鯖街道右も左も稲架襖 紅日2005年12月号
稲架襖は秋の季語。稲架は「はざ」と読む。「はざぶすま」である。稲架に稲束がびっしりと掛けられそれが座敷の襖のように見えるので、「稲架襖」と呼ばれるようになった。若狭街道の半分以上は山間部である。街道の周りは山ばかり。小さな土地を見つけては限界のぎりぎりまでに迫り水田耕作をしている。一坪弱の小さな田もある。狭小な土地を最大限有効活用しようとした農民の血と汗の結晶である。そんな山ばかりの鯖街道であるが稲刈りの季節になれば街道に沿って沢山の稲架襖が立ち並ぶ。冬が近い山間部は日照時間が短い。少しでも高い稲架を組上げて稲束に太陽光を浴びさせ美味い米を作ろうとする。稲架で干した米と乾燥機で干した米との味の格差は歴然としている。旨味成分を抽出するビタミンDの増え方に格段の違いがあるのだろう。それは生椎茸と干椎茸の違いだ。稲架襖は農夫の血と汗の結晶だ。鯖街道沿いは過疎化が進んだと言われるものの稲の収穫期になれば急激に鯖街道は活気付く。鯖街道は右も左も稲架襖になる。それは山間部で生活する人々の太陽光と太陽熱を貪欲に求める営みである。
鯖街道は若狭京都間を繋ぐ魚介類輸送路。若狭京都間を繋ぐ道は多いのであるが、正式名称は若狭街道という。「鯖街道」という俗称がつけられている。鯖街道の歴史は古い。明日香に都があった頃、既にこの街道を通じて明日香地方に魚が運ばれていた。そのことを記録した木簡が明日香に発見されている。若狭街道の名称は古いが、「鯖街道」は戦後の新しい俗称である。輸送する魚介類の中で鯖が一番多いのでその様な名称がつけれれたのであろう。
昔は若狭湾に鯖が湧き上るほど大量に生息していた。湾の浅瀬に産卵のために鯖が集中した。湧き上るのであるから簡単に漁獲された。古代から漁獲されたのであるから原始的な魚網でも簡単に捕獲できた。ナイロンの無い時代で戦後だったが魚が多すぎて魚網がはちきれて、魚網の底が抜ける話を良く耳にした。人々は魚が多すぎることを「網が抜けた」と言っていた。裏日本の欠点はそれは若狭湾も含まれるが日本海は冬の時化の日が長いことだ。11月からどんより曇りはじめて時雨の季節にはいる。時雨からいつの間にか雪の季節だ。吹雪で時化のために漁に出られない日が長く続く。昔から漁民はその対策も講じていた。それは晴天日のうちに漁をして余った鯖を塩糠に漬けることである。鯖を塩糠漬にして鯖を醗酵保存食にする。保存食生産で時化で漁ができない冬の為の用意をした。鯖の塩糠漬生産は若狭地方の大切な冬用意の一つであった。若狭地方の冬用意は軒下に年木を高く積み上げるだけではなかった。「ちりとてちん」というNHKの朝の連続ドラマがあった。あのドラマで主人公は「若狭の食事は暗くて嫌い。何もかも茶色で暗い。大嫌いだ」とぼやくシーンがあった。あの茶色は沢庵でもあり、「へしこ」とも呼ばれる鯖の塩糠漬だ。どうやら鯖の塩糠漬は若狭だけでなく越中から加賀そして越前若狭にかけた日本海に面した北陸特有の保存食である。裏日本の食文化だ。
裏日本は悪い言葉であると排除されてきたが、私は妙な言いがかりだと思う。言葉狩りのような言語統制は幼稚だと思う。言葉と言うものは、その場その場で適切な言葉を使う訓練が求められるのではないだろうか。それこそが本当の日本文化を形成する力になると思う。言葉狩りをして思考停止をすればその時点から文化は育たない。歴史背景を並べ立てて、日本海側は、元来「表日本」だと言う人が居るがそれは詭弁だ。私は「裏日本」の何が悪いのか分からない。実に地理環境を正確に表現している言葉で良いと思う。裏日本は積雪のために裏作をしない。だから表作だけの米の味が美味いのである。日本海側の米の美味さを一度知れば太平洋側の米は食べられないと言って言い過ぎではない。太平洋側の米は裏作も表作もするから不味い。美味い米を精米すれば美味い米糠が出来るのは当然だ。美味い米糠で大根を漬けたり、魚を漬けたりして裏日本の人々は生きてきた。
沢庵やへしこは、裏日本食文化だ。これほど自然環境を巧妙に利用した乳酸発酵食品は世界にはない。グルジア地方のカスピ海ヨーグルトも健康に良く優れているのであるが、それよりも日本の乳酸発酵食品は優れていると私は思う。乳酸菌は抗癌物質成分が含まれているが、沢庵は世界に誇るべく乳酸醗酵栄養食品である。そしてそれに勝るとも劣らないのは「鯖のへしこ漬」であり、「鯖のこんか漬」だ。私は富山生まれなので子供の頃から食べさせられていた覚えがある。富山ではそれを「鯖のこんか漬」と呼んでいる。
「小糠雨」または「粉糠雨」の「小糠」であるが、それは時雨の小糠雨だ。「小糠漬」が音便変化すれば「こんか漬」になる。なるほど貫地谷しおりが鯖のへしこを「茶色で暗い」というのは納得出来ないことはない。若い主人公だからその様な台詞になったのである。あれは、茶色が暗いのではない。時雨が降り始め雪になる。そして吹雪に成る。そんな暗い季節に卓袱台に登る焼いた「鯖のへしこ」の暗さである。「裏日本」とも呼ばれていた地方の気象の暗さを伝えている。茶色が暗いのではない時雨と雪ばかりの気象の暗さと風土の暗さ、そしてそれに耐え抜いた人々の苦渋を伝えている。苦渋がその人の人生を築くのである。風土から生まれた「裏日本」の呼称がなぜいけないのだろうか。聖書にも「裏も表も」がマカバイ記Ⅰにあるではないか。(注1)
さて、鯖街道が裏日本の一角、若狭国に入った。若狭国の山間部では掲句「鯖街道右も左も稲架襖」の景色が展開していた。句は「裏も表も」ではなく「右も左も」である。日本語訳聖書には「右も左も」を探してみると是も一箇所のみに発見出来た。ヨナ書4-11には「どうして私がこの都ニネベを惜しまずにいられようか。そこには12万人以上の右も左も弁えぬ人間と、無数の家畜が居るのだから」とある。
ヨナ書は旧約聖書の中にあるが、ヨナ書は旧約聖書の他の巻とその性格が根本的に大きく異なる。目を疑うほどの性格の違いがある。それはイスラエルの民の選民思想の否定であり特権意識の否定である。そしてユダヤ人以外の異邦人にも神の慈悲の心が及ぶことであった。神は極めて人間的であり一度言ったことを慈悲により覆すこともある。是はユダヤ人にはとても考えられないことであった。しかも異邦人に神の恩恵や恩典が及ぶことはとても考えられないことだ。ユダヤ人にとっては、それは天変地異の物語である。上記の場面、ヨナ書4-11は神がヨナに言い聞かせている場面である。神は「何故、異邦人と言えども信仰を持ち始めた人々を撲滅できるのか、何故彼らの家畜を無視できるのか」とヨナに言い聞かせているフィナーレ。この場合の「右も左も弁えぬ人間」は無知な人々のことを言っている。尚、ニネベはアッシリア帝国の首都。チグリス川の河畔の集落。現在のイラクの石油都市モスルの対岸の都市。米軍が劣化ウラン弾を乱発した都市で知られているモスルの対岸の町であった。2,6km四方の城壁内部に20万人の人口が集中し、紀元前5世紀頃の当時世界で最大の人口稠密地域であった。
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(注1)マカバイ記Ⅰ13-27には「シモンは墓の上に記念碑を建てた。それは裏も表も滑らかに磨かれた石で飾られ、高く聳え立っていた」とある。
稲架襖は秋の季語。稲架は「はざ」と読む。「はざぶすま」である。稲架に稲束がびっしりと掛けられそれが座敷の襖のように見えるので、「稲架襖」と呼ばれるようになった。若狭街道の半分以上は山間部である。街道の周りは山ばかり。小さな土地を見つけては限界のぎりぎりまでに迫り水田耕作をしている。一坪弱の小さな田もある。狭小な土地を最大限有効活用しようとした農民の血と汗の結晶である。そんな山ばかりの鯖街道であるが稲刈りの季節になれば街道に沿って沢山の稲架襖が立ち並ぶ。冬が近い山間部は日照時間が短い。少しでも高い稲架を組上げて稲束に太陽光を浴びさせ美味い米を作ろうとする。稲架で干した米と乾燥機で干した米との味の格差は歴然としている。旨味成分を抽出するビタミンDの増え方に格段の違いがあるのだろう。それは生椎茸と干椎茸の違いだ。稲架襖は農夫の血と汗の結晶だ。鯖街道沿いは過疎化が進んだと言われるものの稲の収穫期になれば急激に鯖街道は活気付く。鯖街道は右も左も稲架襖になる。それは山間部で生活する人々の太陽光と太陽熱を貪欲に求める営みである。
鯖街道は若狭京都間を繋ぐ魚介類輸送路。若狭京都間を繋ぐ道は多いのであるが、正式名称は若狭街道という。「鯖街道」という俗称がつけられている。鯖街道の歴史は古い。明日香に都があった頃、既にこの街道を通じて明日香地方に魚が運ばれていた。そのことを記録した木簡が明日香に発見されている。若狭街道の名称は古いが、「鯖街道」は戦後の新しい俗称である。輸送する魚介類の中で鯖が一番多いのでその様な名称がつけれれたのであろう。
昔は若狭湾に鯖が湧き上るほど大量に生息していた。湾の浅瀬に産卵のために鯖が集中した。湧き上るのであるから簡単に漁獲された。古代から漁獲されたのであるから原始的な魚網でも簡単に捕獲できた。ナイロンの無い時代で戦後だったが魚が多すぎて魚網がはちきれて、魚網の底が抜ける話を良く耳にした。人々は魚が多すぎることを「網が抜けた」と言っていた。裏日本の欠点はそれは若狭湾も含まれるが日本海は冬の時化の日が長いことだ。11月からどんより曇りはじめて時雨の季節にはいる。時雨からいつの間にか雪の季節だ。吹雪で時化のために漁に出られない日が長く続く。昔から漁民はその対策も講じていた。それは晴天日のうちに漁をして余った鯖を塩糠に漬けることである。鯖を塩糠漬にして鯖を醗酵保存食にする。保存食生産で時化で漁ができない冬の為の用意をした。鯖の塩糠漬生産は若狭地方の大切な冬用意の一つであった。若狭地方の冬用意は軒下に年木を高く積み上げるだけではなかった。「ちりとてちん」というNHKの朝の連続ドラマがあった。あのドラマで主人公は「若狭の食事は暗くて嫌い。何もかも茶色で暗い。大嫌いだ」とぼやくシーンがあった。あの茶色は沢庵でもあり、「へしこ」とも呼ばれる鯖の塩糠漬だ。どうやら鯖の塩糠漬は若狭だけでなく越中から加賀そして越前若狭にかけた日本海に面した北陸特有の保存食である。裏日本の食文化だ。
裏日本は悪い言葉であると排除されてきたが、私は妙な言いがかりだと思う。言葉狩りのような言語統制は幼稚だと思う。言葉と言うものは、その場その場で適切な言葉を使う訓練が求められるのではないだろうか。それこそが本当の日本文化を形成する力になると思う。言葉狩りをして思考停止をすればその時点から文化は育たない。歴史背景を並べ立てて、日本海側は、元来「表日本」だと言う人が居るがそれは詭弁だ。私は「裏日本」の何が悪いのか分からない。実に地理環境を正確に表現している言葉で良いと思う。裏日本は積雪のために裏作をしない。だから表作だけの米の味が美味いのである。日本海側の米の美味さを一度知れば太平洋側の米は食べられないと言って言い過ぎではない。太平洋側の米は裏作も表作もするから不味い。美味い米を精米すれば美味い米糠が出来るのは当然だ。美味い米糠で大根を漬けたり、魚を漬けたりして裏日本の人々は生きてきた。
沢庵やへしこは、裏日本食文化だ。これほど自然環境を巧妙に利用した乳酸発酵食品は世界にはない。グルジア地方のカスピ海ヨーグルトも健康に良く優れているのであるが、それよりも日本の乳酸発酵食品は優れていると私は思う。乳酸菌は抗癌物質成分が含まれているが、沢庵は世界に誇るべく乳酸醗酵栄養食品である。そしてそれに勝るとも劣らないのは「鯖のへしこ漬」であり、「鯖のこんか漬」だ。私は富山生まれなので子供の頃から食べさせられていた覚えがある。富山ではそれを「鯖のこんか漬」と呼んでいる。
「小糠雨」または「粉糠雨」の「小糠」であるが、それは時雨の小糠雨だ。「小糠漬」が音便変化すれば「こんか漬」になる。なるほど貫地谷しおりが鯖のへしこを「茶色で暗い」というのは納得出来ないことはない。若い主人公だからその様な台詞になったのである。あれは、茶色が暗いのではない。時雨が降り始め雪になる。そして吹雪に成る。そんな暗い季節に卓袱台に登る焼いた「鯖のへしこ」の暗さである。「裏日本」とも呼ばれていた地方の気象の暗さを伝えている。茶色が暗いのではない時雨と雪ばかりの気象の暗さと風土の暗さ、そしてそれに耐え抜いた人々の苦渋を伝えている。苦渋がその人の人生を築くのである。風土から生まれた「裏日本」の呼称がなぜいけないのだろうか。聖書にも「裏も表も」がマカバイ記Ⅰにあるではないか。(注1)
さて、鯖街道が裏日本の一角、若狭国に入った。若狭国の山間部では掲句「鯖街道右も左も稲架襖」の景色が展開していた。句は「裏も表も」ではなく「右も左も」である。日本語訳聖書には「右も左も」を探してみると是も一箇所のみに発見出来た。ヨナ書4-11には「どうして私がこの都ニネベを惜しまずにいられようか。そこには12万人以上の右も左も弁えぬ人間と、無数の家畜が居るのだから」とある。
ヨナ書は旧約聖書の中にあるが、ヨナ書は旧約聖書の他の巻とその性格が根本的に大きく異なる。目を疑うほどの性格の違いがある。それはイスラエルの民の選民思想の否定であり特権意識の否定である。そしてユダヤ人以外の異邦人にも神の慈悲の心が及ぶことであった。神は極めて人間的であり一度言ったことを慈悲により覆すこともある。是はユダヤ人にはとても考えられないことであった。しかも異邦人に神の恩恵や恩典が及ぶことはとても考えられないことだ。ユダヤ人にとっては、それは天変地異の物語である。上記の場面、ヨナ書4-11は神がヨナに言い聞かせている場面である。神は「何故、異邦人と言えども信仰を持ち始めた人々を撲滅できるのか、何故彼らの家畜を無視できるのか」とヨナに言い聞かせているフィナーレ。この場合の「右も左も弁えぬ人間」は無知な人々のことを言っている。尚、ニネベはアッシリア帝国の首都。チグリス川の河畔の集落。現在のイラクの石油都市モスルの対岸の都市。米軍が劣化ウラン弾を乱発した都市で知られているモスルの対岸の町であった。2,6km四方の城壁内部に20万人の人口が集中し、紀元前5世紀頃の当時世界で最大の人口稠密地域であった。
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(注1)マカバイ記Ⅰ13-27には「シモンは墓の上に記念碑を建てた。それは裏も表も滑らかに磨かれた石で飾られ、高く聳え立っていた」とある。