●第十章 権力と威信と所有物獲得への努力
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不安への防御を得るための手段として、情愛獲得の努力がしばしば用いられる。しかし、権力と威信と所有物獲得への努力も、同じ目的のために用いられる。・・・情愛の獲得は、他人との接触を強化することによって、安全を手に入れるが、権力・威信・所有物獲得への努力は、他人との接触を弱め、自己の立場を強化することで、安全を得ようとするものである。
P149 力への神経症的な努力は、不安と憎悪と劣等感から生まれる。定言的な言い方をすれば力への正常な努力は強さから生まれ、神経症的な努力は弱さから生まれる。
p150
これらの目標への努力を生み出す諸条件が何であるかを調べてゆくと、この努力が、普通、情愛の獲得によって不安から身を守ることが不可能だと分かった後に、始まることがわかる。
P152 権力への衝動は、第一に、前に述べた不安の基本要素のひとつである無力さへの保護として役立つ。・・・現実に弱くなればなるだけ、彼は少しでも弱さに似た行為を、ますます懸命に避けるようになる。
・・・第二に、権力への神経症的衝動は、自分がつまらぬ人間だと感じたり、そのように取り扱われる危険に対する防御として役立つ。
p153
彼は人間を「強者」と「弱者」にわけ、前者を賞賛し、後者を軽蔑する。・・・彼は、自分が、神経症を一人で治せないことについても、自分を軽蔑する。
p153
この衝動の、最も頻繁な表現形式を二、三記しておこう。
第一に、神経症的な人間は、自分および他人を規制したいという欲望をもつ。自分が率先してはじめたのではないことや、自分が承認しないことは、何ひとつ、起きてほしくない。規制へのこの欲求が少し弱い場合には、個人は、他人に対して意識的には完全な自由を与え、好きなことをさせるが、その代り、一切合切を報告してくれることを望み、何か一つでも知らせがないと、ひどくイライラする。
p154
神経症的な女性は、彼女がひかれた相手の男性が彼女に恋をすると、とたんに嫌悪を感じることがある。
p154-155
力を求める神経症的人間の持つ別の特色は、自分の思うとおりにことを運ばせたいとい言う欲望である。
※
P155-156 神経症的な女性は、あらゆる弱さを軽蔑するために、弱い男性を愛せない。しかし、同時に、相手が自分の意のままになることを常に期待するから、強い男性を愛することもできない。彼女たちがひそかに求めるのは、超人的に強い弾性でありながら、同時に喜んで彼女たちの言いなりになる弱い男性でもある存在なのである。
P159 権力への神経症的衝動の持つ主要な特色は、必ずしも、他人に対するあからさまな敵意という形をとることは限らない。社会的に価値のある形や、人情味のある形などに偽装されて、たとえば、他人に忠告を与える態度とか、他人の世話をしたがる傾向とか、率先してことにあたったり、指導する行為などとなって現れることも多い。
P161彼にできるのは、他人を指導するか、あるいは、全くなすすべを知らず依存的で無力に感じるかのどちらかである。・・・しかし、自己を無力だと感じることは、実は、支配を確実にし、自分が指導できないことについての怒りを表出するための回り道なのである。・・・自分の無力さを鞭に使って他人を自分に奉仕させ、果てしない注意と助力とを要請する。
P162 患者は二重の満足を味わう。まず、自分を全く無力な存在として提示することで、患者は分析医を働かせ、自分に奉仕させ、一種の勝利を収める。と同時に、この作戦は、分析医自信の内部に無力感を引き起こしやすい。患者は、神経症のゆえに建設的な支配ができないから、分析医自信に無力感を抱かせることで、破壊的な支配の機会をつかもうとするのである。
P164 屈辱感を味わう→他人に屈辱感を与えたい欲望を抱く→報復を恐れる。ゆえに屈辱に対して過敏となる→ますます他人に屈辱感を与えたくなる、といいう悪循環を経て、強化されている。・・・屈辱に対するこうした過敏さが生み出す制止は、他人が屈辱として受け取るかもしれないことを、一切避けたいという要求の形をとることがある。神経症的な人間は他人を批判したり、申し出を断ったり、使用人を解雇することが、全然できなくなって、思いやりが多すぎたり、丁寧すぎる人間に見られたりする。
他人に屈辱を与えたいという欲求は、他人を賞賛する傾向の蔭に隠されることもある。屈辱と賞賛は全く逆の行動であるから、他人を賞賛することは、他人に屈辱を与えたいという欲求をつぶしたり隠したりする最良の方法となる。
P169 神経症的な女性は、好きでない男性に対しては率直で自然に行動できるが、自分を好きになってもらいたいと望む男性に対しては、恥ずかしがったり、硬くなったりする。相手の情愛を得ることが、彼女には何かを奪うことを意味するから、制止がはたらくのである。
P170 彼は自分の人生が本当に自分の人生なのだということがはっきりわかっておらず、人生をよくきるも悪く生きるも、彼次第であるのに、何が起きようと自分の関わり知らぬところだといわんばかりに、また、良いことも悪いことも彼に無関係に、外界から彼の人生に入り込んでくると思っているかのように、そして、自分は他人から一切の良いことを受け取り、悪いことがおきたら他人を非難する権利をもつと思っているかのように生活する。
P171 非難を武器に使って相手を脅かし、相手に罪悪感を抱かせて、その結果相手を利用するのに成功する。
p218
神経症の患者は、あたかも、分析医が裁判官で自分が犯罪人ででもあるかのごとく振る舞い、そのために、分析療法に協力することを非常に困難に感じる。分析医が、彼の心理状態の解釈をすると、それをすべて、自分に対する非難告発と受けとる。たとえば、分析医が彼の防衛的な態度のかげに、不安がひそんでいるのだと説明すると、「どうせ私は臆病者ですから」と答えたりする。彼が他人に近寄ろうとしないのは拒否されるのを恐れるからなのだと説明すると、自分だけがいい子になろうとしていて申し訳ないなどと答える。何事をも完全に行おうとする強迫的な衝動も、大半は、このような非難回避の要求から生まれるのである。・・・罪悪感は、劣等感と同じく、好ましいものではない。にもかかわらず、神経症的な人間は、これから逃れたいとは全然望んでいない。それどころか、自分に罪があるのだと主張し、そんなことはないと幾ら伝えても、受け付けない。
p220
また、神経症的な人間が、無意識においては、自分が値打ちのない人間だとは思い込んでいないという事実からも、彼らの自己非難が、必ずしも罪悪感の現われとは決まっていないのではないかと考えられる。罪悪感にとっぷり浸っているように見える場合でも、他人が彼らの自己非難を本気で受け取ろうとすると、ひどく怒ることさえある。
今、右に述べたことは、フロイトがメランコリアにおける自己非難を論じたときに指摘したことにつながる。すなわち、罪悪感は表明されているが、罪悪感に伴うべき卑下感が欠如しているという矛盾である。神経症的な人間は自分が値打ちのない存在だと主張しておきながら、同時に、他人からの思いやりや賞賛を強く要求し、また、どんな些細な非難も受け付けようとはしない。
p221
罪悪感と思われているものを注意深く検討し、その真正さを確かめてみると、罪悪感のように見えるものの多くが、実は、不安か、あるいは不安に対する防衛の表出に他ならないことが明らかになる。
p223
罪悪感は非難の恐れの原因なのではなくて、逆にその結果なのではないかと考えられる。・・・大げさな非難の恐れは、盲目的に全人類に適用されることもあれば、友人にだけ適用されることもある。もっとも、普通、神経症的な人間は、友人と敵とをはっきり区別できない。
p226
第二に、彼は、自分が弱く、不安定で、無力な存在だと感じていること、自己主張ができず、不安が強いことを隠したいと欲する。そのために、強そうな「前面」を作る。・・・彼は、弱さは卑しむべきものだと考える。・・・彼は本来、自分自身の内部の弱さを卑しみ、この弱さが暴露したら他人も同様に自分を卑しむに違いないと信じているから、自分の弱さを必死になって覆い隠そうと努める。
p227
罪悪感と、それに伴う事績とは、非難の恐れの結果であり(原因ではない)、さらに、この恐れに対する防衛なのである。罪悪感は、安心感をもたらし、本来の問題から注意をそらすという、二つの目的を果たす。第二の目的は、隠されるべきものから注意をそらしたり、あるいは、逆にそれを誇張して真実性を少なくすることによって、達せられる。
p228
自己非難は、他人による非難の恐れから自己を守るだけでなく、他人から「そんなに自分を責める必要はない」という意見をひきだすことによって、安心感をもたらす。他人がいない場合にでも、自責は、神経症的な人間の自分に対する尊敬の念を強めることによって、安心感をもたらす。なぜなら、自分を責めるということは、自分が非常に厳しい道徳観念を持っていて、他人なら見過ごしてしまうような欠陥についても、自分を責めていることを意味し、それゆえに、自分はすばらしい人間なのだとさえ感じることが可能だからである
p231
病気が困難の回避に役立つことは、周知の事実である。神経症的な人間は、自分が事態に対照すべきであるのに、恐れのゆえにそれをせずに逃げているのだという事実を、病気になることで、認めずにすむ。・・・病気がありがたいのは、病気になれば、いかなる行為も取れなくなるために、自分が臆病者だと自覚せずにすむからである。
あらゆる種類の非難に対する、重要な防衛の最後のものは、犠牲になっているという感情である。神経症的な人間は、自分が犠牲になっていると感じることによって、他人を利用しようとする自分自身の傾向への非難を避ける。ひどく無視されていると感じることによって、自分の独占欲への非難を封じる。他人が自分を援助してくれないと感じることによって、他人を敗北させようとする自分の傾向を覆い隠す。このように、犠牲になっていると感じる戦略は、事実、もっとも効果的な防衛である。
p232
彼は、変革しなければならなくなるのをひどく恐れ変革の必要性を確認することからしり込みする。そのためのひとつの方法は、自分を非難すれば勘弁してもらえるとひそかに信ずることである。・・・罪悪感につかる場合には、態度を改めるという困難な作業を避けているのである。態度を改めるより、ただ後悔しているほうがずっと楽なのである。・・・自己非難は、他人を告発する危険を避けるのにも役立つ。他人を責めるより、自分を責めるほうが安全に見えるからである。
p238
神経症的な人間が、他人への批判や非難を表出するのは、絶望的になったときである。もっと厳密に言えば、非難を表出しても、もう失うものは残っていないと感じるときである。どんな行動をとっても、拒否されるだけだと感じるときである。
p240
神経症的な人間は、自ら苦しむことによって、非難の権化になろうとする。効果的に恨みを表出し、かつ、自分がいかにも哀れな犠牲者のように見えるから、自己満足感も味わう。
悩み苦しむことが、どのぐらい効果的に非難を表出するかは、非難することへの制止の程度による。恐れがそれほど強くない場合には、悩みや苦しみが劇的に提示される。こういうばあい、非難は「みてごらん、あなたのおかげで私はこんな苦しい目にあっている」という形をとる。
p248
神経症的な人間は、ディレンマに陥っている。彼の欲求は、不安によって作り出されており、しかも、他人への思いやりによって制約されていないために、非常に強く勝つ無条件的である。だが、他方においては、彼が自発的な自己主張にかけており、もっと一般的には、基本的な無力感があるために、これらの要請を表出する能力は非常に損なわれている。・・・・苦しむことと無力であることが、情愛や援助や規制を獲得するための主要な手段となり、しかも彼は、他人が彼に向かってするかもしれない要請のすべてを回避できるのである。
p251
苦しむことは苦痛であるが、過度の苦しみに身をゆだねることは、苦痛への麻痺財として役立つということである。
p252
マゾヒズム的傾向の公分母は、自分が本質的に弱いという感情である。この弱小感は、自己に対する態度、他人に対する態度、運命一般に対する態度の、すべてに認められる。簡単に言えば、自分が無意味な存在であるという、あるいは自分がろくに存在もしていないという根深い感情である。どんな風にでもそよぐ葦になったような感情である。
p253
自分が本質的に弱いという感情は、実は、ぜんぜん事実ではないのだ。弱さと感じられ、弱さのように見えるものは、弱くなろうとする傾向の結果に過ぎない。自分の感情の中で自分の弱さを無意識的に誇張し、自分が弱いのだと執拗に主張する。
p254
患者が自己批判をする場合、これは、彼が他人の批判を予期し、それを自分の意見と採用することで、自分には他人の判断に前もって屈服する用意があるのだと、示そうとした結果であることが多い。
p255
この惨めさへの耽溺は、苦痛を和らげただけではなく、実際に快感を伴うものであった。
p255
惨めさの中に身を沈めることによって満足を得るのは、自分をより大きなものの中に喪失させ、事故の独自氏絵を解消し、疑惑や葛藤や悩みや限界を持つ孤独な自己から逃れだすことによって満足を得ようとする一般原則の表出である。