今回、真備支所へ向かった一番の目的は、この絵図です。
よく見る絵図です。
高梁川の大改修は、明治39年に国会で決まり、同40年に測量が始まり、
同44年に起工、大正14年完成したそうな。
関が原の1600年の少し前、
秀吉時代、宇喜多さんにより倉敷の地が生まれましたが、
<東高梁川>は、よく氾濫したそうな。
数年毎くらいに、大小の災害があったそうな。
大きな災害もいくつかあり、その中でも<絵図>として残っているのが、
この絵図です。
<嘉永3年(1850年)の大洪水>
戸川さんとこと、そのコピーが尾崎さんとこのがあるそうな。
(ペリーさんがこられる3年前です)
<先生>の解説によると、
<倉敷の幕末維新は、この時から激動の時代に入った>、とも言えるそうな。
東日本大震災にあった方々は、
尖閣やオスプレイよりも<目の前>の大変なことのほうが大事です。
当時の倉敷もそうだったようです。
そらそうじゃわなぁ~
テレビやラジオ、インターネットの無い時代、
維新よりも<目の前>じゃわなぁ~
お役人さんも、そうじゃったそうです・・・
(じゃから、少々の事件は後送り・・・)
さて、その絵図です。
大雨で、堤防が切れるのは<安江>が多かったようです。
この時も、<安江>でした。
↑ 2m×1m。
上が北です。
左端が、東高梁川、 右端は岡山市妹尾。
上(北)は、酒津、 下(南)は、種松山~妹尾。
倉敷の<人>や<物>などが、妹尾まで流されたそうな。
↓ 先に紹介した2枚の絵図がちゃんぽんになっています。
↑ 旧倉敷地区。
右上は<現美観地区>、倉敷川が右、中央下のもっこりは<足高山>、
色の濃いところは、水の深いところだそうです。
左、北から南へ<東高梁川>、<安江>が決壊しています。
帯江あたりで、2mくらいだったそうです。
大内、川入は、水が来ていません。
旧浜街道がありますので、一時期ここが<浜>と<海>の境界だった?
八王子、日吉、 安江、渋江(現老松)、白楽・・・
↑ <安江>。
たくさんの人が、舟で逃げたり、助けに行ったり、
高台に逃げた人に食料を差し入れたりしたそうな。
<梅干>をいくつ届けた・・などの記録も残っているそうな。
几帳面な日本人は、こういう歴史の古文書などがたくさん残しており、
歴史を勉強して、未来に生かして下さい!とのことでした。
実におもしろい・・・!!
おしまい!
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