巣倉哲徒の自死に関する雑録

死に関して雑多に集めたブログです。

「自死という生き方」をもっと読んで思ったこと

2010年07月17日 09時19分43秒 | 作品を参考にして
四回目か五回目の読破


引用

13p(解説)
『晴朗で健全で、平常心で決行される自死がありうる。
(略)
氏は、その証明を、現代における哲学者の仕事であると考えました。』
(私に合うように、余計なものを省いて引用)


21p(解説)
『(略)
身体そのものには自死はできない。
ゆえに、精神(脳)が、(略)自死を決定、決行しなくてはならない』
(同じく)


53p
『もともと明るくて陽気な人間が、非常にサバサバした気持ちで、平常心のまま、暗さの影も異常性も無く、
つまり人生を肯定したまま、しかも非常にわかりやすい理由によって、決行される自死行為がある』


101p
『今は悪くは無い。まあまあで、かなり良いとも言える。
がしかし、それは今までの良かった時を越えるものではない。同等かそれ以上でしかない。
今後も、同等かそれ以下でしかない。しかも、最悪なものがこれからやって来ることはほぼ間違いない。
かなり確率は高い。しかし、直ぐに死ねば、その最悪なことは避けることができる。
それは非常に有難い。そのための一瞬の苦痛など問題ではない』





以下、感想とか


16p
「人生を肯定するなら老いも肯定するべき」というなら、
病気や怪我も肯定するのだろうか
それは、自分でラインを引くしかない

病気を全く治さずに受け入れるなら、それは馬鹿だと言われる
では、自然死はどうか
それは、自分で決めるしかないんじゃないか
誰もが納得するラインなど無い

生を肯定するから自然死も肯定する、では事故死は肯定するか否か
生を肯定するから老いも肯定する、では老いを防ぐ努力はどれくらいするのか
老いを防ぐことが、老いを受け入れることなのか、
それとも、老いを防がないことが、老いを受け入れることなのか

簡単なことだと思う
認める人と認めない人の対立なんじゃなくて、
この人はこう考える、そこの人はこう、自分はこう、あの人はそう、
それぞれ違う
誰も同じじゃない



26p
「自死決行のつらさを軽減できるなら他のつらさも軽減できる」
それは同じじゃない
似てるけど、全然違うもの
代わりにがんばったりすることなんて出来ない

女性が、自分に振り向いてくれない男性に対して、
「あんな女を愛すのやめてよ!だったら私を愛して!出来るはずでしょ?」
って言うようなものじゃないだろうか

確かに、あなたにとっては同じものに見えるかもしれないけど、それは全然違うものだよ



26p
「みんなが同じように苦しむ。誰もが辿る道と思い定めて耐える」

そうやってみんなで赤信号を渡るのか
それじゃダメだ
自分で考えなければ



1章他
やっぱりどうしても、ソクラテスたちを疑うことが、良くないことに思える
本人がそう言ってるなら、どんなに怪しくても、納得行かなくても、疑いたくない
プラトンの創作かもしれないと疑うことは出来ても、
ソクラテスが冗談で言ったとか、真意は別に有るというのは、どうしても受け入れられない



51p
大きな違いを見つけた
普通は自殺者に対して「よっぽどの事情が有るか、病気の狂人か、変人かのどれか」だと思うそうだ
そこで、須原さんはそのどれでもないという
私は、その中で言うと、変人である
これは、大いに認める

事情が有るのと、病気であることは、つまり普通の人から見ても、理解できることだ
でも、変人であることは、理解が難しい

52pの分類で言うなら、私は
「五 哲学者などは、どうも一般人のうかがいしれない理由で自殺するようだ」にあてはまる


ここから少し溝が深まる
確かに私も、おおむね一緒だが、
「異常性も無く、非常にわかりやすい理由によって」というのは無理だ
私は普通の人とは違ってて、違うからこそ理由も理解されない
逆に言えば、普通の人は異常だから、異常じゃない私の理由を理解できないと言いかえても良い

須原さんは、普通の人が変わらないままでも、自死をすすめてると思われる
私は、普通の人が、普通から脱却できるなら、自死をすすめるかもしれない
普通の人が普通のままなら、すすめない

私と須原さんでは、普通の人がどういうものであるかという認識も、当然だが全く合ってないと思う
私が普通を見下してるからそうなるんだと思われる

いや、ちょっと違ったな
須原さんがすすめるのは、あくまで早期尊厳死みたいなもので、私のとは全然違う
だから、普通の人に向いても全くおかしくない
まず、多くの人がそれを選んでも全く困らない
でも私のほうは、多くの人が選ぶわけには いかない




[触発]137p
「死に全員が無責任だ」というところ
そこで思ったのは、生きることに対してもそうだなと

生きることに対しても死ぬことに対しても、周りの人間と本人は無責任に実行している
生きてる当人も、死に行く当人も、まるで他人事だ
生きてるのに忙しいから、もしくは死に行くのに忙しいから、責任を取る暇が無い

生きるうえでのいろんなこと、その全てに対して、責任を取るつもりが全くない
未来のこともどうでも良いと思ってるようにしか見えない

それもまた、考えないからそうなるんだと思う
考えてないのに責任を請け負うことが出来るわけがない



[触発]147pとか
自然死と人工死(自殺)は、逆だと言ってしまうことが出来る
病院に入院して命を長らえるのが人工死で、
自ら考え抜いた自然な時期に死ぬのが自然死だと言ってしまうことが出来る

別に言ってしまわなくて良いけど、
自然死は不自然で、自殺は自然だとすごく思う
もしくは、自然死とは、もっともっと自然でなければいけないと思う

病気を治すのが自然だとは思わない
自然であることよりも、生きることが大切だと思ったから、
自然に逆らって治したんじゃないんだろうか

自然に任せるというのは、時代や科学や常識や平均に合わせるという意味ではないはずだ
みんながそうしてるから自分もそうするというのを、自然とは呼ばない
就職するのが自然だとか、結婚するのが自然だと言ってしまったら、
それは自然という言葉の意味を間違えてるか、捻じ曲げてると思う

何にとって自然なのか
宇宙の法則的なものに対して自然に生きるとは、病気を治さないことではないか
自分に対して自然に生きるとは、考え抜いて決めることではないか
時代に対して自然に生きるとは、周りと同じことをすることではないか
どの自然を選ぶのか

私は、自分に対して自然に生きる
なんでもかんでも考えるのが自然で、おそろしく繊細なのが自然だ
童貞なのが自然で、ずっと一人で居るのが自然だ

誰もが、自然に生きてるんじゃないだろうか
ただ、何に対して自然なのかが違うだけじゃないか
本能に対して自然なら、強姦しても「何が悪いかわからない」と言うだろう
「だって自然じゃないか」と言うだろう




今になってだが、須原さんが家族に何も知らせなかった気持ちが完全にわかる
知らせなくて良いのだ
それが一番マシな道だ



いろんな自殺者について調べてきたつもりだが、
「老いと衰え」を理由に死んだ老人なんていうのは、そういえば一人も知らない気がする
大抵は政治がらみの強制されたような自殺か、精神病かのどちらかだが、それはどうでも良いとして、
理由があっても、ほとんど突発だったりして、
特に、老人の自殺というのは例を知らない
天の赤木くらいなものか



私の文章は、死とセットではない
そこも違うところかな