小泉首相が近い過去の自分の発言あるいは行動について質問されて、「覚えていない」と曖昧に返答したケースが、二回だけある。小泉首相はこれまで、何事に対しても歯切れのいい、しかも耳当たりのいいワン・フレーズの返答で、国民の高い支持率を維持してきた。
それだけに、ほんの1~2週間前、あるいは今回のようにわずか2日前の自分の行動や発言に対して、「覚えていない」などと奇っ怪な曖昧な発言をすると、余計に目立つことになる。
私の記憶する一回目の「覚えていない」が今回であり、二回目は、同月24日に開かれた衆院予算委員会でのことであった。
民主党の若手有望株、原口一博議員の質問に、「ブッシュ米大統領との会談で、(北朝鮮核開発継続の)情報は受けている」と答えた小泉首相は、訪朝直前の9月12日に行われた日米首脳会談の席上でのことであったかとの原口議員の追求に、「いつかは覚えていない」と答えた。
いずれもが「小泉訪朝」にからんでいることが、興味深い。支持率アップを第一の目的として、北東アジアの火薬庫、金正日の北朝鮮で火遊びしてパンドラの箱を開けてしまった小泉純一郎。
本日のニュースでも、北朝鮮が使用済み核燃料棒を核施設から搬出したとの記事が報道されている。小泉純一郎が訪朝しなければ、ケリーが訪朝することもなかったであろうし、北朝鮮の外交姿勢は「小泉訪朝」前とまったく変わっていなかったかもしれない。
いまや米国は、核をすでに所有し脅しをかけている北朝鮮の手前、いったんイラクへ振り上げた拳(こぶし)を決して戻すわけにはいかない。もしそんなことをすれば、北朝鮮がますます手に負えなくなってくるのは目に見えている。
「小泉訪朝」がなければ、国際世論の前に、ブッシュ米国がイラクへの攻撃を延期する状況もあり得たかもしれないが、現状は、次に控える北朝鮮のために、逆にイラク攻撃を早めてきているのが実態かもしれない。
「死亡年月日リスト」隠しと「北朝鮮核開発継続」隠しに対して、両者ともに都合よく「覚えていない」と言うのは、あまりに偶然過ぎないであろうか?「死亡年月日リスト」隠しと「北朝鮮核開発継続」隠しは、私の「小泉訪朝」四つの無視の中の二つである。
小泉首相自身が、「見たのは午前の首脳会談後の休憩時間か」と言っているのだから、おそらく昼休憩時間に、田中均局長から「死亡年月日入りリスト」の翻訳を見せられ、二人してこれを「非公式リスト」として無視し、拉致被害者家族に伝えない方針を決定したのであろう。
小泉首相は、「年月日よりも死亡者が多かったことに衝撃を受けた」と明言した。これは、初めて「死亡年月日入りリスト」を見たときに言うセリフである。
小泉首相は、午前10時半過ぎには、田中均局長から口頭で8人死亡の衝撃的情報を聞いたはずである。ましてや、午前の首脳会談の冒頭にこの問題を取り上げ、金正日総書記に決断を迫った状況があった。これにより午後2時過ぎ再開した首脳会談の冒頭に、金正日総書記が拉致を認めて謝罪する発言に結びついた流れがある。
その首脳会談が終了して、午後3時半から4時の間に田中均局長と「日朝平壌宣言」の文言調整をしているときに、翻訳された「死亡年月日入りリスト」が小泉首相に届けられたという。
それを目にした小泉首相が、8人死亡の情報を初めて聞いた10時半過ぎから5時間経過して、金正日が拉致を認め謝罪し首脳会談が終了して、「日朝平壌宣言」の文言調整をはじめているときに「死亡年月日入りリスト」を見せられて、いまさら「年月日よりも死亡者が多かったことに」衝撃を受けたりするものであろうか?
普通の正常な人間であれば、8人死亡という情報はすでに知った事実であり、新たに初めて判明した有本恵子さんと石岡亨さんが同日に亡くなっていたという情報に、重い衝撃を受けるものではなかろうか?
この点ひとつとってみても、小泉首相自身が言う、「見たのは午前の首脳会談後の休憩時間か、あるいは会談が終わって「日朝平壌宣言」に署名する前。どちらだったか、覚えていない」という発言のうち、午前の首脳会談後の休憩時間に見たとする方に、よほど現実味がある。
また小泉首相が、「公表できるもの、非公表のものがある。差し支えないものは全部発表しなさいと、外務省には指示した」と語っているところから、拉致被害者家族に死亡年月日の情報を流さない最終決断をしたのは、小泉首相自身であったとわかる。
さらに小泉首相は、「遺族の立場もある。大きなショックを受ける立場を考えたのではないか」などとスットボケタことを語っているが、被害者家族が大きなショックを受けたのは、死亡年月日という死亡者の「命日」を家族に伝えなかった、小泉首相と外務省の隠蔽体質にあることをわかっていないのであろうか?
さらに小泉首相は、拉致被害者家族に「今年3月に会っている。そこで十分家族の気持ちを分かっている」ようなことを言っているが、これも拉致被害者家族にとってみれば笑止ものであろう。
当時の報道記事を繰ってもらえばわかることだが、小泉首相の被害者家族との面会時間は、歴代総理中最短の十数分であったという。被害者家族は当時、みな怒っていた。
9月27日に、「小泉訪朝」後初めて行なわれた小泉首相と拉致被害者家族との会合では、”ドデカイ”テーブルを間に挟んで、カの鳴くようなカ細い声で喋る小泉首相に、終了後記者団から感想を聞かれた拉致被害者家族は、「何も聞こえなかったから、感想と言われても・・・」とそろって困惑の表情を見せていた。
そしてコメである。
小泉首相は19日、記者団にこう語った。「その中でコメの支援もあった。明らかにならない段階でそのような援助協力が効果があったのか。」
翌20日、小泉首相は同日収録のテレビ番組(フジテレビ系「報道2001」)で、
①人道問題で黙って見ていていい場合と、そうでない場合がある。
②人道援助にはコメだけでなく災害もあり、国際社会や赤十字などと相談する
ーーと指摘。世界食糧計画(WFP)などの要請があれば、国際社会と連携して北朝鮮にコメ支援など人道援助を実施することを検討する意向を示した。(日経新聞2002年9月21日朝刊1面)
19日の小泉首相の記者会見の内容が、いかに欺瞞に満ちたものであったか。
小泉首相と田中均局長と「死亡年月日入りリスト」のしがらみが、どれほど深いものであったか。
日本語には、小泉首相と「売国官僚」田中均局長の関係を、まことに言い得て妙な表現があった。
それは・・・・・”同じ穴のムジナ”。
<Ⅳ>やがてかなしき
「小泉訪朝」直後に、「死亡年月日入りリスト」をめぐってあれほど渦巻いていた拉致被害者家族による政府・外務省批判は、いまやまったく反転して、帰国した生存拉致被害者5人をはじめ、口を開けばそろって「政府を信頼して待ちます」との言葉が飛び出してくる。
外務省自身が最終的に、「政府として関係者の安否を確認していたわけではありません」と明言した死亡したとされる8人の拉致被害者の真実の安否は、その後どうなったのであろうか?
日本政府にとって、彼ら8人は、未だ生存している日本人なのであろうか、死亡した日本人なのであろうか?それとも、見捨てられた日本人なのであろうか?
1月26日、訪朝して孫にあたるめぐみさんの娘に会いたいという拉致被害者の「家族会」会長・横田滋さんの切なる希望は、「今、訪朝しても、めぐみさんが死亡したとの北朝鮮の演出を見せられるだけで、マイナス面が多い」という事務局長・蓮池透氏の声に押し切られ、全員一致で否決されてしまったようだ。
昨年12月19日、帰国した生存拉致被害者5人は、そろって胸の「金日成バッジ」を外してみせた。
その報道を聞いた私の方が、北朝鮮に残された彼らの子供たちや夫に悪影響がなければいいが・・・と胸を締めつけられる思いをした。
事務局長の蓮池透氏は、「5人がバッジを外して北朝鮮公民ではないと意思表示した以上、北朝鮮は即座に家族を帰さなくてはならない」とよく意味のわからないことを語っていたが、そういう行為は、「北朝鮮に利用されて」北に残された子供たちに悪影響があるようなことはないのであろうか?
それよりなにより、日本政府自身が死亡を確認していない「死亡したとされる8人」の安否について、拉致被害者の「家族会」は、どのように考えているのであろうか?横田滋さんの訪朝の思いも、まさにそこから発しているのである。
政府と外務省を信じて、いつまでも待ちますーーということなのであろうか?
「小泉訪朝」四つの無視の三番目は、「帰国した拉致被害者5人の北に残された家族」に対する無視である。
「広辞苑」で、”おもしろい”という言葉の意味を引くと、一般的に使われる「愉快である。楽しい」という意味のほか、「心をひかれるさまである。興趣がある」という意味もあることがわかる。
江戸元禄の俳人、松尾芭蕉の句、「おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」は、始まりの「おもしろうて」が、あとに続く「かなしき」と共鳴することにより、興趣に満ちた”鵜飼い”を面白がって見ているうちに、何とも言えない哀しさが湧き起こってきた心の移ろいを描写して、芭蕉の最高傑作の一つとまで言われている。
北朝鮮による日本人拉致事件には、当初、心から興味を惹かれた。拉致され二十数年間を独裁者国家・北朝鮮で過ごした被害者の方々と、その間、団結して子供たちの帰る日を待ち続けたご両親・兄弟の方々の気持ちを考えると、どうにもやるせない思いがして、ただ関係者の方々の今後の幸せを祈るばかりであった。
小泉首相と田中均局長による「死亡年月日入りリスト」隠しには、拉致被害者家族の皆さんと同じ気持ちで大きな憤りを感じた。
曽我ひとみさんをはじめとする帰国された生存拉致被害者の方々の子供や夫を思う気持ちを想像すると、あまりの悲惨な運命の悪戯に慰めの言葉もない気持ちになった。
しかしいつの間にか、あれほど政府・外務省を非難し不信感を抱いていたはずの拉致被害者家族の皆さんが、コロッと反転して、口に出る言葉が「政府を信頼しています」となってしまったとき、私だけが取り残されたような思いがした。
私は、「死亡年月日入りリスト」で垣間見た小泉首相と田中均局長の売国的裏切り行為は、日本人の一人として、絶対に許すことはできない。
5人の拉致被害者と「家族会」の皆さんが、今後再び日本政府・外務省によって裏切られ傷つくようなことのないよう、今はただ私は、祈るばかりである。
もちろん、「小泉訪朝」四つの無視の最後は、「小泉首相は何しに北朝鮮へ行ったんだ」に対する無視である。
おもしろうてやがてかなしき日本かな
☆2003年2月1日☆記
*****************
2002年9月17日。午前11時からの初の日朝首脳会談を前にして10時過ぎから、田中均局長と北朝鮮の馬・チョルス局長との間で首脳会談前の事務レベル協議が行われ、協議終了後の10時半、北朝鮮側の通訳から日本側通訳を介して田中均局長のもとに、ハングルで書かれた拉致被害者安否リストが手渡された。
だが、この死亡年月日入りの安否リストは何故か「非公式リスト」として葬られ、死亡年月日の入らない「公式リスト」と差し替えられてしまった。
この差し替えが、北朝鮮側金正日総書記の意向でなされたと推測される理由は、皆無である。
もし北朝鮮側が、死亡年月日を伏せて拉致被害者の死亡を日本側に伝えたとしたら、日本側はその死亡情報を素直に受け入れたであろうか?
だから北朝鮮側は、死亡年月日入りの安否リストを当初から日本側に手渡した。
いったん日本側に提示した死亡年月日入りリストを、彼ら自身の意向で死亡年月日の入らないリストに差し替える如何なる理由が北朝鮮側にあり得ようか?
となるとこの差し替えは、日本側が北朝鮮に依頼してなされたに違いない。
何のために…となるが、その理由は、その後の死亡を伝えられた拉致被害者家族の渦巻く怒りが明確に示唆している。
前掲した「非公式リスト」を、今一度ご参照戴けるであろうか。
続けて記載のある有本恵子さんと石岡亨さんが、「同日に」亡くなっている。しかも有本さんは28歳、石岡さんは31歳の若さである。
生年月日と死亡年月日は西暦洋数字で表示されているのであるから、否応なしにリストを見た者の目に入るのが常識というものではなかろうか?
このような重大な意味を持つ情報が、田中均局長から小泉首相に即座に伝えられないということも考え難いことである。
まして北朝鮮側が提出してきた死亡年月日入りリストを、死亡年月日の入らないリストに差し替えさせるなどということが、小泉首相の了承なしに田中均局長の一存で決められるはずもない。
もし日本側が、死亡年月日入りリストを非公式なものとし、死亡年月日の入らないリストを「公式リスト」とするよう北朝鮮側に働きかけたのが事実であったなら、これは日本の対北朝鮮外交の大変な汚点であり重荷となるものと言わざるを得ない。
北朝鮮がこの事実を暴露したら、日本側の政治的混乱は如何ばかりであろうか!
「小泉訪朝」から1年8ヵ月が経過した2004年5月21日、日帰りの「小泉再訪朝」が強行された。
ある(外務省)幹部は、「再訪朝は外交的にはあり得ない。拉致という犯罪を犯した国に、二度も行くなんて…」と疑問を投げかけた。
この再訪朝に先立っては、小泉首相の腹心・飯島勲首相政務秘書官が、「北朝鮮へ25万トンのコメ支援実施で最終調整」と報道した日本テレビに対し、情報源を明かさなければ首相訪朝への同行取材を拒否すると恫喝した、との報道が流れた。
結論として小泉首相は、拉致を指示したテロリスト国家の親玉のもとへ、身代金代わりのコメ支援を土産に拉致被害者家族の身請けに参上したということだ。
日本にとって、実に屈辱的な外交となった。
この裏側に、死亡年月日入りリストを差し替えるよう北朝鮮側に依頼した小泉首相の弱みを金正日総書記に握られた構図が透けて見えはしないか?
2月4日から北京で開催された日朝政府間対話も、予想通り北朝鮮が自己主張を繰り返すのみの結果で、7日に閉幕した。
横田めぐみさんの遺骨が偽者であると日本側のDNA鑑定で明白にもかかわらず、相も変わらずホンモノだと主張する北朝鮮側の理不尽も突けない、日本政府側の弱腰が目立つ内容であった。
「小泉訪朝」における死亡年月日入り所謂「非公式リスト」に関わる疑惑は、軽々に無視されたり忘れ去られたりしてよい問題ではない。
これは「小泉首相の本性」をよく表した問題であるにとどまらず、日朝外交史上の重大なる汚点で日本にとって今後長く尾を引く重荷となる問題であり、小泉首相はその責任を問われなければならない。
オワリ
それだけに、ほんの1~2週間前、あるいは今回のようにわずか2日前の自分の行動や発言に対して、「覚えていない」などと奇っ怪な曖昧な発言をすると、余計に目立つことになる。
私の記憶する一回目の「覚えていない」が今回であり、二回目は、同月24日に開かれた衆院予算委員会でのことであった。
民主党の若手有望株、原口一博議員の質問に、「ブッシュ米大統領との会談で、(北朝鮮核開発継続の)情報は受けている」と答えた小泉首相は、訪朝直前の9月12日に行われた日米首脳会談の席上でのことであったかとの原口議員の追求に、「いつかは覚えていない」と答えた。
いずれもが「小泉訪朝」にからんでいることが、興味深い。支持率アップを第一の目的として、北東アジアの火薬庫、金正日の北朝鮮で火遊びしてパンドラの箱を開けてしまった小泉純一郎。
本日のニュースでも、北朝鮮が使用済み核燃料棒を核施設から搬出したとの記事が報道されている。小泉純一郎が訪朝しなければ、ケリーが訪朝することもなかったであろうし、北朝鮮の外交姿勢は「小泉訪朝」前とまったく変わっていなかったかもしれない。
いまや米国は、核をすでに所有し脅しをかけている北朝鮮の手前、いったんイラクへ振り上げた拳(こぶし)を決して戻すわけにはいかない。もしそんなことをすれば、北朝鮮がますます手に負えなくなってくるのは目に見えている。
「小泉訪朝」がなければ、国際世論の前に、ブッシュ米国がイラクへの攻撃を延期する状況もあり得たかもしれないが、現状は、次に控える北朝鮮のために、逆にイラク攻撃を早めてきているのが実態かもしれない。
「死亡年月日リスト」隠しと「北朝鮮核開発継続」隠しに対して、両者ともに都合よく「覚えていない」と言うのは、あまりに偶然過ぎないであろうか?「死亡年月日リスト」隠しと「北朝鮮核開発継続」隠しは、私の「小泉訪朝」四つの無視の中の二つである。
小泉首相自身が、「見たのは午前の首脳会談後の休憩時間か」と言っているのだから、おそらく昼休憩時間に、田中均局長から「死亡年月日入りリスト」の翻訳を見せられ、二人してこれを「非公式リスト」として無視し、拉致被害者家族に伝えない方針を決定したのであろう。
小泉首相は、「年月日よりも死亡者が多かったことに衝撃を受けた」と明言した。これは、初めて「死亡年月日入りリスト」を見たときに言うセリフである。
小泉首相は、午前10時半過ぎには、田中均局長から口頭で8人死亡の衝撃的情報を聞いたはずである。ましてや、午前の首脳会談の冒頭にこの問題を取り上げ、金正日総書記に決断を迫った状況があった。これにより午後2時過ぎ再開した首脳会談の冒頭に、金正日総書記が拉致を認めて謝罪する発言に結びついた流れがある。
その首脳会談が終了して、午後3時半から4時の間に田中均局長と「日朝平壌宣言」の文言調整をしているときに、翻訳された「死亡年月日入りリスト」が小泉首相に届けられたという。
それを目にした小泉首相が、8人死亡の情報を初めて聞いた10時半過ぎから5時間経過して、金正日が拉致を認め謝罪し首脳会談が終了して、「日朝平壌宣言」の文言調整をはじめているときに「死亡年月日入りリスト」を見せられて、いまさら「年月日よりも死亡者が多かったことに」衝撃を受けたりするものであろうか?
普通の正常な人間であれば、8人死亡という情報はすでに知った事実であり、新たに初めて判明した有本恵子さんと石岡亨さんが同日に亡くなっていたという情報に、重い衝撃を受けるものではなかろうか?
この点ひとつとってみても、小泉首相自身が言う、「見たのは午前の首脳会談後の休憩時間か、あるいは会談が終わって「日朝平壌宣言」に署名する前。どちらだったか、覚えていない」という発言のうち、午前の首脳会談後の休憩時間に見たとする方に、よほど現実味がある。
また小泉首相が、「公表できるもの、非公表のものがある。差し支えないものは全部発表しなさいと、外務省には指示した」と語っているところから、拉致被害者家族に死亡年月日の情報を流さない最終決断をしたのは、小泉首相自身であったとわかる。
さらに小泉首相は、「遺族の立場もある。大きなショックを受ける立場を考えたのではないか」などとスットボケタことを語っているが、被害者家族が大きなショックを受けたのは、死亡年月日という死亡者の「命日」を家族に伝えなかった、小泉首相と外務省の隠蔽体質にあることをわかっていないのであろうか?
さらに小泉首相は、拉致被害者家族に「今年3月に会っている。そこで十分家族の気持ちを分かっている」ようなことを言っているが、これも拉致被害者家族にとってみれば笑止ものであろう。
当時の報道記事を繰ってもらえばわかることだが、小泉首相の被害者家族との面会時間は、歴代総理中最短の十数分であったという。被害者家族は当時、みな怒っていた。
9月27日に、「小泉訪朝」後初めて行なわれた小泉首相と拉致被害者家族との会合では、”ドデカイ”テーブルを間に挟んで、カの鳴くようなカ細い声で喋る小泉首相に、終了後記者団から感想を聞かれた拉致被害者家族は、「何も聞こえなかったから、感想と言われても・・・」とそろって困惑の表情を見せていた。
そしてコメである。
小泉首相は19日、記者団にこう語った。「その中でコメの支援もあった。明らかにならない段階でそのような援助協力が効果があったのか。」
翌20日、小泉首相は同日収録のテレビ番組(フジテレビ系「報道2001」)で、
①人道問題で黙って見ていていい場合と、そうでない場合がある。
②人道援助にはコメだけでなく災害もあり、国際社会や赤十字などと相談する
ーーと指摘。世界食糧計画(WFP)などの要請があれば、国際社会と連携して北朝鮮にコメ支援など人道援助を実施することを検討する意向を示した。(日経新聞2002年9月21日朝刊1面)
19日の小泉首相の記者会見の内容が、いかに欺瞞に満ちたものであったか。
小泉首相と田中均局長と「死亡年月日入りリスト」のしがらみが、どれほど深いものであったか。
日本語には、小泉首相と「売国官僚」田中均局長の関係を、まことに言い得て妙な表現があった。
それは・・・・・”同じ穴のムジナ”。
<Ⅳ>やがてかなしき
「小泉訪朝」直後に、「死亡年月日入りリスト」をめぐってあれほど渦巻いていた拉致被害者家族による政府・外務省批判は、いまやまったく反転して、帰国した生存拉致被害者5人をはじめ、口を開けばそろって「政府を信頼して待ちます」との言葉が飛び出してくる。
外務省自身が最終的に、「政府として関係者の安否を確認していたわけではありません」と明言した死亡したとされる8人の拉致被害者の真実の安否は、その後どうなったのであろうか?
日本政府にとって、彼ら8人は、未だ生存している日本人なのであろうか、死亡した日本人なのであろうか?それとも、見捨てられた日本人なのであろうか?
1月26日、訪朝して孫にあたるめぐみさんの娘に会いたいという拉致被害者の「家族会」会長・横田滋さんの切なる希望は、「今、訪朝しても、めぐみさんが死亡したとの北朝鮮の演出を見せられるだけで、マイナス面が多い」という事務局長・蓮池透氏の声に押し切られ、全員一致で否決されてしまったようだ。
昨年12月19日、帰国した生存拉致被害者5人は、そろって胸の「金日成バッジ」を外してみせた。
その報道を聞いた私の方が、北朝鮮に残された彼らの子供たちや夫に悪影響がなければいいが・・・と胸を締めつけられる思いをした。
事務局長の蓮池透氏は、「5人がバッジを外して北朝鮮公民ではないと意思表示した以上、北朝鮮は即座に家族を帰さなくてはならない」とよく意味のわからないことを語っていたが、そういう行為は、「北朝鮮に利用されて」北に残された子供たちに悪影響があるようなことはないのであろうか?
それよりなにより、日本政府自身が死亡を確認していない「死亡したとされる8人」の安否について、拉致被害者の「家族会」は、どのように考えているのであろうか?横田滋さんの訪朝の思いも、まさにそこから発しているのである。
政府と外務省を信じて、いつまでも待ちますーーということなのであろうか?
「小泉訪朝」四つの無視の三番目は、「帰国した拉致被害者5人の北に残された家族」に対する無視である。
「広辞苑」で、”おもしろい”という言葉の意味を引くと、一般的に使われる「愉快である。楽しい」という意味のほか、「心をひかれるさまである。興趣がある」という意味もあることがわかる。
江戸元禄の俳人、松尾芭蕉の句、「おもしろうてやがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」は、始まりの「おもしろうて」が、あとに続く「かなしき」と共鳴することにより、興趣に満ちた”鵜飼い”を面白がって見ているうちに、何とも言えない哀しさが湧き起こってきた心の移ろいを描写して、芭蕉の最高傑作の一つとまで言われている。
北朝鮮による日本人拉致事件には、当初、心から興味を惹かれた。拉致され二十数年間を独裁者国家・北朝鮮で過ごした被害者の方々と、その間、団結して子供たちの帰る日を待ち続けたご両親・兄弟の方々の気持ちを考えると、どうにもやるせない思いがして、ただ関係者の方々の今後の幸せを祈るばかりであった。
小泉首相と田中均局長による「死亡年月日入りリスト」隠しには、拉致被害者家族の皆さんと同じ気持ちで大きな憤りを感じた。
曽我ひとみさんをはじめとする帰国された生存拉致被害者の方々の子供や夫を思う気持ちを想像すると、あまりの悲惨な運命の悪戯に慰めの言葉もない気持ちになった。
しかしいつの間にか、あれほど政府・外務省を非難し不信感を抱いていたはずの拉致被害者家族の皆さんが、コロッと反転して、口に出る言葉が「政府を信頼しています」となってしまったとき、私だけが取り残されたような思いがした。
私は、「死亡年月日入りリスト」で垣間見た小泉首相と田中均局長の売国的裏切り行為は、日本人の一人として、絶対に許すことはできない。
5人の拉致被害者と「家族会」の皆さんが、今後再び日本政府・外務省によって裏切られ傷つくようなことのないよう、今はただ私は、祈るばかりである。
もちろん、「小泉訪朝」四つの無視の最後は、「小泉首相は何しに北朝鮮へ行ったんだ」に対する無視である。
おもしろうてやがてかなしき日本かな
☆2003年2月1日☆記
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2002年9月17日。午前11時からの初の日朝首脳会談を前にして10時過ぎから、田中均局長と北朝鮮の馬・チョルス局長との間で首脳会談前の事務レベル協議が行われ、協議終了後の10時半、北朝鮮側の通訳から日本側通訳を介して田中均局長のもとに、ハングルで書かれた拉致被害者安否リストが手渡された。
だが、この死亡年月日入りの安否リストは何故か「非公式リスト」として葬られ、死亡年月日の入らない「公式リスト」と差し替えられてしまった。
この差し替えが、北朝鮮側金正日総書記の意向でなされたと推測される理由は、皆無である。
もし北朝鮮側が、死亡年月日を伏せて拉致被害者の死亡を日本側に伝えたとしたら、日本側はその死亡情報を素直に受け入れたであろうか?
だから北朝鮮側は、死亡年月日入りの安否リストを当初から日本側に手渡した。
いったん日本側に提示した死亡年月日入りリストを、彼ら自身の意向で死亡年月日の入らないリストに差し替える如何なる理由が北朝鮮側にあり得ようか?
となるとこの差し替えは、日本側が北朝鮮に依頼してなされたに違いない。
何のために…となるが、その理由は、その後の死亡を伝えられた拉致被害者家族の渦巻く怒りが明確に示唆している。
前掲した「非公式リスト」を、今一度ご参照戴けるであろうか。
続けて記載のある有本恵子さんと石岡亨さんが、「同日に」亡くなっている。しかも有本さんは28歳、石岡さんは31歳の若さである。
生年月日と死亡年月日は西暦洋数字で表示されているのであるから、否応なしにリストを見た者の目に入るのが常識というものではなかろうか?
このような重大な意味を持つ情報が、田中均局長から小泉首相に即座に伝えられないということも考え難いことである。
まして北朝鮮側が提出してきた死亡年月日入りリストを、死亡年月日の入らないリストに差し替えさせるなどということが、小泉首相の了承なしに田中均局長の一存で決められるはずもない。
もし日本側が、死亡年月日入りリストを非公式なものとし、死亡年月日の入らないリストを「公式リスト」とするよう北朝鮮側に働きかけたのが事実であったなら、これは日本の対北朝鮮外交の大変な汚点であり重荷となるものと言わざるを得ない。
北朝鮮がこの事実を暴露したら、日本側の政治的混乱は如何ばかりであろうか!
「小泉訪朝」から1年8ヵ月が経過した2004年5月21日、日帰りの「小泉再訪朝」が強行された。
ある(外務省)幹部は、「再訪朝は外交的にはあり得ない。拉致という犯罪を犯した国に、二度も行くなんて…」と疑問を投げかけた。
この再訪朝に先立っては、小泉首相の腹心・飯島勲首相政務秘書官が、「北朝鮮へ25万トンのコメ支援実施で最終調整」と報道した日本テレビに対し、情報源を明かさなければ首相訪朝への同行取材を拒否すると恫喝した、との報道が流れた。
結論として小泉首相は、拉致を指示したテロリスト国家の親玉のもとへ、身代金代わりのコメ支援を土産に拉致被害者家族の身請けに参上したということだ。
日本にとって、実に屈辱的な外交となった。
この裏側に、死亡年月日入りリストを差し替えるよう北朝鮮側に依頼した小泉首相の弱みを金正日総書記に握られた構図が透けて見えはしないか?
2月4日から北京で開催された日朝政府間対話も、予想通り北朝鮮が自己主張を繰り返すのみの結果で、7日に閉幕した。
横田めぐみさんの遺骨が偽者であると日本側のDNA鑑定で明白にもかかわらず、相も変わらずホンモノだと主張する北朝鮮側の理不尽も突けない、日本政府側の弱腰が目立つ内容であった。
「小泉訪朝」における死亡年月日入り所謂「非公式リスト」に関わる疑惑は、軽々に無視されたり忘れ去られたりしてよい問題ではない。
これは「小泉首相の本性」をよく表した問題であるにとどまらず、日朝外交史上の重大なる汚点で日本にとって今後長く尾を引く重荷となる問題であり、小泉首相はその責任を問われなければならない。
オワリ