高岩進追悼記念誌『一筋乃道』

~労働運動家であり政治家であった高岩進の生きた証として~

資料から一、日記が書かれた当時の情勢

2017年10月24日 22時05分53秒 | 本文 第三部
 「十五才の日記」は一九二五年(大正十四年)に、「十七才の日記」は一九二七年(昭和二年)に書かれている。
 一九二五年から二七年にかけては、日本の社会主義運動、労働運動にとって特筆すべき時期にあたっている。日本最初の左翼的労働組合の全国結集体である日本労働組合評議会が結成されたのが一九二五年五月であり、普通選挙法公布の下に大衆的な労働者政党の組織化が論議され、曲折ののち労農党が結成されたのが、一九二六年である。
 いわばこの時期は、日本の社会主義・労働運動が思想にめざめた少数の先覚者の運動から、大衆的、組織的なものにひろがり、おくればせながらロシア革命の影響をもうけて、戦闘的に高揚した時期であった。山川均が一九二〇年に、「無産階級運動の方向転換」論で見通した情勢が具体的にひらけてきた。
 この波の中で、一人の少年労働者、田口進(のちの高岩進)は若々しい感受性の反応をもって、それをうけとめ、すでに参加をはじめている。日記帳冒頭の「少年労働党」の結成にはじまり、彼が素朴に書きとめた諸事件-評議会所属組合の大会や、天王寺公会堂での演説会、川崎造船の争議や、中国民主革命介入の出兵問題、工場代表者会議や芥川竜之介の死、国際軍縮会議やサッコ・ヴァンゼッティ事件などは、すべて今日からみれば歴史的なものであり、それだけに文献的な価値があるといえよう。
 しかも、十五才の日記から十七才の日記への成長は、のちに十八才で三・一五事件の最年少被告となり、出獄後は二十二才で、関西総評を担う書記長として重要な任務を果すに至る社会主義者としての足どりが確かに感じとられるのである。
 そこで、労働運動史から、とくに関係のある事項と情勢について簡単にぬき書しておこう。(参考文献は主として大河内一男、松尾洋著「日本労働組合物語」)
 一九一二年(大正三年)わずか十五名で出発した「友愛会」は、日本資本主義の矛盾の発展が労働問題を拡大するとともに労働組合としての性格をつよめ、 一九二一年(大正一〇年)には三万人を組織する「日本労働総同盟」となった。しかし、労資協調を使命とする総同盟では、組織の内部に成長する労働者の階級的戦闘性を保証することができず、左右の対立からついに一九二五年(大二十四年)に分裂してしまった。左派は二月二十四日、日本労働組合評議会(略称評議会又は日評)を結成する。
 評議会は一九二五・六年の労働運動の戦闘的高揚のなかで、結成時一万二千人の組織を約半年のうちに三万一千余に拡大する。
 評議会結成の年、十五才の田口進は職場の藤永田造船で労働組合(大阪造船労組)に加入し、評議会の組合員となる。後年、高岩進がいくつかの自伝的な文章(「三・一五事件より四〇年」「わが青春の記」)でふれているように、彼は積極的に活動し、一六〇〇人を組織して、藤永田の職場を評議会の戦闘的拠点として築きあげる。(藤永田造船最初の組織化と大争議、総同盟分裂による大阪造船労組の造機船労組への組織改編については「十五才の日記」中に付した編注を参照)
 一九二六年は評議会だけでなく、普通選挙法の公布により来るべき第一回普通選挙にむけて無産政党創立の準備活動が活発であった。日農のよびかけで、総同盟、評議会、水平社、無産青年同盟、政治研究会等の代表により、組織準備委員会や、網領調査委員会がつみ重ねられた。左右対立のなかで右派が不参加のまま、十二月一日に農民労働党の結成大会がひらかれたが、即日禁止された。
 労働運動の高揚は、この年夏、革命後日の浅いソ連から、金属労組委員長レプセが来日し、各地で労働者の熱狂的歓迎をうけたことにもみられ、またこの年末から翌年にかけて川崎富士ガス紡、別子銅山、共同印刷、浜松日本楽器と代表的大争議が続発したことにもみられる。とくに共同印刷と浜松の楽器争議は、評議会の戦闘性を一般にも強烈に印象づけるものであった。
 二つの日記の中間の年、一九二六年(大正十五・昭和元年)には三月に労農党の結成大会(委員長杉山元治郎)十二月には右派脱退のあとをうけた第一回大会(委員長大山郁夫)があり、五色温泉における共産党の第三回(再建)大会もこの年の十二月四日であった。
一九二七年に入ると、三月に本格的な金融恐慌があり、五月に中国の国民革命に干渉する最初の山東出兵が行なわれ、以後三回にわたって行なわれる。これは日記中で田口進が痛憤をもって書いているところである。
 日記では五月十七日に薬剤師と労働団体の共同で、健康保険法についての大演説会があったことを記している。これは前年の暮からこの年のはじめにかけて評議会が指導したといわれる健康保険法争議の延長であろう。「健康保険法」は一九二二年議会を通過し、一九二七年一月から実施された。このとき総同盟は内容に不満はあるが前進と評価して賛成、評議会は掛金等で労働者に犠牲を強いる上、ギマン的なものであるとして反対の態度をとった。評議会は政府を相手どったこの特異な争議の中で「工場代表者会議」という組織戦術を採用した。これは一九二五年大阪の印刷争議でも採っていたが、一九二七年の評議会の第三回大会では、健保争議の経験を総括して、より一般的な組織戦術として採用されたといわれる。
 評議会は、個人加盟で戦闘的労働者を結集していたが、企業内では総同盟の方が多数の労働者を組織する場合が多かった。評議会は企業内の劣勢を補ない、たたかいを横にひろげる戦術として各企業内に工場委員会を組織化し、その代表者によって工場代表者会議を組織する方針をとったのである。
 日記に何回かでてくる工場代表者会議はそのような性格をもったものであった。
 なお工場代表者会議については高岩進自身、後年、「阪神労働運動史」のなかで、「工場代表者会議と乾鉄線争議」の項でふれている。
 日記では、駆逐艦の運転て遊んだとか、稚気のぬけない書きぶりであるが、半面、総同盟と評議会分裂のなかで労組青年部長として活躍したのも、駆逐艦の進水式に反戦ピラを撤いたのも、一五才の日記が書かれた年である。このような稚気と、堂々たる活動が同時に存在したところに、当時の田口進の姿がしのばれる。このように、ちょうど運動にめざめる時期が、左翼労働運動が初めて本格的な大衆的組織として高揚し、政治的にも普選法実施を前に合法的労働者政党の結成が公然と論議されるという、ある意味で幸運な時代に際会したことは、その後の田口進の運動に大きな影響を残したと考えられる。しかも、地理的条件からしても、当時の大阪は日本最大の産業都市であり、労働運動の中心であった。同時に、「社」という名の非合法組織への加入が示しているように、運動の大衆性と思想の一致による同志的組織をともに追及する姿勢は、後年の高岩進にまで永くひきつがれることになる。
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