の意の籠った有難い土産物として盛んに作られた。
美濃八草谷の木地師達は近江湖北から遷移したが、当初(寛文期初頭)の藩(大垣藩)への運上課目が杓子、足駄
であった事も、拙稿で記述済である。
そこで八草で制作した杓子が平杓子であったのか、坪杓子であったのか、今となっては分らないが、仮に両方
制作していたとすれば、当然轆轤を使用しであろう。
轆轤を使用しない制作方法もあるが、量産には不向きである為判断がつかないが、ここで何故小生が杓子の形に拘るのかと
云えば、八草で轆轤を使用した形跡がないと、平野さんから聞いていたからで、八草ではおそらく平杓子だけを
制作していたであろうとの事であった。
江州の尾羽梨や針川等では轆轤を使用した坪杓子を制作して、おそらく棲み分け制作をしていたと考えられる。
続く
筒井八幡社の修理改修費用寄進依頼の為、諸国に遷移した轆轤師へ奉加勧進を始めたとの記載がある。
その日記の中に、江州高島郡麻生山の氏子狩についての部分を抜粋するが、
明暦五年四十五戸、寛文十年五十一戸、貞享四年二十五戸、文政十五年十二戸、弘化三年九戸、明治十五年と
あるが、一方の近江高島郡誌の麻生山の氏子戸数は八十戸(年代不詳)が有ったが、天保の大飢饉で激減して、
僅か八戸になったとの記載がある。
氏子狩帖冊と郡誌の数字上の差は、郡誌がいかなる資料に依拠したのか不明だが、検索する史料によってこのような
差異が生ずる事を承知しておくべきであろう。
木地師、轆轤師は金屋衆としての職能の分担も担っていたことは、先の拙稿でも言及してあるが、それは鉱石選鉱用の
淘汰鉢、鉱石搬出用の滑車、絞車などは彼ら木地師、轆轤師の技術なくしては制作出来なかったからである。
木地師、轆轤師の発祥が江州であった事、鍛冶師、金屋衆の全国的な活動域拡大と、近江商人の経済活動の諸国伝播の
広範拡大と規模は、相互の活動と無関係ではなかった。
むしろ、相乗効果で飛躍的に発展したのである。
轆轤師と関連のある地名について列挙するが、それは
六郎、呂久呂、六呂師、六呂木、轆轤貝津(ろくろげつ)、六郎原、六郎田、小六、小六谷、呂久、
六呂見、六郎丸などが挙げられる。
木地師、轆轤師そもそもが轆轤の技術をもって生業をしていたことは当然であるが、同じ木工加工で制板や制柱、
日用品の杓子、下駄も同様の生業であった。
小椋谷で制造をした杓子は、近江多賀大社の御王杓子として、護符の意の籠った有難い土産物として盛んに作られた。
美濃八草谷の木地師達は近江湖北から遷移したが、当初(寛文期初頭)の藩(大垣藩)への運上課目が杓子、足駄
であった事も、拙稿で記述済である。
そこで八草で制作した杓子が平杓子であったのか、坪杓子であったのか、今となっては分らないが、仮に両方
制作していたとすれば、当然轆轤を使用しであろう。
轆轤を使用しない制作方法もあるが、量産には不向きである為判断がつかないが、ここで何故小生が杓子の形に拘るのかと
云えば、八草で轆轤を使用した形跡がないと、平野さんから聞いていたからで、八草ではおそらく平杓子だけを
制作していたであろうとの事であった。
江州の尾羽梨や針川等では轆轤を使用した坪杓子を制作して、おそらく棲み分け制作をしていたと考えられる。
続く