ヒロシのぶらっとぶらぶら

気のむくままの不定期ブログです。

倉敷の大洪水絵図 ②

2015-06-12 23:39:06 | ひとりごと・・・






今回、真備支所へ向かった一番の目的は、この絵図です。

 よく見る絵図です。


 高梁川の大改修は、明治39年に国会で決まり、同40年に測量が始まり、
 
  同44年に起工、大正14年完成したそうな。


 関が原の1600年の少し前、
  秀吉時代、宇喜多さんにより倉敷の地が生まれましたが、
   <東高梁川>は、よく氾濫したそうな。

  数年毎くらいに、大小の災害があったそうな。

  大きな災害もいくつかあり、その中でも<絵図>として残っているのが、
   この絵図です。

   <嘉永3年(1850年)の大洪水>
    戸川さんとこと、そのコピーが尾崎さんとこのがあるそうな。
     (ペリーさんがこられる3年前です)



<先生>の解説によると、
 <倉敷の幕末維新は、この時から激動の時代に入った>、とも言えるそうな。


 東日本大震災にあった方々は、
  尖閣やオスプレイよりも<目の前>の大変なことのほうが大事です。

  当時の倉敷もそうだったようです。

  そらそうじゃわなぁ~
   テレビやラジオ、インターネットの無い時代、
     維新よりも<目の前>じゃわなぁ~


   お役人さんも、そうじゃったそうです・・・

   (じゃから、少々の事件は後送り・・・)






さて、その絵図です。



 大雨で、堤防が切れるのは<安江>が多かったようです。

  この時も、<安江>でした。








 ↑ 2m×1m。

    上が北です。

    左端が、東高梁川、 右端は岡山市妹尾。

    上(北)は、酒津、 下(南)は、種松山~妹尾。

     倉敷の<人>や<物>などが、妹尾まで流されたそうな。











 ↓ 先に紹介した2枚の絵図がちゃんぽんになっています。





 ↑ 旧倉敷地区。 
    右上は<現美観地区>、倉敷川が右、中央下のもっこりは<足高山>、
     色の濃いところは、水の深いところだそうです。

    左、北から南へ<東高梁川>、<安江>が決壊しています。





  帯江あたりで、2mくらいだったそうです。









 大内、川入は、水が来ていません。

  旧浜街道がありますので、一時期ここが<浜>と<海>の境界だった?


  八王子、日吉、 安江、渋江(現老松)、白楽・・・







 ↑ <安江>。

   たくさんの人が、舟で逃げたり、助けに行ったり、
    高台に逃げた人に食料を差し入れたりしたそうな。

    <梅干>をいくつ届けた・・などの記録も残っているそうな。



 几帳面な日本人は、こういう歴史の古文書などがたくさん残しており、
  
  歴史を勉強して、未来に生かして下さい!とのことでした。




 実におもしろい・・・!!

  

 おしまい!

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