高岩進追悼記念誌『一筋乃道』

~労働運動家であり政治家であった高岩進の生きた証として~

高岩進年表

2014年06月22日 20時38分49秒 | 年表
1909年(明治42年)
11月3日 佐賀県西松浦郡大川村大字駒鳴一六九三(現在伊万里市大川町)に生まれる。父田口平治、母トワ、五人兄弟の末子で家業は炭焼業であった。

1921年(大正10年)
11才 尋常小学校卒業後、卒業生四六名のうち貧乏のため進学できなかったのは進一人であった。

1924年(大正13年)
14才 父の急死により、病身の母とともに兄甚吾をたよって大阪へ。およそ二年の間に、母、兄、義姉、兄の子の四人が父のあとを追うように死ぬ。リュウマチ、急性肺炎などであったが、いずれも貧乏が大きく作用していた。精神的ショックから宗教の門をたたく。

2月 藤永田造船所に仕上見習いとして就職。

5月 誘われて初めてメーデーに参加、中之島公園に八〇〇名であった。

同じ職場の先輩から「科学的社会主義」の言葉をきく。

大阪造船労働組合に加入

1925年(大正14年)
15才

3月 「社」という名の結社(共産党)に加入。

5月 総同盟の分裂と日本労働総合評議会創立のなかで、大阪金属労働組合青年部長として左派のために活躍したと伝えられる。

秋、駆逐艦の進水式で反戦ビラをまく。

この年、藤永田で、大規模なストライキ、職場で労働組合の拡大と青年同盟の組織化のために活動、労組は従業員三、二〇〇人のうち一、六〇〇人まで組織化された。

1926年(大正15年)
16才

1927年(昭和2年)
17才 労働農民党に入党、大阪港支部青年部長として活動

1928年(昭和3年)
18才

3月15日 未明、治安維持法違反容疑により逮捕、当日はモスクワの東洋勤労者大学に入学のため敦賀にむけて発つ予定であった。共産党から表彰状をもらっていたのも弾圧の材料となったといわれる。

9月3日 予審終結、公判に付されることが決定。最年少被告であったといわれる。

11月21日、22日 第一、二回公判

1929年(昭和4年)
19才

2月1日 判決、二年半の懲役

2月9日 懲役刑執行

1930年(昭和5年)
20才
義姉みつの死、兄甚吾氏との間に往復あり(本書収録)

1931年(昭和6年)
21才

2月11日 仮出獄

夏、生活をたてるため冷やしあめの夜店をだす。

9月 大阪府会議員選挙、飯石豊市候補の選挙運動に参加。

総評関西地評の運動に加わる。

1932年(昭和7年)
22才

3~4月 日本エレベーターの争議

5月 甲子製材の争議

7月 深美製材争議

7月20日 総評関西地評第二回大会(天王寺公会堂)

この年から一九三四年まで関西地評書記長として活躍

1933年(昭和8年)
23才 引き続き、関西地評書記長として多くの労働争議など指導

1934年(昭和9年)
24才 この年、高岩登与乃と結婚、登与乃二二才。次第に組織的抵抗ができなくなるなかで、工場に帰り、現場労働者として働く。以後、数年間、旭鉄工所、工栄社、小原鉄工所、浪速鉄工所、本岡バルブ製作所など。たえず憲兵と特高の監視つき。

1935年(昭和10年)
25才 長男、昭孝生まれる

1936年(昭和11年)
26才

2月 尼崎市杭瀬に転居

1937年(昭和12年)
27才 日本無産党に所属。このころ杭瀬で柔道々場「良武館」をひらく。

12月 人民戦線事件で検挙、兵庫県で二一名、大阪府は二二名

1939年(昭和14年)
29才

12月 長女、紀子生まれる。

1940年(昭和15年)
30才 知人の援助で山口鉄工所(のちの永井鉄工)を経営

1941年(昭和16年)
31才 長女、紀子死す。

1943年(昭和18年)
33才

8月3日 次男、文彦生まれる。

1944年(昭和19年)
34才 年末、治安維持法違反に問われて検挙、戦争の敗色濃厚ななかで死を覚悟しての入所であったという。

1945年(昭和20年)
35才

8月18日 山下栄二を訪ね労働運動再建について懇談

10月 大物会館で労働組合結成準備会

11月2日~ 朝日見瑞らと日本社会党結成大会に参加

11月25日 日本社会党尼崎支部の発足に参加

12月 総同盟尼崎地方協議会が活動を開始(正式結成は翌年)

1946年(昭和21年)
36才

4月13日 総同盟尼崎地協結成

このころ多くの労働組合を組織化。労働学校をひらき活動家の養成につとめる。

1947年(昭和22年)
37才

1月26日 次女、倶巳子生まれる。

3月 尼崎市長選、社会党支部長として立候補

1948年(昭和23年)
38才 「労働問題解説」「阪神労働運動史」を執筆(本書収録)

1949年(昭和24年)
39才 兵庫県会(補欠選)に立候補

1950年(昭和25年)
40才 社会党分裂の中で左派の立場をとる。

1951年(昭和26年)
41才

4月 兵庫県会議員に当選。定員六名中、第五位。九、六五一票を獲得。

10月 社会党の再分裂の中で再び左派に所属、党尼崎支部長、県連副会長として党の組織的確立につとめる。

1952年(昭和27年)
42才 随筆「ひょうたんなまず」執筆(本書収録)

10月 衆院選で左社、山口丈太郎を当選させる。

総評尼崎地評結成、準備活動に貢献。

1953年(昭和28年)
43才 「兵庫県会、対策について」「綱領作成に当って問題となるべき点」を作成

1954年(昭和29年)
44才 左派社会党兵庫県連書記長に就任

1955年(昭和30年)
45才

4月 兵庫県会議員に再選、定数六名の第六位、得票数一一、四〇八票、中央での左右統一にしたがい兵庫県の両社統一をすすめる。

1956年(昭和31年)
46才

2月5日 社会党兵庫県連の統一大会、書記長に就任

7月 「国保の全面実施と柏原町中心の医療の社会保障推進の一考察」を執筆

12月 「社会党の諸問題」を執筆(翌年に、第二、第三集を執筆)

1957年(昭和32年)
47才

12月15日 長男、昭孝の死(22才)

1958年(昭和33年)
48才

3月 歌集「激流(ながれ)」を出版

7月 兵庫県会総務委員長(11月市長選のため辞任)

12月 尼崎市長選に立候補、激戦となったが少差で敗北

1959年(昭和34年)
49才 兵庫県会議員に三選、最高点




※上記は、1971年11月26日に発行された高岩進追悼記念誌『一筋乃道』の内容の一部です。