これでお開き

体育会系俳人のつぶやき

ざつくりと潤びてゐたる春キャベツ

2013-02-28 20:32:02 | Weblog

  潤=ほと



やはり、短い時間で作りあげる俳句となってしまうと、
レトリックの一義( 実質を伴わない表現上だけの言葉)を用いてしまう癖は抜けない。
ま、Rンさんから受けた特訓の成果は今も生き続けている? ということなんだろう。
出来るだけ現実味のあるレトリックの実践を目指しているつもりなんだけど、……



  秋うらら他人が見てゐて木が抱けぬ  小池康生  『旧の渚』


「他人が見てゐて木が抱けぬ」は、まさに抒情の頂点、感動のフレーズなんだけど、
僕的には、季語「秋うらら」がとっても残念、優しすぎるよコイケッチ。
以前のこの場なら対案の季語を配して、ごちゃごちゃ理屈を付けて記してただろうけど、
方針変更を決定した? 今となっては、もう書かないよ。

梅が香を烟らす雨となりにけり

2013-02-27 17:11:57 | Weblog

    烟=けぶ



京都は朝方までで雨があがったけど、まさに春を呼ぶ雨だった。
10時過ぎからは季語を思い起こさせる暖かい日差しが帷子ノ辻駅を包んだ。



  さいごまであたまの味の目刺かな  小池康生  『旧の渚』


なるほど、と読み手が共感を覚えて「成功作」となるタイプの句。
僕も当然のごと、一読で「その通り!」と思った。

「さいごまであたまの味の目刺」までで、句は成立していて、
「かな」が利いていないとか、表現上の不満を言う人はいるだろうけど、
そこまで言うのはクレーマーのようなもので、発想の勝ちは歴然としている。

盆梅は時系列なり擦れちがふ

2013-02-24 20:02:13 | Weblog

滋賀県・長浜の盆梅展にひとりで訪れたことがある。
体育会系の僕にとって、違和感が先行したのをよく覚えている。



  はまぐりの幸せさうなものを選る  小池康生  『旧の渚』


僕の眼からすれば、コイケッチの優しさと甘さの限界に位置する一句。
失礼ながら、ぎりぎり堪えていて、評価は○って感じかな。


  きつかけはパセリが好きといふところ  

となると、僕的にはもう×の領域に入ってしまう。


コイケッチは、僕が結社を退会してから関西へ戻って来られたわけで、
僕との接点は、京都支部句会にゲスト参加された時とか、
こちらが東京方面の大会に出かけた際など数回しかないはずだ。

結社在籍時、コイケッチには「短期間に巧くなったな」という印象を持っていた程度で、
当時はこちらも句風転換中(?)だったので、あまり気にかけずにいた感じだった。
比較的短い期間で、第一句集を上木されたことはよいことだと思うし、
第二句集では大きなステップを感じさせてくれそうな予感がしている。

ゆるがせに闇夜の梅となりにけり

2013-02-23 21:27:31 | Weblog

俳句における詠嘆「かな」「けり」は今も決して否定しない。
今日の一句をたとえば、

  ゆるがせに闇夜の梅や○○○○○

として、句を重層化とすることも僕は由としているし、
掲句のように「なりにけり」と流す(?)ことも平気(?)である。

結社在籍中、「句風がばらばら」「一体どこへ進みたいの?」など、
同人時代の後半は皆様から酷評・お叱りばかりお受けしたが、
今はその酷評・お叱りも有り難かったと思えるようになった。

ありがとうございました。



  金魚より重たき水を掬ひけり  小池康生  『旧の渚』


『旧の渚』のなかで僕の一番好きな句である。
僕自身がこれまで作った俳句の中で一番好きな句(但し代表句ではない)も、
季語「金魚」の句であり(残念ながら結社誌には載らなかったけれど)、
発想的に類似点があるので(もちろん類句ではない!)、一読共感を覚えた。
ちなみに拙句は、

  ずぶ濡れの金魚を水に戻しけり  康司  

である。

拙句は醒めた眼で、あたかも達観したかにその金魚を詠んだ句であるが、
コイケッチの句には、まず実感、そして金魚、金魚鉢の水への慈しみが感じられるよね。
この第一句集『旧の渚』全体が作者コイケッチの優しい眼であふれている。
ただ、その優しい眼が甘く流れてしまった句も残念ながら見受けられた。
俳句はホント難しいよね。

そのへんの学生さんと春を酌む

2013-02-22 23:08:12 | Weblog

なんだかんだ言って、京都は今も学生の町である。
居酒屋のカウンターで隣り合う大学生と語り合うのは楽しい時間だ。



 その辺の木箱に座る麦の秋  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


出題詠「その」からの発想だったように僕は記憶している。
掲句に関しては、さすがという一句だと今も感心せざるを得ない。

荒っぽい詠み方だけど、姐さんの個性が発揮された一句だと思う。
『ショートノウズ・ガー』から最後に取り上げる一句ぐらい褒めなくちゃ。

褒めさせて戴いたついでに、今日の表題句は上五「その辺の」を拝借しました。

ういらうに外郎売にはるの雨

2013-02-21 22:48:06 | Weblog
 
辛党であるが、甘いものも大好きである。
外郎も好きだけど、今は某店のマカロン・ブラックかな。



  冬蝶のあるく瓦礫野かたんことん  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


結社誌発表時、「瓦礫野」は「羽曳野」であったかに記憶する。
更に、僕の記憶が正しければ「羽曳野」はセンセの添削であったかと思われる。
ご承知の通り「羽曳野」は大阪府南部・河内と呼ばれる地区に実在する都市である。
「羽曳野」=「羽を曳く野」が「冬蝶のあるく」との知的操作を感じさせるがゆえ、
「瓦礫野」と推敲されてのち、句集に収録されたものと推測するが、


  原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ  金子兜太  『少年』


がすでにあるので、この推敲はいかがだったのかと思えてならない。
東日本大震災で「原爆」→「原発」→「瓦礫」との連想も働いてしまうし、……

「羽曳野」のままだったら、字余り「かたんことん」も生きていたのにね。
「冬蝶のあるく羽曳野」までの好調子、そして「かたんことん」という字余りによる破綻。
知的操作とは一線を画したつもりの自分だが、決して知的操作を悪としているわけではない。


この場でずっと取り上げて来た彌榮浩樹『鶏』、中村堯子『ショートノウズ・ガー』だが、
両句集とも一緒に切磋琢磨して来た(?)僕にとってはいささか不満の残る句集だった。
ま、期待が大きい分の反動であって、日々上木されている句集群からは抜けているんだけど。

恋猫にしうとめをらぬ旅曇り

2013-02-20 19:41:31 | Weblog

僕にとって、「恋猫」という傍題で句を作る場合、
その「恋猫」は、ほぼ100%牝猫をイメージしている。
「猫の恋」は♂&♀、「恋猫」は♀というわけ。
唯一の例外として、<失恋の猫も引越荷物なり 康司>が存在する。



     男女の差ずんずん縮む海鼠かな  
     連雀やぐぐぐと拭ふ日本刀
             
                  中村堯子  『ショートノーズ・ガー』


この二句の評価は連雀の句が△、海鼠の句は×である。
オノマトペ「ずんずん」「ぐぐぐと」はスピード感抜群だけど、
単にそれだけで、僕個人的には「ムード」に映ってしまう。

確かに、下手な料理人が海鼠を調理すると固く縮ませてしまうけど、
それを社会風刺的フレーズ「男女の差」と繋げて詠むのはいかがなものか。

「ぐぐぐと拭ふ日本刀」は、「ずんずん縮む海鼠」と比べるとまだ共感のフレーズだけど、
それでも上五「連雀や」はどうなんだろう? 僕的には40点ぐらいの評価かな。

辛口、ごめん。 

湯上りのかゝる部屋まで猫の恋

2013-02-17 20:51:00 | Weblog

京の町中、野良猫は生き延び、野良犬は全く見かけなくなった。
その野良猫も鼠を追うには太り過ぎてしまい、
鼠を狙っているのは鼬という構図が出来上がっている。



  蛇泳ぐジャズより黒く快く  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


「黒く快く」は知的操作ではあるが、心地よい知的操作だと僕は思う。
ま、T子姐さんのスピード感が成功した方の一句ではないだろうか!?

種芋とかばんを肥やす詰め物と

2013-02-16 22:16:22 | Weblog

かばんフェチである。両親もそうだから遺伝なのだろう。
だが、ブランド志向ではなく、無名の社の安価で良き商品を求めている。
その探している場でも、内に詰め物をされて立派に展示されている商品ではなく、
その他大勢・平積みの商品のなかから選ぶというヒネクレぶりだ。   




  鳥渡る紙を鋏がわたりきり  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


僕が在籍していた頃の結社「G」における評価なら、
表現上の「渡る」「わたり」もあって、即き過ぎとされていたと思う。

結社を離れてみるとこのような句に惹かれる自分が存在する。
それが、真っ当なのか歳を取ったせいなのか、ま、自覚してはいるけどね。

ただ、例えば〈小鳥来る紙を鋏がわたりきり〉ではどうして駄目なのか、
僕はT子俳句の良き理解者(批判者でもあるが)だと自認しているけど、
何故だか良く分からない。分からないところが魅力でもあるんだけど、……


後朝や鳥の巣はまだやうなもの

2013-02-14 22:09:45 | Weblog

結社「G」在籍時代、結構多く「後朝(衣衣)」を用いた俳句を作ったけど、
結局、結社誌に載せていただいた句は一句あったかないかの記憶、
好きだけど使いこなせない言葉だった。やはり、いまだ実感不足なのかな?



  かたつむりコの字に進む民具館  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


ま、新味十分の発見の俳句、そして座五「民具館」もいいねぇ。
ただ、文句を言えば「かたつむり」にしては表現が速すぎる(スピード違反)。
「かたつむり」「コの字に進む」「民具館」の三要素は文句ないので、
もっと、ゆったりと詠んでいただけたらと僕には思える。

それを具体的に指摘することが、失礼に当たるのを承知であえて記せば、
「コの字に進む」をリフレインの「コの字コの字に」では駄目なのかということ。
ま、波長の違いといっていいのか、感覚の違いといっていいのか、
それとも、僕が俳句の現場から遠ざかっている故のズレなのか、自分ではよく分からない。
T子姐さんにとって、動詞「進む」が重要な要素であることは理解していても、……

指先がこべこべバレンタインデー

2013-02-13 21:04:35 | Weblog

関東のヤマト糊、関西のフエキ糊、
図工で使う糊といえば、デンプン糊が当たり前だった少年時代。
指が「こべこべに」なったあの感覚は今もよく覚えている。

「こべこべ」は京都(関西)ローカルのオノマトペだけど、
実感あると思わない? 思うでしょ!



  空つ風老いてじやらつく首飾り  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


上州名物「かかあ天下と空っ風」と絡めて読んでしまうと、
十中八九、T子姐さんから怒られることでしょう。

でも、一度でも知的操作に手を染めた者からすれば、
自然と思い付いてしまうから始末が悪いんだよね。
まして、T子姐さんは男勝りだし、……

春装に尿意便意といふ茶飯

2013-02-12 19:09:18 | Weblog

  茶飯=さはん


退会した今となっても「~とは」「~といふ」は捨てられない。
ま、結社「G」に入る前から、僕の得意パターンだったからね。



  二人出て扉のしまる蝶の昼  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


当たり前のことだけど、季語「蝶の昼」がぴったり。
上五が「一人出て」だと駄目なことはいわずもがな。

ただ、この表現でも僕には忙(せわ)しい。
僕的には、上五は「二人が出」とゆったり詠んで欲しいんだけど……

渡らひのさても麦踏むやうにかな

2013-02-10 19:25:40 | Weblog

以前にもこの場に記したような記憶があるんだけれど、
かつてG化同人会長だったK太さんや4Mの一だったRンさん、そして僕も、
俳句表現にあたっては十七音でも長すぎる、あえて余分な言葉を足す派だった。

一方で、T子姐さん、ダンディー、あえていえばKMも、
その発想を十七音により近づけるために、執拗に言葉を削ってゆくタイプだった。

前者を器用、後者を不器用と括ることには同意するけれど、
僕は自分自身を俳句作りにおいて器用だと思ったことは一度もない。
あえていえば、ダンディーほど不器用ではない(失礼)にしても、
T子姐さんやKMよりは遥かに不器用な存在だと認識している。



  初蝶来ランプひと拭きふた拭きめ  中村堯子  『ショートノウズ・ガー』


これ以上拭いてしまうと、このランプの歴史的な輝きは失せるのであろう。
当然のこと、ひと拭きの速度がゆったりとしていることは読み取れる。

季語「初蝶来」 ま、T子姐さんにしては真っ当な俳句。
さすがだけど、こんな句がこの句集には並んでいないんだよね。
僕的には、読み手に「忙(せわ)しさ」を感じさせる句がバッテン。
ま、波長が違うといえば違うんだろうね、やはり……

譬ふれば吉備真備がマスクして

2013-02-09 21:48:14 | Weblog

「銀化」2013年1月号〔銀化の森Ⅰ&Ⅱ〕より好きな三句

  枯原の盗難自転車のかをり   矢口 晃  

  こほろぎを銜へて猫の目の他人  早川 激

  木犀に降り籠められし男女かな  遠藤美由樹


僕自身G化調の内で育ち、一時はその真っ只中に居たわけで、
決してG化調自体を否定するわけではないんだけど、
そのラインのどの御句も過去の二番煎じに映ってしまうのは淋しい。

上記の三句は、もちろんG化調でなく新鮮に感じるが不満はある。
「かをり」「他人」「男女かな」がムードに流れている気がするのだ。

退会者が偉そうなことを言ってごめんなさい。

人肌は大地の温さ冬木立

2013-02-03 19:38:22 | Weblog

  海かくもひらたし林檎かじるとき  西原天気  『けむり』


ま、この感覚を肯えるかどうか?の一言。 僕は肯える!



体罰問題に関して、体育会系俳人を自称しているからには少しだけ。
指導者側からは90%以上が本人のためを思った温かい体罰なんだろうけど、
体罰を受けた本人、第三者の受け止め方はそうでない可能性も当然有り得る。
そこへ保護者、評論家的人物が絡んで来るからより誤解を生んでしまうのだ。
どこかで、二人の信頼関係を打ち壊すような情報が紛れ込む世の中なんだろう。

ま、僕たちの時代の古き良き?体育会・体育会系は消えてしまうんだろうな。
かの橋下徹氏や桑田真澄氏が発言していることは正論だと思うけど、
古き良き時代を知る僕には「きれいごと」を言っているように思えてならない。


  濃霧晴れ氷瀑といふきれいごと  寿司江