無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

3.岩屋観音 1

2007年12月29日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
 武芸者は岩屋の中で、彫り上げた観音像を前に座禅を組んでいた。

 宝冠(ホウカン)を頭に乗せ、合掌しながら微笑んでいる五寸(約十五センチ)ばかりの小さな観音様だった。

 外から忍び込んで来る風で、時折、焚き火の火が揺れ、観音様の表情が変わるように感じられる。慈悲深い優しい表情が、怒りに燃えた表情へと変わった。

 武芸者は突然、右膝を立てて腰を浮かせると、気合と共に刀を抜いた。刀は鋭い音を立てて空を斬った。素早く、刀を納めると、また座禅に入った。

「何をそんなに考えていらっしゃるの」と誰かが言った。


 武芸者は目を開け、辺りを見回した。

 人がいるはずはない。気のせいじゃろうと、また、目を閉じた。

「ねえ、何をそんなに考えていらっしゃるの」とまた、女の声がした。

 武芸者は目を開け、回りを見るが誰もいない。首を傾げ、首の後ろを何度か叩いた。心を落ち着け、深く息を吸い、目を閉じようとした時、「わたくしよ」と木彫りの観音様が言った。

「独りで悩んでいても仕方ありませんよ」

 武芸者は観音様を睨みながら刀の柄(ツカ)に手をやった。

「ちょっと待ってください」と観音様は手を上げた。

 武芸者は刀の柄を握ったまま身を引いた。

 物の怪(ケ)にたぶらかされているのか‥‥‥

 武芸者の心を見抜いたかのように観音様は、「あなた、わたくしを妖怪かキツネか何かだと思っていらっしゃるのね」と言った。

 武芸者は頭を何度も振り、「えいっ!」と気合を入れて、目を閉じた。

 両手で印(イン)を結ぶと怨霊退治の真言(シンゴン)を何度も唱え続けた。

 観音様の声は消えた。焚き火の火が弾ける音と風の音が聞こえるだけだった。

 武芸者はそっと目を開けた。

 観音様は元の通りに合掌していた。

 武芸者は安心して溜め息をついた。

「悪霊(アクリョウ)ではございません」と観音様は両手を動かし、またしゃべった。

「わたくしは観世音菩薩(カンゼオンボサツ)でございます。しかも、あなたが作り出した観音様でございます。あなたがどう思おうと構いませんが、わたくしに悩みを話してみなさい。別に損するわけではないでしょう。それとも斬りますか」

 武芸者はゆっくりと刀を抜きながら腰を上げ、上段に構えると気合と共に振り下ろした。観音像の頭上、わずか紙一重の所で刀は止まった。

 物の怪は退散したはずだった。武芸者は静かに刀を納めた。観音様を手に取ってよく見たが、何の変化も見られなかった。武芸者は安心して、うなづいた。

「気が済みましたか」と観音様は武芸者の手の中で、笑いながら言った。

 武芸者は観音様を放り出すと腰を落とし、また、刀に手をやった。

 放り出された観音様は自力で立ち上がると、ピョンピョンと撥ねながら元の場所に戻って来た。

「そんなに怖い顔をしていないで、素直にわたくしを信じなさい。わたくしはあなたが作った観音様なのでございますよ」

 武芸者は恐る恐る観音様に近づいた。観音様はやさしく微笑んでいた。観音様の笑顔を見ているうちに、武芸者の心の中の猜疑心が徐々に薄れて行った。

「うむ。そうじゃな、信じるか」と刀から手を放すと観音様の前に座り込んだ。

「話してくれますか」と観音様は右手を差し出して言った。

「何を」と武芸者は観音様に顔を近づけて聞いた。

「あなたの悩み」

「わしの悩みか」

 武芸者は腕組みをして、少し考えてから話し始めた。

「実はの、人様の奥方に惚れちまってのう。それがいい女子(オナゴ)なんじゃ。寝ても覚めても、その女子の事が忘れられなくて、まいってるんじゃ。どうしたらいいもんかのう」

「あら、そうだったの。面白いお方ね。あなたが人様の奥方に惚れたのでございますか。そんなの簡単ではありませんか。その自慢の人斬り包丁で、御亭主を料理すれば片が付くでしょ」

 観音様は亭主を斬る真似をしてみせた。

「そうじゃな。やはり、それが一番いいか」と武芸者は納得した。

「あなた、昼間は毎日、棒振り踊りをしてらっしゃって、夜は座禅をしてらっしゃるから、真面目な堅物(カタブツ)だと思っていたら、わりと面白いお方ではありませんか」

 観音様は両手を後ろに組んで武芸者を見上げた。

「それ程でもないぜ」と武芸者は口髭を撫でた。

「どうして、こんな山の中にいるのでございますか」

「世の中に飽きてのう。仙人にでもなろうかと思ってな」

「そんな年でもないでしょ。下界で人様の奥方と遊んでいらした方が面白いでしょうに」

「飽きたわ」

「この色男が、何を言ってらっしゃるの」

 武芸者は右手を伸ばして、そっと観音様をつかんだ。手触りはやはり、ただの木像だった。武芸者は観音様を手のひらの上に乗せ、顔の前に持って行った。

 観音様は笑いなから、「まあ、いいでしょう」と言った。

「あなたが言いたくないって言うのなら言わなくても結構でございます。それより、今夜は一緒にお酒でも飲みましょうよ」

「なに、酒を飲む?」

「お嫌いですか」

「嫌いじゃないが、ここには酒などない。しかも、観音さんよ、そなた、どうやって酒を飲むんじゃ」

「そんなの簡単でございます。この窮屈な木像から出ればいいのでございます。ちょっと待っていてくださいね」

 観音様が両手を上げると突然、焚き火の火が大きく揺れた。揺れながら火はだんだんと小さくなり、パッと消えると真っ暗になった。同時に、手のひらの上の観音様もなくなった。

 武芸者は暗闇の中、刀の柄を握り、じっと耳を澄ませた。

 しばらくして、再び、焚き火の火が付くと、焚き火の向こうに等身大の観音様が現れた。

 観音様は紫色の煙の中で微笑していた。後光を背に黄金色の宝冠をかぶり、宝石をちりばめた首飾りと腕輪を身につけ、キラキラと輝く着物をまとって、白銀(シロガネ)色の瓶子(ヘイジ)を抱えて微笑んでいた。

 やがて、紫色の煙が流れて消えると、「もう一度、わたくしの肝を試すおつもりでございますか」と観音様は言った。

 木像の時と同じ声だったが、玉のように美しい声に聞こえた。

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