第6節 自己嫌悪と自己軽蔑
続いてホーナイは、こうした他者理想化と、罪悪感をおさえたうえで、第3節でみてきた自己理想化が、「自己嫌悪self-hate」と表裏一体であると分析している(ibid.,p110= p.136)。「理想化された自己」に近づくためには、今ある「現実の自己」の存在は邪魔なだけなのであり、神経症者は、理想化の過程で自尊心を抱くと同時に、それ故に、理想化の達成を阻害する「現実の自己」へ嫌悪感を覚えるのである。ホーナイはこの状況を以下のように簡潔に述べている。「今ある経験的自己は敵意ある余所者にみえる。理想化された自己は、この余所者に憎悪と侮蔑の念を向けるのである。今ある現実の自己は、こうして自尊心をともなった理想化された自己の生贄になってしまう」(ibid.,= p.138)。
ホーナイはこの表裏一体の現象を、「自尊心のシステム the pride system」と名づけ、分析を続けている。システムの中で神経症者は現実の自己を嫌悪し続けるわけであるが、その「自己嫌悪self-hate」という事実が、そこに「冷酷で残虐な戦闘cruel and murderous battle」が行われている証であるとホーナイは指摘する(ibid.,p114= p.141)。戦闘は「理想化された自己」と「現実の自己」との間で戦われ、「理想化された自己」がその戦闘に常時勝利する。それは前述したように、疎外によってつけられた傷を癒すためには「現実の自己」が勝利しては不都合だからである。
なおかつ、神経症者の中に存在している「理想化された自己」は破壊的な憎悪を持つが故に恐ろしく強いのである。どのような憎悪か。それは、「理想化された自己」に反する「現実の自己」が存在しているがために産出される憎悪である。「理想化された」自己は、「現実の自己」を憎悪する。「なりたい私」と「今ある私」の間に立ちはだかる巨大な差異と矛盾に対して、憎しみを抱く。ホーナイは、そうした憎悪に対して「現実の自己」は全く「無力helpless」であると記している。なぜならば、「現実の自己」も同様に「理想化された自己」を現実化することを「望む」ためである。
しかしながら、「理想化された自己」が「現実の自己」にたいして抱く「激怒rage」は、最終的には「無力impotence」であるということも忘れてはならないとホーナイが指摘する(ibid.,p114= p.142)。たとえどれほど自己を嫌悪し憎悪しようとも、今生きてくために、「理想化された自己」は「現実の自己」に「依存」しなければならないからである。
こうした自己嫌悪は、先に記した「べき」の専制とも結びついていることがここで判明する。つまり、自己へ向けられる様々な過剰要求に応じきれないと認識するやいなや、神経症者の内部に自己嫌悪が噴出するのである。「ある意味で自己嫌悪のすべての形式は、満たされなかった<べき>からの制裁である」とホーナイは記している(ibid.,= p.154)。しかしながら、こうした自己嫌悪は意識の領域にまで浮上してくることは決してない。自己嫌悪はしかし、あくまで無意識的な過程なのであるということを彼女は記している 。
続いてホーナイは、自己嫌悪が「自己軽蔑self-contempt」として表現されるという点を取り上げている(ibid.,p110= p.136)。彼女自身はこの言葉を「自信をなくす様々な方法を総称するもの」として取り上げている(ibid.,= p.166)。たとえばそれは自己へ対する疑念や不信、嘲りなどがそれである。ホーナイは、こうした自己軽蔑がもたらす顕著な結果がおおまかに三つ存在すると述べている。
自己軽蔑がもたらすホーナイが記した第一の結果は、神経症者が人間関係において「傷つきやすく vulnerability」なること、そして同時に世界に対する「不信感」を強化することである(ibid.,p134= p.169)。自己軽蔑があるが故に、神経症者は他者の拒絶にひどく敏感になるとされている。彼は自己軽蔑のために自分に対する根深い「不信感profound uncertainty」を強化しているのである(ibid.,p134= p.170)。ホーナイいわく、「彼はあるがままの己自身を受け入れることができない。だから、他人は自分の欠点を十分承知の上でよい面を認めて友だちとして受け入れているのだということが彼にはどうしても理解できない」のだという(ibid.,= p.170)。こうした自己軽蔑は、彼自身と対人関係に侵食し、ひいては他者からの好意も額面通りに受けとることを不可能にする。褒め言葉が皮肉に聞こえ、同情が憐れみであると感じるようになる。先にも記したが、自己軽蔑は神経症の過程において必ず「投射」される。ホーナイによれば、神経症者は確かに自己軽蔑によって苦しんでいる。しかしながら、彼にとって自分が自分を軽蔑しているという事実よりも、他者が自分を軽蔑しているほうが苦しみはより少ないため、結果として必然的に「投射」が起こるのである。
第二の結果は、他者の非難を過度に受容する態度に現れる。神経症者は他者から侮辱されたりだまされたりしても、そのことを自覚することさえしない事実をホーナイは指摘している。「その要因の中で本質的なのは、自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間だという確信をいだく故に無防備な状態にさせられていることであるessential among the factors producing it is the defenselessness produced by the person’s conviction that he does not deserve any better treatment」と彼女は言う(ibid.,p136 = p.172)。彼の受容は、彼の防衛の表現なのである。
ここで、筆者はこのホーナイの考察を補足したいと考える。ここまでの議論は、「愛されない」という経験内容を考えると、確かに起こりうることであるし、下手をすれば必然ですらあるかもしれない。「自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間だという確信をいだく」ことは、確かに彼が無防備であることの因として適当なものであると筆者も同様に考える。しかし、本研究においては、神経症者の主観にまで切り込んで考察することを目的の一つとしている。彼の側から見た時に、彼自身の、ある種劣等感とも感じ取れるその確信は、果たして無防備さの要因である、という考察にだけとどまってよいのだろうか。つまり、その確信は、神経症者にとっての何らかの順機能を有してはいないだろうか、との問題をここで筆者は提起したいのである。その機能の中身を、以下に詳述しよう。
筆者が考えるに、確かに「愛されなかった」経験は、彼自身の中に以上のような確信をもたらすであろう。さらに噛み砕いて表現すれば、「自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間」なのではないか、という言葉はすなわち、「自分はもしかしてだれにも愛されない人間なのではないか」という言葉に変換することができる。こうした内面的な考察は、彼に凄まじいまでの不安と、悲しみと、そして情愛への神経症的要求を植え付けるであろう。
問題はここからである。注目していただきたいのはすなわち、こうした「自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間」なのではないかという言葉に対して、それが神経症者の確信convictionであると断定されている点である。自分が愛されない劣等な人間なのではないか、という不安を抱いた個人は、誰しもそうした苦痛から逃れたいと考えるであろう。筆者がここで主張したいことは、神経症者は、その苦痛のまさに解消のためにこそ、不安を、問いという形式ではなく、確信という強固なものに移行させるのではないのだろうか、という点である。彼は、自分が「愛される」よう、自己を理想化し、それを現実化しようとし、つまりは愛される「優等」な人間になるよう彼は努める一方で、しかしそれとは全く正反対に、自分は「愛されない人間である」という劣等であることを認めることにも同様に努めるのである 。「自分は愛されない人間である」と認め、確信することは、「自分は愛されない人間なのだろうか」という恐怖を拭ってくれるのである。実際にそうであるのなら、現実を認め、受け入れ、あるいは諦観すれば、もうこれ以上恐怖する必要はもうどこにもないではないか。つまり、こうした確信は、無防備感の原因であると同時に、神経症者が自ら望まざるを得ない、恐怖の麻痺剤として役立つのである。
そしてこの先にある第二の機能は、「敵意」の抑圧の箇所ですこし触れたことであるが、情愛に満ちた親和的関係を構築できている、という安心のレプリカを手に入れることができる、というものである。つまり、筆者がここで指摘したいことは、こうした劣等感が彼の抱く「敵意」を潤滑に抑圧することを手助けする機能を持っている、ということである。自分は愛されるに値しない劣等な人間であるのだから、敵意を表出する能力も、資格もないのだから、そうした感情も抱くことはできない、と自分に言い聞かせることを可能にするのである。結果として、神経症者は、特定の二人称を喪失することを回避する。もし抑圧がなされなかったらば、敵意は対象への攻撃として表現され、あわよくば神経症者の情愛対象をその対人関係の中から追放する結果を招くのだから。筆者がここで取り上げたい第二の機能は、劣等感は、敵意を抑圧する結果であると同時に、原因として存在している。彼は敵意を抑圧するから自己を劣等として考えるのであり、そして自己を劣等であると考えるから、敵意を抑圧するのである。
本論に戻ろう。最後に、自己軽蔑がもたらす結果としてホーナイが挙げているのは、他者からの「愛」によって自己軽蔑を軽減・清算しようとする神経症者の欲求である。これに関しては、神経症概念におけるもっとも重要な点であるため、別に章を設けてそこで論述することとする。
また、自己嫌悪と自己軽蔑は、その背景に「自虐的衝動」を秘めているということをホーナイは指摘している(ibid., = p.187)。それは急性の場合もあれば慢性である場合もある。精神病とは異なり、神経症においては「軽度の自己破壊行動」がその主たるものであるため、たとえばそれは「爪を噛む、身体をひっかく、吹き出物を突っつく、髪を引き抜くなど、おもに『悪癖』とみなされることが多い」とされている(ibid., = p.189)。また、この種の衝動は無意識の領域にとどまっているために、それ自体として意識はされないが、たとえば車の運転、登山の際に無謀な行動をとったりするという軽率な行動、あるいは飲酒や薬物の使用により健康を損ねるなどといった行動として具体的に現象する。ホーナイによると、これらの自己破壊衝動は、深刻な場合には自殺企図としても観察されるケースが存在する。しかし原則として、「死に対する非現実的態度は、自殺を計画し本当に実行しようとする人よりは、むしろ自滅したいという衝動的感情を抱いたり未遂に終わる試みをする人に特徴的 an unrealistic attitude toward death is more characteristic for suicidal impulses of abortive attemps than for those which are planned and seriously tried」なのである(ibid.,p149 = p.190)。こうした諸特徴が、神経症の持つ深刻さを物語ってくれる。
第7節 自己消去的葛藤解決とは
さて、これまで神経症者が抱える凄まじい内的葛藤の内容に触れてきたわけであるが、そうした葛藤の解決策の一つとして、ホーナイは「自己消去的解決策 the self-affacing solution」を挙げている。それは、第1章で少し触れた「追従型」に顕著にみられるものである。この種の解決策を採用する神経症者は、「自分自身を他人に従属させ、他人に依存し、他人の機嫌をとろうとする傾向」を持っている(ibid.,= p.278)。彼は「無力さhelplessness」と「苦しみsuffering」を育み、「援助」と「保護」と「献身的な愛surrendering love」を切望する(ibid.,p215= p.278)。そのような神経症者は、正当性が自らに完全に担保された要求ですら、他者を「不当に利用しているかのように感じ」るとされる(ibid.,= p.279)。そうした他者に対して彼はひどく「無力helpless」 であり、そうした「無防備さdefenselessness」があるがゆえに、しばしば「彼を利用しようとしている人々」の「良いカモ」にされる(ibid.,= p.279)。服従という美徳を逆用して、その他者は彼を虐げる。
こうした彼の抱く根本的感情は、「私がしたいと思うことは何であれ傲慢なことだ Anything I want to do is arrogant」である(ibid.,p217= p. 280)。ゆえに、彼の行うすべての社会的行為は、彼自身のためにではなく、周囲の他者のために行われるのである。また、彼の中に「大きな敵意 much hostility」が生まれることもあるが、しかしながら彼がそれを表出することはないとホーナイは指摘する(ibid.,p219= p. 283)。彼は、「ある人間やある考えやある主義を嫌っていること」を主張できず、必要とあらばそれらと「闘うfight」ことができないのである(同)。「敵意」は無意識の領域に押しとどめられ、間接的な形でのみ表現される。
以上のような自己消去的解決策を簡潔に表現すると、次のようになる。ホーナイの言葉を引用しよう。
「自分自身のためとなると何をするにしても意欲をそがれてしまう一方で、彼は、他人のためとなれば自発的に何事も行うばかりか、献身、寛大、思いやり、理解、同情心、犠牲の究極的な体現者であるべきだという内的命令に従うのである。実際、彼の考えでは、愛と犠牲は緊密に結びついているのである。愛のためにはすべてを犠牲にすべきなのだ――愛とは犠牲である」(ibid.,= p285強調は原著者による)。
――それではなぜ、神経症者はこのような自己消去的解決策を選択するのだろうか。ホーナイはこのことについて、幼児期における彼の環境に注目している。
臨床の現場で、ホーナイは神経症者が幼児期において周囲の他者との葛藤を、彼らに接近するmoving toward themことで解決していたという事実を発見した(ibid.,p221= p. 287)。このような自己消去タイプにおいては、彼は「誰かの陰になって育ったgrew up under the shadow of somebody」のである(ibid.,p221-222= p.287強調は原著者による)。ホーナイは、たとえばそれは「賛美されている肉親」や、「美人の母親」や、「慈悲深いほどに専制的な父親 」や、「ひいきされている兄弟姉妹」などが該当するとしている (ibid., = p.287)。これは神経症者の精神状態を不安定にするものとして、マイナスに機能したものであったが、しかしながら彼が「ある種の愛情affection of a kind 」を得ることは可能であった(ibid.,p222= p.287)。つまり、「従順なる献身self-subordinating devotionという代償 」による愛情である(同)。そうした献身によって、神経症者は「敵意」を抱く。しかしながら、前述したように「敵意」は抑圧される。彼の中で「反抗したいという願望」と「愛情を受けたいという欲求」の闘争が起こったところで、勝利するのは常に後者であることをホーナイは指摘する(同)。
自己消去タイプの神経症者における「理想化された自己」像は、したがってあたかも聖人君主のようなそれになることが極めて多い。彼の「理想化された自己」像 は、「無私的」「善良」「寛大」「謙虚」「高徳」などといった「愛される性質」の混合物であることを、面接の現場でホーナイは見出している(ibid.,= p.288)。(以上Horney 1950¬=1998:286-288要約)
第8節 必要条件としての愛の不在
以上がホーナイにおける自己消去的解決法の内容である。神経症者は「愛されなかった」という決定的な経験により神経症を発症し、自己消去的解決を採用することを以上に見てきた。
さて、筆者がここで指摘したいことは、しかしその「愛されなかった」という経験が、必然的かつ絶対的に神経症を招くことはない、ということである。愛の不在は必要条件であって十分条件ではないと筆者は考える。
はじめに問題を整理しておこう。幼児期の対人関係を、――あくまで確率論的にだが――便宜的に以下の三種類に区分し、これまでのホーナイの考察よりその関係がもたらす結果を記してみたい。
一つは、ある個人がその成長過程において、情愛に満ちた対人関係のみを経験するというケースである。重要な他者に「愛されなかった」という致命的な経験をすることなく、平穏無事に生きることに成功した場合は、当然のことながら、これは発症必要条件すら満たしていないため、主体が神経症的パーソナリティの持ち主になるという可能性は絶無に等しいであろう。
次に、その真逆のケースを想定してみたい。すなわち、ある個人が相互情愛的対人関係を一切経験することのないケースである。「愛される」という経験を全く経験しなかったこの悲劇的な主体は、筆者が考えるに、神経症にすらならないであろうことが予想される。のちに詳述することであるが、神経症は「愛されなかった経験」といった、負の要素のみで構成される疾患ではない。「愛されない」という経験がある一方で、しかし反対に、情愛や希望や安心感なるものを経験することがなければ発症することはないのである。神経症者は、彼に課された葛藤に勝利すべく、彼の戦いを闘っているのである。ホーナイも、その姿を「戦闘」と表現しているが、その戦闘には、かつて経験した神経症的ではないものへの恋慕の情がその起爆力として必要不可欠なものなのである。もし個人がそうしたものを経験しなかったとしたならば、――別の診断名が下されるかもしれないが――少なくとも神経症を発症することは、ない。この点に関しての詳述は、第4章に譲ることとする。
そして最後に、ここが最大の問題点なのであるが、上記双方の対人関係を、並行して経験したケースを考えてみたい。つまり、相互情愛的対人関係を構築することに関して、成功と失敗を双方経験している、というケースである。大部分の神経症者が経験したであろうこのケースは、実に複雑な様相を呈するので、こと細かにみてゆこう。ここでは筆者は、成功と失敗を同じ対人関係の中で経験する場合と、ある対人関係では成功し、また別の対人関係では失敗する、という二つの場合を想定している。こうした場合、想定される結果は以下の二種類である。「愛されない」という経験によって構築された神経症的パーソナリティが、①継続する場合と、反対に②消去される場合である。
1)継続する場合
まずは前者のケースからみてゆこう。相互情愛的対人関係を経験することに成功したにも関わらず、なぜ神経症者は、神経症的パーソナリティを継続させるのだろうか。
その一つの理由として、筆者は、相互情愛的対人関係を拒絶することそのものが――逆説的ではあるが――自らが対象へ情愛を抱いている証、ひいては情愛対象への求愛になるということをここで取り上げたい。
まず、ホーナイが記した、彼の持つ「基本的不安」を思い出していただきたい。神経症者の持つ他者への敵意は、彼が「愛されたい」という欲求を持つが故に、外界に「投射」されるのであった。それはすなわち、「敵意」を抱いているのは自分ではなく、他者なのであるという錯覚を彼に持たせる。他者は情愛ではなく憎悪をこそ自分に対して抱いていると神経症者は考えるのであり、こうした事実から類推するに、彼は、自分の「愛されない」性質も含めて、誰かが自分を友人として受け入れてくれるということに対し不信感をあらわにするだろう。彼は愛されないという例外を、誤って自らの本質であると信じてしまった。ゆえに、自己消去的解決方法によって、運よくある他者からの情愛を手に入れることができたとしても、神経症者は彼の持つ基本的不安によってその情愛を拒絶せざるを得ないのである。
そして、ここで重要なのは、こうした誤認による拒絶が、別の重大な機能を有しているという点である。筆者はここで、ある他者からの情愛を拒絶することは、別の他者への確固たる情愛を抱いているという証明になる、という機能が存在していることを指摘したい。
つまり、「美人の母親」や、「慈悲深いほどに専制的な父親」の情愛を乞うが故に、その対象以外の人物から供給される情愛を拒絶するのである。拒絶は自己犠牲であり、犠牲は彼にとって「愛」と同義である――「愛とは犠牲である」という言葉を思い出していただきたい――ことをわれわれはこれまで見てきた。拒絶は求愛の表現なのである。
よって、別の他者からの情愛を拒絶することは、自分を愛することなく「虐げた」当の他者に対する情愛の証そのものでもあるのだ。構築された神経症的パーソナリティは、彼に別の他者からの情愛を受けることを拒否させる。
この拒絶は神経症というある種の「疾患」にとって、ひとつの「希望」であるかのように一見みえる。のちにみるように、神経症者は自己消去的葛藤解決策を採用するために、
自分には「力」があるのだという感覚を失っている。他者の望むように自分を変容させ、何事にも服従する姿勢を彼はとる。このことは、彼に「自分が無意味な存在であるという、あるいは自分がろくに存在もしていないという根深い感情である。どんな風にでもそよぐ葦になったような感情である」という感覚を根付かせる (Horney 1937=1973:252)。それは自分が自らの行為の源泉であるとい言う確信を剥奪するのである。
こうした背景があることを確認すると、他者からの情愛を拒絶するということは、確かにそうした「力」の感覚を回復する試みであるかのように見える。しかし、神経症に完全には巣食われていない証拠であるかのように一見みえる拒絶もまた、あくまで神経症構造の中に未だとどまっているのだ、ということを筆者はここで指摘したい。
拒絶は「力」の回復ではない。拒絶という行為の動機付けを行っているのは、神経症者その人ではなく、神経症者に情愛を供給する主体である他者である。行為の機動力となっているのは、己ではなく他者なのである。もちろん、冒頭でホーナイの考察を引用したように「他者に愛されたい」という動機を持つこと自体は問題ではない。そうではなく、「愛されたい」という欲求が、ホーナイのいう「真の自己」を「殺害」してしまうことが問題なのである。よって、「別の他者からの情愛を拒絶する」という、情愛対象その人が望むであろう自己を生産するために、もともとの「真の自己」が「殺害」されてしまうという点で、筆者は拒絶が「救い」や「希望」の類であるとい言う考察を否定するのである。一見「真の自己」の回復を試みる行為であるかにみえる拒絶も、しかし結局は神経症という構造に回収されているのだ。
同時に、拒絶がなされなくとも神経症的パーソナリティが継続するケースが存在することをここで記しておきたい。ここからはホーナイの分析に戻るが、神経症者は求愛が成功したという事実を「幸せ」に感じ、拒絶ではなくそれを受容するケースがあることを彼女は記している。確かに、疎外や無力感、敵意や屈従といった途方もない代償を支払った神経症者が、その求愛の成功を喜ぶことは想像に難くない。神経症者は、「愛されたい」という欲求と、「自分が愛されるはずはない」という確信の間を常に行き来していることを我々はこれまでにみてきた。そうした事実を鑑みると、「愛されたい」という欲求が強い神経症者の場合、情愛の受容が行われることも想定できるであろう。しかしながら、ホーナイは、こうした受容に関して肯定的な立場をとらない。その理由は、その受容が彼を神経症から解放させるどころか、むしろ神経症を強固なものにするからであると彼女は述べている。「強さと優しさとの両方を兼備した相手」や、「彼の神経症にうまく適合する・・・相手」に運よく巡り合えた場合には、神経症者の苦しみは軽減され、幸福も見出すことができるであろうとホーナイは述べる(Horney 1945=1981:45) 。しかし、と彼女は続けている。「一般には、彼がこの世の楽園を期待する愛情関係は、彼を一層深い不幸へ突き落すだけである。彼が相手との関係の中に自分の葛藤を持ち込み、それによって相手との関係を破壊するからである」(同)。自己消去型の人間が、その性質を最大限発揮するのは、いたわられ守られているという感覚によるものであり、したがって外的な変化に救いはなく、同じように彼は神経症をそこに持ち込むのだ、というのがホーナイの見解である。これは同様に、ホーナイが経験してきた治療の現場においても実際に起こっていた現実であった。その際にしなければならない臨床家の義務についてホーナイは詳しく書き残しているが、この点は非常に重要であるため、第5章として別に章を設け、考察してゆきたい。
2)消去される場合
以上が、神経症的パーソナリティが継続されるケースについての考察であった。次に、それが消去されるケースをみてゆきたい。
ホーナイが残した著書の中で、ごく僅かではあるが、神経症的パーソナリティが消去されるというケースが書き残されている。たとえある一人の重要な他者に愛されなかったとしても、別の他者に愛されることを経験したならば、彼は神経症者としての生を歩むことはないとされている。「たとえば、子供が幸いにも、愛情豊かな祖母とか、理解ある教師とか、よい友達などに恵まれていれば、これらの人々との体験のおかげで、子供は、すべての人間から悪いことばかり予期するまでにはいたらない」と彼女は述べ、そうした条件が揃えば、神経症の温床となる基本的不安は発生しないと記した(Horney 1937=1973: 74)。「愛される」という経験が、「愛されない」という経験を塗りつぶすことも、また一方では可能なのである。
こうしたホーナイの考察からわかることは、すなわち、「愛されなかった」という経験は、必要条件であって十分条件ではないということである。それは、治癒の可能性が確かに存在するという意味で、神経症の構造にある種の救いを見出すことのできるであると筆者は考える。
しかしながら、ここでさらなる問いが産出される。それでは、「愛される」経験を持つ個人が、神経症を継続させるか消失させるかの分岐点には、いったいどのような条件が存在しているのか、という問いである。
後者のケース、すなわち神経症的パーソナリティを、別の他者から愛されるという経験によって治癒させることに成功した個人は、前者の神経症者と同様に、自己消去的解決策を採用し実行していたはずである。
そうした解決策には、自己疎外という巨大な代償があったことを我々は既にみてきた。そこに犠牲がある以上、求愛の結果与えられたその情愛は、神経症者がかつて経験した神経症的パーソナリティを発動させる犠牲という代償を支払わないと手に入れることのできない、「ある種の愛情」と主観的には同質のもののはずである。こうした他者からの情愛は、偽の情愛という嫌疑を常にかけられてしかるべきもののはずではないのだろうか。なぜ彼らは、前者の神経症者のようにそれを拒絶、あるいは受け入れた上で神経症を継続するということを回避できたのであろうか。
ここで筆者は、ホーナイが挙げた「愛情豊かな祖母」、「理解ある教師」、「よい友達」といった人々をヒントに、彼らが、神経症者から見てどういった位置にいたのか、ということを考えてみたい(Horney 1937=1973: 74)。
神経症者は家庭や学校、職場など様々な準拠集団に所属しているわけであり、そのうちの一つの準拠集団が、神経症の温床となる場となっているはずである。ホーナイ自身は、家庭という場をそのマジョリティーとして考えていたのだが、ここで問題になるのは、たとえばこの家庭という集団の中に、前述した他者たちが存在していたかどうか、ということである。つまり、神経症者が所属している準拠集団が、閉鎖的であるかどうか、という問題である。場の閉鎖性は、神経症者に「何としてもここで愛されなければならない」という考えを執拗に根付かせるのではないかと筆者は考える。閉鎖的な集団の中では、神経症者は「孤立」せざるを得ず、外傷的な対人関係を構築することを余儀なくされるのではないか。
ここで取り扱われている種類の神経症の研究領域からははみでるが、かの有名な『心的外傷と回復』を記したJ・ハーマンの記述の中に、この「孤立」に関する重大な指摘が残されている。以下に引用しよう。
孤立している捕囚の人は仲間との絆をつくる機会がないので、ペアのきずなが被害者と加害者との間につくられてもふしぎではなく、この関係が「生き残りのための基本単位」のように感じられても不思議ではない。これが人質の場合に生じる「外傷的なきずな形成」であって、人質は誘拐犯を救済者とみて、本当の救済者たちを恐れ憎むようになる(Judith Lewis Herman Trauma and recovery 1992=1996: 140)。
神経症ではなく、PTSDの領域における記述であるが、ここで注目したいのは「孤立」というキーワードである。ハーマンが述べているように孤立こそが、「被害者 」、つまり神経症者と、「加害者」、つまり、「本当の暖かさと情愛genuine warmth and affection」を欠如した情愛対象との間に神経症的な対人関係を構築・継続させる最大の要因なのである。
ただし、ホーナイが取り扱ったクライエント達が、こうした閉鎖的な準拠集団に所属し、実際に「孤立」していたかどうかは不明である。彼女は、自身が残した研究論文の中でほとんど事例を取り扱うことをしてないためである。「事例資料を提示しなくても、私の主張の妥当性を確かめることは、専門家にも、一般の読者にも可能である。もし、読者が注意深い観察者であれば、私の仮説を自分自身の観察や経験に照らし合わせて、それに基づいて私の主張をしりぞけたり、受け入れたり、修正できたりするばずである」というのがホーナイのとるスタンスである (Horney 1937=1973: )。
故に、この「孤立」が神経症発症のために十分条件であるかどうかは、現段階では実証不可能であるため、今後の課題として引き取っておくこととする。
第9節 病的依存とは
こうした自己消去的解決策における神経症者の態度を、ホーナイは「病的依存morbid dependency」と記している(Horney 1950:239¬=1998:313)。どのような依存か。それは、対象と神経症者の関係が「分裂devide」させられた状態での「依存」であるとされる(同)。まずは神経症者が「病的依存」を選択するまでの過程をみてゆこう。ここで指摘されている「依存」の背景には、以下のような状況が存在している。
1)「無力さ」と「救い」としての他者
一つには、葛藤解決の行為主体は、自分ではなく他者である、という彼の主観をホーナイは取り上げている。「救い」の中身を詳述するため、今一度彼の採用する自己消去的解決策の内容を確認しておこう。この解決策は、今まで見てきたように、確かに彼をある意味で「救ってくれる」であろうが、しかしその解決策は、新たな危殆の構造の中へと彼を巻き込む。神経症者は愛されたいと望むが故に、強迫的に他者との衝突を回避しようとする。ホーナイはそうした神経症者の姿を「戦士fighter」たりえないと述べ、その「無防備さdefenselessness」は、他者から自分を守ることを不可能にするのと同時に、彼自身の自己軽蔑や自己嫌悪から自分を守ることをも不可能にしているのだ、と指摘する(ibid., p225= p.292)。
そういった二重の「無防備さ」を課せられた神経症者は、ではどのようにして自己を防衛するのだろうか。ホーナイはここで、彼が自身の「無力さhelplessness」をその防具として用いるという点を指摘する。彼女は自分の受け持つ患者の中で、自らの「無力さを強調すること」によって、「慈悲をこう」患者がいることを発見し、さらに彼が自己非難をも和らげることを観察したのであった(同)。無力ゆえの苦しみは、彼を「救う」のである。
しかしながら当然こういった防衛手段は最終的解決を彼にもたらすことはしない。愛を乞うがゆえに行われるさまざまな自己矮小化の過程が、無力による防衛もむなしく、彼を「深層において不安定insecure」にしてしまうとホーナイは記している(ibid., p225-226= p.293) 。そのため、彼は深く強い「安心感reassurance」をますます必要とし、自分が愛されているという感じを他者から与えてもらうことによって、「自らの内的な立場を強めてもらおう」と強迫的に他者を求める(同)。第二の防衛は、他者からの「愛」なのだ。ホーナイはそうした神経症者を観察し、そして断言している。「彼の救いは他者にある His salvation lies in others 」(ibid., p226= p.293強調は原著者による)。こうした背景があるために、彼の持つ他者志向性はしばしば「狂気じみた」ものになる。ゆえに、彼は、こうした対人関係に病的に依存することに存するのである。(以上、Horney 1950¬=1998:291-293要約)。
2)理想化された自己像による脱却阻害
次に、「理想化された自己」像による、病的依存からの脱却不可能性という背景に触れておこう。神経症者の情愛対象となる他者たちのなかに、その無防備な自己消去的解決策の姿を利用しようとする人間が存在することはすでに述べた。しかしどのような他者であれ、神経症者は彼の愛情を何としても獲得しなければならず、故に自分がいかにひどく扱われようとも、反逆することは決してない。これほどにまで「無防備な」人間は、誰かを搾取したいと考える他者にとっては、まさに「良いカモ」なのだ。実際に彼は「虐待を受けることが多く」、また同時に「虐待を受けていると感じること」があるのだが、しかしながらそれは文字通り「感じる」ことにとどまり、その対象関係からの脱却という「行為」にまで至ることは決して、ない(ibid., = p.295)。ホーナイはここで、その要因として彼の中にある「内的命令」を挙げている。つまり、先ほども少し触れたが彼が心服し続ける理想的自己が下す「内的命令」の一つに、「万人を愛すべきだ」といった「愛される」ための命令が存在しているのである(ibid., = p.70)。そうした命令のために、自己消去タイプの神経症者は、善であると彼が信じた他者へしがみつき続けるのである 。そのため、彼は常に「真の友情friendlinessと偽りの友情とを区別することができない」(ibid., p226= p. 294)。搾取されたところで、彼はその対人関係にしがみつき続けるしかないのである。
3)被虐待感と依存
また同時に、そうした破壊的な対人関係が彼に与える「被虐待感」が、彼にとっての「救い」として機能しているという背景がある。自己消去タイプの神経症者の持つ特徴を、ホーナイは端的に表現している。すなわち、「彼は愛情affectionを切望しながら、たいていの場合虐待されていると感じているfeels abused人である」ということだ(ibid., p230= p. 300)。虐待されているという感情は、第一に前述したような彼の「無防備さdefenselessness」に由来する。彼の「理想化された自己」へ近づこうとする努力が、彼から身を守るすべを奪い、彼に無防備感を与え、そして事実彼は無防備なのである。それと同時に、ホーナイは主張の非充足を原因の一つとして挙げている。神経症者の屈従の姿はそもそも情愛を乞う求愛の姿であった。「愛してほしい」という強大な権利主張を彼は抱いているのだが、しかしながらそうした主張が常に満たされるとは限らない。そうしたとき、彼はまず「虐待された」と感じる。しかしそうした認知の結果引き起こされるのは激怒ではなく、彼の持つ理想化された自己と内的命令により、自己憐憫に帰結するのである。そして何よりも、彼の持つ「自己軽蔑が外在化」されることが、被虐待感を強めることに寄与している。それは勿論、自己嫌悪から自分を守る防衛の手段に他ならない。彼は自分自身が犠牲者であると感じることで、自分を防衛していた。しかしながら虐待の主体が自己から他者へ移行するだけであるため、虐待されているという感じは軽減されるまでも消失することは決してないのである。
4)愛情希求と、防衛の手段としての痛み
犠牲者でありたいと願う欲求は非常に強固であるとホーナイは述べている。神経症者は誰かが自分を救おうとすると、それを全力で拒絶する。それは、残虐で恐ろしい世界の中で、永遠に苦しみ続ける誇り高い犠牲者なのだという彼の防衛手段を剥奪してしまうためである。苦しみが自己を防衛するという機能的側面を持つが故に、神経症者は被虐待感を「歓迎」することがしばしばある。それと同時に、虐待され苦しむことは彼の「敵意の表現」であり、直接的な表現として現象せずにすむのだとホーナイは指摘する。「見てごらん、あなたのおかげで私はこんな苦しい目にあっている」という神経症者の言葉が、その事実を端的に物語っているだろう(Horney 1937=1973: 240)。このようにして彼の攻撃性は隠蔽され、同時に「穏やかであれ」という内的命令に従うことが可能となる。そして虐待されることによって、彼は「正当な根拠に基づいて他人に対して敵意」を抱き、それを継続させることに成功するのである(Horney 1950¬=1998: 303)。こうした背景によってもまた、病的依存は継続されるのである。
5)「両価的」な態度
しかしながら、今まで見てきたようにホーナイの神経症論に一貫しているのは、神経症者が持っている神経症的諸特徴のすべてが、彼自身によって意識されることがない、という点であった。ここでも同様に、抱かれた敵意は意識の領域に浮上せず、彼自身によって自動的に抑圧される。そうした「敵意」は、ホーナイによれば「自分が誰からも愛されない人間だ」と彼に感じさせ、かつ彼の「理想化された自己」に矛盾するものだからである (ibid., = p.303) 。このような神経症者の態度は、他人に対する「奇妙な両価性ambivalence」として現象してくるとホーナイは分析する(ibid., p233= p. 304)。つまり、先にみたように彼の表面的な態度には、他者に対する「信頼」が優勢なのであるが、しかしその底には「怒り」が押し込められ、内的緊張を継続し、結果「両価的」な態度を形成するのである。
6)自己放棄の欲求
そして病的依存における最大のカギとなるのは、神経症者のもつ「自己放棄」の欲求、と抑圧された「敵意」である。この病的依存関係において、特に注意を惹くことは対峙した他者が健康的な相手ではない際に起こることである。それは「依存性の相手がゆっくりと苦痛を感じながら自己を破滅させる危険」に瀕するものであり、こうした「病的依存」の関係 は、「相手を誤って選択する」ことから始まるとホーナイは指摘する(ibid., = p.318)。病的依存関係において、その他者は神経症者よりも強く優れている印象を例外なく彼に与える。たとえばそれは「独立している」とか、「自足している」とか、「傲慢さや攻撃性」をひけらかすとか、「自分の優越性に対する不敵な確信を持っている」といった諸属性であったりする(ibid., = p.319)。今までみてきたように、こうした特徴は、自己消去タイプの神経症者には決して観察されえないものたちである。ホーナイはここで、それらの特徴が神経症者の欲求を肩代わりすると指摘する。すなわち、自分自身によって抑圧されたさまざまな自己拡張的性質を、目の前に対峙したその他者は持っているのであり、それゆえに神経症者はその他者を過大評価し、「とりこになる」(ibid., = p.318)。それらの特徴が、彼には手の届かないものであるからこそ、それに魅了されるのである。外在化された自己拡張的性質は、他者の中に発見され、神経症者によって賛美の対象となる。ホーナイはそうした病的依存を、以下のように端的に説明する。「高慢な人間を愛し、相手と同一化し、相手を通じて代理の人生を生きることによって、彼は人生を支配する力を自分で所有することなく、それにあずかることができるようになるのである」(ibid., = p. 320)。他者のもつ傲慢さと攻撃性に魅せられ、同時に「自己放棄」を欲求するが故に、彼はその他者と病的に依存し続ける。ホーナイは、彼女が扱った患者の言葉を記してその根本的感情を説明している。すなわち、「私を横柄さと高慢さから解放してくれた」、「彼が私を侮辱できるということは、私はただの何の変哲もない人間にすぎないのだ」そしてある患者は、「そのときだけ私は人を愛することができるonly then can I love」と述べている(ibid., p246= p.323) 。
こうしたところにも、神経症構造内部で産出され続ける悲劇の片鱗を見ることができると筆者は考える。つまり、上記のような彼らの言葉を深く考察すると、それはすなわち、彼らを愛してくれる人たちからの愛情を受容し、そしてその応答として、その他者たちを愛することができない、ということを意味しているからである。
第10節 他者を愛する神経症的条件とは
神経症者のこうした確信は、ますます苦しめるであろうと筆者は考える。つまり、たとえば犠牲や屈従を引き換えにすることなく他者から与えられた愛情に対して、神経症者は応答することができないからである。彼は確かに他者からの情愛を心から望んでいるのであるが、しかしながらこうした確信があるがために、他者からのそういった情愛を得た時にひどく狼狽するであろうと予想される。つまり、情愛を受けることによって発生する、彼が抱く防衛としての「私は愛されない人間である」という確信が揺るがされるからである。「私は愛される人間ではないのに」といった新たな劣等感、そしてその情愛を与えてくれた他者の期待へ背信するわけにはいかないといった背負いきれない重圧感を背負わせる。もちろんその期待は、他者が抱くであろうと神経症者が推測する期待であるわけだが、しかし彼は「愛とは犠牲である」と信じているがために、その他者がそういった期待を抱いてはいないのだ、という考えに至る能力を奪われている。そして何よりも、必死の思いで抑圧した自己肯定への欲求、つまり「自分は愛される人間である」という確信への欲求が、再び芽生えてくるが故の、それを抑えなければならない彼の焦燥感、それは彼にどれほどの痛みをもたらすのだろうか。
「そのときだけ私は人を愛することができるonly then can I love」と彼が述べているこの言葉は、この語感が与える以上に深刻なものであると筆者は考える。神経症者は、神経症的パーソナリティが発動しないところで獲得した、犠牲や屈従という代償のない愛情に対して、つまり、彼が心から望んでやまないこうした情愛に対して、――おそらくこれも無意識的なものであろう――悲劇的な喜びと、そして結果としての被虐感を抱くのである。
こうした神経症構造の外部から、神経症的ではない情愛を得たところで、彼がその構造の外に出てゆくことは不可能なのである。そうして彼は、その構造の中にとどまり続けるのである。ホーナイも同様に、病的依存関係の過程において、その依存の度合は徐々に高まってゆくと記している。神経症者はその他者を失うことだけを恐れているが故に、その他者と「関係のないもの」は無意味になり、「ほかの人間関係も無視される」とされている (ibid., = p.325)。
そして同時に、神経症者は必然的に相手を「理想化」することもホーナイは述べている。つまり、傲慢で攻撃的な他者との間にしか、彼は「合一感」を見出すことができないため、その他者は強い人間である「べき」であり、自分は服従する人間である「べき」なのである。他者を「理想化」したいという欲求と、「自己を放棄したい」と願う欲求が協力し合い、神経症者は自我を消し去」り、他者のことも、自分のことも、そしてそれ以外の人々のことも、すべてその他者の「目を通してみるようになってしまう」(ibid., = p.332)。病的依存関係からの逃避不可能性を形成している要因の一つがこれである、とホーナイは分析している。当然のことながら、こうした病的依存関係において神経症者がその対象から「愛」を得ることは決してない。ホーナイが出会った数々の患者によると、神経症者はこれまで「多大な投資をしてきた目標」をそうやすやすとあきらめることはできないのである(ibid., = p.333)。ゆえに、「投資」が結果として実らなかったとしても、彼はすぐに「希望を取り戻し、いつか彼は自分を愛してくれるようになるだろうという信念に――反証があるにも関わらず――すがりつくのである」とされている(同)。
以上のような背景で、神経症者は「病的依存」を作り出し、情愛対象と踊る悲劇的なダンスによってその構造を継続する。神経症者たちは、抑圧された自己拡張欲動を抱えて生きるため、そうした欲動を「肩代わり」してくれる人物を必要とする。それは彼にとって、自己防衛として機能してくれるためである。しかし、この自己防衛こそが、神経症の最大の悲劇であると筆者は考える。つまり、人を愛するための神経症的条件とは――患者の言葉にあったとおりで――自分が虐げられること、なのだ。神経症者が人を愛するのは、彼が対象から愛されていない時だけなのだ。愛されないという条件こそが彼が人を愛するための絶対的な条件なのであり、ゆえに彼は自分を愛そうとする人々を、侮蔑と懐疑の冷淡なまなざしで見つめるのである。これを悲劇といわずしてなんといおうか。
故に、神経症構造の中の対人関係は、常に外傷的なものにならざるを得ない。この構造から脱却する条件はいかなるものか。この問いは最終章で取り扱うこととする。