カモメのジョナサン

夢うつつ、うわごとを綴る・・・

戸板直と三吉徹-① 

2008年08月07日 | 白鳥湾物語

戸板直と三吉徹-①

車中の戸板は見慣れた風景をぼんやりと眺めていた。
彼の性格と資質は祖父の遺伝と、女だけの家族の中で育った環境によって形成された。
短歌を好む祖父は当時としては珍しい風流人で、応募した詠進歌がて選出され宮中歌会始に招かれたという。北海道の厳しい生活環境に立ち向かうには風流すぎた。

浮世離れした父親(祖父)からは質実剛健な子(父親)が育ち、船乗りとなり一家を支えた。
父親が遠洋航海で不在勝ちな環境(祖母、母、姉、妹の女4人)の中で育ち、
戸板直は誰にでも好かれる彼のおおらかな性格が育まれていった。

祖父の血を引いた気が多い彼が結婚した相手はしっかりした女だった。
現役時代、夫の持病である飽き性がもたらす苦難に妻は耐え抜いた。
年月は流れ、今では妻の手のひらで踊る孫悟空になっていた。


白鳥大橋ー③

2008年07月22日 | 白鳥湾物語
白鳥大橋ー③

老人達が青春を過ごした清風高校は、噴火湾に突き出した半島の中心部から緩やかな坂の中腹にあった。
戦前女学校だった古い木造校舎の廊下は暗く、階段の段板は磨り減り,
うっかりすると足を滑らすほどのボロ校舎であった。
そんな環境でも道南地方で有数な進学校にはユニークで多様な個性の学生が集まって来た。

高校3年夏、運動部や文化部の各種大会が終わり、多くの生徒は本格的に進学めざし勉強に集中する中、危機感の薄い彼らは「類は友を呼ぶ」の諺通り、群れ集っていた。

白鳥大橋をわたる車の中に白河、大端、戸板がいた。
白河の妻は20数年前子供を置いて失踪。
今は娘達もそれぞれ結婚し夫の勤務先の都合などから故郷を離れていた。
一人暮らしの彼は孫の成長を生きがいに、時折札幌まで通っていたが、孫の成長とともにお爺さんの役割も薄れ、家に引きこもる日々が続いていた。

大端は札幌でサラリーマン生活を最後まで勤め上げたが、糖尿病など不養生から白河と似たような運命をたどっていた。一人暮らしは3年になり合併症はさらに進行していた。

白鳥大橋 ②

2008年07月15日 | 白鳥湾物語

白鳥大橋 ②

 老人たちが離れようとしている室蘭市はかって港と鉄の生産で栄えたていた。
彼等が青春を過ごした昭和40年代には人口は18万人を越え、道南地方の中心都市であった。

船が頻繁に出入りし、盛り場の浜町、海岸町界隈は不夜城のごとく賑わっていた。
昭和50年代に入り、重厚長大産業構造の転換にあわせるように,
徐々に鉄の町は人口減少が始まり、白鳥大橋が完成しても平成19年には10万人を切った。

半島のほぼ中央の区画整理された地区に小型ヨットをイメージしたこじんまりした円形の室蘭駅から10分ほど車を走らせると白鳥大橋ふもとに着く。
昔海水浴場だった祝津の砂浜は埋め立てられ、展示休憩施設「みたら」やマリンパ-ク、ヨットハ-バ-、パークゴルフ、健康ランドなどが徐々に整いはじめていた。

大橋を渡り始めると、左手に日本石油の貯蔵タンクと赤と白に塗り分けられた巨大な煙突をみながらわたりきると、国道37号線に合流する。

噴火湾沿いのほぼ一直線の国道を20分も走ると伊達市中心部に入る。
伊達市周辺は北海道の湘南地方と言われるほど温暖な豊かな土地であった。

国道を右折し内陸部に入ると、まもなく左手に数十年の周期を持って噴火を繰返す昭和新山が眼に飛び込んでくる。
洞爺湖方面と分かれる分岐点を右折しさらに内陸部向かう。

オロフレ峠への入り口を過ぎてまもなく長流川(オサル)のせせらぎの淵に点在する
静かな盤珪温泉湯治郷の入り口に達するのだった。

湯治場の湯に浸って男は静かに彼らの到着を待っていた。

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1・白鳥大橋

2008年07月13日 | 白鳥湾物語

白鳥湾物語  

白鳥大橋①

2008年の初秋、絵鞆半島から老人たちを乗せたバスが白鳥大橋にさしかかった。
老人達の深い皺を刻んだ頬は陽を受けほんのりと茜色に染まっていた。
この季節になると、空気が澄み遠く蝦夷富士や有珠山の白煙もはっきりと眼に飛び込んでくる。
白鳥湾の入口を南北に架かる白い大橋は、繊細優美な姿を波静かな入り江に写しゆれていた。

橋の北側右手には原生林を切り開いた小高い丘がある。無名作家の遺作を収蔵した白鳥美術館が建設される予定地だ。インターネット回線で世界中と

つながった納骨堂があり、中央広場からそびえる200mの塔は半島側から見ると裾の長い室蘭岳を背に白鳥が飛び立つ姿を連想させた。
国内は及ばず海外からも既成の宗教を持たない人。葬送の自由や、永代供養を希望する人。
メモリアルパ-ク「白鳥の塔」を発案した清水遙や、物語に登場する人達の多くもいずれも、この幻の塔に納まるはずであった。

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白鳥湾物語

2008年07月07日 | 白鳥湾物語
さて、太陽も西に傾き、空も茜色に染まってきた。
そろそろ白鳥湾物語を話し始めようか・・・


生命の神秘

2008年06月28日 | 丸山ワクチン

カモメの私は不老鳥だから「がん」にはならないが、
人間は一生の間に半分は「がん」にかかるらしい。

生命機能は複雑過ぎて、決定的な治療方法は確立されないのだ。

空を飛んで下界を見ていると、「がん治療」に苦しむ多くの人がいる。
多くの患者を治療している「外科医のつぶやき」を聞いた・・・・

人の身体は宇宙と同じで、数十億の細胞からなり、それぞれが分化して機能し、密接に細胞同士が反応していると考えられます。
脳の機能、免疫機能など複雑すぎて、血液検査の数値化されたような単純なもので表現することは、まず無理があるのだと思います。

人生に関する考えを10字で答えなさい、という問いと同じくらい雑な評価かも知れません。

採血で肝機能や白血球やリンパ球の数値を見ても何も変化がありませんが、神経障害や血糖の変動、また強い信念と行動力の人の気力が低下した事を考えると、数値で表現できない免疫力の機能が化学療法で低下した可能性が強いです。

数値化すると旨く表現できたような錯覚に陥りますが、
どんなに科学が進んでも数値化できない変数として人体は行動する、

あたかも量子力学が電子の位置を特定できず、
存在部位を確率でしか言えないのと似ている気がします。


今回色々な情報を頂いて、確信出来たことは、
今の化学療法薬の未熟さというか、人体にとってかなりの毒性を持っていてストレス源となり、血糖の変動という形で警告してくれたことです。

詳しい情報とその分析をして頂いたことにより、方向転換が出来たことで良かったと思います。
このようなことは、教科書にも文献にも化学療法解説にも書いてありません。

学会も化学療法薬剤メーカーも化学療法を振興するばかりで、謙虚な解析、分析を怠っているようです・・・」

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「丸山ワクチンの臨床経験より」-⑨

2008年06月19日 | 丸山ワクチン

■がんにかかった医者 患者として死を実感 
竹中 文良 日本赤十字看護大学客員教授

人生の晩年は真夜中のドライブのようなもの

私自身、55歳でがんが分かってショックでした。
切る側ではなく、切られる側にまわることで、初めて死が目の前に迫ってきた。
そして、手当たり次第に本を読み、死のことについて考えるようになったのです。
日本人は、人間はいずれ死ぬという基本的なカルチャーを忘れていると思うんですね。

本当の人生の意味や人生の長さを真剣に考えるというより、
今、楽しいことが大事にされてきた。
楽しいことが続いてほしいと思うから、死について考えない。

また、昔よりも生活が豊かになって病院で死ぬ人が多くなり、子供のころから人が死ぬのを見なくなった。
死が現実の生活から遠ざかったことも原因でしょう。
そうして、いつまででも生きられるという感覚に陥ってしまっている。

しかし、それはまったく違います。
私のように70歳を超えると、周囲に亡くなる人が増え、死を実感せざるをえません。
しかし若いときからもっと死を実感して生きてきたら、より充実した人生を送れたのではないかと思います。

 ただ、がんであっても希望を持って生きることは大切なことです。
私は、最初の大腸がんから20年目の昨年、肝臓がんにかかりました。
かなり落ち込み、当初は手術せずにあきらめて、自然の成り行きに任せようと思いました。

しかし、がんを患ったことで得たものも大きかった。
NPOを発足させ、がん患者のサポート活動を進めてきました。
そう考えると、生きられる限り活動を続けようと。
闘病の意欲もわき、最終的に手術を受けました。

人はいつかは死ぬし、覚悟を持つことを求められる。
しかしそのこととがん患者が希望を持って人生を生きることは矛盾しません。

人生の晩年は真夜中のドライブのようなもの。
ヘッドライトが照らす道が見えるところまで、明るく元気にい
きましょう。

「自立と共生」http://www.tetsuaki.net/
丸山ワクチン http://www.tetsuaki.net/maruyama.html


国際宇宙ステーション 船外作...

2008年06月19日 | 地球物語
国際宇宙ステーション・JAXA/1J/A MISSION STS-123 船外作業20



「丸山ワクチンの臨床経験より」-⑧

2008年06月18日 | 丸山ワクチン

■がんにかかった医者 患者として死を実感 
竹中 文良 日本赤十字看護大学客員教授

命の限界受け入れる--1

ベストセラー『医者が癌(がん)にかかったとき』の作者、竹中文良さんが最初のがんにかかったのは55歳でした。
以来、医師と患者両方の立場で生と死に向きあい、その体験が著作やNPO活動の源にもなってきました。
現在76歳。がん患者として、医師として、竹中さんが考える「死の受容」と「希望」について聞きました。(聞き手 柳原一哉)

 私たちのNPOでは、がん患者のためのセカンドオピニオン相談を専門医が行っています。
最近、相談に訪れた65歳の方は肺がんで治療を受けていましたが、どうも状態が良くない。
相談では、「どうやったら助かるのか」「どうすれば生きながらえるか」と盛んに尋ねてこられます。
そこで、死を受け止める気持ちがあるかを尋ねたところ、
「先生の年齢になれば、その気持ちを固められるかもしれない」と話されました。
45歳のがん患者さんも、同様のことを言いましたら、
「50代か60代になればあきらめがつくかもしれない」と。

「欲張り」ではありません。
生きたいという当然の意欲。それがなければ闘病はできません。
しかし、申し上げなければならないのは、
人間の生には限りがあり、それをいつかは受け入れなければならないということです。

「死の受容」は大切なテーマです。
アメリカでは病気を闘い抜くことがすばらしいといわれている。
昔は、日本でも医者たちががんで死ぬのは負けだ、敗北だと表現してきました。
私もそうでした。

ですが、ヨーロッパではもっと死の受容が大切にされています。
どういうことかというと、人間いつかは死なないといけないということなんです。
ほかの人は80歳まで生きるのに、自分だけが急に早くなることもあるかもしれない。
不条理なものです。

死を受け止められるだけのカルチャー、教養を若いころから身につけなければいけないという教育が行われています。

ドイツ人のアルフォンス・デーケン上智大名誉教授が
「死への準備教育」の必要性を繰り返し訴えていらっしゃるのも同じ理由だと思います。
日本は、アメリカに近い。
医者が良くて薬が良ければ、どんながんでも治るかのように思われている。
がんになってもがんばらないほうがいい、というんじゃない。
でも、人間ですから、最期がくる。

100年の人生でも宇宙からみればごく短時間。
それを腹におさめ、若いころから会得しておかないと、どんな状態になっても、いつまでもがんから治ろう、治ろうとしてしまう。
そのこと自体が苦痛になり、苦しみを増幅してしまうのではないでしょうか。


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「丸山ワクチンの臨床経験より」-⑦

2008年06月16日 | 丸山ワクチン

丸山ワクチン使用症例
竹中 文良 日本赤十字看護大学客員教授

(5)私自身のがん体験と抗がん剤について

その1つは、大腸がんにならない食事療法は何かということ。
もう1つは、手術のあとで医師からもらう抗がん剤というのはどのくらい効くのかという2つの質問が出たのです。

それに対して京都府立の教授と北里の教授がそれぞれ大腸がんの専門家として出ておられたのですけれども、その方のお答えでは、最初に食事とか何かで大腸がんになるのを防ぐという方法は食事の選択ではほとんどないと。
かろうじて生活の中で多少有効だと思うのはウォーキング、歩くことだというのです。
これはどういうことかというと、歩くことによって腸の運動が亢進するし、便秘が改善されるしというような意味だろうと思うのですけれども、いずれにしろ、はっきりしたそういうものはないということが1つです。

 それからもう1つは、最近いろんな抗がん剤で、テレビなどを見ると、がんが再発しようと何しようと医師と薬がよければそれで治るようなことを言っておりますけれども、大腸がん術後の抗がん効果、手術した患者がクスリで再発を防ぐ確率は医学的な検討では6%だそうです。

100人それをやって、その抗がん剤のおかげで再発しなかったというのは6人しかいないということです。
つまり今でもその程度のことしか明らかにされておりません。そこが問題でして、それでは大腸がんのあとで医師たちは抗がん剤を使わないのかというと、やっぱり使っているのです。

それはたとえ100人のうち6人でもその抗がん剤を飲んでいたおかげで再発しなければ、その人たちにとってはよかったじゃないかということです。
だから何というか……どこまで効くんだというような、医師と薬さえよければ何でも効くんだということをあまり過信しない方がいいというふうに思っております。

 結局、私の丸山ワクチンに関する知識というのはその程度のもので、今でも私は患者さん自身が丸山ワクチンを使ってみたいとおっしゃる患者さんがいれば、積極的にそれを使うようにしております。 

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