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Number43 - theorystudy

社会人五年生。日々の勉強ブログ。

第3章その2

2012-03-06 19:09:37 | 修士

第5節 神経症的闘争――破滅と連鎖
 それでは、彼はなぜ、どういった背景で他者を疎外するのだろうか。筆者はここで、「闘争」というキーワードに着目したい。神経症者の、闘争の姿とはいかなるものなのかを代節では描き出し、疎外の一つの要因として取り上げたい。
ホーナイの神経症研究の中に時々顔を見せるのが、「闘争」という単語である。彼女のいう闘争は、すなわち神経症者の闘争回避の姿である。敵意の抑圧の箇所から引用してみよう。

「敵意を抑圧するというのは、闘わねばならぬ時に、あるいは、少なくとも闘いたいと望む時に、何もかもうまくいっているからそんな必要はないのだと『思い込んで』、闘わぬことである。そこで、このような抑圧の当然の帰結として、自分が無防備だという感情が生まれる」(Horney 1937=1973: 51)。

 以上のように、ホーナイの神経症概念の中で、闘争という用語はそれを回避するという形で現象している。逃走としての闘争は、すなわち彼女の言葉を援用するならば「真の自己」からの逃走であろう。しかし、神経症者は別の闘争に立ち向かっていると筆者は考える。
 神経症が神経症として発症していることそのものに、彼の闘争の姿を見ることができる。彼は何と闘っているのだろうか?「敵」は大勢いるであろう。それは、過去に彼を愛さなかった他者であり、彼の現実の自己であり、ひいては神経症そのものである。戦う意志は、残されている。彼の症状は戦闘とその意思をわれわれに伝令するのだ。
 しかしながらその闘争の姿に救いがあるのと同時に、そこにこそ神経症の悲劇が根付いていると筆者は考える。思い出していただきたい。闘争の一つの結果として、他者疎外があったということを。
 神経症の構造の中で、情愛という名の嘘の中に、主体は誰でもない誰かになることによって、客体をも誰でもない誰かにする。彼は、他者たちとの対立や「闘争」、彼らに対する憎悪や敵意、そうした一切が滅びるに値するとしそれらをする。恋慕の情と愛の睦言のみを、彼は「表現」する。彼らは同時に消えうせるであろう。潜勢的に、その可能性自体において。しかし、そのような殺し合いが顕在化することはない。少なくとも解決すべき問題として浮上すること、は。それは彼らにとって自然死でもなく、また殺害でもないからである。戦争で他者を殺害することは罪とみなされない。
 神経症者が神経症者であることは、戦闘そのものが行われている証である。彼は彼の戦いを戦っているのである。――問題は、どのようにしてその戦いに勝利するか、ということである。その勝利の仕方を、ともすれば彼は「間違う」のである。闘争は救いでもあり悲劇でもある。
 それでは、その闘争はどのようにして帰結するのだろうか。節題に記した、破滅と連鎖について記してゆきたい。
神経症的闘争に彼は勝利しようと死に物狂いで様々な戦略を駆使し、それを勝ち取ろうとする。しかし、悲劇的なことに、彼にとっての究極的な、そして最終的解決としての勝利とは、「破滅」である。ホーナイは「周囲の状況次第」では彼の神経症的解決策は決定的に失敗し、最後の段階を迎えるということを指摘している。周囲にいる他者たちが、神経症的解決にとって「不都合な」場合、彼は「絶望」に追い込まれ、さまざまな症状を引き起こす。たとえばそれはパニックであったり、不眠症で会ったり、食思不振症(食欲の喪失)などであったりするが、そうした症状はいずれにせよ「あふれ出る敵意」によって特徴づけられる(Horney 1950¬=1998:306)。もちろん彼の身体は、つまり神経症である自己というものは、現実の自己と理想化された自己との媒体として中立性を保持しており、めったなことでは物理的攻撃の対象とはならないが、以上のような条件がそろってしまえば、「自殺する危険性は相当に高い」とされている (同)。「しきりに人を喜ばせようとしている優しすぎるtoo -soft人間」とはかけ離れた様相を、このような状況下では神経症者は見せるのである(ibid., p234= p.306)。しかし「破滅」は敗北ではない。神経症者にとってこのような破滅は魅力をもっているとホーナイは指摘する。それは、「すべての困難から抜け出す道」のように彼には思えるためである。敗北を受け入れ、すべての葛藤から自由になることなのである。彼にとって破滅は「究極的な勝利」として映るのだ 。――神経症の最暗部がまさにここに存在する。自己消去という悲劇は、繰り返し演じられることによって喜劇になる。破滅によって開幕する喜劇は、神経症者の身体までも消去することに成功する。
神経症的闘争は、他者の疎外を生産する。ここで筆者が次なる問いとして抱いているのは、そしてその疎外が生産するのは、すなわち次なる神経症ではないだろうか、という点である。神経症者にとって端的に不可能であるもの、それは人格を損なうことのない対象関係の構築であったし、そして愛loveはその名に他ならない。神経症者は愛されることがなかったが故に、人を愛することが「できない」。神経症の本質は愛の不在から生まれ、愛の不在を目指すことをわれわれはこれまでみてきた。
さて、そうした愛の不在とは何を意味したのであっただろうか。それは、神経症が発症する条件であったはずだ。――とするならば、他者疎外は次なる神経症者の出産を可能にしてしまうのである。
神経症構造の中に登場する他者のうち、攻撃的他者の場合は、神経症者が彼と対峙し関係することによって双方の神経症が強化される、ということをすでに筆者は述べた。故に、神経症者ではない人間が、神経症的パーソナリティを身につける、という過程を考察するため、ここでは主として非攻撃的他者に焦点を絞って論じてみたい。筆者が考えるに、彼は「追従型」かあるいは「攻撃型」の神経症者に変貌することが可能である。
第一に、非攻撃的他者の場合は、本論で取り扱った「追従型」の神経症者がたどったものと同じプロセスを踏むであろうと筆者は推測する。彼らの愛情は、矛盾という論理的形態をとっていたことをここで想起しておこう。神経症者は敵意が含まれた愛情という何とも両価的なそれを、非攻撃的他者に手渡していたことをここで思い出していただきたいのだ。そうした愛情はつまり、拒絶という名に置き換えることが可能であった。「あなたを愛していない」という本質をそれは有しているのであり、非攻撃的他者は神経症者から「愛されなかった」という経験をその身に受ける。愛の不在は、神経症の発動条件であった。その経験により、非攻撃的他者は神経症の構造へ誘われるのである。
第二に、彼は「攻撃型」の神経症者にもなりうる可能性があると筆者は考える。それはおそらく二つの形態をとるであろう。
まずは、ひとつ目の形態からみてゆきたい。非攻撃的他者が対峙している、目の前にいる自己消去的神経症者は、確かに一見「やさしい」人間であるかもしれない。しかしよくよく観察してみると、それは「やさしさ」によく似た「暴力」である。自己を疎外し、敵意を抑圧し、対象に屈従し、相手の望むように自己を変え、彼はそのことによって他者を拒絶する。拒絶は「あなたを愛さない」というメッセージを孕み、それはそれを受け取ったその他者に、痛みを与える。非攻撃的他者は、神経症者を愛そうと試みているのであり、それを表面的には「やさしく」みえる態度でもって、彼は拒絶されている。それはやさしい暴力である。神経症者の、非攻撃的他者に対する愛は、暴力として機能しうるのである。そして、暴力の有する機能の一つは、その暴力が向けられた他者の攻撃性を誘発することである。自己防衛としての攻撃性を。非攻撃的他者は、そうした愛情という名の暴力により、痛みを被る。その痛みから逃れるために、痛みを生産する原因を攻撃し、消去しようとするのであることをここで指摘しておきたい。第一の変容形態は、防衛としての攻撃性の発生である。
次に攻撃的他者に変容する第二の形態をみてみよう。非攻撃的他者の前に現れたその神経症者は、無力で無防備でひどく脆弱な存在であるように、その他者には見える。こうした無力さと無防備さ、そして脆弱さは、ある場合には庇護の対象にも容易になるだろうことは想像に難くない。しかし問題は、そういった対象にはならない場合である。つまり、ここで筆者が指摘したいことは、前述した無力さが、他者の攻撃性を誘発するのではないか、という問題である。神経症者を特徴づける「無力」さは、時として他者の「いいカモ」にされ、搾取の対象となる、ということはすでに述べたことであるが、問題は、もともとは存在していなかった、そういった嗜虐感を、神経症者が表面に表す脆弱さが発生させてしまう場合があるのではないか、という点である。もちろんこうした指摘は、「神経症者の苦しみや葛藤は、だから彼自身の責任なのである」ということを決して意味するわけではない。そのような意図は、絶対に、ない。そうした指摘は無意味であるどころか、神経症構造のさらなる強固に喜んで寄与するものですらあると筆者は考える。冒頭でほんの少しだけ記したことではあるが、共有していただきたいことは、筆者がここで立ち向かっているのが「神経症はなぜ」生み出されるのか、という問いではなく、「神経症はどのようにして」生み出されるのか、という問いなのだ、という認識なのである。つまり、筆者は原因を探しているのではなく、過程の解明を求めているのである。「なぜ」という問いは、ともすれば問われている構造を作り出している主体そのものを違える危険性があるからだ。ゆえに、この考察においても、神経症者の無防備さが、他者の攻撃性を誘発する可能性があるという指摘は、神経症構造の原因を、神経症者その人に帰するということを意味しては決してない。そうではなく、ここで筆者が明らかにしたいことは、他者に虐げられることによって、個人がやむなく選択せざるを得なかった神経症という防衛が、結果的には他者に対する攻撃として機能し、他者の中の攻撃性を誘発するという悲しい事実なのである。自身の生存を賭けて死に物狂いで自分を守ろうとした神経症者の、その命がけの防衛が、あろうことか彼を襲い苦しめている神経症の構造そのものを強固なものにしているのだ、というこの悲劇的な構造の暴露を目指し、そして告発を目指したいと筆者は考えているのである。筆者が指摘する、この第二の変容形態は、非常にデリケートな問題であるため、上記に記したような背景があることを留意していただければ幸いである。
以上の二点が、筆者の考える神経症再生産の姿である。追従型の神経症者が、その防衛として表現する愛情は、他者の自己防衛としての攻撃性、あるいはその無防備さゆえに搾取欲動を誘発する危険性があるのだ。それは、その他者を神経症者に変貌させる、という形をとるのである。
 ――神経症は自己増殖するのだ。愛されないという経験は主体を神経症者にする。そうして彼は自己を疎外し、そして結果として、他者をも疎外する。疎外された他者は同様に神経症者となり、次なる犠牲者を産出する。本論で見てきた神経症者は終末であると同時に始原である。アルファもオメガも存在しない。「私はあなたに愛されたい」というシンタックスの中では、「誰」が「わたし」の「汝」であるかに言及することは困難を極めるであろう。主語は何か。動詞は何か。目的語は誰なのか。神経症は自己再生産的に増殖し、構造は円環という形を取る。「愛する」という動詞の主語と客語は流動する。
しかし、である。ここで問題が一つ浮上する。その最初の神経症はどこに帰着するのだろうか、という問いである。以上見てきたように神経症者の展開する思考は、服従と恭順を主体に対して称揚しながら、同時に他者の疎外を暗黙裏に実行する。そうして疎外によって殺害された自己の落とした命が、その無力な他者たちの死につながる。こうした二者間の関係を一歩しりぞいて眺めてみると、そうした連鎖は縷々として継続し展開され続けていることがわかる。しかしその連鎖の時系列を逆に追っていくと、その端緒がどこに帰着するのかが不明ではないか。殺害が繰り返されるその螺旋に曲線の終点はなく、逆さまに線をなぞっていくとその始点にいつのまにか戻ってくる。無力という物語の中で連鎖する殺害は、その起源を追うことができないメビウスの輪なのだろうか。神経症構造とは、それほどまでに巨大なカタストロフィなのだろうか。

第6節 文化的困難による神経症形成とは
筆者はここで、その始原として文化的構造を取り上げてみたい。1937年に記された『現代の神経症的人格』の再終章、「文化と神経症」にて、ホーナイはわずかではあるが神経症を生み出す文化的構造について述べている。「われわれの文化には、特定の困難さが内在しており、これが全ての人間の日常生活における葛藤の中に反映し、これがたまりたまると、神経症の原因にもなる」とし、「私は社会学者ではないので、神経症と文化という問題に関連のある主な傾向を、簡単に指摘するにとどめたい」と述べた上で考察を展開している(Horney 1937=1973:268)。
文化と神経症者の関係をさらに詳しく述べるのなら、すなわち「神経症的になりやすい人間は、文化的に規定された困難を、おもに幼児期体験を通して大ゲサな形で経験し、その結果、困難の解決が不可能になった人間、あるいは、人格の損傷という代償を払ってこの困難を解決した人間であると思われる。こういう人間を、われわれの文化の継子と呼んでもいいかもしれない 」とホーナイは述べている(ibid., = p.274)。つまり、ここで筆者がホーナイを援用したうえで指摘したいことは、神経症発症の必要条件であった「愛されない」という経験は、すなわち文化が用意するものなのではないか、ということである。
 それでは、具体的にそういった文化的困難とはいかなるものなのかを見てゆこう 。
ホーナイが取り上げる第一の困難は、「個人的競争」である。個人が他の個人と闘い、競い、そして当然彼は勝たねばならず、勝つためには他者を「押しのけねば」ならない。この困難に対する神経症者の心理的帰結は、「個人間における漠然とした敵対的緊張」であると彼女は述べる(ibid., = p.269)。これは男性同士、女性同士、男女間でも影響するが、いずれにしてもそれらの敵対的緊張は、「信頼に満ちた友情関係reliable friendship」を損傷するとされる(ibid.,p284 = p.269)。こうした競争は、学校や職場、そして家庭 に発生するため、個人は「この困難に終始対面し」続けることになる。そうしてこの敵対的緊張は「自分の敵意に対する報復の恐れ」を生むことに帰結する(ibid., = p.270)。
このような過程の中で、「個人は心理的に孤立している」と感じる(ibid., = p.271)。この孤立は「情動的な孤立」であり、結果個人の中に、情愛への要求を生み出す。しかしながらこうした情愛は、当然のことながら孤独からの救済の手段としての情愛なのであり、それゆえに個人はそれが「提供しうるより以上のもの」を、情愛へ期待するため、それは「幻覚になってしまう」のである(同)。こうして個人は、情愛を激しい要求を持ちながら、しかし一方でその獲得が困難であるというディレンマに陥ることをホーナイは指摘する。
 ホーナイが描き出す第二の困難は、「文化的矛盾」である。神経症者が抱える葛藤は、その根底に特定の矛盾が存在し、それは彼の所属する文化に起因するものであると指摘されている。こうした葛藤を生み出す文化的矛盾を、彼女は以下の三つに簡単に分類している。
 第一の矛盾は、「一方において、競争と成功が強調され、他方で、同胞愛と謙虚さが強調されていること」(ibid., = p.272)である。一方では「攻撃的で、他人を押しのける人間」であることが個人には要求されているが、しかしながら他方では、「キリスト教の理念」が利己性を禁じ、他者に対しては「従順であるべきだ」と要求している(同)。こうしたひどい矛盾の解決法は、どちらかを捨てるか、あるいはどちらにも従うということの二つしかないとホーナイは指摘する。しかし当然のことながら、後者の場合はひどい制止が生じて、どちらもできなくなるのが常である。
 第二の矛盾は、「われわれの要求が刺激されるにも関わらず、現実にはそれらの要求を思うように満たせないという事実」である(ibid., = p.273)。これは経済的な側面から論じられているが、すなわち広告や「これ見よがしの消費」や「隣りづきあい」などによって刺激される個人の欲望は、しかし決して満足させられることはないといった意味内容である(同)。「掻き立てられた欲望とその非充足の間を、個人はたえず感じ続けることになる」のである(同)。
 そしてホーナイが指摘する最後の矛盾は、「個人の自由についての信念と、実際の限界との間」に存在するとされている(同)。社会では個人は「自分の自由意志に従ってすべてを決定できる」のだと説かれているが、しかし実際これらの可能性は限定されている。職業の選択、娯楽の選択、結婚の選択など、個人が従うのは自由意志ではなく「規範」である。決定する力を持っている、という確信と、自分には何もできないという感情の間を、彼は揺れ動くことになるのであるとされている。
 これらの矛盾は、神経症者の持つ葛藤と全く同じものであるとホーナイは指摘する。「攻撃傾向と屈従傾向、過剰な要請と何一つ入手できないという恐れ、自己拡張への衝動と無力感」(同)などである。こうした葛藤に対処できなかった個人のみが、神経症を患うことになるのである。(以上Horney 1937=1973: 268-273要約)
 こうした矛盾が、神経症発症の背景として存在することをホーナイは指摘している
。その考察を筆者なりに補足すると、すなわちそうした矛盾こそが、その文化構造の内部に生きる個人に葛藤を用意し、その葛藤が、その個人の持つ「人を愛する能力」を弱め、あるいははく奪し、そして誰かが「愛されなかった」という経験をするように導くのである。神経症構造の形成過程を、時系列順に過去にさかのぼってゆくと、おそらくたどりつくのはこの文化的矛盾なのであろうと推察される。こうした文化社会的状況が、神経症の温床となりうるのだ、という点をここで留意していただきたい 。

第3章 神経症構造内部の疎外

2012-03-06 19:09:06 | 修士
第3章 神経症構造内部の疎外
 
第3章では、神経症構造の中で必然的におこる疎外について論じたい。
愛情を求める彼は、その目的を遂行するために、その手段として自身を疎外することを選択した。彼は何を疎外し何から疎外され、結果何が起こるのか。神経症者自身の視点も汲んだ上で論じてゆきたい。

第1節 自己疎外とは 
まずは神経症概念における自己疎外alienation from selfの内容を把握しておきたい。ホーナイの自己疎外概念は、そもそも「自己を遺棄すること the abanding of self」として表現されている(Horney 1950:155¬=1998:198)。それはすなわち、健忘症や離人症などといった「アイデンティティの感情を喪失した状態」のことを指しているのだが、こうした疎外は彼女いわく「これは真の自己から離れようとする能動的な動き active moves away from the real self 」として観察される(Horney 1950:159 ¬=1998:203 強調は原著者による)。――「真の自己」は、自己の喪失という形をとって疎外されるのだ。それは彼自身に「パーソナリティ喪失」を経験させ、「生きる力」を奪うことに成功するのであると彼女は述べている(ibid., = p. 204)。
 こうした自己疎外は、しかしながら、表面上は偽装され、他者が直接観察することは非常に困難であるとホーナイは指摘する。なぜか?それは、感情を意図的に活発にさせることで、「偽りの自発性 false spontaneity」を見せる神経症者が多く存在するためである(ibid., p164 = p. 210)。彼は容易に怒ったり、悲しんだり、そして愛したりする。一見したところ、彼は元気で明るい「イイコ」であるが、彼が元気で明るいのは、そうしなければ生きてゆけないからなのである。表面上は感情豊かな人間であるかのように見えるのだが、しかしながらそれはあくまで偽装としての感情なのである。彼の感情が内発性を伴わず、外界から付与された役割期待に同調した結果のそれであることが、その確たる証拠である。
 こうした自己疎外は、彼に「自分は自分の人生を動かす力ではない He has he feeling of not being a moving force in his own life」と彼に感じさせるとホーナイは指摘する(ibid., :166= p.213)。疎外の結果、自らの行為の源泉が自分自身ではないということを知り、神経症者は無意識的に葛藤する。
 また、ホーナイは自己疎外の強迫性についても述べている。「一般に患者は、これまで生きてきた発達の経過をたどる以外に道はなかった。そしてとくに、過去において行動し、感じ、考えてきたのと同じように、現在も行動し、感じ、考えざるをえないのだ」(ibid., = p. 216)。この強迫性が、神経症構造を継続させる要因の一つとなっているのである。
 以上が自己疎外の内実であるが、ホーナイはこの疎外が自己再生産的な構造をとっているということを指摘している。彼女の定義にならえば、自己疎外は自己喪失と同義であったわけであるが、しかし喪失はその主体に少なくともなんらかの葛藤を与えるものである。そうした葛藤に翻弄されたとき、神経症者はそれを解決するためにさまざまな方策を実行しようと試みる。これをホーナイは「神経症的解決の試み」と名付けているが、しかしながら前章まででみてきたように、この試みが成功することは決してない(ibid., = p. 220)。行為にまで顕現しない解決の「試み」であるからということこそ、神経症者が神経症者たるゆえんであり、ホーナイはまた別の言葉で「神経症とはそうした一連の試みのことをいうのである」とすら定義している(同)。しかしながら、この試みを因として彼はますます自己を喪失し、自己疎外は再生産され強化される。この悪循環は、神経症から生じた結果であると同時に、神経症を発達される原因なのである。葛藤を解決するため、神経症者さまざまな試みをするのだが、その決して充たされない試みはさらなる葛藤を生み出し、そしてまた彼の試みが強化されるのである。

第2節 疎外される自己とは
 以上が自己疎外の具体的内容である。それでは、ここで問題にされている疎外される「自己」とはいかなるものなのだろうか。まずは神経症における自己概念の区分を明確にしておきたい。ホーナイの神経症概念の中では、自己は以下の三種類に区分されている。
 ひとつが、現実の自己actual selfである。ホーナイ自身の定義によると、「現実の自己とは、ある時点でのその人の在り方のすべてを、すなわち、身体と精神の健全な部分と神経症的な部分を共に含めたすべてを意味する用語」である(ibid., = p. 201)。
 一方でそれに対置されるのが、理想化された自己idealized selfである。理想化された自己とは、「不合理な想像の中に現れる自分であり、あるいは神経症的自尊心の命令に従う自分のあるべき姿」(同)である。
 最後に、――これをホーナイは最重要視しているが――真の自己real selfの概念がある。真の自己とは、「個人の成長と達成に向かう根源的な力である」(同)と彼女は述べる。彼女の述べるような真の自己を達成した人間像は、神経症の治癒の結果創造されるものである。真の自己については第5章にて詳しく考察する。
 以上の認識秩序を前提に、第2節では神経症において疎外される自己とは、いずれの自己であるのかという点に着目したい。
 ホーナイ自身が述べていることだが、疎外される第一の自己は「真の自己」であろう。前述したように、「成長」を望まない神経症者にとって、それは無用の長物であり、そうした真の自己でありたいとは望まないし、望むことができないために、真の自己を彼は放棄するのであった。「真の自己」は、神経症者によって、神経症者自身から疎外される。
 しかし同時に、彼は「現実の自己」をも疎外しているという事実を筆者はここで指摘したい。彼は、あらゆる葛藤に立ち向かうために自身の中に理想化された自己を作り上げることを上にみてきた。そうした理想化された自己に、神経症者は近づこうとし、それを現実化しようと試みる。しかしながら、そういった一連の試みを達成するためには、何としても彼は現実の自己を抹殺しなければならない。それはもちろん、彼にとって都合のいい神経症的部分を含んではいるのだが、しかし同時に、残された「正常」――あくまで神経症的ではない、という意味である――をも含んでいるためである。それは神経症的試みの達成には邪魔な存在である。ゆえに今ある自分自身を、彼は死すべき存在であると考える。理想化された自己の現実化、という願望を神経症者が持っている限り、彼の「現実の自己」は、彼の「理想化された自己」によって、彼の対人関係から疎外されるのである。
 そして最後に、理想化された自己も同様に疎外の客体となっていることを、筆者は指摘したい。第1章でみたように、理想化された自己の現実化、という試みは決して達成されえない試みであった。彼の作り上げる理想があまりにも現実離れしているがために、現実化は不可能であり、そのために理想化された自己像は、そうした無力な現実の自己を憎悪するのであった。以上、理想化された自己が現実には存在し得ないという点から、筆者はそれが結果として疎外の対象となっていることをここに指摘したい。疎外の主体は、理想化された自己が現実化することを妨げている現実の自己であると筆者は考える。そのことによって、理想化された自己は、彼がいま生きている世界から疎外される。
真の自己は不在し、彼は理想化された自己にもなれず、現実の自己にもなりきれない。神経症者は自分自身との非適合という傷痕を持っている。しかしこうした傷による痛みを、神経症という症状を通じて、感じることができることを、一方で悲劇的とは考えつつも、筆者はこれこそが希望の残存であると考えるのである。しかしすべてを諦観し、受け入れた主体は痛みすら感じず、神経症を発症することすらないではないか。彼の痛みは、彼の残された生の証なのだ。神経症という症状そのものが、彼が葛藤に負けず、戦い続けている証なのだ。彼は、内的な自己破壊からの生き残りとしての神経症者なのだ。飼いならされた彼の現実の自己は、殺されまいと、疎外されまいと必死に愛想を振りまき、そして彼をカモにしようとする他者に虐げられる。自己疎外と他者よって彼は二重に傷つけられる。そうした傷と痛みは確かに悲劇的であろう。しかし、その痛みが、彼が絶命を回避することに成功した証であることを忘れてはならない。

第3節 他者の種類
 以上我々は、神経症の構造内部における自己疎外の様相についてみてきた。しかし筆者が疎外という点でもっとも問題にしたいことは、この先にある。疎外という悲劇はこれだけでは終わらないのである。
 本題に入る前に、神経症構造に登場する他者たちについて詳しくみてゆこう。ホーナイの研究に基づいて、まずはその他者を、筆者は便宜的に以下のように区分したい。すなわち、①攻撃的他者と②非攻撃他者の二種である。
 まずは攻撃的他者からその内容を見てみよう。本論のはじめに、神経症的態度を「他人を求めるtoward others」、「他人と対立するagainst others」、「他人から逃避するaway from others」、の三つの行動様式に区分したことを思い出していただきたい。本論で取り扱う神経症者は、一番目の、ホーナイの言葉でいうところの「追従型」であったが、ここで筆者がいう攻撃的他者とは、二番目の神経症者、つまり「攻撃型」に該当する。その詳細は第1章にてすでに詳述したが、簡単に再度定義づけておくと、すなわち、外在化された基本的不安と敵意故に、誰をも愛さず、他者と対立するタイプの神経症者のことであった。「追従型」が提示する彼の無防備さを、喜んでカモにしようとする他者がいる、と前に述べたことがあるが、つまりここで搾取する行為主体が、ここでいうところの「攻撃型」の神経症者なのである。
 次に非攻撃的他者の内容を見てゆこう。神経症者と対峙するすべての他者が、同様に神経症的であるわけでは当然、ない。ホーナイ自身も臨床現場で、患者自身の周囲に神経症的ではない愛loveを、彼に対して注いでくれる他者の存在を確かに認めていた。
。筆者がここで提示する非攻撃的他者とは、すなわち以上のような「神経症的ではない愛love」を与えてくれる他者のことであるとしておきたい。
 以上が、筆者が区分する攻撃的他者と非攻撃他者の概要である 。

第4節 疎外される他者
 神経症構造に登場する他者を、以上のように二種類に便宜上区分する 。第4節では、そうした二種の他者たちまでをも、神経症者は疎外するという点を考察したい。

1)疎外される攻撃的他者
 まずは攻撃的他者から見てゆこう。その正体は「攻撃型」の神経症者であったわけであるが、その攻撃的他者と、神経症者――ここでは自己消去的解決策を採用する、「他人を求める」タイプに限定する――の神経症的関係内容は、病的依存という本質で説明できるものであった。神経症者は、彼が抑圧せざるをえなかった、神経症的自己拡張の欲動を、肩代わりしてくれるような、攻撃的他者に魅了され、依存するのであった。
筆者がここで指摘したいことは、そうした依存が、攻撃的他者をも疎外する、という点である。
 神経症者の依存は、攻撃的他者のもつすべての欲求を充足するという機能を持っている。つまり、敵意と憎悪を身にまとった攻撃的他者は、他人を屈従させたいと望み、神経症的な勝利を目指すのであったことを思い出していただきたい。こうした欲求を充足するのに、自己消去的神経症者は最適の「道具」ではないか。なぜなら、上にみてきたように、自己消去的神経症者は勝利ではなく愛を求め、そのために屈従という態度を形成したのだったのだから。「追従型」の神経症者は、そのさまざまな本質的諸形態のもとで、常にあらゆるものに奉仕してきたし、それは彼が他者によって目に見えて虐げられるときでもそうだった。ゆえに、共依存的に彼らは対となる可能性と必然性を有しているのである。
しかし、ここで重要なことは、神経症者が自己を疎外するのと同様に、その自己疎外が攻撃的他者をも疎外するのだ、という点である。――何からの疎外か?それは、攻撃的他者のもつ真の自己からの疎外である、ということを筆者はここで指摘したい。神経症的屈従の態度は、攻撃的他者の欲求を充足し、他者の生きる神経症的構造を強化し、他者をその中に拘束し続けるのだ。屈従は、攻撃的他者を、彼の真の自己から疎外するのである 。

2)疎外される非攻撃的他者
 神経症者は攻撃的他者を疎外する。しかし、他者疎外はそれだけでは終わらない。筆者が次に指摘したいことは、疎外されるのは攻撃的他者だけではないということである。それと同様に、非攻撃的他者をも神経症者は疎外するという事実である。
 神経症者が他者とかかわるとき、彼は自己を疎外した状態でかかわることを想起しよう。思い出していただきたいのは、自己疎外の別の名が自己消去であったということである。つまり、自己を伴わずに、「真の自己」ではない自己でもって、彼は非攻撃的他者との間に親和関係を築こうと試みるのである。それは、視点を変えてみれば、非攻撃的他者が神経症者の「真の自己」から疎外されている、ということができないだろうか。自己を伴わずに他者とかかわることは、その他者を神経症者自身から疎外すること以外の何ものでもないではないか、と筆者は考えるのである。
 さらに踏み込んで考えてみよう。自己を伴わずに他者とかかわるということが、神経症者の主観から見て一体どのような意味を持っているのか、また、非攻撃的他者の主観からみて、どのような意味を持っているのかを詳しく見てゆきたい。
 これまでに記してきたような、神経症者の行為するところのものは、あたかも情愛にあふれているかのように一見みえるし、主観的にもそれは事実であろう。彼は、対象を「愛している」のである。だから彼は、対象からどのような扱いを受けようとも、常に自らの感情を自己完結させ、顕現させず、対象との敵対的な衝突を常に避け、それを至上命令として対象に屈従し、自己消去という優しさを見せるのだ。それが神経症者の愛し方なのである。
 しかし、――これは本論全体を貫く筆者の主張なのだが――それは愛情として機能しえないのではないか、という点をここで指摘しておきたい。確かに彼らの行為するところの愛とは、穏やかで寂莫とし、まさに愛そのものであるかのように見える。しかしながら、こうした一連の屈従と献身に対し、彼らは敵意を抱いていたではないか。ホーナイはその敵意の性質から、それを憤怒rageとも換言しているが、ここで重要となってくるのが、そういった一連の憎悪が、当然のことながら、愛の完全な対立物であるということである。憎しみは愛の一部でもなければコインの表裏でもなく、全く別個に存在する感情である。憎しみとは、愛することに失敗した結果の感情を指すのだから。憤怒は、愛ではない。
 また、その他者の眼にも、おそらくそうした自己疎外を伴う愛は、愛とは映らないのではないか、と筆者は考える。非攻撃的他者が神経症者に向ける感情は、情愛affectionではなく愛情loveであった。換言すれば、この種の他者たちは外傷的な親和関係を望んではいない、ということである。しかしながら、この他者が対峙する「追従型」の神経症者たちは、自己疎外という外傷を負っている。それは、この他者たちに愛ではなく、悲しみを与えることにはならないのだろうかと筆者は考えるのである。
そもそも、自己疎外を伴う対象への情愛は本来的ではなく、愛したいと願うが故の歪んだ結果である。そうした「嘘」の情愛とは、徹頭徹尾、負の要素を帯びた自己の薫陶を前提とするが、それは対人関係に宿るはずであった平等性ないし相互の尊重性のある種の切断を、そしてつまりは他者と自己の徹底的な切断を要請してしまうではないか。つまり、同時にそれが意味しているのは、情愛というものから縁を切ることに他ならないのではないのか。非攻撃的他者の側から神経症者を見てみよう。「わたし」の目の前に現れたその神経症者は自己を疎外している。彼は何を言われても「笑顔」でいて、彼自身の言葉は彼の口からは発せられる前に濾過され、添削され、全く別の言葉に変換された状態で「わたし」のもとに届く。「彼の」言葉は届かない。そうして彼は「わたし」の望む(であろうと彼が推察する)とおりの人間になり、「わたし」の中の誰かが具現化して目の前にいるようになる。こうして彼は誰でもない誰かになる。自己を疎外し、その疎外された自己は眼前に顕現することなく不在し続けている。
自己が不在しているのだから、対人関係が構築できるはずもない。ゆえに、自己を疎外することは、他者をも疎外することなのであると筆者はここで主張したい。彼は誰でもない誰かになることによって、自分を消去し、相手をも消去する。自己を伴わずに他者に拘ろうとする技術。それは観念的な殺人の技術だ。「愛する」という行為を為しえようとする無力な機械は、故障することによってのみ作動している。この歪んだ「情愛」、――拒絶という正しい名。神経症者のさまざまな行為は、他者をも疎外することに存するのである。
自己を伴わずに他者とかかわるということは、確かに神経症者の主観から見て、「愛する」という意味を持っているかもしれない。しかしそれは、それを受ける非攻撃的他者の主観から見た時、愛であるどころかその他者をも消去する残酷な疎外なのである。
 筆者が主張したいことは、以上みてきたような、自己疎外の次に行われている他者疎外なのである。それは、攻撃的他者であろうが非攻撃的他者であろうが、相手を選択することなくすべてを疎外している。共通しているのは、双方ともにその他者を機能として取り扱っている点であると筆者は考える。
前述したことだが、彼は愛されなかったがために、相互に情愛的な関係を築くことに成功しているという妄想にしがみつく。神経症者は相手を愛しているし、相手にも愛されているのだと思い込もうとする。しかし、ここで重要となることは、本当は何をいったい、彼は愛しているのか、ということである。自己疎外を伴うが故に彼は誰をも愛することができないし、たとえ彼の求愛が成功したところで、神経症者は「愛されない」という確信を持つ故に、成功の結果他者から与えられた愛を受容することができないではないか。
結論を言おう。神経症者が本当に愛しているのは何か。筆者はこの問いのもとにしばし立ち止まり、こう応えたい。それは、彼が愛しているのは、「対象を愛している」と形容された自己なのだ、ということである。主体は一見、情愛対象を愛したいが故に――それは断固として、愛しているためではない――自己を抑圧し、疎外し、消去するが、それらはすべて客体ではなく自己を愛し、そして防衛するものとして結果機能している。怒りを表出しないのも、対象の望むように自己を変革するのも、役割期待に同調し、心服するのも、すべては対象を「愛する」が故である。いや、その叙述に適格性を付与するのであれば、対象を「愛する」自己を愛するが故なのである。欲しているのは情愛でもなければ「正常」な対人関係でもない、それらをもっている自分、というアイデンティティなのである。そもそもアイデンティティの構築にはすべて他者を必要とする。「対象を愛している自己」という放縦なアイデンティティの、獲得手段としての対象。そうした時、対象は人ではない。ただの機能だ。顕在的には自身を疎外し対象を愛しているかのように見えるが、しかし実際に行われているのは対象を疎外し、自身を愛しているという逆転した悲しい事実である。そしてその最後に残された灼熱の自己愛でさえ、火あぶりの中で結局は主体を神経症という沈黙へ導くボランタリーな処刑道具である。カミュの言葉を借りるのであれば、双方は「死刑囚」であると同時に「死刑執行人」でもあるのだ。それは皮相で悲壮な自己矛盾である。
ホーナイの考察だけを見てみると、一見して神経症者自身だけが、あたかも「被害者」であるかのように見える。だがしかし、実態はより複雑である。それは、前述した主体が自己を疎外することによって、対象をも疎外するという事実に求めることができる。加害被害の性質で主客関係が結ばれるわけではないと筆者は考える。神経症という安寧なき闘争の中で、観念的自死の繰り返しの中で、常に運動状態にある緊張関係の中で、瞭然であってしかるべきであるにもかかわらず、存在が目に見えないもの、主観的情愛の中に溶けて消えるもの、それは対象の疎外なのである。この構造の中では誰もが悲しい「被害者」なのだ。そこに「加害者」は不在している。

第二章その2

2012-03-06 19:08:33 | 修士

第5節 願いとしての存在認知
ここで重要なことは、筆者が提出する代替翻訳としての「嫌わないでください」という文言を、当然のことながら厳密に、そして丁寧に扱わなければならないということである。この言葉には、存在を拒絶しない、という意味と、命令でもなく要請でもなく単なる「願い」の二つの意味が含まれているためである。つまり、「嫌わないで」と、「ください」の二つに分節化して考えなければならないことである。「嫌わないで」という非常に消極的な、しかし切実な「願い」と、あくまで対象への自発的な心服の表現としての「ください」を、別個にしたうえで我々は考えなければならないのである。
後者の「ください」という言葉は、上記のlittleの箇所で考察した。次に、前者の「嫌わないで」という言葉に着目しよう。「愛する」ではなく、「嫌わない」という動詞を神経症構造の中で最も適当な言葉であると、筆者がなぜ考えるのか、以下に記述したい。
 そもそも臨床領域や学問の世界において、愛情の有無が個体の生存にかかわるのだという議論は、枚挙に暇がないほど、これまで多くの分野でなされてきたことである。それは文字通り、生物学的な意味での生存をすら含むものである。
こうした議論は、本論における神経症概念にも当てはまる。「生きる」ために、自分の生存を確保するために、神経症者は何としても彼の重要な他者から、「愛」を受けなければならない。そのために、神経症者は様々な葛藤解決策を採用する。上に見てきたような自己消去的葛藤解決策などがそれである。彼はすべてを消去し、あらゆる主語の、――彼らの言葉には、「わたし」が見当たらない――悲しいまでに徹底的な除去を行おうとするのである。神経症者は、逆説的ではあるが、生きるために死ぬことを選択するのである。それは悲劇的な逆説である。狂おしいほどに自身の生存を守ろうとした結果の、その手段としての絶命なのである。
そうした背景があるがために、生存を確保するための手段としての「愛」は、確かに「愛してほしい」という要求に一見みえるかもしれない。ホーナイも、神経症者の情愛獲得の方法を、「買収bribery」、「同情への訴えan appeal to pity」、「正義への訴えan appeal to justice」、「おどかしthreats」など様々な様式に大別し、彼の持つ凄まじい「愛」への要求を描いている(ibid., p139= p.126)。これは本論における重要な事柄であるため、ひとつずつ丁寧にみてゆこう。
第一の「買収bribery」は、「私はあなたをとても愛しています。だからお返しに私を愛してくださいyou should love me in return。そして私のためにすべてを犠牲にしてください」という根本的感情によって表現される(同)。ホーナイは、この「買収bribery」という方法をとる神経症者には女性が多いとしている(同)。
第二の「同情への訴えan appeal to pity」は、「私は苦しみ無力なのですから、愛してくれなければいけません you ought to love me」を根本的感情とする(ibid., p141= p.128)。こうした訴えは、彼らが「過度の要請をすることを正当化もする」(同)。
第三の「正義への訴えan appeal to justice」においては、モットーは「私はこれだけあなたのためにつくしました。あなたは私に何をしてくれますか?This I have done for you ; what will you do for me?」である(ibid., p142= p.129)。ホーナイによると、これは母親の、子供に対する文化的態度の中に多いという。「母親の中に、・・・子供たちから絶え間ない献身unflagging devotionを期待する権利があるのだと主張する」女性を、多く確認できるとされている(同).
最後の「おどかしthreats」は、ほとんど行われることがないが、つまり「相手を傷つけるぞという形も取るし、自分を傷つけるぞという形にもなる」とホーナイは記している(ibid., = p.132)。これは、もし行われる場合、「他人に対して動く」指向性に多く見られる傾向である。しかもその指向性においてすら、神経症の最終段階においてしか観察されない稀有なものである。これについては別途章を設けて考察する。
以上が、神経症者が行う情愛獲得の方法である。確かにこれは、「愛してほしい」という要求に支えられた行為であるように見えるかもしれない。しかし、こういった情愛獲得の姿をそのままその要求に換言することは不適当であり、そういった事実への側面的な言及は避けたいと筆者は考える。「愛されたい」という願いが願いのまま、歪曲という作業を経ずに、そのまま他者に表現されることはない。彼の他者に対する態度は、常に服従なのであり、それゆえ「愛されたい」という言葉も、「嫌わないでください」という対象に媚び諂うものに変換される。
もう少し深く見てゆこう。上記に掲げた神経症者の情愛獲得の背景には、はじめにみたような基本的不安が存在している。彼はたった一人で、その不安を闘っているのである。ホーナイは、ゆえに彼はその救いを他者に求めるのだと述べている。「彼は、自分は受け入れられ、認められ、必要とされ、望まれ、好かれ、愛され、評価されているという感じを他人から与えてもらうことによって、自らの内的な立場を強めてもらおうと他人の助けを求めるのだ」と彼女は言う(Horney 1950¬=1998:293)。問題はこの先である。彼の求めるものは、これを包括して「愛」とされているが、しかし、神経症者の「愛」の中には実に様々な、他者からの感情が含まれているのである。神経症構造の中の「愛love」とは、「あらゆる種類の積極的な[肯定的な]感情を指す公分母」なのであり、そうした感情には「同情心sympathy、親切心tenderness、愛情affection、感謝gratitude、性愛sexual love、必要とされ評価されているという気持ちfeeling needed and appreciatedのどれもが含まれているのである」とホーナイも同様に述べている(ibid., p226= p.293 [ ]内の補足は原著者による)。
以上に挙げたような内容物は、しかし「愛する」という動詞とはまた別個のものとして考えなければならないであろう。愛さなくとも、我々は同情したり、誰かを必要としたり評価したりできるではないか。彼の望むものは、主観的には「愛」でありうるだろうが、しかし上記の理由から「愛」であるとは限らないのだ。同情や感謝や必要とされることを、愛に変換しているのである。いや、正確にいうと変換せざるを得ないのである。何度も繰り返すが、それは彼の生存にかかわるのだから。
本題に戻ろう。筆者が考える、神経症者の願いとはつまり存在の認知なのである。理想化された自己に幾度も殺害され、葛藤解決策の命令により、徹底的に消去を強制された「わたし」がここにいるのだと、誰かに存在を認めてほしいのだと、彼は願うのである。愛を欲望しているのではなく、拒絶を嫌悪しているのである。「愛してくれなくていいから、嫌わないでください」と筆者が述べたことは、つまりそのような意味においてなのである。
 神経症者の言葉は、彼が実行している種々の葛藤解決策によって、深く深く抑圧されている。それゆえ、構造のなかの彼らの言葉は、難解な隠喩に満ちている。神経症の本質は言語表現の外に、彼方に、存在しているのかもしれないとさえ思えるほどである。しかし、諦観は何も生み出さない。翻訳可能性を不在とし、それを断念することは、決してできない。言葉は解き放たれなければならない。神経症は、神経症者と情愛対象とのダンスによって生まれたひとつの物語である。彼は対象からの情愛獲得を目指しつづけ、そしてその欲求は彼の持つ力を支配し主体から言葉を奪う。神経症的ではない言葉、を。対象に愛されるであろうと彼が判断した性質を持つ言葉のみが生存を許され、戦略的に労働者として酷使される。全くその可能性がない言葉は自ら「殺害」、あるいは「自己幽閉」する。「彼の言葉」は神経症によって失われている。その言葉は解放されなければならないのだ。表現されるところのものは、すなわち表現するという行為こそが、あるいはそれのみが、創造することができる。本稿が目指すところのものは、神経症の本質なのであり、まさにそのために、神経症者その人自身の言葉が必要なのである。その言葉は、のちに取り扱う治癒ともかかわっている。神経症者の言の葉たちは、抑圧され、無意識の領域の中に自己幽閉されている。それはすなわち、これまで考察してきた「愛されたい」という神経症的希求である。その言葉こそが、彼の神経症を発症させ、それを継続させまでしているのである。無音のままに消えてゆくしかなかった彼の言葉は、再生されてしかるべき当のものである。離別を告げるためには、出会いを経験しなければならない。そうした神経症的希求と別離するために、そのためにそうした希求の存在を認知する必要があるのだ。それは神経症の温床となる外傷的な対人関係や、そうした関係を形成させる家族や学校といった集団と組織、あるいはそれらの集団・組織を形成した社会や文化をとらえなおすときに、有効な手立てとなりうるものなのだ。神経症をとらえなおす際に、われわれはその本質を、神経症者の言葉から発見してくることができるのである。
ゆえに筆者は、彼の言葉を、丁寧に分節化し、考察し、とりだす作業が必要不可欠であると考える。その結果として、筆者は「愛してほしい」ではなく「愛してくれなくていいから、嫌わないでください」を、ここに提示したいのである。前者のみでは、神経症の本質をとらえることはあまりにも困難であるためである。以上の背景により、彼が秘めている神経症的情愛要求の、極端であるが最も適切な表現形式は、まさにこの言葉ではないかと筆者は考えるのである。内的な、彼の主観としての心的感情は確かに「愛してほしい」であろう。しかし、それが他者に対して表現されるとき、その感情が「愛してほしい」とそのまま要求として現象するとは筆者は考えない。要求は、shouldという強迫性を裏に秘めながらも、彼に巣食う神経症により、「嫌わないでください」という願いに歪曲されて、外部に表出されるのである。

第6節 神経症者が希求している愛の形態
 以上が神経症の構造における愛の分類であった。それでは次に、神経症者自身は、loveとaffectionの、どちらの愛を望むのであろうかという点を考察してみたい。
 ――根本的な害悪は常に「愛」であった。彼は「愛されなかった」が故に「愛」を必要とし、そのために対象を「愛」し、「愛」のためだけに神経症であり続ける。彼が受けなかった愛はloveであり、他者から代わりに与えられたのはaffectionであった。彼が願うのはどちらの愛か。
 ホーナイの考察全体にわたって、神経症者の望む愛はaffection にほぼ統一されている。ホーナイ自身はその統一の根拠を明確に論じてはいないが、彼女自身の考察のなかからそれを見出すことは可能であろうと筆者は考える。
 筆者は、その根拠の一つとして神経症者の「依存性」という特徴を提示したい。「依存」の質と内容については、詳しくは次章に譲ることとするが、端的にいうと、依存のためにはloveは邪魔なのである。ここでいう依存とは、つまり彼の神経症的諸欲求を満たしてくれる他者との関係を、継続させる、という意味である。それは神経症者当人にとっては、主観的には都合のいいことなのだと筆者は考える。なぜならば、神経症的パーソナリティとは、彼の防衛の手段であったからだ。神経症に彼は巣食われるが、まさにそのことによって彼は救われるのであるのだから。自分を守る術を剥奪することのない、神経症を継続させてくれる対人関係を、彼は求める。神経症的依存を、彼は望むのである。よって、互いの「成長」を、つまり神経症構造からの脱却を促すような愛であっては、彼が望む依存の関係は保てないのであり、よって彼は神経症的affectionを望むのであると筆者は考えるのである。
しかしそれは、彼がloveを望まない、と即座に断定することにはつながらないし、筆者もそうした立場をここでとることはしない。loveを望む気持ちは、残存しているのである。一見かれは、表面的にはaffectionを望んでいるようにみえるし、事実そうであることも多いであろう。しかしそれは、彼がaffectionのみを望んでいることにはならない。彼は、affectionとloveの双方の「愛」の形態を望んでいるのである。彼自身が神経症の構造を望み、正常を厭うとか、あるいは反対に神経症に涙し、「正常」に焦がれるとか、そういったどちらか一方のみの願望を彼が持つわけではないと筆者は考えるのである。神経症者は神経症も、そして神経症的ではない「正常な」外の世界も、どちらをも愛しているのである。もしそうでなかったとしたならば、なぜ彼が葛藤など持とうものか。ホーナイの診療所へ足を運んだという事実そのものが、彼の世界にはない愛loveを、確かに彼が望んでいる証ではないか。彼の神経症は、一見アプリオリに愛loveを疎外しているように見えるが、実際はそうではない。神経症者は、一方で愛情affectionを強迫的に希求しながらも、愛情loveの方を斜視ではあるが確かに見つめているのである。単純に、彼は神経症的愛情affectionのみを切望すると断定することは不可能であると筆者は考える。

 第7節 神経症を発症しない愛の在り方
 それでは、一方で彼が望むloveとはいかなるものなのだろうか。第5節ではloveであることの条件を抽出したい。そして、そのために筆者はaffectionに欠けている性質を見出し、そこからloveであることの条件を提示することとしたい。
まずaffectionに欠けている性質として、対象との距離に同意するという点を挙げておきたい。距離に同意することは、情愛が情愛であるための希少な条件であると筆者は考えているのである。
具体的にみてゆこう。距離への同意。それが帰結するところはすなわち、少なくとも見捨てられるという「不安」や対象を独占したいと希求する心からは彼方遠く離れたところにあるという事実である。一人でいることのできる人だけが、二人でいることができるのだと筆者は考える。「愛される」という経験をした人間は、愛してくれたその他者がいなくとも、「自分は愛されるにたる人間なのだ」という深い安心感を持っているため、一人でいることができる。自分を愛してくれた他者が目の前にいなくとも、その確信故に、その他者との距離に同意することを可能にする能力を持っているのである。
しかし問題は、同意が不可能な場合である。「愛されない」という経験をした神経症者においては、そうした特徴をみることは困難を極める。愛されなかったが故に、彼は「自分は愛されるにたる人間ではないのではないか」という不安を抱え続けなければならず、そうした不安を打ち消すために、常に他者がいるということを確認しなければならないのである。ホーナイもこうした事実を面接のなかで発見しており、「彼はどのくらいの時間であっても一人でいることに耐えられないので、人との接触やつきあいを必要としている」とし、それは「一人でいることは、彼にとって求められても好かれてもいないことの証拠」であるからだとの指摘がなされている(ibid., = p.296)。ゆえに、彼は対象に依存せざるを得ず、距離に同意することが困難になるのである。これが、筆者が考える、愛がaffectionとなる条件の一つである。
また、affectionには平等性と任意性が欠如していることを筆者はここで指摘しておきたい。平等性とは、自己主張と他者尊重のバランスがとれた、水平的で静やかな対称性、それはヒラエルキーや権威の問題が意味をなさないような結びつきであり、また任意性とはその対人関係にどこまでコミットするかを、その対人関係にかかわる個人が、自身で自由に選択できるという意味である。神経症者の採用する自己消去的解決策の中に、平等性の欠如は彼の服従の姿から容易に観察できるし、また、(これは次章に詳述するが)愛されなかったが故の、対象への固執と依存が観察される。平等性と任意性は、神経症の構造の中で決定的に疎外されているということをここで指摘したい。この二つが欠如していることが、愛がloveではなくaffectionになる二つ目の条件である。
以上の二点を、affectionに欠如するもの、したがってloveであることの条件として筆者は提示したい。愛Loveを創造した個人は、対象と健全な――外傷的な側面を持たないという意味である――距離をもち、関係は平等で任意のものとすることが可能になるのだ。

第2章 神経症的愛情の意味

2012-03-06 19:07:48 | 修士
第2章 神経症的愛情の意味

第2章では、神経症研究の最も重要なキーワードの一つとなる、愛情について考察してゆきたい。以上のような自己消去的解決策を採用する神経症者にとって、彼の存在の核となるのは「他者からの愛」であった。あらゆるものを犠牲にし、疎外するその姿から、神経症的と形容できる「愛情」の意味とはいかなるものなのだろうか。「愛」は彼にとってどのように求められ、どのように機能し、どのように帰結するのか。
彼にとっての愛情の意味についてみてゆく前に、本論で取り扱う「愛情」を神経症的なそれと神経症的ではないそれとに分節化し、定義づけておきたい。まずはホーナイの考える、それぞれの区分方法をみてゆこう。

第1節 愛、loveとaffectionの相違点――神経症的愛情がaffectionである理由とは
ホーナイは愛について、以下のように語っている。

「愛と情愛への神経症的要求との違いThe difference between love and the neurotic need for affectionは、愛において情愛の感情が一義的であるin love the feeling of affection is primaryのに反し、情愛への神経症的希求においては、安心感への要求が第一義的で、愛しているという錯覚は二次的でしかないthe illusion of loving is only secondaryという点にある」(ibid., p109= p. 95)

この引用文のなかにおいては、ホーナイ自身は愛をlove、神経症的という形容詞が付着する愛をaffectionと区分している。彼女の残した研究の中で彼女は、ほとんどこの区分方法を採用し、後者の神経症的愛情にaffectionを当てている。こうした事実には理由があるだろう 。
筆者が考えるに、affectionの場合、それが主体に対しての逆機能をも有しているためであろうと推察する。つまり、それが愛であるにも関わらず、その愛の主体に外傷的な経験を与えてしまう、という機能である。affectionなる愛情は、神経症者にどのような形でマイナスに作用するのであろうか。
そもそもaffectionは、動詞affectから派生した名詞である。それは「af(・・・に)fect(作用する)」といった語源をもち、以下の三つの訳があてられている。1:<事・状況などが>(直接的に)<物、事 >に影響する。2:(不利に)作用する。3:(・・・で)感動する、の三つである(小西・南出康世編集主幹 『ジーニアス英和辞典 第4版』2006)。
一方loveはといえば、名詞として使用される際は、単に「愛」とだけ記されており、動詞の意味でも同様に「愛する」とだけ訳されている。
和英辞典によれば、loveとaffectionの相違点は次のようなものであるとされている。loveとは「情熱的な、時に理性を超えた」愛であり、「一般にaffectionよりも強い愛を表す」とされる。一方affectionはといえば、「穏やかな、理性を伴う」愛であり、「上記の差が問題にならないような、一般的に愛をいう文脈では両者は交換できる」としている(小西友七, 南出康世編集主幹 『ジーニアス和英辞典 第2版』2003)。ここでいうところの「理性」とは、哲学の文脈でないことは明らかであるため、単純に感情の反意語としての理性であろうと推察される。つまり、感情の奴隷ではなく主人としてそれを所有・支配することができる能力、という意味くらいにとらえることが妥当であろうと筆者は考える。
ここで問題にしたいことは、それぞれに付着している「理性を超えた」、「理性を伴う」という文節である。まずはaffectionが含有している、「理性を伴う」という性質から見てゆこう。
「理性を伴う」、つまり感情の主人としてそれを支配し、コントロール下に置くということは、一見その主体にとって「よい」ことのように見えるし、種々の社会的場面を想定すると、そうしたことが事実「よい」ことであるとの判断が下されることは難くない。ただし、問題はそうではない場合である。感情社会学の分野で多く議論されていることだが、ここで問題にしたいことはつまり、感情が手段とされている場合である。当然のことながら感情を手段として用いることそのものが、そのようにして用いる主体に対して「マイナス」の側面を持つとは限らないことをここで筆者は留意しておきたい。感情を手段にすることによって得られる、主体にとっての利益の存在も筆者は忘れているわけではない。そうではなく、これまでにみてきたような、神経症構造のなかで発生するマイナス要因を筆者は問題にしたいのである。
神経症構造の中で神経症者は自身の感情を一見「支配」しているように思える。本来持っていたそれを、彼は相手の望むように変容させ、提示し、情愛を得る手段として用いる。筆者がここで注目したいことは、神経症者が自分の作り出した感情の奴隷になっている、という事実である。本来持っていた感情、つまり、相手が望まないであろうと神経症者が推察する、愛される性質を持たない感情は、確かに彼の支配下にあるかもしれない。しかし、神経症者はその支配の後に命がけで創造した、神経症的感情の支配下に置かれているではないか。そうした神経症的感情に心服することにより、外傷的な対人関係を構築し、自身の生存をかけて、苦しみもがいているではないか。
物事は常に両義的であり、その境もあいまいなものである。「理性」が伴うからといって、即座にそれが「善」であると断言することは不可能である。こうした背景があるために、affectionは理性を伴った「愛」として提示されているのだということを筆者はここで主張しておきたい。
当然本論文においては、この問題は「一般的に愛を言う文脈」ではないので、その差異を厳密・詳細に取り出してみたい。ただし、「愛とは何か」という問いに応えることは本論文の領域をはるかに逸脱するため、ここで解答することは不可能である。したがって、筆者もホーナイと同様に、「愛とは何か」ではなく「何が愛ではないか」、すなわち、「愛が愛でなくなる構造的条件とは何か」という問いの形式を採用することとする。
筆者はここでaffectionが持つ、af(・・・に)fect(作用する)という語源に着目したい。ここで重要なのは、この「作用」は、上にみたようにマイナスの意味を持っている、という点である。affectionなる情愛は、不利な意味での「作用」あるいは、「影響」といった側面を有しているのである。そもそも、ホーナイが記している通り、愛loveが「人間の成長」をもたらすものであるとするのならば、少なくとも愛は不利な意味での、つまり、本論でいうところの神経症的、あるいは外傷的な「作用」「影響」といった側面を有することはないであろう。情愛対象に、あるいは自身に、成長とは呼ぶに値しない「作用」や「影響」を及ぼすならば、それは愛という称号を剥奪されてしかるべきなのだと筆者は考える。
以上のような側面を持つが故に、神経症的愛には、love ではなくaffectionを該当させられているのだという点を、筆者は主張したいのである。

第2節 affectionとは――その意味と機能について
さらに論をすすめよう。それでは、神経症者が描く、神経症者にとってのaffectionとはいかなるものなのだろうか。ここで着目していただきたいのは、affectionに付随しているneedである。それも、悲劇的なことにneuroticなneedである。needそのものは問題ではない。確かに、これまでみてきたような、神経症者の強迫的な愛情希求の姿を見ると、神経症とは、愛することが結果ではなく目的になったときに発症するかのように一見みえてしまうが、愛情を必要とすること自体は、神経症者ではない「正常」な人間でもすることであり、このneedそのものが、神経症発症の条件に関与するわけではない。問題は、そこにべっとりと付着しているneuroticという形容詞である。筆者が問題にしているのは、愛情希求による人間の被規定性なのではなく、神経症的愛情希求によるそれなのである。本質は、その形容詞に宿る。このneuroticこそが、神経症という悲劇的な構造を生み出す核になるものなのだ。これこそが、愛を愛ではなく、愛への「神経症的希求」のままにしておく最大の要因なのである。それでは、このneed、それもneuroticなneedの中身を以下に見てゆこう。
神経症構造の中で、愛情が愛情として完結せず、「希求」の対象のままでいつづけることを、我々は以上にみてきた。それではなぜ、その「希求」は成就せず、「希求」のままでいるのだろうか。
その背景にあるものとして、筆者がここで取り上げたいことは、すなわち神経症者にとっての愛情の意味である。その意味がどのようにして彼に作用し、その結果何が起こるのか。ホーナイの考察を土台にして以下にみてゆきたい。

1)神経症者からの他者に対する愛とは
まずは神経症者の描く、他者に対する愛情の内容をみてゆこう。他者に対しての愛についてはこれまでの考察で詳しくふれてきたことであるため、ここではその内容を簡単に思い出していただく程度にしておく。
 想起しておきたいことはすなわち、彼にとっての他者に対する愛が犠牲を含んでいたという点である。ホーナイの言葉を再度引用しておこう。
「彼は、他人のためとなれば自発的に何事も行うばかりか、献身、寛大、思いやり、理解、同情心、犠牲の究極的な体現者であるべきだ」と考える(ibid.,= p285)。彼に植え付けられたそうした考えは、すなわち「愛されなかった」という経験に端を発する。いや、正確にいえば「従順なる献身self-subordinating devotionという代償」を引き換えにしてしか「愛されなかった」経験である(ibid.,p222= p.287)。だから、神経症者は「愛のためにはすべてを犠牲にすべきなのだ」と考え、対象からの愛情を求めるがために、彼は犠牲によってしか他者を愛することができないという状態を余儀なくされ、しかもそれが常態になるのである(ibid.,= p285)。
 神経症者の描く、他者に対する愛情とは、「犠牲」なのである。

2)他者からの神経症者に対する愛とは
それでは、神経症者にとっての、他者からの愛はいかなるものなのだろうか。ここでまたホーナイの引用を参考しよう。彼女は、神経症者の描く他者からの愛とは、「受け入れられること」であると記している。「関心 attentionであれ、承認approvalであれ、感謝gratitudeであれ、愛情affectionであれ、同情sympathyであれ、愛loveであれ」、どのような形かは問わず、神経症者は「受け入れられることacceptance」を強迫的に必要とする (ibid., p 227= p. 295)。彼は、「さまざまな形の受け入れられている状態を表す包括的な用語として愛という言葉を用い」るのである(同)。
神経症者にとっての、他者からの愛とは、「受け入れられる」こと、なのである。彼の描くacceptanceの様相は、神経症快癒ともかかわって、非常に重要な論点であるため、これは第3章にて詳しく取り扱うこととする。

3)neurotic needが、愛をloveから疎外し、affectionにする
問題は、彼が経験した「愛されなかった」というそれがあまりに外傷的であるがために、神経症者が「安心感」――つまりそれは、「自分が確かに愛されているのだ」、という安心感である――を神経症的に求めることである。つまり、彼はすなわち愛は愛でも、「安心感を与えてくれる」愛を求めているのである。上に記した「受け入れられる」という表現がそのことを如実に表しているだろう。ホーナイの記述の中にもあるとおりで、神経症者の考える愛とは、「安心感」を目的とし、愛情がその手段とされているところに、彼が神経症構造の中にとどまり続ける因子があるのである。はじめにあるのはloveとしての愛情である。もちろんそれはneedの対象になってしかるべきである。愛情は、needがまず存在したうえで、しかしながら、それがneuroticな側面を帯びるときにはじめて、loveではなくaffectionとなりうるのである。Neurotic need が愛をloveから疎外し、affectionにすると筆者は考える。

4)攪拌される「愛されない」という確信
ホーナイはこの点について、神経症者の考える愛が、本来的なそれとはひどく異質であると考えている。つまり、彼は「愛が与えることができる以上のものを愛から期待したり(『完全無欠の愛』)、あるいは愛が与えることができるものとは異なったもの(たとえば、自己嫌悪を軽減してくれること)を期待したりする」のである(ibid., p300= p. 402補足はホーナイによる) 。
 愛の中に、こうした諸要素が含まれていることは、すなわち、次なる悲劇を引き起こす。神経症者が愛に対して与える意味づけが、彼に「愛されない」という確信を根付かせるのである。
全ての始まりは、「愛されない」という経験であった。あらゆるものを拒絶し、懐疑のまなざしを向ける彼が唯一信じているものは、「自分は人から愛されないという深くしみついた気持ちingrained of being unlovable」である(Horney 1950¬:299=1998:400)。ホーナイによると、それは特定の他者からという意味ではなく、「誰も彼を愛していないし、愛することもできないだろうという、無意識的な確信」のことを指している(同)。確信は一般化されている。
なおかつ「愛されなかった」経験が、彼に愛情が含有する諸要素を変更させる。つまり、「安心感」を与えてくれるような、たとえばそれは上にみてきたような、関心 attentionであれ、承認approvalであれ、感謝gratitudeのような形のものを含んでいないと、彼はそれを愛とはみなさなくなるのである 。
さて本題に戻ろう。以上のような背景があるがために、神経症構造の中の愛情は、愛情ではなく「愛情への神経症的希求」という表現がなされているのである。つまりそれは、神経症者の描く愛情が、神経症的な意味で異質であるがためなのである。神経症者の描く、他者に対する愛情とは、「犠牲」なのであり、他者から与えられる愛情とは、つまり安心感を与えてもらうことを最優先事項にするため、「愛が与えることができる以上のもの」を期待するからなのである。他者に対する愛情と、他者から受ける愛情、その二つには「自分は愛されないのだ」という確信と、そして「受け入れられたい」という欲求がしみついている。ゆえに、彼の愛情は、愛情として成就されることはないのである。それはいつまでたっても、単なる希求の対象でしかないのである。
問題は、彼が受け取るもの、そして与えるものが、愛loveに酷似している点である。そうした類縁性を持つことが、問題なのだ。それは悲劇的な酷似性ではあるまいか。愛情と、そして神経症的情愛希求。そのアナロジーには、決定的な亀裂が走らなければならない。

第3節 主観的愛情存在と客観的愛情不在
「愛が何であるかをのべるのは、非常にむつかしいが、何が愛でないか、どんな要素が愛とは異質であるかは、はっきり述べることができる」と彼女は言う(Horney 1937=1973: 93)ホーナイは、その要素として様々な点を挙げている。たとえばそれは、これまでみてきたような神経症者の「敵意」であったり、あるいは、安心感を得るために他者をその集団、道具とすることであったり、自分を愛してくれないであろうという彼の持つ他者への信頼喪失であったりする。こうした事実は、愛の不在の証拠なのだとホーナイは指摘する。それは「愛ではない」、と(ibid., = p.94)。神経症的希求の対象となる情愛は、しかし情愛ではないのである。
より詳しくみてゆこう。確かに神経症者自身は、自分が愛に満ち溢れた幸せな人間なのだという主観を――つまり、理想化された自己の現実化の過程でつくりだされる、彼がすがりつく妄想ともいうべき主観――を抱いている。ホーナイはこのことに関して、「自分が他人を必要としていることを、自分が特定の個人や人類全体を愛しているしるしなのだと誤解する」としている(ibid., = p. 97)。他者を必要とするがゆえに、彼は対象に依存し、固執し続けることを我々はこれまでに見てきた。
しかしながら、第1章で記したことであるが、神経症的ではない「愛情」とは「成長」を伴うものであった。ホーナイの定義を土台にすれば、この「愛」によって個人は他人ともに「成長」し、「真の自己と一体になって成長できる」とされている(ibid.,= p.1-2)。ここでいう「成長」がいかなるものなのかは、第5章にて詳しく考察するが、ここで取り上げたいことは、「成長」の概念の中に、少なくともこれまでみてきたような神経症構造の中の自己破壊的要素がそこに含まれていない、ということである。「愛情」は「成長」を伴うものである。神経症者は「成長」しない。
客観的には、確かに愛情loveが欠如している、ということをおさえた上で、しかし筆者は、主観的にはあくまでも「愛」なのである、ということをここで留意しておきたいと思う。ホーナイは、神経症者自身を傷つけるその構造を確かに憎み、「真の自己」の「成長」を阻む神経症的愛情希求の在り方をなんとしても変えようと試みた。しかしながら、客観的にみて、それは愛情ではないのだ、という断定にとどまることは、彼の主観を疎外することになるのではなかろうか。それは、あらゆるものを疎外し、あらゆるものから疎外され、追い詰められている神経症者が、命綱としてすがりついている、「自分は他者を愛しているのだ」という最後の妄想的救いをすらも疎外することではないのか。精神分析学とは共感の科学なのであるから、客観的状況分析にとどまることを許されはしない。
神経症者は「愛されなかった」ために、「愛し」「愛される」ことを爾時切望しなければならない。それは彼の生存の関わることだからだ。文字通り命がけで、彼は自分を守ろうとしている。「愛されなかった」経験は、身を切り刻むような痛みの体験として内部に残り、個人は個別的な疼痛を抱え続けることになるだろう。しかし、これまで見てきたように、彼はそうした痛みを訴えることをしない。それは、そうしたことが対象からの愛情を受ける性質ではないと彼自身が判断を下すためでもあり、そして同時に、そうした自己犠牲が、彼にとっての他者に対する愛情の表現であったからである。それは筆者なりにふみこんで考えれば、次のような状態に換言することができる。たとえば、「愛されない」経験が、自分に痛みを与えたのだという表現が、つまり自己犠牲をせずに対象とかかわるということそのものが、その他者を「傷つけはしまいか」と神経症者自身が危惧するからである。つまり、自分に痛みを与えるような「あなた」を、「わたし」は「愛さない」というメッセージに変換されることを神経症者は忌避したいと考えているのである。「愛されない」という経験が、その主体に与える壮絶なまでの痛みは、神経症者自身が一番よく知っている。そのような悲劇的な経験を、彼の二人称に対してどうしてさせることができようか。
もちろんそれは彼がつくりだした、理想化された自己の持つ一側面にすぎないかもしれない。しかし、彼は他者に対する愛情故に、自らの傷と痛みを、その他者に気付かれないように、静かに受容するのである。神経症者にとって、それは主観的には「愛」以外の何者でもないということは、この構造の中では必然なのであり、その主観は殺害されることを回避されなければならないと筆者は考える。
そして同時に、以上のような背景がある故に、ここでひとつの反駁が可能になるであろう。すなわち、筆者がここで指摘したいことは、ホーナイが記していた真の自己、という表現方法は適切ではない、という点である。真の自己には、当然ホーナイが抱いていた主観が入っているであろう。すなわち、真の自己とは、実現されてしかるべきものである、という主観が、である。神経症も疎外もそこに付随する無力感も、それらが個人から切断され、彼の生きる世界に存在しなくなったとしたら、それは本当に幸運なことであろう。彼女の主観には、もちろん筆者も同意することができる。しかしながら、それに対して「真の」という形容詞を付着させることは、ふさわしくない。それは、神経症者の主観を汲むことにはならないからである。神経症というある種の「病理」現象の中の問題を最もよく知っているのは神経症者その人であり、彼の主観をくみ取る、ということをおろそかにしてしまったのでは、問題の本質をとらえることはできない。「真の」という形容詞が持つ最大の問題点は、その「真」という言葉が、彼が抱く、確かに自分は対象を愛しているのだ、という主観を汲むことなく冷徹に殺害するからである。真は偽を生産する。神経症者にとっては、神経症者という自分自身こそが、――あるべき「わたし」という意味で――「真の自己」なのである。
 ホーナイは、神経症構造の中の、愛情不在という客観的事実をあぶりだし、考察し、そして論文という形で指摘をした。しかし、神経症者の主観をくみ取ることが、神経症研究の本質的形態であるという――これは筆者自身の見解である――ことを考えると、これだけでは物足りない。ゆえに筆者は、客観的愛情不在を認知したうえで、しかしながら主観的には確かに愛情は存在しているのだ、ということを主張したいのである。
 しかし、主観的愛情の存在は、確かに重要なことであろうが、同時にあらゆる意味において不幸なことであろう。ホーナイが述べていたように、それは単なる「錯覚」でしかないのだから。思い出していただきたい。「情愛への神経症的希求においては、・・・愛しているという錯覚は二次的でしかないthe illusion of loving is only secondary」と彼女は述べていた(ibid., p109= p. 95)。Lovingの内容は、上に見てきたとおりであるが、問題は、その前においてあるthe illusionという言葉である 。主観的に見れば、神経症者は他者を確かに「愛しているlove」のであるが、しかし悲劇的なことに、それは単なる「幻想」illusionにとどまるのである。

第4節 愛情を欲望するのではなく、拒絶を嫌悪するということ
ここまでわれわれは、神経症者にとっての愛情についてみてきた。第4節では、そうした内的感情としての愛が、彼によってどのようにして他者に表現されるのだろうか、ということを考察してみたい。
ここで筆者は、これまで棚上げにしてきた、神経症者の持つ「愛されたい」という欲求にいよいよ切りこんでみたいと思う。彼は重要な他者に愛されなかったがために、まさにそのために愛情を必要とし、欲望し、死に物狂いでそれを手に入れようとする。ホーナイが残した著作集の中にも、そうした「愛されたい」という文言は、神経症者の内面に踏み込んで彼の主観を詳しく考察する際の文章の中に、さまざまな箇所において点在している。
しかし、である。そもそも、彼らが持つ「情愛への神経症的要求 the neurotic need for affection」は本当に「愛してほしい」という形で現象するのだろうか (Horney 1937:102 =1973:88)。その「愛してほしい」という内的な願いが、外界に向かって表出されるとき、つまり他者に対して表現されるとき、それはそのままストレートに、「愛してほしいのだ」という同じ形態でもって表現されるのだろうか、という疑問を筆者はここで抱いているのである。当然のことながら、彼らの要求は自らの生存にかかわるため、壮絶なまでに巨大で絶対的なものになっていることは推察に難くない。しかし、そうした「情愛への神経症的要求」は、「愛してほしい」という内的な言語的表現形態を、本当に採用するのだろうか、という疑念を筆者は抱かずにはいられないのである。神経症者の内面にまで切り込み、彼らの視点でその要求をまじまじと見つめた時、その表現方法は妥当といえるのか、という点を以下に展開してみたい。
 まずは「愛してほしい」という内面に抱えられた言葉を見てゆこう。その要請が意識に浮上するとき、それは「無条件の愛unconditional love」を乞う、という形をとることをホーナイは述べている(ibid., p130-131= p.117)。それは、「私のあるがままの姿を、愛して欲しいI want to be loved for what I am」という願いとして表れるとされている(ibid., p131= p.117 下線は引用者による)。ここまでは、これまでみてきた神経症の構造を考えると、推察に難くない願いである。それはホーナイも記している通りで、「情愛への神経症的要求に認められる特徴の第一は強迫性である」と彼女は述べ、それは「どんなことをしてでも私は愛されねばならない I must be loved at any cost」という形をとるのだということを明記している (ibid., p115-116= p.102-103)。
しかし、問題はこの後である。前述した通り、問題にしたいことは、その内に抱えた要求は、そのままストレートに他者に対して表現されることが本当にあるのだろうか、という疑念である。
ここでこの疑念に応える鍵として、神経症者の心的状態を言語化した文章を引用したい。これはホーナイが手がけた患者自身の言葉ではない。多くの患者たちが語る、多くの言葉の中に共通する核を、丁寧に分析しホーナイがまとめたものである。手がけた患者たちが漠然と感じていることを、彼女は以下のように実に見事に表現している。

「私が望むものは非常に少ないが確かにある。人々が私に親切にしてくれて、助言を与えてくれて、私が貧しく、無害で、淋しく、他人を喜ばせよう、他人を傷つけまいと、懸命になっているのを、ただ理解してくれればそれでいいし、そうでなければならない
 what he wants is so little, only that people should be kind to him, should give him advice, should appreciate that he is poor, harmless, lonely soul, anxious to please, anxious not to hurt anyone’s feelings」(ibid., p106= p.92 下線は引用者による)

 神経症者が抱いているこうした心的状態は、彼の幼少期の経験と現在置かれている状況を鑑みれば、当然のものであると考えられよう。しかし筆者はそこに横たわる、この状態のもつ非現象性を問題にしたいのである。ホーナイは、上記の要求を、そのまま「愛してほしい」という言葉に翻訳した。しかし、筆者はさらにこうした考察を一歩深め、神経症者の主観に切り込んだ考察を展開したい。
 注目していただきたいのは、原語にあるlittleという言葉である。筆者が注目に値する事柄だと考える点はすなわち、littleの前にaが付置されていないという点である。つまり、「少しある」のではなく、「ほとんどない」という点である。彼が求めるものwhat he wants、すなわち、「愛してほしい」という願いは消極的な側面を帯びているということが、ここでわかるのである。つまり、littleであるがゆえに、消極的な形をとって、顕現するのだ、ということを筆者はここで指摘したいのである。
 論を元に戻そう。筆者が提出したい疑問は、つまりこうした消極的意味を持つlittleという概念が、それが他者に対して表現されるときに、果たして、「愛してほしいI want to be loved」の中に埋め込まれている、このあまりに能動的なwantにまで到達するのか、というものなのである。神経症者の、情愛への要求の中には消極性がその本質として存在しているではないか。つまり、筆者が考えるに、神経症者が自己消去的葛藤解決策によって行っていることは、「愛してほしい」という「要求」を顕現することではなく、「愛してくれなくていいから、嫌わないでください」と静かに乞い望むことなのである。これはホーナイの議論を修正するという意味での新しい論点として、筆者はここに提起したい。これはホーナイ自身が記した情愛希求の中には描かれなかった言葉である。Little の中に隠された、「ほとんどない」、つまり、残されたほんのわずかな要求の残滓が、言葉として表れてくるときに、「愛してほしい」ではなく、「嫌わないでください」という形で表れてきてしかるべきではないかと筆者は考えるのである。前述した、affectionになぜ動詞の形が存在しないのか、という問いに応えるならば、つまりはこうした背景があるためなのである。Affectionを抱いたとしても、それがそのまま「愛してほしい」という要求に「動か」ないために、動詞としてのaffectには、名詞と同じ「愛する」という意味が不在しているのだと考えるのである。
 もちろんその「嫌わないでください」という表面的な現象形態は、規範的な側面を潜在的には有しているであろう。なぜならそれは、shouldという強烈な願いに裏打ちされたlittleである。しかしながら、そのshouldは、あからさまに表現されることはない。
littleを、I want to be lovedに換言することを筆者は不可能であると考える。そもそもI want to be lovedは、受動態である以上、loveという動詞の行為者が必要になる。それは当然、神経症者Iの情愛対象である。つまり、I want to be loved を言いかえると、そこに情愛対象としてのyou が出現するはずなのである。よって、I want to be loved はI want you to love meと言いかえることが可能である。能動的な、いささか強制的・命令的ですらあるこの言葉は、ホーナイの考察の中であちこちににじみ出ている言葉である。具体的に記すのであれば、本稿の冒頭で記した、神経症的パーソナリティの定義などがそれに該当しよう。彼女の定義によれば、そうしたパーソナリティとは、「すべての人に愛されたいと望み、他人のすべてに屈従しようとする欲求に駆り立てられながら、同時に、自分の意志を他人に押し付け、人々に無関心であろうとする要求に駆り立てられながら、人々の情愛を渇望することになる」人々のことであった(ibid.,= p85-86 下線部は引用者による)。着目していただきたいのは、「自分の意思を他人に押し付け」という文言である。ここでいうところの意志が、愛を欲しがるという内容の意志なのであるが、問題はそのあとに続く動詞である。「押し付け」る、というこの動詞に、疑問を抱くのである。「愛してほしいI want to be loved」は、littleに対応させる言葉としては不適当ではないか。
 これまでの考察を思い出すと、情愛を乞うことが、彼の最優先しなければならない行為であったことを我々は詳細に見てきた。そして情愛を乞うということは、対象の望むような自己でもって対象と関係する、ということであった。I want you to love meという命令的な要求が、つまり、shouldという規範的強制が、果たして、対象に愛されうる性質をもっているだろうか、という反語を筆者はここで提出したいのである。神経症者自身の視点からみると、「愛してほしい」という言葉は黙されなければならないと筆者は考える。それは彼にとって異邦な言葉であるからだ。故に、愛を乞う願いが他者に表現される際、現象的には「嫌わないでください」という形態を取るのだと筆者は考える 。

第一章 その2

2012-03-06 19:07:13 | 修士

第6節 自己嫌悪と自己軽蔑
続いてホーナイは、こうした他者理想化と、罪悪感をおさえたうえで、第3節でみてきた自己理想化が、「自己嫌悪self-hate」と表裏一体であると分析している(ibid.,p110= p.136)。「理想化された自己」に近づくためには、今ある「現実の自己」の存在は邪魔なだけなのであり、神経症者は、理想化の過程で自尊心を抱くと同時に、それ故に、理想化の達成を阻害する「現実の自己」へ嫌悪感を覚えるのである。ホーナイはこの状況を以下のように簡潔に述べている。「今ある経験的自己は敵意ある余所者にみえる。理想化された自己は、この余所者に憎悪と侮蔑の念を向けるのである。今ある現実の自己は、こうして自尊心をともなった理想化された自己の生贄になってしまう」(ibid.,= p.138)。
ホーナイはこの表裏一体の現象を、「自尊心のシステム the pride system」と名づけ、分析を続けている。システムの中で神経症者は現実の自己を嫌悪し続けるわけであるが、その「自己嫌悪self-hate」という事実が、そこに「冷酷で残虐な戦闘cruel and murderous battle」が行われている証であるとホーナイは指摘する(ibid.,p114= p.141)。戦闘は「理想化された自己」と「現実の自己」との間で戦われ、「理想化された自己」がその戦闘に常時勝利する。それは前述したように、疎外によってつけられた傷を癒すためには「現実の自己」が勝利しては不都合だからである。
なおかつ、神経症者の中に存在している「理想化された自己」は破壊的な憎悪を持つが故に恐ろしく強いのである。どのような憎悪か。それは、「理想化された自己」に反する「現実の自己」が存在しているがために産出される憎悪である。「理想化された」自己は、「現実の自己」を憎悪する。「なりたい私」と「今ある私」の間に立ちはだかる巨大な差異と矛盾に対して、憎しみを抱く。ホーナイは、そうした憎悪に対して「現実の自己」は全く「無力helpless」であると記している。なぜならば、「現実の自己」も同様に「理想化された自己」を現実化することを「望む」ためである。
しかしながら、「理想化された自己」が「現実の自己」にたいして抱く「激怒rage」は、最終的には「無力impotence」であるということも忘れてはならないとホーナイが指摘する(ibid.,p114= p.142)。たとえどれほど自己を嫌悪し憎悪しようとも、今生きてくために、「理想化された自己」は「現実の自己」に「依存」しなければならないからである。
こうした自己嫌悪は、先に記した「べき」の専制とも結びついていることがここで判明する。つまり、自己へ向けられる様々な過剰要求に応じきれないと認識するやいなや、神経症者の内部に自己嫌悪が噴出するのである。「ある意味で自己嫌悪のすべての形式は、満たされなかった<べき>からの制裁である」とホーナイは記している(ibid.,= p.154)。しかしながら、こうした自己嫌悪は意識の領域にまで浮上してくることは決してない。自己嫌悪はしかし、あくまで無意識的な過程なのであるということを彼女は記している 。
続いてホーナイは、自己嫌悪が「自己軽蔑self-contempt」として表現されるという点を取り上げている(ibid.,p110= p.136)。彼女自身はこの言葉を「自信をなくす様々な方法を総称するもの」として取り上げている(ibid.,= p.166)。たとえばそれは自己へ対する疑念や不信、嘲りなどがそれである。ホーナイは、こうした自己軽蔑がもたらす顕著な結果がおおまかに三つ存在すると述べている。
 自己軽蔑がもたらすホーナイが記した第一の結果は、神経症者が人間関係において「傷つきやすく vulnerability」なること、そして同時に世界に対する「不信感」を強化することである(ibid.,p134= p.169)。自己軽蔑があるが故に、神経症者は他者の拒絶にひどく敏感になるとされている。彼は自己軽蔑のために自分に対する根深い「不信感profound uncertainty」を強化しているのである(ibid.,p134= p.170)。ホーナイいわく、「彼はあるがままの己自身を受け入れることができない。だから、他人は自分の欠点を十分承知の上でよい面を認めて友だちとして受け入れているのだということが彼にはどうしても理解できない」のだという(ibid.,= p.170)。こうした自己軽蔑は、彼自身と対人関係に侵食し、ひいては他者からの好意も額面通りに受けとることを不可能にする。褒め言葉が皮肉に聞こえ、同情が憐れみであると感じるようになる。先にも記したが、自己軽蔑は神経症の過程において必ず「投射」される。ホーナイによれば、神経症者は確かに自己軽蔑によって苦しんでいる。しかしながら、彼にとって自分が自分を軽蔑しているという事実よりも、他者が自分を軽蔑しているほうが苦しみはより少ないため、結果として必然的に「投射」が起こるのである。
 第二の結果は、他者の非難を過度に受容する態度に現れる。神経症者は他者から侮辱されたりだまされたりしても、そのことを自覚することさえしない事実をホーナイは指摘している。「その要因の中で本質的なのは、自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間だという確信をいだく故に無防備な状態にさせられていることであるessential among the factors producing it is the defenselessness produced by the person’s conviction that he does not deserve any better treatment」と彼女は言う(ibid.,p136 = p.172)。彼の受容は、彼の防衛の表現なのである。
 ここで、筆者はこのホーナイの考察を補足したいと考える。ここまでの議論は、「愛されない」という経験内容を考えると、確かに起こりうることであるし、下手をすれば必然ですらあるかもしれない。「自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間だという確信をいだく」ことは、確かに彼が無防備であることの因として適当なものであると筆者も同様に考える。しかし、本研究においては、神経症者の主観にまで切り込んで考察することを目的の一つとしている。彼の側から見た時に、彼自身の、ある種劣等感とも感じ取れるその確信は、果たして無防備さの要因である、という考察にだけとどまってよいのだろうか。つまり、その確信は、神経症者にとっての何らかの順機能を有してはいないだろうか、との問題をここで筆者は提起したいのである。その機能の中身を、以下に詳述しよう。
 筆者が考えるに、確かに「愛されなかった」経験は、彼自身の中に以上のような確信をもたらすであろう。さらに噛み砕いて表現すれば、「自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間」なのではないか、という言葉はすなわち、「自分はもしかしてだれにも愛されない人間なのではないか」という言葉に変換することができる。こうした内面的な考察は、彼に凄まじいまでの不安と、悲しみと、そして情愛への神経症的要求を植え付けるであろう。
 問題はここからである。注目していただきたいのはすなわち、こうした「自分がもっと良い扱いを受けるに値しない人間」なのではないかという言葉に対して、それが神経症者の確信convictionであると断定されている点である。自分が愛されない劣等な人間なのではないか、という不安を抱いた個人は、誰しもそうした苦痛から逃れたいと考えるであろう。筆者がここで主張したいことは、神経症者は、その苦痛のまさに解消のためにこそ、不安を、問いという形式ではなく、確信という強固なものに移行させるのではないのだろうか、という点である。彼は、自分が「愛される」よう、自己を理想化し、それを現実化しようとし、つまりは愛される「優等」な人間になるよう彼は努める一方で、しかしそれとは全く正反対に、自分は「愛されない人間である」という劣等であることを認めることにも同様に努めるのである 。「自分は愛されない人間である」と認め、確信することは、「自分は愛されない人間なのだろうか」という恐怖を拭ってくれるのである。実際にそうであるのなら、現実を認め、受け入れ、あるいは諦観すれば、もうこれ以上恐怖する必要はもうどこにもないではないか。つまり、こうした確信は、無防備感の原因であると同時に、神経症者が自ら望まざるを得ない、恐怖の麻痺剤として役立つのである。
 そしてこの先にある第二の機能は、「敵意」の抑圧の箇所ですこし触れたことであるが、情愛に満ちた親和的関係を構築できている、という安心のレプリカを手に入れることができる、というものである。つまり、筆者がここで指摘したいことは、こうした劣等感が彼の抱く「敵意」を潤滑に抑圧することを手助けする機能を持っている、ということである。自分は愛されるに値しない劣等な人間であるのだから、敵意を表出する能力も、資格もないのだから、そうした感情も抱くことはできない、と自分に言い聞かせることを可能にするのである。結果として、神経症者は、特定の二人称を喪失することを回避する。もし抑圧がなされなかったらば、敵意は対象への攻撃として表現され、あわよくば神経症者の情愛対象をその対人関係の中から追放する結果を招くのだから。筆者がここで取り上げたい第二の機能は、劣等感は、敵意を抑圧する結果であると同時に、原因として存在している。彼は敵意を抑圧するから自己を劣等として考えるのであり、そして自己を劣等であると考えるから、敵意を抑圧するのである。
本論に戻ろう。最後に、自己軽蔑がもたらす結果としてホーナイが挙げているのは、他者からの「愛」によって自己軽蔑を軽減・清算しようとする神経症者の欲求である。これに関しては、神経症概念におけるもっとも重要な点であるため、別に章を設けてそこで論述することとする。
また、自己嫌悪と自己軽蔑は、その背景に「自虐的衝動」を秘めているということをホーナイは指摘している(ibid., = p.187)。それは急性の場合もあれば慢性である場合もある。精神病とは異なり、神経症においては「軽度の自己破壊行動」がその主たるものであるため、たとえばそれは「爪を噛む、身体をひっかく、吹き出物を突っつく、髪を引き抜くなど、おもに『悪癖』とみなされることが多い」とされている(ibid., = p.189)。また、この種の衝動は無意識の領域にとどまっているために、それ自体として意識はされないが、たとえば車の運転、登山の際に無謀な行動をとったりするという軽率な行動、あるいは飲酒や薬物の使用により健康を損ねるなどといった行動として具体的に現象する。ホーナイによると、これらの自己破壊衝動は、深刻な場合には自殺企図としても観察されるケースが存在する。しかし原則として、「死に対する非現実的態度は、自殺を計画し本当に実行しようとする人よりは、むしろ自滅したいという衝動的感情を抱いたり未遂に終わる試みをする人に特徴的 an unrealistic attitude toward death is more characteristic for suicidal impulses of abortive attemps than for those which are planned and seriously tried」なのである(ibid.,p149 = p.190)。こうした諸特徴が、神経症の持つ深刻さを物語ってくれる。

第7節 自己消去的葛藤解決とは
さて、これまで神経症者が抱える凄まじい内的葛藤の内容に触れてきたわけであるが、そうした葛藤の解決策の一つとして、ホーナイは「自己消去的解決策 the self-affacing solution」を挙げている。それは、第1章で少し触れた「追従型」に顕著にみられるものである。この種の解決策を採用する神経症者は、「自分自身を他人に従属させ、他人に依存し、他人の機嫌をとろうとする傾向」を持っている(ibid.,= p.278)。彼は「無力さhelplessness」と「苦しみsuffering」を育み、「援助」と「保護」と「献身的な愛surrendering love」を切望する(ibid.,p215= p.278)。そのような神経症者は、正当性が自らに完全に担保された要求ですら、他者を「不当に利用しているかのように感じ」るとされる(ibid.,= p.279)。そうした他者に対して彼はひどく「無力helpless」 であり、そうした「無防備さdefenselessness」があるがゆえに、しばしば「彼を利用しようとしている人々」の「良いカモ」にされる(ibid.,= p.279)。服従という美徳を逆用して、その他者は彼を虐げる。
こうした彼の抱く根本的感情は、「私がしたいと思うことは何であれ傲慢なことだ Anything I want to do is arrogant」である(ibid.,p217= p. 280)。ゆえに、彼の行うすべての社会的行為は、彼自身のためにではなく、周囲の他者のために行われるのである。また、彼の中に「大きな敵意 much hostility」が生まれることもあるが、しかしながら彼がそれを表出することはないとホーナイは指摘する(ibid.,p219= p. 283)。彼は、「ある人間やある考えやある主義を嫌っていること」を主張できず、必要とあらばそれらと「闘うfight」ことができないのである(同)。「敵意」は無意識の領域に押しとどめられ、間接的な形でのみ表現される。
以上のような自己消去的解決策を簡潔に表現すると、次のようになる。ホーナイの言葉を引用しよう。

「自分自身のためとなると何をするにしても意欲をそがれてしまう一方で、彼は、他人のためとなれば自発的に何事も行うばかりか、献身、寛大、思いやり、理解、同情心、犠牲の究極的な体現者であるべきだという内的命令に従うのである。実際、彼の考えでは、愛と犠牲は緊密に結びついているのである。愛のためにはすべてを犠牲にすべきなのだ――愛とは犠牲である」(ibid.,= p285強調は原著者による)。

――それではなぜ、神経症者はこのような自己消去的解決策を選択するのだろうか。ホーナイはこのことについて、幼児期における彼の環境に注目している。
臨床の現場で、ホーナイは神経症者が幼児期において周囲の他者との葛藤を、彼らに接近するmoving toward themことで解決していたという事実を発見した(ibid.,p221= p. 287)。このような自己消去タイプにおいては、彼は「誰かの陰になって育ったgrew up under the shadow of somebody」のである(ibid.,p221-222= p.287強調は原著者による)。ホーナイは、たとえばそれは「賛美されている肉親」や、「美人の母親」や、「慈悲深いほどに専制的な父親 」や、「ひいきされている兄弟姉妹」などが該当するとしている (ibid., = p.287)。これは神経症者の精神状態を不安定にするものとして、マイナスに機能したものであったが、しかしながら彼が「ある種の愛情affection of a kind 」を得ることは可能であった(ibid.,p222= p.287)。つまり、「従順なる献身self-subordinating devotionという代償 」による愛情である(同)。そうした献身によって、神経症者は「敵意」を抱く。しかしながら、前述したように「敵意」は抑圧される。彼の中で「反抗したいという願望」と「愛情を受けたいという欲求」の闘争が起こったところで、勝利するのは常に後者であることをホーナイは指摘する(同)。
自己消去タイプの神経症者における「理想化された自己」像は、したがってあたかも聖人君主のようなそれになることが極めて多い。彼の「理想化された自己」像 は、「無私的」「善良」「寛大」「謙虚」「高徳」などといった「愛される性質」の混合物であることを、面接の現場でホーナイは見出している(ibid.,= p.288)。(以上Horney 1950¬=1998:286-288要約)

 第8節 必要条件としての愛の不在
 以上がホーナイにおける自己消去的解決法の内容である。神経症者は「愛されなかった」という決定的な経験により神経症を発症し、自己消去的解決を採用することを以上に見てきた。
さて、筆者がここで指摘したいことは、しかしその「愛されなかった」という経験が、必然的かつ絶対的に神経症を招くことはない、ということである。愛の不在は必要条件であって十分条件ではないと筆者は考える。
 はじめに問題を整理しておこう。幼児期の対人関係を、――あくまで確率論的にだが――便宜的に以下の三種類に区分し、これまでのホーナイの考察よりその関係がもたらす結果を記してみたい。
一つは、ある個人がその成長過程において、情愛に満ちた対人関係のみを経験するというケースである。重要な他者に「愛されなかった」という致命的な経験をすることなく、平穏無事に生きることに成功した場合は、当然のことながら、これは発症必要条件すら満たしていないため、主体が神経症的パーソナリティの持ち主になるという可能性は絶無に等しいであろう。
次に、その真逆のケースを想定してみたい。すなわち、ある個人が相互情愛的対人関係を一切経験することのないケースである。「愛される」という経験を全く経験しなかったこの悲劇的な主体は、筆者が考えるに、神経症にすらならないであろうことが予想される。のちに詳述することであるが、神経症は「愛されなかった経験」といった、負の要素のみで構成される疾患ではない。「愛されない」という経験がある一方で、しかし反対に、情愛や希望や安心感なるものを経験することがなければ発症することはないのである。神経症者は、彼に課された葛藤に勝利すべく、彼の戦いを闘っているのである。ホーナイも、その姿を「戦闘」と表現しているが、その戦闘には、かつて経験した神経症的ではないものへの恋慕の情がその起爆力として必要不可欠なものなのである。もし個人がそうしたものを経験しなかったとしたならば、――別の診断名が下されるかもしれないが――少なくとも神経症を発症することは、ない。この点に関しての詳述は、第4章に譲ることとする。
そして最後に、ここが最大の問題点なのであるが、上記双方の対人関係を、並行して経験したケースを考えてみたい。つまり、相互情愛的対人関係を構築することに関して、成功と失敗を双方経験している、というケースである。大部分の神経症者が経験したであろうこのケースは、実に複雑な様相を呈するので、こと細かにみてゆこう。ここでは筆者は、成功と失敗を同じ対人関係の中で経験する場合と、ある対人関係では成功し、また別の対人関係では失敗する、という二つの場合を想定している。こうした場合、想定される結果は以下の二種類である。「愛されない」という経験によって構築された神経症的パーソナリティが、①継続する場合と、反対に②消去される場合である。

1)継続する場合
まずは前者のケースからみてゆこう。相互情愛的対人関係を経験することに成功したにも関わらず、なぜ神経症者は、神経症的パーソナリティを継続させるのだろうか。
その一つの理由として、筆者は、相互情愛的対人関係を拒絶することそのものが――逆説的ではあるが――自らが対象へ情愛を抱いている証、ひいては情愛対象への求愛になるということをここで取り上げたい。
まず、ホーナイが記した、彼の持つ「基本的不安」を思い出していただきたい。神経症者の持つ他者への敵意は、彼が「愛されたい」という欲求を持つが故に、外界に「投射」されるのであった。それはすなわち、「敵意」を抱いているのは自分ではなく、他者なのであるという錯覚を彼に持たせる。他者は情愛ではなく憎悪をこそ自分に対して抱いていると神経症者は考えるのであり、こうした事実から類推するに、彼は、自分の「愛されない」性質も含めて、誰かが自分を友人として受け入れてくれるということに対し不信感をあらわにするだろう。彼は愛されないという例外を、誤って自らの本質であると信じてしまった。ゆえに、自己消去的解決方法によって、運よくある他者からの情愛を手に入れることができたとしても、神経症者は彼の持つ基本的不安によってその情愛を拒絶せざるを得ないのである。
そして、ここで重要なのは、こうした誤認による拒絶が、別の重大な機能を有しているという点である。筆者はここで、ある他者からの情愛を拒絶することは、別の他者への確固たる情愛を抱いているという証明になる、という機能が存在していることを指摘したい。 
つまり、「美人の母親」や、「慈悲深いほどに専制的な父親」の情愛を乞うが故に、その対象以外の人物から供給される情愛を拒絶するのである。拒絶は自己犠牲であり、犠牲は彼にとって「愛」と同義である――「愛とは犠牲である」という言葉を思い出していただきたい――ことをわれわれはこれまで見てきた。拒絶は求愛の表現なのである。
よって、別の他者からの情愛を拒絶することは、自分を愛することなく「虐げた」当の他者に対する情愛の証そのものでもあるのだ。構築された神経症的パーソナリティは、彼に別の他者からの情愛を受けることを拒否させる。
この拒絶は神経症というある種の「疾患」にとって、ひとつの「希望」であるかのように一見みえる。のちにみるように、神経症者は自己消去的葛藤解決策を採用するために、
自分には「力」があるのだという感覚を失っている。他者の望むように自分を変容させ、何事にも服従する姿勢を彼はとる。このことは、彼に「自分が無意味な存在であるという、あるいは自分がろくに存在もしていないという根深い感情である。どんな風にでもそよぐ葦になったような感情である」という感覚を根付かせる (Horney 1937=1973:252)。それは自分が自らの行為の源泉であるとい言う確信を剥奪するのである。
 こうした背景があることを確認すると、他者からの情愛を拒絶するということは、確かにそうした「力」の感覚を回復する試みであるかのように見える。しかし、神経症に完全には巣食われていない証拠であるかのように一見みえる拒絶もまた、あくまで神経症構造の中に未だとどまっているのだ、ということを筆者はここで指摘したい。
拒絶は「力」の回復ではない。拒絶という行為の動機付けを行っているのは、神経症者その人ではなく、神経症者に情愛を供給する主体である他者である。行為の機動力となっているのは、己ではなく他者なのである。もちろん、冒頭でホーナイの考察を引用したように「他者に愛されたい」という動機を持つこと自体は問題ではない。そうではなく、「愛されたい」という欲求が、ホーナイのいう「真の自己」を「殺害」してしまうことが問題なのである。よって、「別の他者からの情愛を拒絶する」という、情愛対象その人が望むであろう自己を生産するために、もともとの「真の自己」が「殺害」されてしまうという点で、筆者は拒絶が「救い」や「希望」の類であるとい言う考察を否定するのである。一見「真の自己」の回復を試みる行為であるかにみえる拒絶も、しかし結局は神経症という構造に回収されているのだ。
同時に、拒絶がなされなくとも神経症的パーソナリティが継続するケースが存在することをここで記しておきたい。ここからはホーナイの分析に戻るが、神経症者は求愛が成功したという事実を「幸せ」に感じ、拒絶ではなくそれを受容するケースがあることを彼女は記している。確かに、疎外や無力感、敵意や屈従といった途方もない代償を支払った神経症者が、その求愛の成功を喜ぶことは想像に難くない。神経症者は、「愛されたい」という欲求と、「自分が愛されるはずはない」という確信の間を常に行き来していることを我々はこれまでにみてきた。そうした事実を鑑みると、「愛されたい」という欲求が強い神経症者の場合、情愛の受容が行われることも想定できるであろう。しかしながら、ホーナイは、こうした受容に関して肯定的な立場をとらない。その理由は、その受容が彼を神経症から解放させるどころか、むしろ神経症を強固なものにするからであると彼女は述べている。「強さと優しさとの両方を兼備した相手」や、「彼の神経症にうまく適合する・・・相手」に運よく巡り合えた場合には、神経症者の苦しみは軽減され、幸福も見出すことができるであろうとホーナイは述べる(Horney 1945=1981:45) 。しかし、と彼女は続けている。「一般には、彼がこの世の楽園を期待する愛情関係は、彼を一層深い不幸へ突き落すだけである。彼が相手との関係の中に自分の葛藤を持ち込み、それによって相手との関係を破壊するからである」(同)。自己消去型の人間が、その性質を最大限発揮するのは、いたわられ守られているという感覚によるものであり、したがって外的な変化に救いはなく、同じように彼は神経症をそこに持ち込むのだ、というのがホーナイの見解である。これは同様に、ホーナイが経験してきた治療の現場においても実際に起こっていた現実であった。その際にしなければならない臨床家の義務についてホーナイは詳しく書き残しているが、この点は非常に重要であるため、第5章として別に章を設け、考察してゆきたい。

2)消去される場合
以上が、神経症的パーソナリティが継続されるケースについての考察であった。次に、それが消去されるケースをみてゆきたい。
ホーナイが残した著書の中で、ごく僅かではあるが、神経症的パーソナリティが消去されるというケースが書き残されている。たとえある一人の重要な他者に愛されなかったとしても、別の他者に愛されることを経験したならば、彼は神経症者としての生を歩むことはないとされている。「たとえば、子供が幸いにも、愛情豊かな祖母とか、理解ある教師とか、よい友達などに恵まれていれば、これらの人々との体験のおかげで、子供は、すべての人間から悪いことばかり予期するまでにはいたらない」と彼女は述べ、そうした条件が揃えば、神経症の温床となる基本的不安は発生しないと記した(Horney 1937=1973: 74)。「愛される」という経験が、「愛されない」という経験を塗りつぶすことも、また一方では可能なのである。
 こうしたホーナイの考察からわかることは、すなわち、「愛されなかった」という経験は、必要条件であって十分条件ではないということである。それは、治癒の可能性が確かに存在するという意味で、神経症の構造にある種の救いを見出すことのできるであると筆者は考える。
しかしながら、ここでさらなる問いが産出される。それでは、「愛される」経験を持つ個人が、神経症を継続させるか消失させるかの分岐点には、いったいどのような条件が存在しているのか、という問いである。
後者のケース、すなわち神経症的パーソナリティを、別の他者から愛されるという経験によって治癒させることに成功した個人は、前者の神経症者と同様に、自己消去的解決策を採用し実行していたはずである。
そうした解決策には、自己疎外という巨大な代償があったことを我々は既にみてきた。そこに犠牲がある以上、求愛の結果与えられたその情愛は、神経症者がかつて経験した神経症的パーソナリティを発動させる犠牲という代償を支払わないと手に入れることのできない、「ある種の愛情」と主観的には同質のもののはずである。こうした他者からの情愛は、偽の情愛という嫌疑を常にかけられてしかるべきもののはずではないのだろうか。なぜ彼らは、前者の神経症者のようにそれを拒絶、あるいは受け入れた上で神経症を継続するということを回避できたのであろうか。
ここで筆者は、ホーナイが挙げた「愛情豊かな祖母」、「理解ある教師」、「よい友達」といった人々をヒントに、彼らが、神経症者から見てどういった位置にいたのか、ということを考えてみたい(Horney 1937=1973: 74)。
神経症者は家庭や学校、職場など様々な準拠集団に所属しているわけであり、そのうちの一つの準拠集団が、神経症の温床となる場となっているはずである。ホーナイ自身は、家庭という場をそのマジョリティーとして考えていたのだが、ここで問題になるのは、たとえばこの家庭という集団の中に、前述した他者たちが存在していたかどうか、ということである。つまり、神経症者が所属している準拠集団が、閉鎖的であるかどうか、という問題である。場の閉鎖性は、神経症者に「何としてもここで愛されなければならない」という考えを執拗に根付かせるのではないかと筆者は考える。閉鎖的な集団の中では、神経症者は「孤立」せざるを得ず、外傷的な対人関係を構築することを余儀なくされるのではないか。
ここで取り扱われている種類の神経症の研究領域からははみでるが、かの有名な『心的外傷と回復』を記したJ・ハーマンの記述の中に、この「孤立」に関する重大な指摘が残されている。以下に引用しよう。

孤立している捕囚の人は仲間との絆をつくる機会がないので、ペアのきずなが被害者と加害者との間につくられてもふしぎではなく、この関係が「生き残りのための基本単位」のように感じられても不思議ではない。これが人質の場合に生じる「外傷的なきずな形成」であって、人質は誘拐犯を救済者とみて、本当の救済者たちを恐れ憎むようになる(Judith Lewis Herman Trauma and recovery 1992=1996: 140)。

 神経症ではなく、PTSDの領域における記述であるが、ここで注目したいのは「孤立」というキーワードである。ハーマンが述べているように孤立こそが、「被害者 」、つまり神経症者と、「加害者」、つまり、「本当の暖かさと情愛genuine warmth and affection」を欠如した情愛対象との間に神経症的な対人関係を構築・継続させる最大の要因なのである。
 ただし、ホーナイが取り扱ったクライエント達が、こうした閉鎖的な準拠集団に所属し、実際に「孤立」していたかどうかは不明である。彼女は、自身が残した研究論文の中でほとんど事例を取り扱うことをしてないためである。「事例資料を提示しなくても、私の主張の妥当性を確かめることは、専門家にも、一般の読者にも可能である。もし、読者が注意深い観察者であれば、私の仮説を自分自身の観察や経験に照らし合わせて、それに基づいて私の主張をしりぞけたり、受け入れたり、修正できたりするばずである」というのがホーナイのとるスタンスである (Horney 1937=1973: )。
 故に、この「孤立」が神経症発症のために十分条件であるかどうかは、現段階では実証不可能であるため、今後の課題として引き取っておくこととする。

第9節 病的依存とは
こうした自己消去的解決策における神経症者の態度を、ホーナイは「病的依存morbid dependency」と記している(Horney 1950:239¬=1998:313)。どのような依存か。それは、対象と神経症者の関係が「分裂devide」させられた状態での「依存」であるとされる(同)。まずは神経症者が「病的依存」を選択するまでの過程をみてゆこう。ここで指摘されている「依存」の背景には、以下のような状況が存在している。

1)「無力さ」と「救い」としての他者
一つには、葛藤解決の行為主体は、自分ではなく他者である、という彼の主観をホーナイは取り上げている。「救い」の中身を詳述するため、今一度彼の採用する自己消去的解決策の内容を確認しておこう。この解決策は、今まで見てきたように、確かに彼をある意味で「救ってくれる」であろうが、しかしその解決策は、新たな危殆の構造の中へと彼を巻き込む。神経症者は愛されたいと望むが故に、強迫的に他者との衝突を回避しようとする。ホーナイはそうした神経症者の姿を「戦士fighter」たりえないと述べ、その「無防備さdefenselessness」は、他者から自分を守ることを不可能にするのと同時に、彼自身の自己軽蔑や自己嫌悪から自分を守ることをも不可能にしているのだ、と指摘する(ibid., p225= p.292)。
そういった二重の「無防備さ」を課せられた神経症者は、ではどのようにして自己を防衛するのだろうか。ホーナイはここで、彼が自身の「無力さhelplessness」をその防具として用いるという点を指摘する。彼女は自分の受け持つ患者の中で、自らの「無力さを強調すること」によって、「慈悲をこう」患者がいることを発見し、さらに彼が自己非難をも和らげることを観察したのであった(同)。無力ゆえの苦しみは、彼を「救う」のである。
 しかしながら当然こういった防衛手段は最終的解決を彼にもたらすことはしない。愛を乞うがゆえに行われるさまざまな自己矮小化の過程が、無力による防衛もむなしく、彼を「深層において不安定insecure」にしてしまうとホーナイは記している(ibid., p225-226= p.293) 。そのため、彼は深く強い「安心感reassurance」をますます必要とし、自分が愛されているという感じを他者から与えてもらうことによって、「自らの内的な立場を強めてもらおう」と強迫的に他者を求める(同)。第二の防衛は、他者からの「愛」なのだ。ホーナイはそうした神経症者を観察し、そして断言している。「彼の救いは他者にある His salvation lies in others 」(ibid., p226= p.293強調は原著者による)。こうした背景があるために、彼の持つ他者志向性はしばしば「狂気じみた」ものになる。ゆえに、彼は、こうした対人関係に病的に依存することに存するのである。(以上、Horney 1950¬=1998:291-293要約)。

2)理想化された自己像による脱却阻害
 次に、「理想化された自己」像による、病的依存からの脱却不可能性という背景に触れておこう。神経症者の情愛対象となる他者たちのなかに、その無防備な自己消去的解決策の姿を利用しようとする人間が存在することはすでに述べた。しかしどのような他者であれ、神経症者は彼の愛情を何としても獲得しなければならず、故に自分がいかにひどく扱われようとも、反逆することは決してない。これほどにまで「無防備な」人間は、誰かを搾取したいと考える他者にとっては、まさに「良いカモ」なのだ。実際に彼は「虐待を受けることが多く」、また同時に「虐待を受けていると感じること」があるのだが、しかしながらそれは文字通り「感じる」ことにとどまり、その対象関係からの脱却という「行為」にまで至ることは決して、ない(ibid., = p.295)。ホーナイはここで、その要因として彼の中にある「内的命令」を挙げている。つまり、先ほども少し触れたが彼が心服し続ける理想的自己が下す「内的命令」の一つに、「万人を愛すべきだ」といった「愛される」ための命令が存在しているのである(ibid., = p.70)。そうした命令のために、自己消去タイプの神経症者は、善であると彼が信じた他者へしがみつき続けるのである 。そのため、彼は常に「真の友情friendlinessと偽りの友情とを区別することができない」(ibid., p226= p. 294)。搾取されたところで、彼はその対人関係にしがみつき続けるしかないのである。

3)被虐待感と依存
 また同時に、そうした破壊的な対人関係が彼に与える「被虐待感」が、彼にとっての「救い」として機能しているという背景がある。自己消去タイプの神経症者の持つ特徴を、ホーナイは端的に表現している。すなわち、「彼は愛情affectionを切望しながら、たいていの場合虐待されていると感じているfeels abused人である」ということだ(ibid., p230= p. 300)。虐待されているという感情は、第一に前述したような彼の「無防備さdefenselessness」に由来する。彼の「理想化された自己」へ近づこうとする努力が、彼から身を守るすべを奪い、彼に無防備感を与え、そして事実彼は無防備なのである。それと同時に、ホーナイは主張の非充足を原因の一つとして挙げている。神経症者の屈従の姿はそもそも情愛を乞う求愛の姿であった。「愛してほしい」という強大な権利主張を彼は抱いているのだが、しかしながらそうした主張が常に満たされるとは限らない。そうしたとき、彼はまず「虐待された」と感じる。しかしそうした認知の結果引き起こされるのは激怒ではなく、彼の持つ理想化された自己と内的命令により、自己憐憫に帰結するのである。そして何よりも、彼の持つ「自己軽蔑が外在化」されることが、被虐待感を強めることに寄与している。それは勿論、自己嫌悪から自分を守る防衛の手段に他ならない。彼は自分自身が犠牲者であると感じることで、自分を防衛していた。しかしながら虐待の主体が自己から他者へ移行するだけであるため、虐待されているという感じは軽減されるまでも消失することは決してないのである。

4)愛情希求と、防衛の手段としての痛み
犠牲者でありたいと願う欲求は非常に強固であるとホーナイは述べている。神経症者は誰かが自分を救おうとすると、それを全力で拒絶する。それは、残虐で恐ろしい世界の中で、永遠に苦しみ続ける誇り高い犠牲者なのだという彼の防衛手段を剥奪してしまうためである。苦しみが自己を防衛するという機能的側面を持つが故に、神経症者は被虐待感を「歓迎」することがしばしばある。それと同時に、虐待され苦しむことは彼の「敵意の表現」であり、直接的な表現として現象せずにすむのだとホーナイは指摘する。「見てごらん、あなたのおかげで私はこんな苦しい目にあっている」という神経症者の言葉が、その事実を端的に物語っているだろう(Horney 1937=1973: 240)。このようにして彼の攻撃性は隠蔽され、同時に「穏やかであれ」という内的命令に従うことが可能となる。そして虐待されることによって、彼は「正当な根拠に基づいて他人に対して敵意」を抱き、それを継続させることに成功するのである(Horney 1950¬=1998: 303)。こうした背景によってもまた、病的依存は継続されるのである。

5)「両価的」な態度
しかしながら、今まで見てきたようにホーナイの神経症論に一貫しているのは、神経症者が持っている神経症的諸特徴のすべてが、彼自身によって意識されることがない、という点であった。ここでも同様に、抱かれた敵意は意識の領域に浮上せず、彼自身によって自動的に抑圧される。そうした「敵意」は、ホーナイによれば「自分が誰からも愛されない人間だ」と彼に感じさせ、かつ彼の「理想化された自己」に矛盾するものだからである (ibid., = p.303) 。このような神経症者の態度は、他人に対する「奇妙な両価性ambivalence」として現象してくるとホーナイは分析する(ibid., p233= p. 304)。つまり、先にみたように彼の表面的な態度には、他者に対する「信頼」が優勢なのであるが、しかしその底には「怒り」が押し込められ、内的緊張を継続し、結果「両価的」な態度を形成するのである。

6)自己放棄の欲求
そして病的依存における最大のカギとなるのは、神経症者のもつ「自己放棄」の欲求、と抑圧された「敵意」である。この病的依存関係において、特に注意を惹くことは対峙した他者が健康的な相手ではない際に起こることである。それは「依存性の相手がゆっくりと苦痛を感じながら自己を破滅させる危険」に瀕するものであり、こうした「病的依存」の関係 は、「相手を誤って選択する」ことから始まるとホーナイは指摘する(ibid., = p.318)。病的依存関係において、その他者は神経症者よりも強く優れている印象を例外なく彼に与える。たとえばそれは「独立している」とか、「自足している」とか、「傲慢さや攻撃性」をひけらかすとか、「自分の優越性に対する不敵な確信を持っている」といった諸属性であったりする(ibid., = p.319)。今までみてきたように、こうした特徴は、自己消去タイプの神経症者には決して観察されえないものたちである。ホーナイはここで、それらの特徴が神経症者の欲求を肩代わりすると指摘する。すなわち、自分自身によって抑圧されたさまざまな自己拡張的性質を、目の前に対峙したその他者は持っているのであり、それゆえに神経症者はその他者を過大評価し、「とりこになる」(ibid., = p.318)。それらの特徴が、彼には手の届かないものであるからこそ、それに魅了されるのである。外在化された自己拡張的性質は、他者の中に発見され、神経症者によって賛美の対象となる。ホーナイはそうした病的依存を、以下のように端的に説明する。「高慢な人間を愛し、相手と同一化し、相手を通じて代理の人生を生きることによって、彼は人生を支配する力を自分で所有することなく、それにあずかることができるようになるのである」(ibid., = p. 320)。他者のもつ傲慢さと攻撃性に魅せられ、同時に「自己放棄」を欲求するが故に、彼はその他者と病的に依存し続ける。ホーナイは、彼女が扱った患者の言葉を記してその根本的感情を説明している。すなわち、「私を横柄さと高慢さから解放してくれた」、「彼が私を侮辱できるということは、私はただの何の変哲もない人間にすぎないのだ」そしてある患者は、「そのときだけ私は人を愛することができるonly then can I love」と述べている(ibid., p246= p.323) 。
こうしたところにも、神経症構造内部で産出され続ける悲劇の片鱗を見ることができると筆者は考える。つまり、上記のような彼らの言葉を深く考察すると、それはすなわち、彼らを愛してくれる人たちからの愛情を受容し、そしてその応答として、その他者たちを愛することができない、ということを意味しているからである。

第10節 他者を愛する神経症的条件とは
神経症者のこうした確信は、ますます苦しめるであろうと筆者は考える。つまり、たとえば犠牲や屈従を引き換えにすることなく他者から与えられた愛情に対して、神経症者は応答することができないからである。彼は確かに他者からの情愛を心から望んでいるのであるが、しかしながらこうした確信があるがために、他者からのそういった情愛を得た時にひどく狼狽するであろうと予想される。つまり、情愛を受けることによって発生する、彼が抱く防衛としての「私は愛されない人間である」という確信が揺るがされるからである。「私は愛される人間ではないのに」といった新たな劣等感、そしてその情愛を与えてくれた他者の期待へ背信するわけにはいかないといった背負いきれない重圧感を背負わせる。もちろんその期待は、他者が抱くであろうと神経症者が推測する期待であるわけだが、しかし彼は「愛とは犠牲である」と信じているがために、その他者がそういった期待を抱いてはいないのだ、という考えに至る能力を奪われている。そして何よりも、必死の思いで抑圧した自己肯定への欲求、つまり「自分は愛される人間である」という確信への欲求が、再び芽生えてくるが故の、それを抑えなければならない彼の焦燥感、それは彼にどれほどの痛みをもたらすのだろうか。
「そのときだけ私は人を愛することができるonly then can I love」と彼が述べているこの言葉は、この語感が与える以上に深刻なものであると筆者は考える。神経症者は、神経症的パーソナリティが発動しないところで獲得した、犠牲や屈従という代償のない愛情に対して、つまり、彼が心から望んでやまないこうした情愛に対して、――おそらくこれも無意識的なものであろう――悲劇的な喜びと、そして結果としての被虐感を抱くのである。
こうした神経症構造の外部から、神経症的ではない情愛を得たところで、彼がその構造の外に出てゆくことは不可能なのである。そうして彼は、その構造の中にとどまり続けるのである。ホーナイも同様に、病的依存関係の過程において、その依存の度合は徐々に高まってゆくと記している。神経症者はその他者を失うことだけを恐れているが故に、その他者と「関係のないもの」は無意味になり、「ほかの人間関係も無視される」とされている (ibid., = p.325)。
そして同時に、神経症者は必然的に相手を「理想化」することもホーナイは述べている。つまり、傲慢で攻撃的な他者との間にしか、彼は「合一感」を見出すことができないため、その他者は強い人間である「べき」であり、自分は服従する人間である「べき」なのである。他者を「理想化」したいという欲求と、「自己を放棄したい」と願う欲求が協力し合い、神経症者は自我を消し去」り、他者のことも、自分のことも、そしてそれ以外の人々のことも、すべてその他者の「目を通してみるようになってしまう」(ibid., = p.332)。病的依存関係からの逃避不可能性を形成している要因の一つがこれである、とホーナイは分析している。当然のことながら、こうした病的依存関係において神経症者がその対象から「愛」を得ることは決してない。ホーナイが出会った数々の患者によると、神経症者はこれまで「多大な投資をしてきた目標」をそうやすやすとあきらめることはできないのである(ibid., = p.333)。ゆえに、「投資」が結果として実らなかったとしても、彼はすぐに「希望を取り戻し、いつか彼は自分を愛してくれるようになるだろうという信念に――反証があるにも関わらず――すがりつくのである」とされている(同)。
 以上のような背景で、神経症者は「病的依存」を作り出し、情愛対象と踊る悲劇的なダンスによってその構造を継続する。神経症者たちは、抑圧された自己拡張欲動を抱えて生きるため、そうした欲動を「肩代わり」してくれる人物を必要とする。それは彼にとって、自己防衛として機能してくれるためである。しかし、この自己防衛こそが、神経症の最大の悲劇であると筆者は考える。つまり、人を愛するための神経症的条件とは――患者の言葉にあったとおりで――自分が虐げられること、なのだ。神経症者が人を愛するのは、彼が対象から愛されていない時だけなのだ。愛されないという条件こそが彼が人を愛するための絶対的な条件なのであり、ゆえに彼は自分を愛そうとする人々を、侮蔑と懐疑の冷淡なまなざしで見つめるのである。これを悲劇といわずしてなんといおうか。
 故に、神経症構造の中の対人関係は、常に外傷的なものにならざるを得ない。この構造から脱却する条件はいかなるものか。この問いは最終章で取り扱うこととする。


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2012-03-06 19:06:34 | 修士
第1章 神経症概念と自己消去的葛藤解決
 
第1章では、ホーナイが生涯を通じて研究し、見出した彼女特有の神経症概念を取り扱い、その位置づけと内容を考察してみたい。まずは神経症概念のどこに彼女の研究が位置づけられるのかを見てゆくこととする。

第1節 神経症概念の歴史とホーナイの位置づけ

 ホーナイの神経症論に入る前に、まずは神経症概念そのものについて触れておきたい。序章で触れたことと少々重複するが、以下詳細にみてゆく。
本稿の主題として取り扱う神経症には古い歴史がある。そもそもは1777年にスコットランドの医師であるW・カレンによって提出されたのが始まりであった。当時は原因や症状の如何にかかわらず神経系統の病気として考えられるものすべてを含む広大な概念であり、現代におけるそれとは全く異質の病名である。
神経症者が発見されるには19世紀の到来を待たねばならない。医師たちは脳や末梢神経に異常がないにもかかわらず、身心に障害を持つ人々がいることに気付き始めた。とりわけ精神医学者たちは、その病因、治療法などについて様々に議論を展開し、磁気病因説を唱えたF・A・メスメルや、J・M・シャルコー、H・M・ベルネームの催眠治療を経て、神経症概念はついにフロイトに委ねられることになる。
彼は『精神分析運動史』の中で精神分析は神経症の解明こそを第一の課題であると記した(Freud S 1914)。フロイトの下した最終的結論は、神経症はリビドー固着による要因と、成人後の偶発的な外傷体験の双方によって発症するということである。当然のことながら、この後さまざまな発展修正がなされるわけであるが、現在神経症の症状は、本能衝動の充足を求めるエス、それを禁止する超自我、現実との間で生ずる無意識的な葛藤に基づく不安に対して、自我が防衛機制をはたらかせた結果生じた妥協形成物と基本的に理解されている(以上、小此木啓吾編集代表『精神分析辞典』岩崎学術出版署,2002:p238-240 要約)。
さて、現在臨床領域で用いられている神経症概念のプロトタイプとなったのはフロイトの神経症論である。神経症研究を学問的に意義あるものにしたフロイト独自の理論と、以上みてきたホーナイの神経症論の相違点を以下に記したい。
相違する点は、当然のことながらホーナイが社会文化的文脈を重視するということにつきるであろう。ホーナイの理論は、基本的に対人関係論 interpersonal theoryに分類される。1930年代からアメリカの対人関係学派によって展開されてきたこの理論は、周知の通り新フロイト派として著名であり、フロイト理論を社会学的に修正したフロム、フロムーライヒマン、トンプソン、サリヴァン、ホーナイらが代表である。
 彼らは生成論的には心の成り立ちを人と人との関係性から導き出すとともに、心的内界についての憶測を可能な限り排し、治療論的には患者と他者との間での対人関係の実際のやり取りを重視する技法を生み出した。こうした積極的な分析状況の取り扱いは、米国の力動的精神医学に水面下で大きな影響を与え続けてきた。
 以上のような相違点がある一方で、しかしフロイト理論を継承した点も確かに存在する。
 ホーナイがフロイトの神経症理論から受け継いだものは以下の二点である。精神神経症という概念と、転移神経症という概念の二つである。
フロイトの神経症理論は不安神経症Angstneuroseから始まる。この概念は、すなわち自我はイドからの衝動を処理しきれない時、抑圧機制を用いるが、それに成功しない時自我は不安を体験し、リビドーは動悸その他の身体症状として現われ、パニック発作のような急性の現れ方もするということをその内容としている。そしてこの概念は、当初フロイトが想定していた性的外傷説がフロイト自身に因って修正されたのち、1896年のリビドー固着による神経症形成仮説に引き継がれるのである。1904年から1920年にかけて精神分析の確立がなされるわけであるが、そのフロイトの仕事の中にも神経症研究はねずみ男の強迫神経症などにみられるように核として位置づけられている(小此木啓吾編集代表『精神分析辞典』岩崎学術出版署,2002要約)。
 そうした一連の研究の中でフロイトが提示した様々な概念の中に、ホーナイが継承した精神神経症と転移神経症が含有される。
 精神神経症psychoneurosisとは現実神経症の対概念であり、幼児期に抑圧された性的欲動や葛藤の象徴的表現という精神的要因のために生じているものであり、転換ヒステリー、不安ヒステリー、強迫神経症などの症状が観察できるものである。ホーナイはフロイトの幼児性欲論を否定したわけであるが、しかしながら抑圧された葛藤を発症要因とする神経症を取り扱うという点において、以上みてきた精神神経症を引き継いでいる。また、転移神経症とは、分析過程が進むにつれ、転移が組織化され、本来の対象との葛藤が治療者との関係に置き換えられて、それによって症状が消長するようになった状態を呼ぶとされる(同)。
 ホーナイ自身もこの治療法を採用しており、転移によって治療終結を目標とした。患者による葛藤の言語化、意識化を目指し、「真の自己」 の発現による自己実現を援助した。
 それでは次に、以上見てきたようなホーナイの神経症論は現在の臨床分類にどのような形で位置付けられるのかを以下に記述する。
 現在、疾病単位としての神経症は、患者が呈するその症状に応じて様々に分類されている。(例:胃腸神経症や外傷神経症、強迫神経症、実験神経症、植物神経症、疾病因性神経症、戦争神経症、等々)。症状によって分類された現在の神経症概念の、一体どこにホーナイ理論は位置付けられるのか。そのキーワードとなるのが、性格神経症と家族神経症である。
 ホーナイが残した神経症概念にまさに該当するのが、第一のキーワードである性格神経症である。
ホーナイは晩年の著書で、神経症は「自己および他者との関係における障害」と定義を換言している(Horney 1950¬=1998: 497強調は原著者による)。その障害の結果生み出されるものが神経症的パーソナリティであり、そして彼女は「神経症は、症状の如何にかかわらず、すべて性格神経症なのである」と述べている(Horney 1945=1981:6)。
それでは現在臨床領域において用いられている性格神経症の概念内容を以下に見てゆこう。性格神経症 character neurosis とは、症状神経症symptomatic neurosis といった強迫症や転換症状などの症状を有するのに対して、これら特定の症状を呈さず、代わりに性格そのものが精神力動的に症状としての意味、つまり精神内界の無意識的葛藤解決のための妥協形成の役割を果たしている場合をいう (小此木啓吾編集代表『精神分析辞典』岩崎学術出版署,2002要約)。ホーナイの神経症論はまさにこの性格神経症として位置づけられる 。
しかし、彼女の議論はここでは終わらない。ホーナイの神経症論が注目に値するのはむしろここから先の議論があるがためである。彼女は、確かに神経症の温床として患者の幼少期における家族関係に着目した。しかし、彼女の議論の真髄は、この幼少期に形成された神経症が、家族関係を超えて別の他者に対しても繰り返し応用されることにあるのである。
 ホーナイが手がけた患者の多くが、家族以外の対人関係で発症した神経症に関しての主訴を持っていた。別の対人関係に持ち込まれる神経症に着目し、その構造解明に取り組んだことが、ホーナイの神経症理論独自の視点である。
 ホーナイ理論はフロイトの理論を修正し、展開し、現在は性格神経症として臨床領域に受け継がれている。神経症は現在様々に議論されている種々の社会問題と因果関係を持ち、ゆえにホーナイの神経症論は現在もその社会問題に対する新しい視座の提供可能性を秘めているという点で、現代的な意義を有するものである。

第2節 神経症と神経症的人格
それではいよいよ、ホーナイが展開した彼女独自の神経症概念の中身を見てゆこう。ホーナイの神経症概念を記した論文は、主として以下の三つである。1937年の『現代の神経症的人格The neurotic personality of our time』、1945年の『心の葛藤Our inner conflicts』、1950年の『神経症と人間の成長Neurosis and human growth』である。年代をみれば判る通り、彼女の記した概念は神経症の歴史において過渡期のものであり、したがって先ほど記した現代の神経症の定義とは少々異なるものである。――ホーナイにおける神経症概念とはどのようなものだったのだろうか。
 彼女が神経症について初めて記した論文、『現代の神経症的人格』の中で、ホーナイは神経症を以下のように簡潔に定義づける。

「神経症とは、さまざまな恐れfearsと、恐れに対する防衛defensesと、葛藤しあう諸傾向に折り合いをつけようとする、さまざまな試みattempsとによって、生み出される心理障害psychic disturbanceである。そして・・・この心的障害が特定の文化に共通する型 the pattern common to the particular cultureから逸脱したときにだけ、これを神経症と呼ぶがよい」(Horney 1937: 29-29=1973: 14-15)。

 以上がホーナイによる定義であるが、もちろんこれは彼女が生きた19世紀前半アメリカという時代的、社会的、文化的影響を受けたものである。自由主義、キリスト教、そして当時勃興しつつあったアメリカにおける消費社会が、彼女の言う神経症に関与していたことは疑いようのない事実であることを同書でホーナイは記している。こうした社会的背景と神経症の関連については、第3章に譲り記述することとする。
 それでは、そうした神経症がつくりだす、神経症的人格 がいかなるものなのかを以下に見てゆこう。神経症に巣食われた個人は、その人格を変容させられる。ホーナイの言葉を用いれば、そういった変容後の人格は「神経症的人格neurotic personality」なるものとして神経症を継続させることに寄与するのである。
 「神経症的人格」とは、と彼女は言う。「すべての人に愛されたいと望み、他人のすべてに屈従しようとする欲求に駆り立てられながら、同時に、自分の意志を他人に押し付け、人々に無関心であろうとする要求に駆り立てられながら、人々の情愛を渇望することになる」人々のことである (ibid.,= p85-86)。 
 もちろん、この定義の中ででてきた「愛されたい」と願う欲求などは、いわゆる「正常」な人間――ここでは単に神経症的ではない、という意味で用いる――でも持つものである。しかしこうした諸特徴をホーナイが「病的」であると断定するのは、すなわちその神経症的人格が、彼の「成長 growth」を妨げるためである(Horney 1950¬=1998:2)。愛を乞うこと自体は、とりたてて目立つ「病的」な問題ではない。そうではなく、ここでホーナイと、そして筆者が問題にするのは、そうした愛を乞うことが、すなわちその主体を自己疎外という悲しい構造の中に巻き込む場合なのである。彼 は愛されたいと願うがために、もともと存在していた自己を、他者が望むような、つまり他者に愛されるような性質のそれに変容させる。自分自身を疎外する、という犠牲を代償にして愛情を乞うがために、それは「成長」を阻害するために、ホーナイはそれを「病的」であると断定しているのである 。
 「成長」の中身をより詳しく見てゆこう。ホーナイは神経症を次のように換言している。すなわち、「神経症過程は人間の発達の特殊な一形式であり、とりわけ不幸な一形式である」(Horney 1950=1998:)。それはすなわち、「成長」からの逸脱であり、発達過程における「建設的エネルギーを非建設的で破壊的な方向」へと変えてしまうためである(ibid.,= p.)。
こういった状況を、ホーナイは総括的に「疎外alienation」という言葉で表現している(ibid., p155= p.198)。――何からの疎外か?それは、「真の自己real self」であると彼女は述べる(同)。
「真の自己とは、内面にある中心的な力Real self as that central inner force」であり、「成長のための深い源泉をなす力」であるとホーナイは記している(ibid., p.17= p.1)。この「力」とは、彼女いわく「自己実現self-realization」に向かって「成長」するための力なのだとされている(同)。すなわち、「自分自身の感情や思考や願望や関心を明確にし、それらを深め、おのれの才能を開発する力を持ち、意志力を強め、自分に固有の資質を伸ばし、自己表現の能力を養い、自発的な感情で他人にかかわる能力」のことである(同)。以上がホーナイの意味するところの「成長」の概念内容である。
こうした「自己実現」が本当に可能なのかどうかは現段階では触れず、これは神経症の治癒ともかかわるために、筆者はその考察を第5章に譲ることとする。本章で詳しく論じてゆきたいのは、「自己実現」を担保する条件と、それが失敗した先に現象してくる神経症である。まずは前者からみてゆこう。
「自己実現」を成功させるためには、その主体に何が必要になるのだろうか。ホーナイはそこで「内面の安心感inner security」と、「自己表現できる精神的自由inner freedomをも与えてくれる温かい雰囲気atmosphere of warmth」の二つを挙げている(ibid., p18= p.2)。こういった条件をホーナイは別の表現で「愛love」と呼んでいる(同)。この「愛」によって個人は他人ともに「成長」し、「真の自己と一体になって成長できる」とされている(ibid.,= p.1-2)。
しかし、ホーナイならびに本論文における考察の主眼はそこにおかれるわけではない。彼女と、そして筆者の関心は、「真の自己」を達成した個人ではなく、「真の自己と一体になる」ことに成功できなかった際の個人におかれる。
 成功できなかった要因とは一体何か。その起源をたどってゆくと、主に幼少期におけるある困難の存在が確認される。その困難とは、主として彼らの身近に存在した「重要な他者に愛されなかった」という困難である。ホーナイは、「根本的な害悪は、いつでも、本当の暖かさと情愛の欠如である genuine warmth and affection」と述べており、そうした「暖かさ」と「情愛」を獲得できない理由は、そもそもその他者が神経症的パーソナリティの持ち主であるという事実に集約されるとしている(Horney 1937:80=1973: 67)。神経症者は愛されなかったという決定的な経験により、自分を愛してくれなかったその対象に「敵意hostility」を抱く(ibid., p60= p.47)。しかし「愛されたい」という欲望は持続するために、その「敵意」は抑圧される。こうして情愛を乞うが故の服従の姿が見られるようになるのだが、しかし抑圧されたとはいえ対象に対する「敵意」は存在している。故に彼に対象を愛することはできない。これが、神経症的パーソナリティの根幹に存在する葛藤の内容である。
 「敵意」の抑圧により、神経症者が真っ先に手に入れるものは「安心感reassurance」であるとホーナイは論じている(ibid., p66 = p.53)。どのような「安心感」か。それは、情愛に満ちた対象関系の構築に「成功している」のだという「安心感」である。もちろんそれは安心のレプリカでしかないのだが、しかし、「敵意」を抑圧することによって、少なくとも彼我の関係内容は悪化することはないのである。こうして「敵意」を意識の領域から追放することに成功するということ、それは、「敵意」の対象である人物を彼が愛していたり、あるいは自分が愛されているという彼が信じたいと思っている妄想を守ることに成功することを意味する 。こうしたある種の「安心感」を持つためには、「敵意」を抑圧することが最も有効な手段なのである。
 しかし、ホーナイはここで抑圧により発生する危険の存在を指摘している。こうした「敵意」の抑圧は、強化と拡散につながると彼女は記す。すなわち、「敵意」を発生させるような状況は抑圧がなされたところで何ら変わらないため、その状況は継続され、結果「敵意」の強化に結びついてしまうということ、そして、抑圧するということはつまり、敵意を自覚しないということを意味し、結果それは「人格から分離dissociation」されたために、無差別的に「拡散するexpand」ということを意味しているのである(ibid., p68= p.54)。
そして彼らが行きつくのは「投射projection」である(ibid., p70= p.56)。彼らは自身の敵意を外界に「投射」するようになるということをホーナイは指摘している。つまり、自分が「敵意」を抱いているのではなく、他者たちがそうしているのだ、という自己正当化をもくろむことを目的にしているのである。そして同時に、その背景にあるのは「報復の恐れretaliation feat」である(ibid., p71= p.57)。他者を傷つけたいと考える個人は、他者も同様に同じことをするであろう、という「報復の恐れ」による「投射」でもあるのだとホーナイは指摘する。
こうして神経症者の中に「敵意」に満ちたおそろしい外界像が出来上がる。そうした像は、彼の中に次のような感情を作り出し、助長する。すなわち、「自分が敵意に満ちた世界にたった一人で無力である」という感情を、である(ibid.,= p.75)。ホーナイはこれが神経症の温床であるとし、それに対し「基本的不安 the basic anxiety」という特別の名称を与えた(ibid., p89= p. 75)。この「基本的不安」により、神経症的人格における葛藤解決は困難となり、彼らはそれに従属しつつけるというのである。
以上が、ホーナイの提示した神経症的人格の概要である(Horney 1937=1973:66-87要約)。

第3節 三つの神経症的態度
愛されなかった人間に、結果として何が起こるのか。はじめに彼は不安を抱き、それは前述したホーナイのいうような「基本的不安」にまで成長する。彼女の分類によればその不安は、「他人を求めるtoward others」、「他人と対立するagainst others」、「他人から逃避するaway from others」、の三つの行動様式のどれかに回収される(Horney 1945:42 =1981:24-25)。ホーナイも記していることだが、当然のことながらこれらの様式は綺麗に分かれることはなく、これはあくまでも理念型であるということをここで留意しておきたい。
さて、第一の態度を要約すると以下のようになる。「他人を求める」タイプの神経症においては、無力感がその根本的な感情となり、神経症者は自身の無力さを受け入れ、他人に対して「疎隔感」や「恐れ」を抱きながらも、他人の愛情を獲得することに努め、他人に頼ろうとする。常にその他者に屈従し、自己を犠牲にし、利他性が前面に現象しているような人間になる。その背景には、のちに見るように非常に強く抑圧された攻撃傾向が観察される。他者への過度な献身とは裏腹に、反抗や寄生や搾取、統制、操作などといったあらゆる欲求が抑圧されているのだ。しかしながら「愛情」を得るためには不必要どころか阻害要因ともなりうるそうした感情は、神経症者によって決して表現されることはなく、表面的にはやたらに同情や感謝をする寛容な人間であるがために、彼は断固として他者を「愛しているのだ」と思い込むのである。彼は他人からの期待に自動的に同調し、その過度な努力が彼に自分が持つ本来の感情を忘却させる。ホーナイは、このようなタイプの神経症を「追従型」として他と区別している(Horney 1945=1981:31-34要約)。
第二の「他人と対立する」タイプの神経症においては、「敵意」がそのキーワードとなる。上に述べた追従型とは全く正反対に、彼は周囲の他者たちが自分に対してみな敵対的であり、そうではない可能性を全く信じようとはしない。彼が住む世界では、弱肉強食が絶対的な規範であるため、彼は「力」を求める。しかしそうした「力」への欲求は、もちろん神経症的な欲求である。そして彼は、他人が自分を攻撃したいと望んでいるということを信じ、彼自身もそれを当然のこととして受け取っている。だからこそ、絶えず攻撃にでてそれを防がねばならないのだと考えている。そうした不安と憎悪と劣等感が、彼「力」を求めさせる。ホーナイの言葉を借りるのならば、それはすなわち「力への正常な努力は強さから生まれ、神経症的な努力は弱さから生まれる」のである(Horney 1937=1973: 149)。そうした「弱さ」から、彼は「他人と対立」するよう努力する。彼にとって、情愛は取るに足らない事柄であるばかりか、単なる攻撃する際の障害物として認知されるため、上の追従型とは全く正反対に、攻撃型は対象を打ち負かすことに全力を尽くすのである。ただし、彼がそうした神経症的な「勝利」を獲得したところで、彼を満たすことは決してない。こうした神経症者の内面に巣食う感情は「空虚empty」であるとホーナイは指摘する(ibid., p207 = p. 214)。残存した感情は、「怒り」、そして「勝利感」のみである。彼の攻撃の姿は、その空虚さを希釈するためのものでもあり、なおかつ自身は、その空虚の原因を攻撃対象にこそあるのだと思い込んでいる。それゆえに、対象に対して同情や憐れみの感情を一切持たないのである。その攻撃対象こそが「空虚」の原因であり、対象こそがその償いをしなければならず、自分の攻撃 により「彼がどのような目にあおうともそれは自業自得な」のである(ibid., = p. 212)。
そして第三の「他人から逃避する」タイプにおいては、「孤独感 solitude」が内面における優勢な感情であり、はじめに記した追従型とは反対に、この種の神経症者は、他人との接触そのものを断絶しようとする(Horney 1945:73 =1981:59)。ホーナイによって「離反型」と記されたこの神経症者は、他人との間に「情動的な距離を」とりたいという内的欲求を持ち、彼らは所属や対決や協力や献身などといった、想定される限りすべての他者とのかかわり合いを拒絶する(ibid., = p.61)。たとえば他者が好意的な態度で自分に接してきた時、彼は「怒り」すら覚えるのである。いかなる体験をも他者とともにすることを徹底的に嫌い、その背景には、自分の心が乱されることへの「恐怖」が存在しているのである。他者から離れることによって、理解することも理解されることも、愛することも愛されることもなく、「平穏に生きる」ことを享受し、独りで眠り、独りで食べ、独りで生きることを彼は好む。孤独が彼の生の表現なのである(ibid.,= p. 60-61)。
 以上がホーナイの記す、神経症の三つの様式である 。

第4節 自己理想化と「べき」の専制
以上に見てきたこの三つの様式は、あくまで理念型であるため、いずれか一つが優勢であるという形をとって、すべて同時並行的に個人の中に現れる。こうした様式が、彼を襲う様々な葛藤から彼を「守ってくれる」のである。しかしながら、これには巨大な代償が付きまとうこととなるのだ。
代償の名前は「自己疎外 alienation from self」である。ホーナイ自身は、この言葉を「彼の真の自己がまともな成長から疎外」されることとして定義し、結果として神経症者は「アイデンティティの感情」を喪失するという点を指摘する(Horney 1950¬=1998:6-7)。すなわち、彼の真の感情や願望、あるいは思考を疎外が踏みにじり、それらが確かに自分のものであるという確信を彼は失うのである。
自己疎外の詳述は第3章に譲ることとする。ここで指摘したいことは、自己疎外の内容ではなく、疎外の結果起こる巨大な「苦痛」である。ホーナイの表現を借りるのならば、「彼は己自身に疎遠になり、疎外され、引き裂かれ」てしまうのである (ibid.,= p. 102)。こうした傷を「癒す」ために、神経症者はどのような方策を採用するのか。ホーナイは、その解決策として神経症者の行う「自己理想化self-idealization」という手段を挙げている。その内容を以下にみてゆこう。
ひどい劣等感を背負った彼らにとって、「自己理想化」の結果獲得することができる、ある種の優越感は傷を「癒す」万能薬である。しかしその解決策は「自己理想化」だけにとどまることをしない。ホーナイいわく、神経症者はついには彼自身が作り上げた「理想的な自己idealized self」に沿って、「現実の自己」 をつくりかえようとするのである。「お前はあらゆることに耐え抜くべきだ。あらゆることを理解すべきだ。万人を愛すべきだ。常に創造的であるべきだ」といった、自らが下す内的命令を至上のものとし、それに絶対的に心服することにより、「現実の自己」を、「理想化された自己」へとつくりかえようとするのである(ibid.,= p.70)。ホーナイはこれを「べきの専制the tyranny of the should」と名づけている (Horney 1950¬:65 =1998: 71)。加えて、こうした「べき」はすべて他者志向的側面を持っていると彼女は指摘する。つまり、彼は自分が何を望むか、ということは全く考えずに、他人が自分に何を望んでいるのか、ということのみを考えて「べき」を生産するのである。
こうした「べき」は、実に様々な形態を取るのだが、いずれの態度にも共通しているのは、その大部分が必ず外在化されているという事実である。つまり、彼に命令を下す「べきの専制」の主人は、彼ではなく彼の周囲に存在してる他者なのである、という認識を彼は持っているのである。彼にとって、「べき」は他者からの命令なのである。
「理想化された自己」に近づこうとする神経症者は、そのためならば「現実の自己」を精神的に殺害・消去することを躊躇することが一切ない。たとえば、自分が善良で愛情にあふれた神聖な人物であるという「理想化された自己」を持っている場合、神経症はその自己に近づく手段としての「偽り 」の感情を内部に出産する。彼はあたかも善人であるかのようにふるまい、しかもそう確信しているためにそれを「真の感情」であると信じることに成功する。と同時に、「理想化された自己」に近づくことに支障をきたすような、「現実の自己」がもつさまざまな感情は不必要なものとして抑圧されるのである。
「理想化された自己」に近づくそうした過程のなかで、彼の中に「神経症的自尊心neurotic pride」なるものが発生するとホーナイは指摘している。彼は、「本物の自身を持てない代わりに、神経症的自尊心というひどくうさんくさい大仰な贈り物を手にするのである」(ibid.,= p.102)。ここでいわれている自尊心が持つ最大の特徴は、それに「実質」が伴っていないという点につきるであろう。つまり、理想化された自己像が持つ特質に向けられる自尊心である以上、それは「現在あるがままの自分」に対する誇りでは決してない。それは、「理想化された自己」を現実化しようとする傾向に対してだけ向けられる自尊心であり、そうした過程においてのみ、彼は自身を誇りに思うのである。

第5節 他者理想化の持つ機能とは
 このようにして、神経症者は情愛を乞うために自身を理想化し、それを現実のものにしようと試みる。そして同時に、ホーナイが指摘していることは、彼が自身を理想化するのと同時に、情愛対象をも理想化するという事実である。
ホーナイは、神経症者がそうした他者理想化を試みようとすることには、文化的要因があると述べている。たとえばそれは家庭において、権威主義的な両親に育てられた子どもの例に顕著にみることができるであろう。「恐れと憎しみをつくりだし、自発的な自尊心を損なうような雰囲気に育つ子供」は、それを用意している両親に対して非難や告発をしない、とホーナイは指摘する(Horney 1937=1973: 233)。それはつまり、「両親は完全であって間違いをおかさない」という態度が、広く文化的に承認されているからであるとされる(同)。そうした「完全である」という規範は、当然のことながら子どもにも注入され、彼もまたそれを受け入れる。こうした背景があるため、「家庭内の人間関係が、親の権威を基礎とする場合には、子供による親への批判は、・・・・禁じられることが多」くなるのである (ibid., = p.233-234)。こうした状況下では、子供は罪悪感を抱かされる。彼は、「両親はつねに正しいのだと考えるようになってしまう。しかし、誰かが悪いに違いないと考えるので、・・・悪いのは自分であるに違いないという結論」を下すのである(ibid., = p. 234)。この罪悪感が帰結するところの一種の自己嫌悪については、次節にて詳細に考察しよう。筆者がここで問題にしたいことは、そうした「親は完全である」という規範が、彼に罪悪感を抱かせ、結果として親を理想化することを子どもにさせるのだ、ということなのである。
より詳細にみてゆこう。神経症者は、その構造のなかで「相手を理想化することを必要とする」とされている(Horney 1945=1981:332)。ホーナイは、他者理想化の機能として抑圧された彼の「自己拡張的欲動」を、代替として経験するという点を挙げている(ibid., = p.319)。
抑圧されて育つ子供が、罪悪感を抱き、そして他者を理想化する、というステップの間には、当然のことながら敵意の抑圧、という過程が入る。それは被抑圧と罪悪感の間に起こることである。上に少し記したことであるが、神経症者は自分を愛してくれなかったその対象に、結果として抑圧される「敵意hostility」を抱く。それは、ホーナイによれば「自己拡張的欲動」の抑圧でもある。そのような敵意によって発生する攻撃欲動の抑圧は、しかしながら対象を理想化し、彼と関係することによって代替することができる。本章の第8節にて詳しく見ることであるが、つまり、神経症者は自らの抑圧された攻撃欲動によって葛藤を持ち、その葛藤を解決するために、他者を理想化するのだ。そうして彼は、その他者と同一化することによって、やり場のなくなった攻撃欲動を充足させようとするのである。ホーナイの挙げる他者理想化の機能とは、抑圧された「自己拡張的欲動」の代替なのである。
筆者は彼女の議論の補足として、ここからさらに二つの機能を付け加えたいと考える。
一つは、これまでにみてきた神経症構造を考えると当然のことなのであるが、それはすなわち、他者理想化とは屈従による情愛希求の表現である、という点である。さきほど記したホーナイのいう機能は、換言すれば、抑圧された敵意が他者理想化によってその抑圧を強化させられる、とうことである。つまり、対象を理想化することによって、彼は対象をこんな正しく、素晴らしく、そして自分を虐げる力を持つほどに強い人間なのだと思い、それは結果として自分は虐げられて当然なのだ、という結論に帰結するのである。それは、抑圧の強化に寄与している。しかしながら、ここでもう一歩踏み込むと、他者理想化における別の機能が見えてくる。
それが、情愛を得るための有効な手段になるという機能である。憎悪と敵意の連環のなかで、神経症者は防衛のひとつとして対象を理想化することを開始した。対象に対する攻撃欲求は、対象を理想化し、賛美し、友好的な態度を絶えずとることに帰結する。あくまで劣等なのは自分なのであり、対象では決してない。そのような行為は他人へのサディズム的な欲求を被覆することに寄与する。その結果、ホーナイが観察したところによると、それは他者に対する過剰なまでの賞賛という特徴を、神経症者は持つようになるという。彼を取り巻く基本的不安や基本的敵意は、深く深く抑圧されているのである。他者の理想化が、その一つの要因なのである。神経症者は「自分が全ての人間をこわがっていることなど想像もつかず、不安とは何のことか知らない」と語る(Horney 1937=1973: 79)。防衛としての理想化は、すなわち「人間は誰しもいい人たちばかりだ」という神経症者のこの言葉に帰結するのだ(同)。しかし、ここで考えたいのは、そうした他者理想化という形態をとるある種の屈従についてである。屈従とは何か。それは、神経症者にとっては求愛の表現である。他者理想化は、彼の屈従の態度を強化する。それは神経症者から見れば、だから愛してほしいという願いなのである。あくまで「悪いのは自分」なのであって、あなたは悪くない、というメッセージを、他者理想化は持っている。それはすなわち、これほどまでに弱く、無防備で、そうして絶対的な屈従の姿を見せているのだから、お返しに愛してほしいという表現なのである。
 しかも、この理想化は、彼の愛してほしいという願いを自己再生産的に強化する働きをも持っているとホーナイは指摘する。それはつまり、いつかその他者が自分を愛してくれるのでは、という期待を継続させることに寄与しているのだ、という意味においてである。理想化という従順の態度を示すことによって、彼は対象に求愛する。しかしその屈従は、もちろん彼にとって大きな犠牲という意味を持つ。そういった悲劇的な意味は、すなわち「これまで多大な投資をしてきた目標を簡単にあきらめる」ことを彼にできなくさせ、なおかつ、こんなにも「優しく」、「良心的」で「強い」対象は、ゆえに「いつか彼は自分を愛してくれるようになるだろう」というあいまいな信念を彼は維持するのである(Horney 1945=1981:333)。
 筆者がここで指摘したい第二の機能は、「自分は本当に無力ではないのだ」という確信を維持することである。以下に詳しく見てゆこう。
第4章にて詳しく論じてゆくことであるが、彼は自分を無力だとぼんやりとではあるが感じている。それは、情愛希求のために屈従の態度を常時とるからであり、彼は自分が他者によってコントロールされているような感覚を覚える。「自分は自分の人生を動かす力ではないHe has he feeling of not being a moving force in his own life」という彼の言葉がそれを如実に物語っているだろう(Horney 1950¬:166=1998: 213)。神経症者は、自分自身で、他者に愛されるような自己を演出する劇を用意する。その劇の脚本家は、神経症者から見ればその他者である。彼が何を感じ、何を思い、どう行為するかは全て対象の意志と意図が組まれていると彼は考える。これはある種の苦痛を神経症者に与えるものであろう。自らの行為の源泉が、自分自身ではないのだ、と確信するようになるのだから。しかし、この絶対的な被制御の中で、彼が試みることはこの喜劇からの逃走ではなく、それとは全く正反対に自分の服従の力を徹底的に証明し、見せ付けてやると意気込むことなのである。それが彼にとって、情愛希求の表現だからであり、しかも筆者がここで付け加えたい機能としての、自分は無力ではないと最後の確信にすがりつこうとするからなのである。他者理想化による服従は、彼にとって局面をコントロールする唯一にて最後の手段であると筆者は考える。
この被制御感は、彼に苦痛を与えるが、苦痛を逓減するには彼が無力で、服従する主体であることを正当化する意味体系を、彼は自分を守るために、新たに構築しなければならないのである。その体系を支えるのに、対象の理想化はひどく頑丈な主柱となってくれていると筆者は考える。神経症者は、対象はすばらしい人間で、故に劣等である自分が盲従することは当然であると思い込むことができる。理想化により服従することは、彼が他者からコントロールされた帰結ではなく、あくまで自分の確固たる意志によるものであると確信することが可能になる。対象を理想化することによって、彼が追従し、無力であることはあくまで神経症者自身の意志なのであると考えることが可能になる。ここでコントロールする主体の逆転が、神経症者の中でおこるのだ。喜劇の脚本家は彼自身なのだ。他者ではない、と。
 以上の三つの背景により、他者理想化は行われるのだ、ということを筆者は指摘する。

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2012-03-06 19:04:54 | 修士
序章

1980年、アメリカで用いられる「精神疾患の操作的診断基準」、DSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)が改正された。DSM-Ⅲとして様々な診断基準が改編され、結果として多くの疾患が加除されたわけであるが、削除されたものの一つに、ある重要な精神疾患が含まれていた。――「神経症neurosis」である。
そもそも、神経症という言葉がはじめて用いられるのは、『精神分析事典』(2002)によると、1777年にスコットランドの医師であるCullenが唱えた「神経病理説」によってである。彼女は、あらゆる疾病は神経が原因であると考え、全疾患を熱性疾患、消耗性疾患、局所性疾患、そして神経疾患つまり神経症に分類した。この神経症の概念は彼女が提唱して以来、さまざまな論者によって取り扱われ、その内容も流動することとなる。
 その後、PinelやMorell、Westphalなどによって引き続き研究が行われ、19世紀になるとCharcotやBernheimによってヒステリー研究の流れを受けるようになった。20世紀の前半には、いよいよFreudによって引き継がれ、神経症を適用したうえで精神分析を創設したことは周知の事実である(小此木啓吾編集代表『精神分析辞典』岩崎学術出版署,2002:p238-240 要約)。
そうした背景を受けて、神経症圏小委員会では、診断基準を次のように設定しているとされている。①不安、恐怖、強迫、ヒステリー、心気、抑うつ、離人、の中のうち、少なくとも一つの症状が認められること。②症状のために一か月以上にわたり、自覚的に苦痛を感じ、社会的・職業的活動になんらかの支障をきたしていること。③病識があり、現実検討能力が保たれ、自我機能の深刻な障害はないこと。④症状ないし状態像と、性格傾向の間に心理的な関連が認められること。⑤精神分裂病性障害、感情障害、器質性精神病、薬物中毒、てんかん、環境反応などに起因しないということ。概要を記すと、以上の5つに設定されるのである(同)。
 しかしながら、こうした神経症の概念は恐ろしく広大であり、下手をすると臨床の諸現象に合致していない場合ですらでてくる。そこでそうした曖昧さを避けるために、DSM-Ⅲが改編され、神経症という診断名は姿を消した。
 もちろんそれは、診断名としては用いられることがなくなったというだけであって、神経症という現象自体は残存しているものである。ゆえに、それまでの神経症はその病像にそって、つまり病像のみを摘出され、「不安障害」「身体表現性障害」「解離性障害」「気分障害」「精神障害」などに分散させられることとなった。
 しかし、である。こうした症状のみに着目すること、また、いくつかの類型として記されるパーソナリティの障害として神経症を取り扱うことに、筆者はいささかの疑問を持っている。のちに詳述することであるが、症状が消失するということが神経症の快癒であるとは限らないことが、さまざまな臨床の現場で明らかになっているためだ。
 本研究における最大の関心は、そうした症状のみに寄せられはしない。症状だけではなく、神経症が、それと共生 している主体にどのように影響するのか、神経症はどういった構造の中で生み出されるのか、そして何よりも、神経症の快癒とはいかにして可能であるのか、という点に最大の関心を寄せるのである。そのようにして、本研究は神経症を作り出す温床の告発を目指し、小さいながらも重要なオルタナティブを提示するのである。それは現代神経症の別名として扱われている神経症性障害と、そして近接領域として位置しているAC問題や、児童虐待、PTSDや境界性人格障害などといった、種々の「障害」に応用可能な理論を同じく提示するものである。
 そして神経症概念分析の手掛かりとして、筆者は本論全体にわたり神経症研究者の一人である、米国の精神分析学者、カレン・ホーナイ(1885 -1952)の研究を援用したい。1885年(明治18年)、ドイツのハンブルクで生まれた彼女は、1911年ベルリン大学医学部を卒業し、1915年に学位を得ている。この間彼女はカール・アブラハムの指導を受け、1920年創設のベルリンの精神分析研究所にて分析医の訓練を受けている。その後、F・アレキサンダーによって米国に招かれ、ナチスが台頭する直前の1932年にニューヨークに移住している。1941年には正式に正統フロイト派を離れ、1933年ころからサリヴァンやトムプソンらと持っていた研究会を土台に、アメリカ精神分析学研究所を創設する。その後研究所所長として、生涯にわたり神経症研究を行い、フロイト理論の社会学的修正を加えた新フロイト派と呼ばれる学派の発展に寄与した。最晩年には、禅や森田療法に関心を抱き、唯一の日本人の弟子である近藤章久とともに治療方法の研究を行った。しかし1950年頃から身体の不調を訴え、1952年(昭和27年)12月4日、ニューヨークにて肺ガンのため逝去した。享年68歳であった。
 前置きが長くなったが、本題に戻ろう。筆者は、以上に紹介した女性精神分析学者であるホーナイの研究に依拠し、神経症の構造解明を本論文にて行いたいと考えているのである。神経症という、不幸なことに著名な病像についての研究は、膨大な数の研究者が行ってきたことである。何百、何千という研究者がいる中で、その中でも筆者がホーナイに着目する理由は、以下の二点に集約される。
第一に、ホーナイが新フロイト派の一人であるという点である。環境的要因を軽視したフロイトを批判し、精神疾患の文化・社会的側面に着目した新フロイト派の流れを受け継ぐ彼女の研究は、心因性である神経症を厳密かつ正確に分析するためには最も適したものである。心理と環境の双方にその因が帰せられる神経症の研究には、心理学的分析と社会学的分析と、切り込むメスは二本必要なのであり、そういった条件をホーナイの研究は有しているのである 。
第二に、彼女の研究を特徴づける点の一つとして、ホーナイが神経症における症状の分析にとどまることをしなかった点を筆者は重要視しているためである。前述したように神経症の症状のみの分析では、その全体像を暴くことも、臨床の場で治癒を目指すことも不可能だからである。ホーナイの見事な記述を引用するならば、「神経症の症状は火山そのものではなくその噴火」なのであり、のちに見るように症状が全く観察不可能な神経症も存在するのである(Horney The neurotic personality of our time 1937=1973: 19)。表面に現象してくるような症状に加え、神経症者の内面にまで深く切り込んだ分析は、その概念を研究するためには必要不可欠であると筆者は考える。1937年に出された、彼女を世界的に有名にした著書、『現代の神経症的人格』の中で、彼女は神経症発症の条件として「愛の不在」について描いている 。こうした「愛」の欠如は、特に臨床領域の研究においては、手垢まみれのありきたりな議論のように一見みえてしまうかもしれない。しかしながら、ホーナイは、患者の主観を汲み、患者の視点で病像を観察することによって、神経症の治療という分野で多大なる貢献をした。「よくある議論」とされがちな、愛の欠如問題を、単純にみることなく、丁寧に、詳細にホーナイは解きほぐした。もちろん彼女なりの限界はありつつも、症状だけではなく主観に切り込むところまで踏み込んだ彼女の研究方法は、本論で神経症を問題にする際に非常に有効な手立てとなると筆者は考えているのである。
 以上の理由から、本論文においてはホーナイの神経症概念を軸とし、その構造について論じてゆくこととする。
 それでは本論に入る前に、各章の概要を以下に記しておこう。
 第1章では、神経症概念の概要とそこにおけるホーナイの位置づけについて記述したのち、ホーナイが残した神経症概念について詳しく見てゆく。神経症とは、誰かに「愛されなかった」という経験により発動する「心理障害」である。その経験は彼に巨大な葛藤を背負わせる。そうした葛藤に対して神経症者が採用する葛藤解決策を、ホーナイは「自己消去的葛藤解決the self-affacing solution」と名づけた(Horney 1950¬:214=1998: 278)。それはすなわち、「自分自身を他人に従属させ、他人に依存し、他人の機嫌をとろうとする傾向」を前面に押し出すことによって、他者の愛情を求めようとするものである(同)。そうした「自己消去的葛藤解決策」を考察することにより、筆者は、神経症者の内面におけるすさまじい愛情への要求を描き出し、そして同時に神経症発症の必要条件と十分条件について論じる。
 第2章では、神経症的愛情の意味について考察する。彼らが全てを犠牲にしてまで望む、その愛情とはいかなるものなのか。それは神経症を発症した主体にとって、どのような意味と、そして機能を持つのか。神経症を発症させないような愛情とはいかなるものなのか。神経症研究における重要なキーワードである愛情について論じる。
 第3章では、構造内部で行われる「疎外alienation」について考察する(ibid., p155= p.198)。ホーナイは、神経症者が、他者からの愛情を手に入れる手段の一つとして、「疎外」というあり方を提示している。彼女の考察を土台にし、第3章で筆者が問題にしたいことは、そこからさらに論をすすめ、「自己消去的葛藤解決策」を採用した神経症者が、いったい何を疎外し、何から疎外されるのか、という問題である。筆者は疎外が新たな疎外を生むと考え、神経症の再生産構造について詳しく論じてゆく。
 第4章では、神経症者の抱く「無力感」について論じてゆく。「絶望」という言葉にすら換言可能なこの苦痛にみちた最後の感情。神経症者はこの「無力感」に蝕まれ、そのことによって彼は彼の人生を生きることを妨げられる。神経症構造における最大の核ともいえるこの「無力感」は、神経症者の主観の側からみていかなる意味を持つのか。その主観に鋭い客観のメスを入れると、その中には何が隠されているのか。「無力感」への多角的な考察をここでは展開する。
 第5章では、ホーナイが展開した、神経症の治癒について考察する。ホーナイは、「神経症は、症状の如何にかかわらず、すべて性格神経症なのである」と定義付け、治療すべき対象は神経症を引き起こしているパーソナリティそのものであるとし、それこそが治癒のために変化すべきであるとしたのであった(Horney 1945=1981:6)。こうした治癒の方法について詳しく論じる。治癒とはいかにして可能なのか。ホーナイの治療方法の意味と限界はいかなるものなのか。そもそも治癒は可能なのか。神経症からの脱却というテーマについて論じてゆく。
 終章では、これまで考察した神経症構造の総括を行う。神経症とは、いかなる存在なのか。彼の存在は何を意味し、どういった問題を我々に提起するのか。神経症構造を研究するということは、「誰」にとっての「どんな」意味があるのか。本研究の可能性と限界について論じてゆく。


ニニギの正式名称。

2012-02-19 17:06:28 | 古事記、日本書紀
やっと覚えた。

⇒ニニギの正式名称
あめにぎしくににぎし 
あまつひこひこ
ほのににぎ

天邇岐志国邇岐志
天津日高日子
番能邇邇芸


で、どういう意味??


「名前の「アメニギシクニニギシ」(天にぎし国にぎし)は「天地が豊かに賑う」の意。「アマツヒコ」(天津日高)は天津神のことで、「ヒコ」(日子)は男性のこと。「ホノニニギ」は稲穂が豊かに実ることの意味である。「ニニギ」は「ニギニギしい」の意で、「にぎやか」と同源語である。神話上ニニギの一族とされている上述の天忍穂耳尊や火照命・火闌降命・彦火火出見尊とは名前に稲穂の「ホ」がある点で共通している。」

さすがアマたんのお孫さんですな。稲穂が豊かに、っていう意味ですか。もともとお米って神様の食べ物ですからなぁ。すばらしい。こういう雑学が大好き。