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劇場版ドキドキ!プリキュアみどころ(その3)

2013-11-25 | アニメ

変わり果てたマロの姿を前にしたマナ(たからもの)


小学4年生のマナの可愛らしさは言うまでもないのだが、そんな可愛らしい女の子が大好きなペットを失う辛さと自責の念に耐えかねて涙を流すシーンには胸が苦しくなる。このシーン以降のBGMは延々と「たからもの」が流れ続ける。マナがシャルルの制止も空しくオモイデの世界に引きこもってしまうところから、マナを信じるベベルがマシューへの言葉、そして忘れられたもの達が六花、ありすの思い出の世界に侵入するシーン、六花とありすの思い出の世界の描写、そして二人が妖精達の出現により現実世界の姿に戻り、現実世界に戻るために敵を前に変身するシーンまで、シーンは刻々変わりながらも「たからもの」は最後まで流れ続けるのだ。最初に見たときは何かの間違いではないかと焦った程。このように大胆な選曲は珍しい。

ソードの変身~ダイヤ、ロゼッタの戦い(決意のプリキュア、プリキュア反撃)


「たからもの」に続くシーンだが、兎に角BGMがカッコいい。ソードがキュアラビーズをコミューンにセットした瞬間、鷲キュアの音楽を担当した佐藤直紀さんをリスペクトしたのではないかと思わせるような勇ましい「決意のプリキュア」が流れ始める。
そしてパープルバギーとシルバークロックが合体して巨大化した時の「プリキュア反撃」の前半部はダイヤとロゼッタの絶望を表現しているかのようだ。ダイヤとロゼッタがピンチに陥る中、マナへの思いを胸に反撃に出たときの、0:56からの、それまでとは一転して希望と勇壮感にあふれた旋律は鳥肌ものである。

マナと五十鈴(未来につなぐ想い)


何度観ても、様々な思いが去来して涙なしでは見られないシーン。永遠に幸せに暮らせるはずの思い出の世界で、マナは沈んだ表情をしていた。学校から帰ってきて、マロが吠えかけても、五十鈴が声をかけても、マナは下を向いてとぼとぼと歩いている。部屋の中でシャルルに叱咤されながらも、マナは膝を抱え、現実に戻ることを拒んでいた。
そこに五十鈴が現れて、こういう。「友達を心配させちゃいけないよ。」そう、お婆ちゃんは何でも知っているのだ。このシーンはラブが、サウラーの攻撃によってやはり思い出の世界に閉じ込められてしまったフレッシュプリキュアの28話を思い起こさせる。この時も、やはりラブの名付け親だった源吉がラブを現実の世界に戻らせた。
五十鈴もまた、こういった。「お前の名前は『愛』という字を書くだろう?困った人がいれば、手を差し伸べて、共に未来に進もうという気持ち。それが愛さ。」「目を閉じて、耳をすませてご覧?何が聴こえる?」些事に囚われずに自分の心に聞けということである。フレッシュの時と同じように、マナにも友のマナを呼ぶ声が聞こえたのであった。五十鈴の一言一言が果てしなく重く、観客の心を強く揺さぶってくる。

マナが現実世界に戻るシーン(未来につなぐ想い)


マナが自分の使命を思い起こしたとき、彼女はようやく現実の世界に戻ることができた。思い出は、自分に愛を伝え、そしてマナはその愛を皆に分け与えるのである。「おばあちゃん、また会えるよね!」五十鈴のウインクを見届け、そして彼女は叫んだ。「プリキュア、ラブリンク!」その瞬間、思い出を閉じ込めていたフィルムは黄金色に輝き、生きているかのように激しく踊り、映写機から飛び出したのである。

To Be Continued...

劇場版ドキドキ!プリキュアみどころ(その2)

2013-11-16 | アニメ

「愛は時空を超えるもの」キュアエース登場シーン(愛の切り札!キュアエース)


一人で戦うキュアソードがピンチに陥ったその時。キュアエースきたぁあああああああああ!!
劇場では幼女達も叫んでましたが、正直僕も一緒に叫びたい。やはり仲間がピンチの時に現れるプリキュアのかっこよさは異常。いわんやエースをや!BGMのファンファーレは登場シーンにぴったり過ぎます。
「どうやってここに…!?」に対して、説明なしに「愛は時空を超えるもの」とうそぶくのもいろいろかっこいい。まあアイちゃんの力なんでしょうけど。
地味にこの「愛は時空を超える」というのはこの映画のテーマとも言えると思います。「立ちなさい、キュアソード!あなたの心は、まだ折れてはいないはずです!」エースの圧倒的な強さ、凛々しさはしっかり描かれていて満足でした。幼女達も満足だったことでしょう。

ラストの飛行船に突入する前の、地上を走るシーン(未来を賭けた戦い)


ラストバトルを控えながら、未来への希望を感じさせるBGM「未来を賭けた戦い」。壮大で明るく勇ましいこの曲はプリキュアにふさわしい。この疾走感溢れる曲をバックに、プリキュア達みんなが飛行船に向かって横一線で走るシーンの格好良さが堪らない。「プリキュアが走る」シーンは数あれど、「走るプリキュア」がフィーチャーされるシーンは貴重と思う。やはりプリキュアには前を向いて進んでいく姿が似合うし、走る姿はそれだけでグッと来るものがある。さらに「みんなで横一線になって走る」。映画のクライマックスに相応しいです。泣くとこじゃないですが涙腺緩いとこういうとこでも普通に泣けます。
ここから、攻撃してくる飛行船の触手に挑んで飛行船に突入するまでの空中戦のシーンは圧巻のアクション。ハートのために道を拓こうとする仲間達のセリフもアクションと相俟ってぐっと来ます。ほぼフルCGと思いますが、全くCGとしての違和感もありません。漠然と見ていると気づかないかもしれない位。プリキュア映画はCGの使い方がホントに上手いと思います。

クラリネット(本当の敵)


マシューが吹いていたクラリネットこそが諸悪の根源だった。このクラリネットに関しては、いろいろな感想を見ていると結構賛否あるみたい。
確かにクラリネットについての自身の過去については全く触れられていないし、なぜこのクラリネットがそんな強いの?とか、なんでクラリネットなの?とか、そういった視聴者の頭上にポップアップされたはてなマークに対して映画は何も答えていない。
ただ個人的にはこのクラリネットの過去をウェットに描いたり人格化して感情移入をさせてしまうような余地を意図的になくした、このやり方はアリだと思います。だいたいテーマ自体が「本当の愛」とすれば、クラリネットなんて脇役みたいなものなのです。描きこむ必要なんてないのです。「天災」みたいなものです。いわゆる「梅澤プリキュア」において(特にオールスター映画において顕著)いずれも悪をシンプルな「悪」として描かなかった分、この描き方は際立って目立ちます。「私は永遠に不死身だ!」「それでも私はあなたにかつ!」この問答無用さもかっこいい!

To Be Continued..



その他の本ブログ内のドキプリ映画の感想:


ドキドキ!プリキュア映画の見所(その1)

2013-11-13 | アニメ
ドキプリ映画の見所についてコメントを入れていこうと思います。
最初は核心からは離れたさりげないシーンから紹介。
例によってネタバレ注意。タイトルの後の()はそのシーンに流れるBGMの曲名。間違っていたらごめんなさい。

四葉邸の庭でのお茶会シーン(愛のおまじない)


何気ない雑談のみで構成される珍しいシーンで、本編においてもこれ程時間をたっぷり確保してお茶会の雑談シーンを描く回は珍しいと思う。ドキプリ好きにとって、皆と一緒にお茶会に参加しているような気持ちになれるこういうシーンはたまらない。ずっとここに居たくなるような幸福感に包まれる。未だに人気の高い日常系アニメをドキプリでやったらこうなる!?全然普通にいいじゃんね!?
「昔の話はおしまい!それより将来の夢の話をしようよ!」「そうね!」「賛成ですわ」
「いろいろあってね・・・。今はもういないんだ。」
など、いろいろ地味に伏線を張っているので、その辺にも注意。

高速道路を走行中のDB&まこぴー車の前に「忘れられたもの」が飛来するシーン(月夜の異変)


アクション映画ならなんとなくありがちっぽいシーンな気もするが、そもそもプリキュアには車自体滅多に出てこないだけに極めて新鮮。車のフロントガラスからの目線は視聴者の日常の視線であり、「月夜の異変」がどの程度異変であるかが自然に上手く表現されている。今回の映画ではDBが各所でそういった(通常のプリキュアでは珍しいシーンを補完する)役回りを演じていて注目。
しかしつい最近、高速道路で車から降りてはねられる事故があっただけに、躊躇いなく車外に出るDBとまこぴーが危なっかしく思えて仕方なかった^^;

セバスチャン&ありす、DB&まこぴーが駆けつけるシーン(セバスチャンの救援)


こちらも車のシーン。この「車で仲間が次々と駆けつける」という頼もしさ、心強さがまたたまらない。
そこから変身バンクに繋がる流れの見応えが抜群。いつも観ているはずの変身バンクが一味もふた味も違って感じられるはず。この映画で4人の変身バンクがじっくり描かれるのはこの1回のみなので、普段より長く、しっかり時間をとっているというのも大きい。踊るようにくるくる回るロゼッタが美しい!

ランス「うえぇ~ん・・・ありすぅ~・・・」


プリキュアの4人だけがオモイデの世界に閉じ込められ、妖精達と離れ離れになってしまった時のランスのセリフ。か、可愛過ぎる・・・!!これに尽きるっ!!

(つづく)

「笑う 笑えば 笑おう♪」国語のテスト(50点満点)

2013-11-11 | 文学
「笑う 笑えば 笑おう♪」(作詞:青木久美子)の歌詞を読んで、以下の問いに答えよ。(50点)

一. 空欄a~fを下の選択肢から選んで埋めよ。(配点 2点×6)
「笑う 笑えば 笑おう」は、[ a ]行[ b ]段活用の動詞「笑う」の活用形であり、「笑う」は[ c ]形、「笑えば」の 「笑え」は[ d ]形、「笑おう」の「笑お」は[ e ]形である。なお、[ e ]形には「笑わない」のように否定の[ f ]詞 をつける用法もある。

(選択肢)
ハ、ラ、ワ、上一、下一、三、四、五、下二、未然、連用、終止、仮定、命令、形容、副、助、助動

二. 「光より速く届け 笑顔たち」とあるが、「笑顔たち」が「届く」の意味として、もっとも近いものを選べ。(配点 10点)
ア. 相手に自分が送った物が届く
イ. 相手に自分の気持ちが伝わる
ウ. 相手が自分の直接触れるところにいる
エ. 相手に自分の性質が受け継がれる
オ. 相手が自分とシンクロナイズする

三.「花も嵐も乗り越え」について、以下の問いに答えよ。
(1)「乗り越え」るという動詞の用法について、もっともふさわしくないものを選べ。(配点 5点)
ア. 人生の荒波を乗り越えてきた。
イ. 幸運を乗り越えて命拾いした。
ウ. 犯人は塀を乗り越えて逃げた。
エ. 師匠の技術を乗り越える。

(2)「花」と「嵐」という表現はそれぞれ何かを象徴していると考えられるが、ここでいう「花」と「嵐」の関係にもっとも近いものを選べ。(配点 10点)
ア.「快楽」と「苦痛」
イ.「笑顔」と「泣き顔」
ウ.「上り坂」と「下り坂」
エ.「雨」と「台風」

四.
(1)「笑う 笑えば 笑おう」という言葉を表す10字以内の言葉を歌詞から選んで抜き出せ。(配点 3点)

(2)この歌の歌詞を通して作者は何を伝えようとしているか。もっともふさわしくないものを下から一つ選んで記号で答えよ。(配点 10点)
ア.悲しいときにも笑顔で乗り越える心持でいることが大事である。
イ.困難を乗り越えてきた「私たち」は、悲しみに打ちひしがれている人の力になりたいと思っている。
ウ.文字に表せる言葉がなくても、人と人は通じ合うことができる。
エ.辛い出来事に遭って悲しんでいる人たちが一刻も早く笑顔になれるように訴えている。
オ.「笑う 笑えば 笑おう」とは楽しい時、嬉しい時にこそ唱えるべき幸せのおまじないである。


「映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス! 」感想

2013-11-10 | アニメ
(この感想は映画鑑賞済の方々をターゲットとしています。用語等の解説は割愛しております。またネタバレについてはご容赦ください。)
本当の愛とは何だろうか。その問いに対して一つの解を与えてくれるのが今年のドキドキプリキュアの映画である。
私はこの映画をこれまでに5回鑑賞したが、その度にこの映画の美しく感動的な表現手法に涙を抑えきれなかった。
映画を鑑賞した人達は、子供であろうと大人であろうと、その解についてもう一度自分の中で考え、それを自らの人生の中で実践していこう。それがプリキュアの映画の意義だと私は信じている。
(この映画には様々見所がありますが、正直ここでは全くそれを語る余裕がありませんでした。別の機会に語りたいと思います…。)

オモイデの世界と、そこからの脱出

オモイデの世界に囚われた人間は、幸福な思い出の中で忘れられたものたちと共に永遠に幸せに暮らす。
その世界の中では成長や変化はない。幸せな思い出が終わる前にフィルムは途切れ、思い出は再び最初まで巻き戻され、永遠に繰り返される。例えば、マナはオモイデの世界の中で小学校4年生の夏休みの登校日である7月31日を2回繰り返してしまった。
六花やありすの様子を見る限り、現実の記憶は直ちに失われてしまうようだ。夢を見ているのと似ていて、そこが自分の思い出の中に過ぎないことに気づくことは(少なくとも何が何だかわからないままにフィルム内に閉じ込められた普通の人間においては)ありえないようにも思える。マナや真琴のように、現実世界の記憶を保ち、さらにそこがオモイデの世界であることを自覚できたのは極めて例外的な事例であろう。

オモイデの世界から脱出するためには、まずは囚われた人間にそこが思い出の世界に過ぎないことを自覚させる必要がある。プリキュア達の脱出において、この役割を果たしたのは言うまでもなく妖精達の働きだが、しかし、それだけでは足りない。最も重要なのは未来を目指す意志である。
六花やありすが思い出の世界から抜け出すことができたのは、妖精達の出現によって戻った記憶で、マナのいない思い出の世界においてマナのいる現実を強く希求したためだ。真琴が抜け出すことができたのは、ダビィによりトランプ王国復興の誓いを思い出させられ、その使命感を改めて思い起こしたためである。

マナの葛藤

しかし、マナはマシューにより厳しい現実の辛さを思い知らされ、大好きなおばあちゃんとマロがいる思い出の国から現実に戻る意志を失ってしまった。妖精と出会っても元の姿に戻ることはなかったのはマナだけだし、そもそもマシューがマナに執着していたことから、マナにおける思い出の国は何か他のプリキュア達とは異なる強力な力でマナを束縛しているようにも見える。
そんなマナがオモイデの世界を脱出できたきっかけは、他ならぬ「思い出」の力だったのである。
五十鈴は、幸せな思い出を慈しんで未来に進むことに二の足を踏むマナを優しく諭す。五十鈴は言う。
「お前の名前は、愛という字を書くだろう?困った人がいたら、手を差し伸べて、共に未来に進もうという気持ち。それが愛さ。」
この諭し方はとても優しい言葉だが、その実厳しい意味を含んでいる。思い出を愛で、既に過去のものとなったおばあちゃんや、マロを大好きといって、未来に進むことを拒むこと。そんなものは本当の愛ではないということだ。
五十鈴は続ける。
「愛は受け継がれるんだ。親から子へ、子から孫へ。私たちが受け継いだ愛を、お前も未来に繋げるんだ」
マナはこの思い出の世界の中で、五十鈴のこの言葉を聞き、現実に戻る意志を取り戻した。それによって初めて、マナは思い出の世界から抜け出すことができたのである。

五十鈴との「対話」

それにしても、思い出の中の五十鈴は何者だったのだろうか?なぜ、五十鈴はまるでマナの葛藤を全て把握していたように見えたのだろうか?
このようにも考えられる。五十鈴はマナの思い出の中の存在に過ぎない。全てマナが自らの記憶の中から作り出したものだ。思い出の世界の五十鈴の言動は全て、マナが「おばあちゃんならきっとこういうだろう、こう振る舞うだろう」と信じるものだ。つまり、前述したマナの五十鈴との対話は、名付け親である五十鈴の愛情を受けて成長したマナの、いわば自分との対話だった。
マナが思い出の世界に引きこもり、現実に戻ろうとしなかった時の葛藤もまた、五十鈴の言葉として現れた。
マナは自分の心に問いかけた。(でも、どうやったら帰れるの?)その時、マナは思い出した。生前の五十鈴が教えてくれた、願いが叶うおまじないを。
――これは一つの解釈に過ぎない。思い出の世界の五十鈴が何者であったのかに関しては多様な解釈が許されている。マナと五十鈴の対話がマナの自分の心との対話なのか、あるいは五十鈴との対話なのか、設定だけでは判然としない。これはしかし、映画の解釈に限らず、現実世界においても同様だ。
仮にこれを読んでいるあなたが、過去に親や恩師に言われた言葉を思い出し、その結果自分の行動を反省してそのやり方を変えたとしよう。これはあなたの自己内対話なのか?それとも親や恩師との対話なのか?切り分けることはできないだろう。個人が一人だけで存在することは原理的に不可能である。好むと好まざるとに関わらず、「個人」は周囲の人達と言わばアプリオリに繋がっているのだ。

思い出とともに未来へ進むこと

永遠などいらない、辛い現実に立ち向かうことで、自分自身が強くなれる。そして、周囲に愛を分け与えていくことができるようになる。そう宣言したプリキュアにマシューは問う。「それでは、忘れられたものなど、要らないというのか?」
もちろん、亡くなった人が生き返ることはないし、壊れた物は元には戻らない。彼ら自身は、もはや未来に向かうことはできない。しかし、我々は彼らの遺した教訓、彼らと過ごした記憶、彼らの愛情を再び胸に抱くことで未来へ進む力を得て、共に未来を作っていくのである。
ただし、過去をどう生かすかは解釈次第である。幸福な思い出だけを頭の中で反復し、未来に進む意志を失ってしまうというのは、何もマシューによってオモイデの世界に囚われることがなくても現実に起こりうる。そこにあるのは本当の愛ではない。
身を挺してマナを守ったマロの魂をキュアハートは胸に抱きしめると、ハートはエンゲージモードに変身した。ブーケは弓矢に姿を変える。「マロ、見ててね。あなたの気持ちを弄んだ、あいつを私は許さない!」そういうと、未来をも破壊しようとした最後の敵を、マナは弓矢で打ち抜く。この最後の戦い方こそが、マナの、マシューの問いかけに対する答えなのである。

結婚~美しく困難に満ちた儀式

本作品には様々な愛の形が出てくる。六花やありす達の、友達への愛。真琴においては共に戦う同士としての愛もあるだろう。妖精達のプリキュア達を助けようという愛。また、マロとの、おばあちゃんとの、相互の愛。そして、結婚。様々な愛の形があるが、五十鈴がマナに伝えた愛の本質はそのいずれにも共通している。一つ、言葉を費やすとするならば、その「愛」には「未知の困難に立ち向かう覚悟」が同時に発生する。
本作品がサブタイトルに掲げ、作品全体を貫くモチーフでもある「結婚」とは「共に未来を作り、受け継いでいく」愛の形を象徴的に表している、美しく、また同時に困難に満ちた儀式なのだ。
ちなみに、結婚式を挙げる教会の鐘とブーケの形をモチーフにしていたミラクルライトがプリキュア達を未来に運ぶことができたのも、それが愛の力だからである。文字通り、愛の力によってプリキュア達は未来に到達したというわけだ。

プリキュアはフィルムに収まらない

マナが思い出の世界から元の世界に戻るシーンがある。オモイデの世界で、小学生の頃の姿形になっていたマナは、現実の姿に戻り、そしてプリキュアに変身する。マナを閉じ込めていたフィルムは映写機から勢いよく飛び出して踊り、キュアハートの変身を描き出しながら金色に輝き光を放つ。

映画のテーマとは直接関係ないし、意図したものとも思えないが、このシーンはドキドキプリキュアによる「プリキュア論」であると私は勝手に思い込んでおり、それをこのようにダイナミックに美しく、格好良く描いてくれたことに、感動を覚えずにはいられない。
プリキュアは、一つのアニメとして、あるいは思い出という形で語っても、大して意味はない。「プリキュア」は我々の示す態度として今に生きる概念である。彼らが作中で、その行動をもって伝えてきたメッセージが意味を持つのは、それを我々が生きるこの世界で我々自身が実践していく時以外にありえないのだ。そうでなければプリキュアを見る意味などないし、言葉を尽くしていくら語っても、それは自己満足でしかない。逆に実践できるのであればプリキュアの放映如何に関わらず、私たちは彼らの精神を身近に感じることができる。
マナはプリキュアに変身してフィルムから飛び出した。プリキュアはフィルムに収まるものではない。なんという熱量であろうか。
私は今年のプリキュアが大好きなのだが、映画を通じてプリキュアという存在を改めて誇りに感じることができた。今回の映画は東京国際映画祭に出品され、世界の檜舞台に立つことになった。私は一人の愛好者に過ぎないが、胸を張って訴えたいと思う。
「世界の皆さん、これが日本のプリキュアです!」
スタッフの皆様、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。