哲学者か道化師 -A philosopher / A clown-

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冲方丁『スプライトシュピーゲル1 Batterfly&Dragonfly&Honeybee』

2007-08-15 | ライトノベル
スプライトシュピーゲル 1 (1)
冲方 丁
富士見書房

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「ご奉仕しますわよーーっ!!」=鳳/アゲハ)
「ドキドキするっしょーーっ!!」=乙/ツバメ)
「ボクをいじめないでーーっ!!」=雛/ヒビナ

 冲方丁の、初めてのキャラクター小説らしい小説『スプライトシュピーゲル1』。正直、この小説については何から語って(ツッコんで)いいかわからん。とりありず「スプライトシュピーゲル(Sprite Spigel)」は、「妖精の物語」とルビを振ってあるが、直訳するなら「妖精の鏡」となる。しかも「sprite」は英語で「spigel」はドイツ語だし。

 時は、今から10年後くらい。かつてウィーンと呼ばれた、国連の中枢機関のある都市ミリオポリスは数々のテロの組織に襲われていた。それに対抗するのは、過去に手足を失ったため、戦うための機械の手足と羽、そして「働く権利」を与えられたMSSの3人の少女兵器たちだった。

 まあ、まずキャラクターから。冲方丁といえば、小説書いたり、ゲームの脚本書いたり、アニメの脚本書いたり、マンガの原作書いたり、ライトノベルの描き方を書いたり、いろんなところで発言したりといろんなことをやっているが、やっぱりこれまでの一番大きな仕事は『マルドゥック・スクランブル』と『マルドゥック・ヴェロシティ』のシリーズだと思う。まあ、この二つも同じ設定で同じ登場人物が出ているのだが、文体や雰囲気などの特徴からかなり違う小説ではあるのだが。そんな冲方丁が実質はじめて書いたキャラクター小説、つまり萌えキャラっぽい小説が『スプライトシュピーゲル』だと思う。やたら味の嗜好が特殊だったり、口調が特殊だったり、格好が萌えっぽかったり、萌えっぽい。こういうのを冲方氏はパロディ的にやっている気がするのだが、微妙にこなれない。いちおう冲方氏の作品のフォローをしてきて、『マルドゥック』なんかスゲーと思ってきた身からすると、なんでこんな馬脚を表すような小説を書かなきゃいけないのか、と思う。例えば、ヒロインの行動を「貴い」とか形容しちゃうと、僕はちょっと引く。下手に「キャラクター」を書いてしまったせいで、その辺のキャラクター小説家にも劣りかねない欠点を背負ってしまっているような気がするのだ。

 あとがきを読む限り、冲方氏のスタンスは「物語至上主義」とでも呼べそうだ。しかし、「物語」という言葉自体、結構ツッコみどころはあるし(たとえば、文学的には、物語の限界はだいぶ明らかになっている)、いくところまで行けば、ハリウッド流の脚本術にしかならない。言ってみれば、物語に作者性みたいなものを刻印することができなくなっている。実際にというか、作中では毎回神話のエピソードが引用されていて、それを下敷きに物語が作られているのだが、結局何千年前からある物語の焼き直しに過ぎないじゃん、というツッコみはありうると思う。

 次に文体。このライトノベルの文体は「/」とか「=」とかいう記号を多用した(ジェイムズ・エルロイ風らしい)文体で、一見読みにくいが、実は、ものすごく読みやすい。この文体のおかげで、「である」とか「だ」とか一部の助詞とかが省略されていて、実にテンポよく読める。作者的には、これは情報が複雑になった未来の物語を描くために必要だったそうだが、曲者だ。一見、新しいすごいことをやっているように見えるが、その実かなりオーソドックスな文体、つまり体言止めの連発に過ぎない。『マルドゥック・ヴェロシティ』のときに感じた、日本語をぶっ壊してしまんじゃないかというラディカルさを、発明者自身がスポイルさせている気がするのである。
 あとSFとか社会像の設定にもツッコみどころがあるけど、まあ仕方のないところだろう。日本語の名前名乗るだけで、社会保障充実って、どんな天国だ。

 というわけで、『スプライトシュピーゲル』は面白いには面白いであるが、才気に溢れた作者が「アクセル全開猛ダッシュ! ただし、1速オンリーレース」みたいな、妙な空回り感を覚えされるライトノベルだ。それに色を添えているのは、なんといってもはいむらきよたかさんのイラスト。『ユメミルクスリ』のときは、水彩画みたいな面白いけど余りインパクトのない絵だなと思っていたら、線がはっきりしたり彩りを豊かにしたせいか、なかなか良い感じになっていると思う。あとは、冲方氏の雑学はすごい。
 ちなみにこのシリーズは、角川スニーカー文庫の『オイレンシュピーゲル』シリーズとリンクしていくそうなので、これからそちらも読みレビューする予定。この同じ物語を二つの視点から語るというのも、作者的には新しい試みだとしているようだけど、僕のもっとも好きなライトノベルの一つ、秋田禎信『エンジェルハウリング』が何年も先にこれをやっており、かなりの成功(商業的な成功ではないが)をしている。

 最後に、一応自己フォローしておくと、上記のレビューは言いがかりじゃないかという意見もあろうと思う。僕も三分の一くらいはそうかもしれないと思う。でも、何かこの小説には「困ったちゃん」的なところがあり、そのことくらいは割りと広く同意してもらえるんじゃないかと思う。僕はその「困ったちゃん」を上記のように、解釈したというわけだ。しかし、東浩紀先生も『GEET STATE』はいいけど(読んでないが)、冲方丁先生とは、どっかで対談して、一緒に仕事をすべきだとは思うんだよなあ。まさか『マルドゥック・スクランブル』を読んでいないはずがないし。まあ僕も東先生の『批評主義』と冲方先生の『物語主義』はかなりお互いを食い合うんじゃないかと思うし、実際食い合う姿を見てみたいのだが。

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