【どこへ行く、日本。】から転載
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プロ野球解説者・通算安打記録保持者張本勲さん/姉奪った原爆今語らないと【しんぶん赤旗】
2008-11-22 10:09:28
テーマ:戦争責任(歴史)
gataro-cloneの投稿
TBS系『サンデーモーニング』のスポーツ・コーナーで「喝」を入れまくっている張本勲さん。数年前のプロ野球球団削減、1リーグ制へ移行かという大騒ぎの時には、プロ野球選手会が1リーグ制移行に猛反対し、あわやストライキの場面もあった。その時張本さんは、選手の給料が高すぎることも球団経営赤字の一因と選手会の行動を批判した。ためにgataroは、張本さんのことをとんでもない「守旧派」野郎だと思っていた。
だが、次の張本さんへの「しんぶん赤旗」インタビュー記事を読んでその認識を改めた。
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以下は「しんぶん赤旗情報・G-Search」から検索、貼り付け。
スポーツインタビュー/プロ野球解説者・通算安打記録保持者張本勲さん/姉奪った原爆今語らないと
2008.11.16 日刊紙 1頁 総合 (全805字)
三千八十五本――。イチロー選手が今季、あと二本へと迫り、改めて脚光を浴びた通算安打の日本記録です。この金字塔を打ち立てた張本勲さんはいま、野球解説の仕事のかたわら、被爆体験を伝えることを自身のライフワークとしています。その胸の内を語ってもらいました。
聞き手 和泉民郎 写 真 橋爪拓治
以前、私は自分の被爆体験をだれにも話したことはなかったんですよ。
若者の話に
でも、「これはいかん」と思うことがありまして。三年ほど前、テレビで若者が「戦争なんて僕らに関係ない」と話すのを聞いて、ぞっとしましてね。戦争でどれだけの人が苦しみ、犠牲になったか。経験を語って、若者にもわかってもらうことが必要じゃないかと。
一九四五年八月六日、あの日はいまだに忘れられません。五歳の私が玄関を出た瞬間、ピカッと光って、ドーンときた。
家は広島市の爆心地から二㌔ほどのところでしたが、幸い比治山という八十㍍ほどの小山が壁になり、熱線を遮ってくれました。
でも、避難したブドウ畑は地獄絵そのものでした。やけどを負った人が転がり、うめき声がする。絶叫が聞こえたかと思うと気がふれたように走り回って、近くの川に入っていって死んでいく人もいました。
六歳上の姉は勤労奉仕先で被爆して、タンカで運ばれてきたときには全身ケロイドでした。
優しくて背が高くて色も白い。「勲ちゃんはええのう。きれいなお姉さんがおって」とよくいわれ、自慢でもありましたよ。
ブドウ食べ
それがあんな姿になってしまった。かすれた声で「のどが渇いた」というので、急いでブドウをとって口の中へ入れてあげました。すると「勲ちゃんありがとう」といってくれてね……。
母は、姉のそばで一晩中泣いていました。自らを責めるように、自分の胸をたたきながら。
翌日、姉は息を引きとりました。
大切な姉を原爆に取られた--。この痛恨の思いは、いまだに消えないのですよ。
(3面につづく)
しんぶん赤旗
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スポーツインタビュー/野球解説者張本勲さん/やけどで不自由な右手/練習を人の3倍4倍と…(1面のつづき)
2008.11.16 日刊紙 3頁 総合 (全2,047字)
「母を楽に」とプロ野球へ
張本さんの右手は小指がなく、中指は半分、薬指も三分の一ほどしかありません。親指と人さし指は、内側に曲がったままです。四歳で負った火傷(やけど)が原因です。その不自由な手を克服し、前人未到の記録を打ち立てました。
「もちつき」
火傷は、たき火をして芋が焼けるのを待っていたときですよ。後ろから三輪トラックがバックしてきて飛ばされた。右手から火の中に落ちて、真っ黒になってね。まるで魚が焼け焦げたように。
母が半狂乱のように泣き叫んで、病院に連れていってくれましたが、だめでした。
私の両親は一九四〇年、韓国から広島に移り住みました。
長屋の生活は貧しくて。六畳一間のトタン屋根でした。私がプロ野球の選手を目指したのは、苦労している母を二階建ての家に住まわせてあげたい、自分も腹いっぱいおいしいものを食べたい。そんな思いからでね。
近所に柱を立てタイヤをくくりつけて、バットでたたいて打撃の練習をする。その音を聞いて、近所の人は「また勲ちゃんのもちつきが始まった」といっていたそうです。
プロ(東映)に入ったとき、まずコーチに言われたのは「右手が弱いのは致命的だ」ということでした。バットを握るには中指、薬指、小指の三本がとくに重要です。これでバットを固定する。しかし、私にはそれが難しかったのです。
特訓が始まりました。毎日、コーチにトスしてもらい、右手一本で打ち返す。一日五百本。手が上がらず、歯も磨けない。するとコーチは「そうか痛いか。それは弱いから痛いんだ」と、また練習ですよ。
不思議なもので、それを続けているうちに、痛みも消えて、次第に右手に力がついていった。強い打球も打てるようになって結果もついてくる。すると自分でも楽しくて余計に練習する。その繰り返しでした。
ただ守備は困った。右手のグラブの扱いがうまくいかず、スポットになかなかボールが入ってくれない。私は外野手でしたが、とくにゴロが苦手で、地方の整備されていない球場にいくのが嫌で嫌で。
初めて白状しますが、ゴロを捕るときは、グラブではなく、体にあてて止めようとしていました。エラーをするとヤジもすごくて。「下手くそー」と。「でも、バットで取り返してやる」と、いつも心に言い聞かせていたものです。
川上さんが
右手のことはだれにもいいませんでした。一年目のオフ、広島に帰って食事をしたとき、私は母親を前にこういってしまいました。
「右手が普通じゃったら、もっと打てたんじゃが」 すると母が突然、泣き出した。「私のせいよ。あなたをちゃんと見てあげていれば…」 「しまった」と思っても後の祭りです。以来、右手をだれにも見せたことはありません。それこそ妻や娘にもです。
ただ、元巨人の川上(哲治)さんには見せたことがありました。
そしたら「うぉー」とうなって、「いやー、そんな手でー」といったまま絶句し、涙ぐんでくれました。
何もかもわかってもらえた気がして、苦労が一気に吹き飛んだ思いでした。うれしかったなー。
私はこの右手のおかげで、子どものころから練習を人の三倍、四倍やらないといけないと心に決めて生きてきました。だから人に負けないくらいバットを振りました。同期の王(ワン)ちゃん(王貞治・前福岡ソフトバンク監督)とは、リーグこそ違いましたが、会うとよく「日本で一番バットを振ったのはおれだよ」とお互いに、いい合っていたものです。
生きる希望
私は野球から生きる希望をもらいました。一度は原爆で死んだ身ですしね。
二年前、私はある新聞にこう書きました。
「八月六日と九日を暦から外してもらいたい」 いまわしい記憶をよみがえらせないためにという気持ちからです。そしたら、長崎の小学生の女の子から手紙をもらいました。
「それは逆だと思います。広島と長崎を忘れないために、なくしてはいけないのでは」 ハッとしましてね。今年四月、長崎原爆資料館にいってみました。八月には、広島平和記念資料館にもね。私はそれまでどちらにも行ったことがなかった。広島では近くまでいったけど、結局は入れなかった。怖くてね。でもその子に背中を押されて、やっと。
核兵器を持つ国が、その力で自分の主張を通そうとするのは、やってはならないことです。しかも、核を持つ国が廃絶といっても説得力がない。だから日本は廃絶の先頭に立つべきです。
人間の所業とは思えない核兵器の使用は、繰り返しちゃいかんのです。純粋無垢な子どもの命を奪う核兵器は、世の中から無くすべきなんですよ。
はりもと いさお 1940年6月19日、広島市生まれ、68歳。韓国名・張勲(チャン・フン)。4歳で右手を火傷し、5歳のとき広島で被爆。浪商(現大体大浪商)から59年東映(現日本ハム)入団。新人王。76年巨人、80年ロッテに移籍。23年間でプロ野球最多の3085安打を放つ。通算打率は3割1分9厘。本塁打は504本。1676打点。首位打者7回、MVP1回。90年野球殿堂入り。
しんぶん赤旗
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by Ron