俳諧畸人録◇荒木田守武《壱》
荒木田守武は伊勢内宮の神官なり 和歌連歌を好んで一時に名あり
ある日連歌興行の席に臨みしに 皆法体の人々なれば
○御座敷を見れば何れもかみな月
宗祇傍らに在りて
○ひとり霎(しぐれ)のふり烏帽子着て
と付けられしはことに興ありてぞ見えける
かつて童子教戒のために一夜百首を詠ず 一首ごとに世の中の二字を押す
これを《世中百首》といふ また国人尊重して《伊勢論語》とも称せり
かつ俳諧の鼻祖なり
○元日や神代の事も思はるゝ
○撫子や夏野の原の落し種
その調高尚 人の及ばざる所 また独吟千句をなす その巻頭に
○飛梅や軽々敷くも神の春
今その篇を読むに不易の什多し 宜シク之ヲ味フベシ
後来望一 園女等の名家を出すも この人をもつて勢陽の棟梁とす
真に尊むべし 世に
○散る花を南無阿弥陀仏とゆふべ哉
の句を辞世なりと為すものは非なること 晋子すでに弁ぜり
天文十八年八月卒す 辞世の歌
越しかたもまた行末も神路山峰の松風峰の松風
発句
○朝顔に今日は見ゆらんわが世かな
(俳家奇人談)
世中百首=歌中に「世の中」の文字を入れた教訓和歌集。
「世中の親に孝ある人はたゞ何につけてもたのもしきかな」に始まる102首。
実質は狂歌と呼んでよいもので、序文、解説、挿絵を入れた
《世中百首絵鈔》《教訓世中百首》も出版された。
独吟千句=《守武千句》を指す。別名《飛梅千句》とも。
荒木田守武(あらきだもりたけ 文明5年-天文18年:1473-1549)は室町時代後期の伊勢内宮神官。連歌師、俳諧師でもあった。上記の《世中百首(よのなかひゃくしゅ)》《守武千句》のほか《俳諧独吟百韻》《秋津洲千句》などを遺す。連歌興行の余興として詠み捨てられていた俳諧を独立したジャンルとして定着させ、山崎宗鑑とともに始祖と見做される。
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○青柳の眉かく岸の額かな
柳眉というくらいで柳と眉は縁が深い。その柳が風にゆれ、岸辺に眉を描いているようだという。眉ていどだから微風だろう。水辺の清々しい春の光景。
○落花枝にかへると見れば胡蝶かな
わざとらしいという評もあるようだ。枝から落ちた花がまた枝にもどっていくように見えたが、それは蝶が舞ったのだったよ。見たことがないと嘘っぽいと思うが、一度見れば納得する。
○絵合せは十二の骨の扇かな
骨というから檜扇ではないのかも知れない。いずれにしても貴族の遊びであり、こういう題材の選び方が宗鑑の猥雑・守武の高尚という評価を生んでいる理由のひとつなのだろう。
○錦かとあまめに細き小萩かな
「あまめ」は「雨目」か。萩の花が雨の経糸(たていと)に織り込まれていると見た。
○からかさやたゞゑかゞみのけさの雪
絵鑑(えかがみ)は絵の鑑定に用いる古画帖を指す。雪の朝、唐傘を差して行き交う人々が画帖にあるような冬の光景に見えたのである。ただ竹の骨に油紙を張った差しがさが一般化したのは江戸時代、日本にそれをもたらしたのは安土桃山時代の呂宋助左衛門といわれているので、守武のいう「からかさ」はわたしたちの知るそれとは異なっているかもしれない。