無住心剣流・針ヶ谷夕雲

自分の剣術に疑問を持った針ヶ谷夕雲は山奥の岩屋に籠もって厳しい修行に励み、ついに剣禅一致の境地に達します。

5.お鶴という女

2007年12月31日 | 無住心剣流・針ヶ谷夕雲
「エーイ、ヤー」

 雪に覆われた山の中で、武芸者は立ち木を相手に木剣を打っていた。木剣が木を打つ音と武芸者の掛け声が静かな山々に響き渡った。

 立ち木は枯れ枝を伸ばし、武芸者の木剣と冬の寒さにじっと耐えている。武芸者が打っている立ち木だけが雪を被っていなかった。

 凍えるような寒さの中、武芸者は白い息を吐きながら、汗びっしょりになって修行を積んでいた。

 あの試合の後、武芸者は高崎の城下のはずれから赤城山(アカギヤマ)にやって来た。赤城山は新陰流の流祖、上泉伊勢守(カミイズミイセノカミ)が修行を積んだ山だと、師の小笠原源信斎(ゲンシンサイ)から聞いていたからだった。

 赤城山に登ったのは初めてだった。別に当てがあったわけではないが、偶然にも山中に修行に適した岩屋を発見した。近くには綺麗な渓流も流れ、打たれるのに丁度いい滝もある。絶好の修行場所と言えた。一体、誰がこんな所に岩屋を掘ったのかわからないが、もしかしたら、上泉伊勢守が百年近く前に、ここで修行したのかもしれないと思うと、飛び上がらんばかりの嬉しさだった。

 武芸者は春になるまで、ここに籠もる決心をし、下の村まで戻って食料を手に入れると厳しい修行を始めた。

 武芸者の一日は判で押したように決まっていた。朝、夜明けと共に目を覚まし、半ば凍りついている冷たい滝を浴び、木剣で新陰流の形(カタ)の稽古を何度もする。それから、朝飯を食べて、食後はしばらく、座禅。そして、木剣で立ち木を打ち、抜刀(バットウ、居合)をやり、また、新陰流の形稽古をして、日が暮れる前、滝に打たれて汗を流し、夕飯を食べる。夜は岩屋の中で、彫り物を彫るか座禅をしてから眠る。毎日、それの繰り返しだった。

 赤城山に籠もって、すでに一月余りが経っていた。しかし、武芸者の悩みは解決の糸口さえも見つからなかった。

 汗を拭こうと小川に近づいた時、ふと、川向こうの山道に女が立っているのが目に入った。雪山を背に黒っぽい着物を着て、樹木の間からこっちを見ている。見るからに垢(アカ)抜け、山の女ではなかった。

 女は武芸者が見ている事に気づくと丁寧に頭を下げた。

 武芸者も軽く頭を下げた。

 なぜ、こんな山奥にあんな女がいるんじゃろうと不思議に思ったが、あえて無視して、体の汗を拭いていた。

 そのうち、どこかに行くじゃろうと思っていたのに、以外にも、女は裾(スソ)をまくると川の中をこちら側に歩いて来た。

 長い髪を後ろに垂らし、暖かそうな打ち掛けを着ている。どう見ても、武家の女に違いない。年の頃は二十三、四か。年からいって人妻だろう。

 女は武芸者の側まで来ると、「ああ、冷たい」と笑いながら濡れた足を手拭いでこすった。手に持っていた駒下駄(コマゲタ)をはくと、「こんにちわ」と軽く頭を下げた。

 美しい女だった。こんな山奥にはふさわしくない女だった。

「はあ」と武芸者は軽く頭を下げた。

 久し振りに見る女、しかも、飛び切りの美女を目の前にして、武芸者は一瞬、ぼうっとなった。が、すぐに我を取り戻し、冷たい水で顔を洗った。

「随分、お強そうですね」と女は武芸者の後ろを行ったり来たりしながら言った。

「弱いから稽古をしておる」

 武芸者は冷静を装って、わざと、そっけなく言った。顔を拭き、体の汗を拭くと稽古着の前を合わせた。

「そんな事ありませんわ。わたしにはわかります。毎日、あなたを見ておりました」と女は武芸者の広い背中に言った。

「毎日、見ていたじゃと?」

 武芸者は振り返った。

 女は武芸者を見つめながら、うなづいた。「はい。遠くから見ておりました。ようやく、今日、決心をして、こうして参りました」

 女はしゃがみ、河原に置いてある木剣を拾うと不思議そうに柄(ツカ)を見つめた。木剣の柄に武芸者の握った跡がはっきりと残っていた。女はその跡をそおっと撫でた。

「そなたはこんな山奥で何をしているんじゃ」と武芸者は女の横に立つと聞いた。

 女は手にした木剣から目を上げ、武芸者を見上げた。

「わたしは、すぐ上にあるお寺におります」

 女は立ち上がり木剣を武芸者に渡した。

「お寺?」と武芸者は首をかしげた。

「はい」と女はうなづいた。

「こんな所に寺があったのか」

 武芸者は小川の向こうに目をやった。川向こうに細い道があり、山奥につながっているのは知っていたが、行った事はなかった。

「あの先、一町(チョウ)程(約百メートル)行った所にございます」と女は武芸者が見ている方を指さした。

 よく見ると樹木の間に雪をかぶった山門らしき屋根が見えた。

「ちょっと変わった和尚(オショウ)さんがおります」

「へえ‥‥その寺で何をしているんじゃ」

「夫の供養(クヨウ)でございます」

 武芸者は女の着物を見た。喪服(モフク)とも思える地味な着物だった。武芸者には女物の着物などわからなかったが、かなり高級な着物のように思えた。女は寒そうに打ち掛けの襟(エリ)を両手で合わせた。

「亡くなられたのか」

「誰かに斬られて殺されました」

 女は遠くの雲を眺めながら他人事のように言った。

「斬られた?」

 武芸者は女の横顔を見た。その顔には、悲しみによるやつれがわずかに感じられた。

「夫は剣術使いでした。試合をして負けてしまったのでございます」

「試合に負けて死んだのか‥‥」

「はい」と女は武芸者の方に振り向いた。

「でも、相手が誰だかわからないのです」

 女の目が微かに潤んでいた。武芸者は女の視線から目をそらし、小川の流れを見つめた。

「旅の途中で負けてしまったのです」

 女の声は弱々しかった。

「そうか‥‥」

 武芸者は女に慰めの言葉を掛けてやりたかったが、そんな気の利いた言葉は思い浮かばなかった。

「あの、お侍さん」と女は武芸者の方に一歩、近づくと武芸者を見上げ、「わたしを助けてくださいませんか」と言った。

「助けるとは?」

 武芸者が女の方を振り向くと、女はまた、しゃがみ込んだ。小石を拾うと川の中に放り投げた。長い黒髪が揺れた。

「夫の仇(カタキ)討ちです」と小さな声で女は言った。

 女の背中はか細く、寂しそうだった。

「相手がわからんのじゃろう」と武芸者は言ってから、そんな事を言わなければよかったと後悔した。

 女は立ち上がり武芸者を見つめると、「縁があれば、きっと出会えると思います」と力強い口調で言った。

「成程」と武芸者はうなづいた。

「その時は、わたしを助けて下さい。お願いいたします」

 女は必死の面持ちで武芸者を見つめていた。その真剣さに武芸者は打たれ、考える前に、「よかろう」と返事をしてしまった。が、すぐに、「縁があったらお助けしよう」と付け足した。

「助かりました。お侍さんが付いていてくださったら、もう百人力です」

 女は嬉しそうに笑った。無邪気な笑いだった。つい誘われて、武芸者も笑いたくなったのを必死にこらえて、「それでは失礼」と女に背を向けた。

「ちょっと、待ってください。わたしは鶴と申します。お侍さんのお名前は?」

「針ケ谷五郎右衛門と申す」

 武芸者はぶっきらぼうだった。

「はりがやごろうえもん、珍しいお名前ですね。また、ここに来てもよろしいでしょうか」

「ご勝手に」

 五郎右衛門は立ち木の側まで戻ると、また、立ち木を打ち始めた。

 木を打つ音が山々に響き渡った。

 お鶴という女はしばらく五郎右衛門を見ていたが、小川を渡って帰って行った。

 不思議な女じゃ‥‥と思いながら、五郎右衛門は山道を登って行くお鶴の後ろ姿を見送った。


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