天高群星近

☆天高く群星近し☆☆☆☆☆

山岸の正月

2012年01月26日 | 日記・紀行

山岸の正月
 
AUCH   ICH   IN   ARKADIEN
 

 
ヤマギシズム京都供給所の林さんに誘われて、豊里の村で行われる、新春の「お父さん研鑽会」に参加した。名神高速道路の京都南インターチェンジから、栗東まで行き、そこから国道一号線に乗って関まで、そして、ヤマギシズム生活豊里実顕地のある高野尾町へと出た。途中少し道に迷いはしたが、まず順調な旅であった。

滋賀の県境で、小雨が降り出したが、すぐに止み、鈴鹿峠を越えて、伊勢の平野に入ったときにはすっかり晴れて正月らしい青空が広がった。日の丸の掲げられた、町立小学校の校舎の脇を右に折れて小道にはいると、低い冬枯れの木立の向こうにヤマギシの鶏舎特有の青いトタン屋根が見え隠れしていた。

駐車場に車を入れ、誘導板に従って歩いてゆくと、道路の辻々に案内人が立っていた。正月にヤマギシの村では様々の催しがあり、子供から老人に至るまで、この村に集ってくる。

左手に壬生菜の植わった畑を眺めながら、坂を降りきったとき、いかにも百姓らしい風采をした男が立っていたが、近寄ってみると、昨秋、村に参画したばかりのK氏であった。「よくいらっしゃいました」と言って、彼は固い握手で、私を迎えてくれた。彼は厚い防寒着に帽子を被り、その上に風よけの手ぬぐいを巻いていたので、近づくまで気がつかなかった。

彼が、支部の仲間の会員に送り出された研鑽会で、参画に至るまでの迷いや心境を語っていた時も、私は平凡な感想しか述べることしかできなかった。彼が京都大学を卒業後、建築会社で長くサラリーマン生活を過ごしていたが、東京への転勤の辞令があったのをきっかけに、村に入った。「何も今でなくとも」など上司などから慰留もされたそうである。

今こうして、穏やかな笑みを浮かべ、村を訪れた人を案内すべく、辻に立ちながら、村の正月を過ごしている。建設部で働いているそうである。むろん、これからも試練は避けられないにしても、彼もまた良い決断をしたのだと思った。

立ち話もそこそこに、私はK氏の指さした受付まで行った。木造の校舎のような建物の二階で、そこで財布や免許証、車の鍵などの貴重品を預け、それから私に割り当てられた部屋へ行った。私と合部屋になる六人の名前が、紙に書かれて入口に貼ってある。

すでに到着していた人は、一階のロビーで皆と雑談しながらくつろいでいる風であったが、私は昨夜の寝不足を補うために少し横になった。しかし、半時間ほどの浅い眠りのなかに過ごしてから、夕日の差し込み始めた窓際に寄って、外の景色を眺めた。

何も植わっていない、掘り返された冬の畑の向こうは、伊勢自動車道の土手に遮られており、さらにはるか彼方の伊賀の山々の向こうに夕日は沈もうとしていた。遠くの畦道を、晴れ着に着飾った和服の女性が、裾を風に翻しながらひとり渡って行く。空には名も知らぬ鳥が二羽、西の空に悠々と飛び去ってゆく。

宿舎の端にあった二一五号室で、参加者全員が集まって、オリエンテーションが開かれた。その中で、今回の「新春お父さん研鑽会」のメインテーマとして、「二十一世紀を創る」という標語が明らかにされ、サブテーマとして「光彩輝く将来を画策、施行し・・・」という青本の一節が掲げられた。そして、正月の三日間の日程表が参加者に配られ、研鑽会のスケジュールが紹介された。それが終わると、まだ新しい「豊里温泉」に案内された。

この浴場の外観は、瓦葺きのどっしりした日本建築になっているが、入口はガラス張りで自動ドアである。風呂場には大理石がふんだんに使われている。男風呂はグレーに、女風呂は淡いピンク色で統一されているという。大きな一枚ガラスの向こうに、枯山水の小さな庭を眺め、暖簾をくぐって風呂に入る。

日のまだ明るい内に、お風呂に入り、心身ともに寛いだ後に、用意されていたのは、広く明るい豊里食堂での食事であった。ヤマギシでは食事の前には必ずメニューの紹介がなされ、そこで材料の由来や、料理をした人の「思い」が紹介される。

第一日目のメニューは豚肉の生姜焼きであった。メニューの紹介に次いで、この研鑽会に裏方として参加した「お母さん」の紹介があった。以前にある女性を紹介されたことがある。この時ふと、、この「お母さん」の中に、彼女が来ているではないかと思った。記憶に残っていた名前をその中に探すと、偶然に二人いたが、左側のカーテンの前で、ほほえみを浮かべて立っている女性が、その人ではないかと思った。

この研鑽会に参加した「お父さん」は、実顕地のメンバーを含めて、六十八名である。それに食事の世話や朝晩の布団の上げ下ろし、部屋の清掃など生活スタッフとして加わった主婦や女性のボランティアは、二十二名であり、総勢九十名ほどでこの研鑽会をつくりあげていった。これだけの多人数が明るい食堂に一堂に会して、ユーモラスな話に笑いとよめきながら、老いも若きも食事を共にするのは愉快なものである。

裏方に徹した「お母さん」のテーマは、「至れり尽くせり」だと言った。ヤマギシでは何か仕事をする時、必ずと言っていいほど、テーマを研鑽して掲げる。岡山から来ていた主婦は、個人的には「何でも、ハイでやります」というテーマに取り組んでいたが、彼女は後で、ある「お父さん」から、「背中を流してくれ」と冷やかされて困ることになる。

広い食堂の、カーテンで仕切られた向こう側では、子供たちや学生たちが大勢賑やかに食事をしていた。私たちの囲んだテーブルには、二人の女性がそれぞれ受け持って、親切に給仕してくれた。この時ばかりは「お父さん」は箸の上げ下ろし以外何もすることはなく、陽気で美しい「お母さん」の給仕で、心身共に腹一杯にしてもらって見送られ、出発研鑽会の会場になっている、学育鶏舎にある鶏鳴館へと向かった。

部屋の壁に、テーマとサブテーマが大きく書かれて掲げられてある。ここで全員がこの研鑽会に参加した動機を述べた。それはもちろん人様ざまであったが、なかには「お父さん預かり」とか冗談めかして言う者もいた。しかし、概して参加者は、父親として男としてあらためてこの機会に生き方を考え直そうとしていたようである。ある人は、妻や子ども達がヤマギシに熱心なので、ヤマギシのことを知るために渋々参加した「お父さん」もいた。

それから参加者はA班とB班とに振り分けられて、明日の相撲大会のために早速準備研に取り組んだ。出場力士を選び、その四股名を決めるのに、各人の特徴や出身地などから案を出してゆくのだが、髪の毛が薄く、歳より老けて見られる「お父さん」は、「年寄り若」、酒好きな「お父さん」は、「千鳥足」、本職が獣医で風采の立派な青年は文字通り「獣威」、富士山麓で蕎麦屋を営む「お父さん」は「富士之側」などユーモラスな四股名が考え出され研鑽されていった。この過程でいっそうに和気藹々となり、大人の「仲良し」が深まってゆく。B班部屋は「二十一世紀を創る部屋」と名付けられ、部屋の幟も描かれた。

この新春「お父さん研鑽会」は実に良く仕組まれていて、会運営も事前に深く研鑽されていたことを伺わせる。行事は日程表に沿ってきっちりと実行されていった。二日目の朝は五時起床である。大安農場から日の出を見るためである。宿舎の前に集合したときには、まだ外は真っ暗で、空には月が弦を描いて輝いていた。寒いけれど、マフラーを巻きジャンバーの下に十分に厚着をしてきたので、むしろ、これくらいの冷え込みは心地よい。

まだ新しい立派な観光バスが、広場に待っていた我々を迎えに来た。大安農場まで一時半の行程である。私はバスのなかで、昨夜の浅かった眠りを癒した。

大型バスは頂上までは登ることができず、我々は麓から白い息を吐きながら歩いて上った。その頃になってようやく白々と夜が明け始めた。頬を刺す、清々しい朝の大気を吸いながら、大安の梨農園に着いた時、そこでは焚き火の火を起こしながら、北原さんが待っていた。パチパチと燃えさかる火を囲むみんなに、彼は十一年前の正月を感慨深げに思い出すように、この地に入植した当時のことを語った。

付近の村人に不審の眼で見られ反対に遭いながらも、「全人幸福思う者に行き詰まりなし」と言って、雑木林を切り開き、今日に至る大安農場を切り開いていったことなど。

東の空がますます明るみを増して、はるか彼方にうっすらと浮かぶ水平線の向こうに、小さな太陽が揺れるようにしてその顔を現したとき、みんなから歓声がわき上がった。太陽は見る見る内にその全容を見せたが、そこに宇宙の構造を実感すると共に、その神秘に打たれた。日の這い上る早さに時の移ろいを思う。新しい春の日の出を見終わってから、食堂に戻って暖かい昆布茶を飲み、皆で歌を合唱した。

 七

再び豊里の村に帰り着くと、「書き初め」と「初釜」の会場が用意されていた。白い紙に真新しい立派な筆と、硯に墨が添えられていて、「至れり尽くせり」であった。皆が心に描いたこの一年のテーマを、大きな長い紙にそれぞれ書いた。

男らしく、ただ「やる」と書いただけの者、「日々研鑽」「軽く出す」とか「一歩前進」、「父として男として」とか百人百様に書いた。私は何を書こうかと思ったが、巳代蔵さんの文章の一節から「光彩輝く将来」と書いた。 この書き初めは後になって廊下にすべて張り出された。
次いでお茶会があった。だが、この初釜は堅苦しいものではなく、控え室で正月らしく着飾った婦人たちから、作法について簡単に教わってから、席に出た。

色鮮やかな和服をそれぞれに着飾った高等部の学生の村の娘たちから、手作りの和菓子と抹茶で心からのもてなしを受けた。彼女たちの作法の上手下手を見る眼はなくとも、正月の引き締まった心を味わうには、この茶室と静々とした作法の雰囲気だけで十分である。
再び豊里の村に帰り着くと、「書き初め」と「初釜」の会場が用意されていた。白い紙に真新しい立派な筆と、硯に墨が添えられていて、「至れり尽くせり」であった。皆が心に描いたこの一年のテーマを、大きな長い紙にそれぞれ書いた。

二日目の第二食で、はじめてお節料理と雑煮が出た。いつしか気取られぬように彼女の姿を眼で追っている自分に気づいた。二日目の圧巻はやはり相撲大会である。養鶏部、出版部、流通センター、蔬菜部、養牛部、肉鶏部などの各部門から、一部屋七名、また我々「お父さん研」から二部屋十四名の総計八十名近くの男が参加した。

行司も審判役も本格的な装束で、にわか力士たちを囲む。肌の白い西洋人も二人参加していた。子どもたちも、村の娘も、老蘇さんも皆こぞって、男たちの力闘に声援を送る。力士たちも持てる気力を振り絞って闘う。激しい闘志のぶつかり合いなので、胸や膝に擦り傷などはしょっちゅうである。顔面を強く打って脳震盪を起こし、鼻血を出す者もいた。時間のせいもあったのか、上位三部屋を出しただけで、優勝部屋を決めなかった。我々「お父さん研」の力士たちもよく闘った。

相撲が終わると、我々のメンバーは三つのコースに分かれた。宿舎に戻って自由に寛ぐ者、鶏舎入って卵を集める者、村の中を参観して回る者である。私は村をもう一度見たいと思った。村の中を歩いてゆっくりまわった。我々を案内してくれた人は、まだ参画して間もないのではないかと思った。

高等部の寮舎が完成まじかである。隣には立派な体育館兼講堂が建設中である。道路の向こうの山の上には健康特講の会場が建設中である。村全体が槌音高く建設途上にあることを感じさせる。

余儀なく畑を崩して作った駐車場には、ヤマギシのマークの入った真新しい観光バスが幾台も並んでいる。学生のための学育菜園には菊菜が植えられ、馥郁園では老蘇さんらの作った薔薇や菊、盆栽などが並んでいる。発酵した堆肥を実際に手にとって眺め、匂いを嗅いだ。

馥郁園の右手には「太陽の家」があり、そこでは子供たちが遊んでいた。小高い丘の上に立っている、太陽の家に通じる門には、「子放れの門」と「宇宙ステーション」の二つの大きな分厚い表札が掲げられ、ここでは親は子放れの練習をし、子供たちは無重力圏へと駆け出してゆくのだという。村人の衣服を洗濯し管理する黎明館、結婚式のある豊里会館、飼料センター、精乳部など、工場や倉庫などを抱えながら、ここに七百名ほどの村人が暮らしている。

参観が終わると、楽園村会場の風呂に入り、その後牛しゃぶ料理を皆で楽しんだ。この時私たちのテーブルで給仕してくれたのは、神戸から来ていた陽気な看護婦さんだった。

食後ふたたび研鑽会があった。この夜は、今後の我々の取り組みがテーマになった。資料には楽園村に参加した子供たちの作文と、その父親からの手紙がコピーして渡され、それを材料に「無償の行為」についての研鑽が進められた。三十名近い、社会経験も豊かな大人たちが集団で思考し、研鑽する。

十一

三日目の朝は軽い作業があった。作業着のうえにヤッケをまとい、長靴を履き、それぞれが、豚舎の建設、養牛部、養豚部に分かれた。私は希望通り養牛部に行った。作業は牛糞出しと、砂入れである。近くで見る牛は図体が大きいが柔和な眼をしている。この牛舎には千頭からの牛たちがいて壮観である。

牛の肛門から滝のように流れ落ちる尿と糞には驚かされるが、臭気は、肛門を出るとき少し臭うだけで、後は下水のドブ浚いの感覚と変わらない。ただ、牛の寝床に砂を入れていく作業は体力がいる。かっては木材のチップを使っていたが、乳房炎を起こしやすいとかで、今は砂を敷き詰めているそうだ。高等部の生徒も糞尿出し作業を手伝っていた。

十二

朝の六時から始まった作業が終わると、借りていたヤッケと長靴を返して、生活着に着替えて、ふたたび豊里温泉で汗を流した。宿舎に戻ると「お母さん」たちの書き初めも廊下に張り出されてあった。あの人は、女性らしい柔らかな筆跡で「やっぱり仲良し」と書いていた。

研鑽会の感想文に、古き良き日本の正月を味わって充実した三日間だったと私は書いた。最後の食事を終えると、AB両班がふたたび合同して、出発研鑽会があった。今まで主婦や子供たちの多かったヤマギシの会活動も、社会化運動に向けて、いよいよお父さんの出番であると、地域に帰ってネットワーク作りに尽くすことなどを確認しあった。一同揃って記念写真を撮った。皆いい笑顔を見せていた。

十三

徳島から来ていたH氏と、津の駅まで同行するはずだったが、津駅行きのバスがあるということで、氏はそれで行くことになった。大阪から来ていた男性とは握手をして別れた。そこで皆と別れてひとり駐車場まで車を取りに歩いた。

途中の広場に、モスグリーンのスーツに着換えたあの人が、仲たちと一緒に立って談笑していた。自動車に乗って村を出る際、ふたたび広場を横切ることになったが、その時あの人は確かに自分の方に向かって強く手を振った。

あの人はこの三日の間、食事の時も一度も私の座ったテーブルに来ることはなかったし、視線すら合うことはなかった。しかし、もし私の名を聞き知っていたとすれば決して見逃すはずはない。ちょうど私が食堂であの人がいつも気にかかったように。バックミラーの中に、強く手を振って見送るあの人の姿を眺めながら、一路帰途に就いた。                                                                                                                                                                                             (一九八九・一・四)

 

 



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