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風林火山紀行(甲斐路編11)・・・武田家終焉 逃避行①

2010年08月02日 17時09分31秒 | 旅行
甲州市大和町田野 ここは武田家終焉の地として知られ、勝頼、夫人、嫡男信勝ほか
郎党などが自刃した悲劇の場所だ

現在の国道20号線から勝頼自刃の地となっている景徳院までの道は、逃避行のルートでもあり(もっとも当時の道は山道なんでかなり細く、険しい道と思われる)、
今も逃げる途中で戦った古戦場の跡や悲劇の跡が所々に残っている。

時は1582年3月。織田・徳川軍、更には北条の軍勢が甲斐になだれ込んできた。
折角築いた「新府城」も度重なる家臣の裏切りや逃亡などで、もはや篭城すら出来ず、火を放ち、勝頼一行の逃避行が始まる。
ここで、どこに逃げるかであるが、家臣の真田昌幸と小山田信茂がそれぞれの居城に勝頼を迎えることを申し出る。
真田昌幸は、武田家滅亡後、徳川、上杉、北条など巧みに主人を代え、戦国の世を渡った。
それゆえ、信用できないようなイメージがあるが、実にこのときは律儀なものだ。
昌幸は、勝頼に上野吾妻地方に逃亡するように進言し、先にたって岩櫃城へ迎える準備をしていた。
しかし、勝頼は、上野を目指さず、小山田をとった。これが最後の、そして決定的な運命の分かれ道だったと思う

小山田も勝頼を迎え入れる準備として先にたった。
勝頼一行は小山田の居城 岩殿城(現在の大月市)を目指す。
しかし、笹子峠あたりで小山田の裏切りを知る。織田氏へ内通したのだ。
決定的だったと思う。勝頼も絶望しかなかったのではなかろうか?
背後からは織田の滝川一益が迫ってきている。
もはや逃げ場がないことを悟った勝頼は、死地をもとめる。
即ち天目山棲雲寺だ。ここは先祖である武田信満(室町時代)が自刃した場所であり、せめてご先祖が眠る場所で死のうと考えたのであろう。
そこで勝頼は引き返し天目山を目指す。

しかし、織田の先発部隊が現在の大和町田野あたりで追いついてきて、数の少ない武田の残党との合戦がはじまる。四郎作古戦場と鳥居畑古戦場がその跡地だ。

(四郎作古戦場)

武田家臣の小宮山内膳友晴は、勝頼の側近跡部勝資・長坂長閑斎・秋山摂津守を批判、さらに小山田氏の系統である小山田彦三郎と口論したことを理由に、勝頼に蟄居を命じられていた。しかし武田勝頼がこのように最後の時を迎えようとした時、内膳友晴は「譜代の身でありながら、武田最後の戦いに加わらないのは末代のまでの恥辱」と蟄居元を離れ勝頼のもとに駆けつける。勝頼は感激し、今までの行為を詫びたという。

そして、内膳友晴は僅かな兵でここに布陣し、織田方の滝川軍と戦い壮絶な最期を遂げる。
勝頼一行を逃がす為の時間稼ぎであろうか?
家臣の多くが裏切る中で、なんとあっぱれな忠義の士であろう。

(鳥居畑古戦場)


場所は勝頼自刃の景徳院のすぐ近く。
天目山棲雲寺方面も敵方に先回りされ、もはや天目山すら辿り着けないことを悟った勝頼一行。上からも下からも挟まれ、自刃の道を選ぶしかなかった。
織田の軍勢に討ち取られることなく、自刃を遂げられるかが、唯一勝頼一行にできる意地であった。
そこで下から来る敵を防ぎ、自刃をする為の時間を稼ぐ為に戦った場所がここだ。
勝頼側近安部加賀守・秋山紀伊守そして信勝付であった温井常陸介らが数少ない手勢で織田の大軍相手に奮戦したそうだ。


これら2つの古戦場、勝頼家臣のまったく勝ち目も希望もない、あまりにも哀しい戦いの場所である

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