須貝英の『イングリッシュ商店』

箱庭円舞曲の俳優・須貝英が、徒然なるままに綴ります。

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2010年09月28日 | 今日の一人
どうも、須貝です。


台本を覚えていたらどうにも眠れなくなってしまって、書きます。


自分がいなくても大丈夫、ということの頼もしさを、最近よく考えます。

これは、全くネガティブな意味ではありません。もちろん僕がいなければ困る事態や困る人があるのです。俺なんかいなくたって、ということではありません。


今自分が置かれている環境、ということを考えた時に、自分の身の回りにいる人たちのことを思います。その人たちの周りにはそれぞれ、その人を中心とした人の繋がりがあって、その繋がりの形であるとかその繋がりを構成する人々だとか、どれも魅力的で、「あぁ、あの人はきっと大丈夫。あの人の周りにはあの人たちがいるから」と思うのです。例え自分がその輪の中にいなくても、その人は輝いているのです。

その上で、自分がその人を構成する輪の一員になった時、やはりその人は輝いていて、自分も自分が外から見て思うように、「あぁ、あの人は大丈夫。あの人の周りにはあの人たちがいるから」と思われているに違いないと、かなりの確信をもって思えるのです。

自分が関わる人の多くが、そうやって輝いているということの頼もしさ、自分がその人と関われていることの頼もしさを思うと、時々にやけてしまう。

その人の完璧の頼もしさを目の前にすると、人はげらげらと笑うと、太宰治は『富嶽百景』の中で言いました。それは、とても真なることだと僕は思うのです。だからその一節がとても好きです。


この半年、自分の中で何かが生まれつつある、変わりつつあるのを感じます。その正体は分かりません。ただの勘違いで、僕は何も変わっていないのかもしれません。しかしやはり、変わりつつあるのだと思います。それは、自分が今関わっている人たちの影響が少なからずある。良い連鎖が、巻き起こりつつあるのだと思います。


「俺がいなきゃダメだ」、「あいつには俺しかいない」、「私にとってあなたが全て」といった言葉の数々は、聞こえは美しいですが、健全ではないのだなと思います。同じく、「俺にはこれしかない」、「私はこれだけでいく」という思い切り方も、なかなか出来ぬことですし尊いことではありますが、やはり不健全なのではないでしょうか。

僕は演劇の道を深く濃くしていきたいと常に思っていますが、そう思えば思うほど結局、その道から離れていく自分がある。一つの道を極めようと思うと、結局全てに目が向いていく。それが自然で健全なのだと思います。劇場や稽古場や閉じた関係性の中に閉じこもって一心不乱に台詞を吐いても、僕が求める何ものかはどんどん遠くなっていってしまうような感覚があります。


逃げることが出来るというのは、恵まれているのかもしれません。狂気は閉じた輪の中で生まれるものだと思います。シャーロック・ホームズが「最も犯罪の温床となるのは家庭」だと何かで言っていましたが、なるほどと思った記憶があります。


僕にとって箱庭円舞曲という場が唯一ではない。箱庭円舞曲にとっても僕が唯一ではない。その関係性はシビアで良いと思っていましたが、それが最近では、シビアさではなくて純粋な強さなのではないかと思うようになりました。「いつ切られるか分からない」という不安ではなく、「俺の輪は限りなく広い」という自信に変わりました。


僕に他の場があるからと言って、箱庭が大事な場所であることに一切、一欠片の変わりもないのです。



いつか僕自身、僕自身の完璧の頼もしさを目の前に、げらげらと笑う時が来るのかもしれないと、ふと思いました。


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