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木地師についての一考察(3)

2017-02-04 03:12:44 | 瑣事拾遺
蛭谷(筒井八幡社)の氏子狩について、轆轤師の元締めの一家である大岩家(助左衛門)の日記に、天正十四年四月十九日付で
筒井八幡社の修理改修費用寄進依頼の為、諸国に遷移した轆轤師へ奉加勧進を始めたとの記載がある。
その日記の中に、江州高島郡麻生山の氏子狩についての部分を抜粋するが、
明暦五年四十五戸、寛文十年五十一戸、貞享四年二十五戸、文政十五年十二戸、弘化三年九戸、明治十五年と
あるが、一方の近江高島郡誌の麻生山の氏子戸数は八十戸(年代不詳)が有ったが、天保の大飢饉で激減して、
僅か八戸になったとの記載がある。
氏子狩帖冊と郡誌の数字上の差は、郡誌がいかなる資料に依拠したのか不明だが、検索する史料によってこのような
差異が生ずる事を承知しておくべきであろう。
木地師、轆轤師は金屋衆としての職能の分担も担っていたことは、先の拙稿でも言及してあるが、それは鉱石選鉱用の
淘汰鉢、鉱石搬出用の滑車、絞車などは彼ら木地師、轆轤師の技術なくしては制作出来なかったからである。
木地師、轆轤師の発祥が江州であった事、鍛冶師、金屋衆の全国的な活動域拡大と、近江商人の経済活動の諸国伝播の
広範拡大と規模は、相互の活動と無関係ではなかった。
むしろ、相乗効果で飛躍的に発展したのである。
轆轤師と関連のある地名について列挙するが、それは
六郎、呂久呂、六呂師、六呂木、轆轤貝津(ろくろげつ)、六郎原、六郎田、小六、小六谷、呂久、
六呂見、六郎丸などが挙げられる。
木地師、轆轤師そもそもが轆轤の技術をもって生業をしていたことは当然であるが、同じ木工加工で制板や制柱、
日用品の杓子、下駄も同様の生業であった。
小椋谷で制造をした杓子は、近江多賀大社の御王杓子として、護符の意の籠った有難い土産物として盛んに作られた。

美濃八草谷の木地師達は近江湖北から遷移したが、当初(寛文期初頭)の藩(大垣藩)への運上課目が杓子、足駄
であった事も、拙稿で記述済である。
そこで八草で制作した杓子が平杓子であったのか、坪杓子であったのか、今となっては分らないが、仮に両方
制作していたとすれば、当然轆轤を使用しであろう。
轆轤を使用しない制作方法もあるが、量産には不向きである為判断がつかないが、ここで何故小生が杓子の形に拘るのかと
云えば、八草で轆轤を使用した形跡がないと、平野さんから聞いていたからで、八草ではおそらく平杓子だけを
制作していたであろうとの事であった。
江州の尾羽梨や針川等では轆轤を使用した坪杓子を制作して、おそらく棲み分け制作をしていたと考えられる。
                                             続く

木地師についての一考察(2)

2017-01-26 02:34:14 | 瑣事拾遺
近江三上山の山麓にはイモ畑、イモヶ谷などの地名があり、鋳物師との関係を示唆する。
俵の「たわら」とはタバル(燻)で精錬を意味し、藤太は淘汰で選鉱の意味もある。
小椋谷の筒井八幡社は、渡来系氏族の秦氏が勧請し、且つ鍛冶翁伝説も伴う。
ここで木地師と鉱山師の密接な関係が理解されようが、各地の鉱山師と木地師はお互いに結びついて漂移したものであろう。
鈴鹿山麓には秦氏が広く分布していて、その多くが杣と深く係わっていて、依智秦(えちのはた)は轆轤技術に
秀でた職人であった。
木地師集落に何々畑、・・畑などの地名が多い事も秦氏との関連を暗示する。
山村の人々を「ハトサン」と呼ぶ事があり、それは「畑=秦」の訛から出たのではないか?
木地師、鉱山師ともに山中で生活をする為に焼き畑をしたことに依り、畑はその意味とも考えられるのだが・・。
又、「ハタ」は朝鮮語で「海の人」に由来すると云われ、高句麗からの渡来人であった木地屋をコマヒキと
呼ぶことも有った。
小椋を小倉と表記する事もあり、それは元来「コクラ」と呼び、コクラ=コクリ(高句麗)であったのかも知れない。
さらにコクラの「クラ」が鉱床を意味するのは今更言及するまでもなかろう。
牽強付会のきらいはあるが、あらゆる可能性を無視する事なく、併考しなければならない事はその他にも
いろいろあるのではなかろうか。
木地師と轆轤師が鉱山師と関係するのは、鉱石採鉱に必要な滑車や絞車の制作、金屋の採鉱や選鉱用の木枠は欠くべからざる
用具であり、それらの道具がなければ仕事が成り立たなかったのである。

閑話休題 近江は木地師、轆轤師の本拠地である上に、近江商人として全国に販路を拡大し、数多くの豪商を
輩出したが、どういうわけか姓に「井」がついたものが多いのである。
三井家(伊勢松坂というが実は近江の出)、中井家、高井家、村井家、石井家などいずれも名の知れた豪商である。
近江の三井、島田組と対抗した小野組の屋号も「井筒」であった事や、井伊家(元は駿河)など偶然にしては
余りにも蓋然的である。
近江商人の全国的な活動範囲と、木地師、轆轤師、鉱山師の活動が同調するのは当然であり、山中で生活する木地師
、山師への物資運搬としての役割はお互いの仕事上の補完をするものであり、商人は辺境の地へも依頼が有れば出向いたのであった。
又その出向いた先で、修験者やマタギなどとの交流も有ったであろうし、彼等から種々の知識を獲得する事により、
多岐、多種の生薬知識をもとに、商品を開発して販路の拡大に発展させたことが近江商人としての
確固とした地位を確立した一因ではなかったろうか?
                                              続く

木地師についての一考察

2017-01-22 22:11:59 | 瑣事拾遺
木地師の特権を保証する綸旨は惟高新王を始祖とする蛭谷(筒井八幡)への朱雀天皇からの綸旨が最初であると
云われている。一方の君ヶ畑(大君器地祖社)へは同様に正親町天皇発給の天正七年付の綸旨がある。
綸旨は既知のように、木地師の特権を全国的に敷衍保障するもので、それは山の七合目以上の樹木の伐採権利を認可するものであった。
室町期末期には商工業が台頭し始めた時代で、商人にとって綸旨と同様の特権を保証する「御墨付」を有する事が日本国中を
廻国するためには必要な書付であった。
初期の近江商人と云われている蒲生郡得珎保(八日市)の商人は、保元二年発給の白河院の院宣を有していた。
同じ近江国坂田郡平方庄(長浜)の商人は比叡山延暦寺発給の諸商売八座の補任状(保安二年付)を持っていたのである。
中世の商人は関渡津泊の煩無く、諸国の往反遍歴を保証された発給文書を拠り所とする特権を許に自由に往来した。

小椋谷が木地師の根源地となるには「氏子狩」と呼ばれる各地の木地師総点検システムによって統括されたからであると言われているが、
それらは天正から永禄年間から始まったと考えられる。
現在確認されているのは、蛭谷では正保四年から始まる三十二の簿冊が残されており、君ヶ畑には元禄七年から始まる五十一冊が
残っている。
木地師の統制機構は蛭谷、君ヶ畑の正当性を主張してお互い譲らず、各地で権利の強勢を拡大進展させようとして、
結果的に影響を全国的に波及していったのである。

小野宮には祭神が二座在り、一座は米餅搗大使主(たがねつきのおおおみ)で(たがね)とは粢(しとぎ)のことであるとされる。
しかし別の古書には鏨着大使主(たがねつきのおおみ)と記載されて、(たがね)には鏨の字が宛てられている。
小野宮の近辺には金糞地名や鑪地名が見られて、鉱山集団との関係性を示唆するのである。
以上の事から鏨着大使主とは、鉱山集団の鍛冶神か、又はそれに仕えた巫祝の名ではなかったかと推察されるのである。
それが小野宮の先祖として、尊崇されたではないか?

近江三上山の俵藤太伝説ではムカデ退治をしたが、鉱山師の符丁ではムカデとは鉱脈を指すのである。
赤ムカデと金と銅の鉱脈であり、白ムカデは銀鉱脈、黒ムカデは鉄鉱脈を指し、その他の鉱脈を縞ムカデと呼んでいたのである。



                                         続く



瞽女についての一考察(2)

2016-11-20 04:14:53 | 瑣事拾遺
瞽女の職は師匠の許で一定期間の厳しい修行を終え、師匠の許諾によって渡り稼業に出る事が可能となった。
渡り稼業の巡業先は他の瞽女と重複しない場所を選び、その経路は事前によく検討し、世話になる宿についても前もって
連絡をして出かけたのである。
そして巡業で得た実入りについては、師匠の許へ一定額の礼金を納め、残った実入りは手引き役、朋輩への分け前として
支払った。
瞽女の巡業は年間を通していつでも出掛けられたものではなく、特に彼女たちの来訪を心待ちにして呉れる農山村の
田舎廻りには、農繁期の終わった秋の祭礼などのハレの日や、汗にまみれた重労働に耐えて実りの秋を迎えた農閑期
など、彼女たちの芸をひと時の娯楽とした特別の日であった。
その他には新築の祝いや子供が生まれた、婚礼が有った、望外の豊作などの目出度い事があった場合には、特に
彼女たちを招いて祝言、祝い唄を披露して貰い、親戚や近隣にもその興行を楽しんでもらい、それがひいては
先祖への供養と感謝にもなり、又彼女たち瞽女にも功徳を敷衍し、彼女たちの境遇へ同情と慰撫する意味合い
もあり、それは瞽女にとっても有難い興行であった。

彼女たちが巡業で得た実入りは、現金もあったがほとんどは米であったそうである。
彼女たちが門付けで演じた曲目に、謝礼として茶碗や皿、あるいは手に掴んで米を差し出した。時には一升枡で
貰ったこともあったようだ。
米、現金以外には豆の大豆、小豆、蕎麦、栗、梨やリンゴ、真綿や和紙、麻糸、草鞋などもあったようだ。
真綿や豆類、蕎麦などは宿で買い取って貰うことも出来、現金化もできたので有難かったそうだ。
特に一番の実入りの米は、宿でも喜んで買い取られたが、一般からも高く買い取られたのである。
それは、瞽女達が喜捨を受けた米には特別な力があると信じられていたからで、それには多くの人達の
善意、善根の籠った特別の米として、病人を抱えた家には病気平癒に効験のある米として高く買い取られた。


瞽女についての一考察(2)

2016-11-20 04:14:53 | 瑣事拾遺
瞽女の職は師匠の許で一定期間の厳しい修行を終え、師匠の許諾によって渡り稼業に出る事が可能となった。
渡り稼業の巡業先は他の瞽女と重複しない場所を選び、その経路は事前によく検討し、世話になる宿についても前もって
連絡をして出かけたのである。
そして巡業で得た実入りについては、師匠の許へ一定額の礼金を納め、残った実入りは手引き役、朋輩への分け前として
支払った。
瞽女の巡業は年間を通していつでも出掛けられたものではなく、特に彼女たちの来訪を心待ちにして呉れる農山村の
田舎廻りには、農繁期の終わった秋の祭礼などのハレの日や、汗にまみれた重労働に耐えて実りの秋を迎えた農閑期
など、彼女たちの芸をひと時の娯楽とした特別の日であった。
その他には新築の祝いや子供が生まれた、婚礼が有った、望外の豊作などの目出度い事があった場合には、特に
彼女たちを招いて祝言、祝い唄を披露して貰い、親戚や近隣にもその興行を楽しんでもらい、それがひいては
先祖への供養と感謝にもなり、又彼女たち瞽女にも功徳を敷衍し、彼女たちの境遇へ同情と慰撫する意味合い
もあり、それは瞽女にとっても有難い興行であった。

彼女たちが巡業で得た実入りは、現金もあったがほとんどは米であったそうである。
彼女たちが門付けで演じた曲目に、聴衆は謝礼として茶碗や皿、あるいは手に掴んで米を差し出した。
時に年忌法要に行き会った場合には一升枡で貰ったこともあったようだ。
米、現金以外には大豆、小豆、蕎麦、栗、梨やリンゴ、真綿や和紙、麻糸、草鞋などもあったようだ。
真綿や豆類、蕎麦などは宿で買い取って貰うことも出来、現金化もできたので有難かったそうだ。
特に一番の実入りの米は、宿でも喜んで買い取られたが、一般からも高く買い取られたのである。
それは、瞽女達が喜捨を受けた米には特別な力があると信じられていたからで、それには多くの人達の
善意、善根の籠った特別の米として、病人を抱えた家には病気平癒に効験のある米として高く買い取られた。

彼女たち瞽女が農山村に歓待された理由は他にもあり、それは彼女たちが持つと信じられた特別の”ちから”を
期待しての一面があった。
その”ちから”を象徴的に具現したのが、彼女たちの持つ杖であった。
視力を失った瞽女の目に代わる杖は、遠路遥々と手引きに連れられて僻陬の田舎廻りをしながら三味線で曲を
演じながら懸命に生きる彼女たちの命の杖でもあり、その杖に常ならざる”ちから”を期待したのは自然の思いであったろう。
杖はカシ材かズミ材で作られ、長さは5尺1~2寸であった。
新調した杖は必ず芸事の守護である弁財天に供えてから使用した。