潮満ちて狭き洲の鴨寄り添える 愛媛新聞1987年1月26日付
鴨は冬の季語。愛媛県松山市を流れる重信川河口の風景。重信川は元は伊予川と呼ばれていた。加藤嘉明が松山に松山城を造営する時城下町の真ん中を流れていた石手川を付け替えた。城下町に毎年水害が起きないように堤防も高くした。石手川を伊予川に注ぐように改修した。その石手川を付替え改修工事をしたのが加藤嘉明の家臣足立重信であった。それ以降、伊予川は彼の名前で「重信川」と呼ばれるようになった。重信川の源は高縄山で、この山系全体が花崗岩で、花崗岩が風化マサツ地土になっている。そのために大量のマサ土が河口に運搬され、河口には大小の洲が散らばっている。
瀬戸内海は日本海や太平洋に較べて潮の干満差が遥かに大きい。だからこそ地球温暖化が加わると海水が膨張し広島の対岸にある厳島神社の舞台が満潮時に浸水する。重信川の河口の洲は満潮になると河口に散らばる洲の殆んどが海に沈んでしまう。干潮時には大きな洲であったのが次第に小さくなってゆく。洲に屯する鴨が満潮が近づくと次第に狭い洲に追い込まれて仕舞う。時には諍いをするが、穏やかに狭い空間に寄り添って生きている時もある。狭くなる中で自らのテリトリーを主張し諍いをする時は寒々とした景色になるが、平和裏に寄り添っているときはほのぼのとした温かみのある景色になる。鴨の社会も人間社会と同じである。氵偏の「洲」は句の如く河川の堆積作用で河口や河道に形成される砂の島を表す。周りが水に囲まれているのでどうしても「洲」でなければならない。現在の当用漢字では洲も州で表記しても構わないことになっているが、俳句は文字で風景を描写しなければならないので当用漢字を当てはめて解決することは許されないだろう。洲でなければ水が見えにくいし、風景が見えにくい。
旧約聖書はイスラエル建国の戦記物語であり、国取り合戦の物語でもある。そして悲しい現実であるがその戦いが今も連綿と続いている。止めればよいのにと思うが止められない。イスラム教徒をテロリストと称し、そして「ピンホール爆撃だ」と弁解しながら空爆を今も繰返している。最近は無人爆撃機を使い国際的批判も浴びている。世界中に流血の惨禍を際限なく拡げている現実がある。アメリカ合衆国中枢部を支配するユダヤ教やそれに準ずるキリスト教原理主義者がその原動力であるとの指摘もある。私は、この戦争には悲観的である。多くの国がボロボロに崩れるまで続くと思う。ギリシャもイタリアも財政破綻原因は消費税制度を活用した目に見えない戦費の垂れ流しが原因であると思う。あのような国が次ぐ次と増えるのは間違いが無い。日本もその中に連れ込まれる危険性が極めて高い。十字軍遠征を見ても分かるが、何百年もこの戦争は続くと予想している。私はこの宗教戦争は停戦はないと思う。間違いなく世界は際限の無い宗教戦争の様相をますます濃厚にしている。
日本の知識人の中にはTPP加盟は通商上の問題ではなく安全保障上の問題であり絶対に加盟すべきだ。加盟しなければ日本は孤立するとテレビで国民に強く主張している。その訴えは何かに怯えているかの如き表情である。その何かに怯える主張は日本も宗教戦争に参戦すべきだと言う主張に聞こえるのは私だけではあるまい。テレビを見ないようにしているのだがそれでも、テレビを見ていて気分が悪くなる瞬間が最近随分増えてしまった。マスコミが知識人を利用し、騒乱を醸成しようとしている意図を感じる。そんな時はテレビからは逃げるが勝ちだと思う。
現代世界の主要紛争は、それはある意味では旧約聖書由来の宗教戦争である。牧師の中にも「神は人間に平和を与えたのではなく武器を与えた」と説教台から戦争を鼓舞挑発するのを目撃したこともある。またブッシュ大統領がバクダッド空爆開始時に「神の御名による聖戦、第10回十字軍遠征を開始する」と叫んで全世界にその映像を流したのは記憶に新しい。旧約聖書はそれを言わせる国家主義的国意識が強烈である。したがって聖書の中の漢字「国」が出て来る頻度は極めて高い。漢字の「国」は聖書に1522回もの高い頻度で遭遇する。
「州」は聖書全体で103回発見できる。当用漢字の「州」の意味は広い。「国」が含まれることもある。国を超えて「アジア州」という場合もある。「国」よりも聖書に出て来る頻度が低いが、聖書には州も出て来る。アメリカ合衆国は昔は「アメリカ合州国」と表記していたこともあった。49の州が集合しているのでその様な字を当てた。現在「合衆国」が正しいのは「合衆」とは共和制のことを意味するので是が正しいとなっている。江戸幕府役人が中国古典の「周礼」を紐解き「合衆」を発見し、その様に表記するようにしたと言われている。「周礼」のその下りは「大封之礼合衆也」とある。なお、国のことを州ということもあるが、国を細分化した小単位の行政範囲を州ということもある。
日本語訳聖書の州にはどのような州があるのか確かめてみた。聖書時代の「州」の認識を確かめてみた。認識方法は、先ず聖書の中の「州」の巻別分布表を作成し、それぞれのその中身を吟味である。
●列王記上には「州」が4回発見できる。その位置は以下である。
・20-14,20-15,20-17,20-19,
●エズラ記には「州」が5回発見できる。その位置は以下である。
・2-1,4-15,5-8,6-2,7-16
●ネヘミヤ記には「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・1-3,7-6,11-3
●エステル記には「州」が20回発見できる。その位置は以下である。
・1-1,1-3,1-23,2-3,2-18,3-8,3-12,9-3,9-4,9-16,9-20,9-28,9-30
●イザヤ書には「州」が1発見できる。その位置は以下である。
・19-13
●ダニエル書には「州」が8発見できる。その位置は以下である。
・2-48,2-49,3-1,3-2,3-3,3-12,3-30,8-2
●ルカ伝には「州」が1発見できる。その位置は以下である。
・2-2
●使徒行伝には「州」が39回発見出来る。その位置は以下である。
・6-9,13-12,13-13,13-14,14-6,14-20,14-24,15-23,15-38,15-41,16-6,16-7,16-9,16-12,18-2,18-5,18-12,18-18,
18-27,19-10,19-21,19-22,19-26,19-27,19-31,19-40,20-1,20-3,20-4,20-16,20-18,21-3,21-27,21-39,21-39,22-3,23-34,24-19,27-2,27-5
●ローマ人への手紙には「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・15-19,15-20,16-5
●コリント人への手紙Ⅰには「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・16-5,16-15,16-19
●コリント人への手紙Ⅱには「州」が9回発見できる。その位置は以下である。
・1-1,1-8,1-16,2-13,7-5,8-1,9-2,9-4,11-9
●フィリピ人への手紙には「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・4-5
●テサロニケ人への手紙には「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・1-7,1-8,4-10
●テモテへの手紙Ⅰには「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・1-3
●テモテへの手紙Ⅱには「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・1-3
●黙示録には「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・4-5
(聖書の中の「州」の特徴)
(1)日本語訳聖書全体で「州」の文字は103回発見できる。州には国の意味も含まれるが。「国」は聖書の中に1522回で圧倒的に聖書に出て来る回数が多い。「州」の回数は「国」に較べれば極めて少ない。15分の1である。しかし、聖書に出て来る一般的単語の中では、「州」の回数は中程度であリそれほど少ないとはいえない。
(2)州の漢字は旧約では41回、新約では62回で、新約の方がその回数が多い。
(3)新約・旧約それぞれの「洲」の巻別で多い順は
旧約は
第一位エステル記は―20回
第二位ダニエル書は―08回
愛三位エズラ記は――05回
新約は
第一位使徒行伝は――――――39回
第二位コリント人への手紙Ⅱ―09回
愛三位テサロニケ人への手紙―03回
旧約も新約も分布に大きな偏りが見られる。旧約ではエステル記への偏り新約では使徒行伝への偏りが大きい。
(4)何冊かの聖書の目を通すことでわかったが「州」の翻訳は聖書によってそのバラツキがある。列王記の州の中には、例えば列王記20-14は「州」と翻訳する聖書もあれば「地方」と翻訳したり「省」と翻訳したりする聖書もあった。それは「州」の理解が曖昧である証拠でもあると思う。
(5)使徒行伝の翻訳でも聖書によって「州」と翻訳したり「国」と翻訳したりしている。例えば、それは使徒行伝23-34や25-1で見られたのであるが、「州」と「国」との違いが明瞭に概念規定が無いままで翻訳作業が行われている。
(6)ダニエル記2-49には「ダニエルは王に願ってジェドラク、メシャク、アベド、ネゴをバビロン州の行政官に任命してもらった。ダニエル自身は王宮に留まった」とある。また、ダニエル記3-2「ネブカドネツァル王は人を遣わし、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官その他諸州の高官たちを集め自分の建てた像の除幕式に集まり」としている。この二つの文面から判明することはバビロンとペルシャ帝国の州は行政上の目的で区分されていたということである。地域を区分するのはその地域を権力者が支配するのが目的であったことが読み取れる。
(7)ペルシャ国の州に関しての述べている箇所が以下に発見できる。これらの記述からインドからエチオピアまで統治支配したペルシャ大王ダリウスは20の知事の統治区に分けて支配していた。ユダヤ人は是を「州」と読んでいたことが分かる。
第一にエズラ記8-36「彼らが王の命令書を地方総督とユーフラテス西方の長官に手渡したのでイスラエルの民と神殿は彼らの支援を受けた」とある。
第二にネヘミヤ記2-7「私は更に王に言った『若しもお心に適いますなら、私がユダに行き到着するまでは私が通過させるようにとユーフラテス西方の長官達に宛てた書状をいただきとうございます。(中略)こうして私はユーフラテス西方の長官のもとに到着する度に王の書状を手渡すことが出来た」とある。
第三にエステル記3-12には「にこうして王の書記官が招集され総督、各州の長官各民族の首長に宛てて、ハマンの命ずるままに勅書が記された。」とある。
第四にエステル記8-9には「その頃王の書記官が招集されインドかクシュに至るまで127州に居るユダヤ人とユダヤ人と総督、地方長官、諸州の長官達に対してモルデカイが命ずるままに文書が作成された」とある。
(8)エステル記1-1には「クセルクセスはインドからクシュに至るまで127の州の支配者であった」としている。この箇所からペルシャ帝国のクセルクセス時代には127の州に区分されていたことが分かる。
(9)ペルシャ時代初期にはユダはユーフラテス対岸のペルシャの州知事の支配下にあったことが以下の二文書から分かる。それはエズラ記5-3には「その時にはユーフラテス西方の総督タテナイシェタル・ホゼナイ、及びその仲間達が彼らの元に来て言った」とある。もうひとつはエズラ記5-6である。そこには「ユーフラテス西方の長官タテナイとシェタル・ボゼナイ及びその仲間であるユーフラテス西方の巡視官たちが」とある。
(10)王の勅令で独立州となったことを次の箇所で述べている。エズラ記2-65、エズラ記5-8。
(11)聖書が描かれた地域にはナイル川やヨルダン地溝帯を流れるヨルダン川、そしてチグリス・ユーフラテスなど多くの河川が存在するが、河川の堆積作用により誕生した「洲」は聖書に描かれていない。また川中島などの洲を描写する箇所は聖書には発見できない。日本列島の急峻な地形、世界有数の多雨地域であることが日本の自然環境の大きな特徴であり「潮満ちて狭き洲の鴨寄り添える」のような風景は乾燥地域である聖書が描かれた地域では数が少ないようだ。少なくとも聖書には川に生成される「洲」は一度も発見できない。聖書に出て来る「州」は国や国の行政単位としての「州」である場合が全てである。
鴨は冬の季語。愛媛県松山市を流れる重信川河口の風景。重信川は元は伊予川と呼ばれていた。加藤嘉明が松山に松山城を造営する時城下町の真ん中を流れていた石手川を付け替えた。城下町に毎年水害が起きないように堤防も高くした。石手川を伊予川に注ぐように改修した。その石手川を付替え改修工事をしたのが加藤嘉明の家臣足立重信であった。それ以降、伊予川は彼の名前で「重信川」と呼ばれるようになった。重信川の源は高縄山で、この山系全体が花崗岩で、花崗岩が風化マサツ地土になっている。そのために大量のマサ土が河口に運搬され、河口には大小の洲が散らばっている。
瀬戸内海は日本海や太平洋に較べて潮の干満差が遥かに大きい。だからこそ地球温暖化が加わると海水が膨張し広島の対岸にある厳島神社の舞台が満潮時に浸水する。重信川の河口の洲は満潮になると河口に散らばる洲の殆んどが海に沈んでしまう。干潮時には大きな洲であったのが次第に小さくなってゆく。洲に屯する鴨が満潮が近づくと次第に狭い洲に追い込まれて仕舞う。時には諍いをするが、穏やかに狭い空間に寄り添って生きている時もある。狭くなる中で自らのテリトリーを主張し諍いをする時は寒々とした景色になるが、平和裏に寄り添っているときはほのぼのとした温かみのある景色になる。鴨の社会も人間社会と同じである。氵偏の「洲」は句の如く河川の堆積作用で河口や河道に形成される砂の島を表す。周りが水に囲まれているのでどうしても「洲」でなければならない。現在の当用漢字では洲も州で表記しても構わないことになっているが、俳句は文字で風景を描写しなければならないので当用漢字を当てはめて解決することは許されないだろう。洲でなければ水が見えにくいし、風景が見えにくい。
旧約聖書はイスラエル建国の戦記物語であり、国取り合戦の物語でもある。そして悲しい現実であるがその戦いが今も連綿と続いている。止めればよいのにと思うが止められない。イスラム教徒をテロリストと称し、そして「ピンホール爆撃だ」と弁解しながら空爆を今も繰返している。最近は無人爆撃機を使い国際的批判も浴びている。世界中に流血の惨禍を際限なく拡げている現実がある。アメリカ合衆国中枢部を支配するユダヤ教やそれに準ずるキリスト教原理主義者がその原動力であるとの指摘もある。私は、この戦争には悲観的である。多くの国がボロボロに崩れるまで続くと思う。ギリシャもイタリアも財政破綻原因は消費税制度を活用した目に見えない戦費の垂れ流しが原因であると思う。あのような国が次ぐ次と増えるのは間違いが無い。日本もその中に連れ込まれる危険性が極めて高い。十字軍遠征を見ても分かるが、何百年もこの戦争は続くと予想している。私はこの宗教戦争は停戦はないと思う。間違いなく世界は際限の無い宗教戦争の様相をますます濃厚にしている。
日本の知識人の中にはTPP加盟は通商上の問題ではなく安全保障上の問題であり絶対に加盟すべきだ。加盟しなければ日本は孤立するとテレビで国民に強く主張している。その訴えは何かに怯えているかの如き表情である。その何かに怯える主張は日本も宗教戦争に参戦すべきだと言う主張に聞こえるのは私だけではあるまい。テレビを見ないようにしているのだがそれでも、テレビを見ていて気分が悪くなる瞬間が最近随分増えてしまった。マスコミが知識人を利用し、騒乱を醸成しようとしている意図を感じる。そんな時はテレビからは逃げるが勝ちだと思う。
現代世界の主要紛争は、それはある意味では旧約聖書由来の宗教戦争である。牧師の中にも「神は人間に平和を与えたのではなく武器を与えた」と説教台から戦争を鼓舞挑発するのを目撃したこともある。またブッシュ大統領がバクダッド空爆開始時に「神の御名による聖戦、第10回十字軍遠征を開始する」と叫んで全世界にその映像を流したのは記憶に新しい。旧約聖書はそれを言わせる国家主義的国意識が強烈である。したがって聖書の中の漢字「国」が出て来る頻度は極めて高い。漢字の「国」は聖書に1522回もの高い頻度で遭遇する。
「州」は聖書全体で103回発見できる。当用漢字の「州」の意味は広い。「国」が含まれることもある。国を超えて「アジア州」という場合もある。「国」よりも聖書に出て来る頻度が低いが、聖書には州も出て来る。アメリカ合衆国は昔は「アメリカ合州国」と表記していたこともあった。49の州が集合しているのでその様な字を当てた。現在「合衆国」が正しいのは「合衆」とは共和制のことを意味するので是が正しいとなっている。江戸幕府役人が中国古典の「周礼」を紐解き「合衆」を発見し、その様に表記するようにしたと言われている。「周礼」のその下りは「大封之礼合衆也」とある。なお、国のことを州ということもあるが、国を細分化した小単位の行政範囲を州ということもある。
日本語訳聖書の州にはどのような州があるのか確かめてみた。聖書時代の「州」の認識を確かめてみた。認識方法は、先ず聖書の中の「州」の巻別分布表を作成し、それぞれのその中身を吟味である。
●列王記上には「州」が4回発見できる。その位置は以下である。
・20-14,20-15,20-17,20-19,
●エズラ記には「州」が5回発見できる。その位置は以下である。
・2-1,4-15,5-8,6-2,7-16
●ネヘミヤ記には「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・1-3,7-6,11-3
●エステル記には「州」が20回発見できる。その位置は以下である。
・1-1,1-3,1-23,2-3,2-18,3-8,3-12,9-3,9-4,9-16,9-20,9-28,9-30
●イザヤ書には「州」が1発見できる。その位置は以下である。
・19-13
●ダニエル書には「州」が8発見できる。その位置は以下である。
・2-48,2-49,3-1,3-2,3-3,3-12,3-30,8-2
●ルカ伝には「州」が1発見できる。その位置は以下である。
・2-2
●使徒行伝には「州」が39回発見出来る。その位置は以下である。
・6-9,13-12,13-13,13-14,14-6,14-20,14-24,15-23,15-38,15-41,16-6,16-7,16-9,16-12,18-2,18-5,18-12,18-18,
18-27,19-10,19-21,19-22,19-26,19-27,19-31,19-40,20-1,20-3,20-4,20-16,20-18,21-3,21-27,21-39,21-39,22-3,23-34,24-19,27-2,27-5
●ローマ人への手紙には「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・15-19,15-20,16-5
●コリント人への手紙Ⅰには「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・16-5,16-15,16-19
●コリント人への手紙Ⅱには「州」が9回発見できる。その位置は以下である。
・1-1,1-8,1-16,2-13,7-5,8-1,9-2,9-4,11-9
●フィリピ人への手紙には「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・4-5
●テサロニケ人への手紙には「州」が3回発見できる。その位置は以下である。
・1-7,1-8,4-10
●テモテへの手紙Ⅰには「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・1-3
●テモテへの手紙Ⅱには「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・1-3
●黙示録には「州」が1回発見できる。その位置は以下である。
・4-5
(聖書の中の「州」の特徴)
(1)日本語訳聖書全体で「州」の文字は103回発見できる。州には国の意味も含まれるが。「国」は聖書の中に1522回で圧倒的に聖書に出て来る回数が多い。「州」の回数は「国」に較べれば極めて少ない。15分の1である。しかし、聖書に出て来る一般的単語の中では、「州」の回数は中程度であリそれほど少ないとはいえない。
(2)州の漢字は旧約では41回、新約では62回で、新約の方がその回数が多い。
(3)新約・旧約それぞれの「洲」の巻別で多い順は
旧約は
第一位エステル記は―20回
第二位ダニエル書は―08回
愛三位エズラ記は――05回
新約は
第一位使徒行伝は――――――39回
第二位コリント人への手紙Ⅱ―09回
愛三位テサロニケ人への手紙―03回
旧約も新約も分布に大きな偏りが見られる。旧約ではエステル記への偏り新約では使徒行伝への偏りが大きい。
(4)何冊かの聖書の目を通すことでわかったが「州」の翻訳は聖書によってそのバラツキがある。列王記の州の中には、例えば列王記20-14は「州」と翻訳する聖書もあれば「地方」と翻訳したり「省」と翻訳したりする聖書もあった。それは「州」の理解が曖昧である証拠でもあると思う。
(5)使徒行伝の翻訳でも聖書によって「州」と翻訳したり「国」と翻訳したりしている。例えば、それは使徒行伝23-34や25-1で見られたのであるが、「州」と「国」との違いが明瞭に概念規定が無いままで翻訳作業が行われている。
(6)ダニエル記2-49には「ダニエルは王に願ってジェドラク、メシャク、アベド、ネゴをバビロン州の行政官に任命してもらった。ダニエル自身は王宮に留まった」とある。また、ダニエル記3-2「ネブカドネツァル王は人を遣わし、総督、執政官、地方長官、参議官、財務官、司法官、保安官その他諸州の高官たちを集め自分の建てた像の除幕式に集まり」としている。この二つの文面から判明することはバビロンとペルシャ帝国の州は行政上の目的で区分されていたということである。地域を区分するのはその地域を権力者が支配するのが目的であったことが読み取れる。
(7)ペルシャ国の州に関しての述べている箇所が以下に発見できる。これらの記述からインドからエチオピアまで統治支配したペルシャ大王ダリウスは20の知事の統治区に分けて支配していた。ユダヤ人は是を「州」と読んでいたことが分かる。
第一にエズラ記8-36「彼らが王の命令書を地方総督とユーフラテス西方の長官に手渡したのでイスラエルの民と神殿は彼らの支援を受けた」とある。
第二にネヘミヤ記2-7「私は更に王に言った『若しもお心に適いますなら、私がユダに行き到着するまでは私が通過させるようにとユーフラテス西方の長官達に宛てた書状をいただきとうございます。(中略)こうして私はユーフラテス西方の長官のもとに到着する度に王の書状を手渡すことが出来た」とある。
第三にエステル記3-12には「にこうして王の書記官が招集され総督、各州の長官各民族の首長に宛てて、ハマンの命ずるままに勅書が記された。」とある。
第四にエステル記8-9には「その頃王の書記官が招集されインドかクシュに至るまで127州に居るユダヤ人とユダヤ人と総督、地方長官、諸州の長官達に対してモルデカイが命ずるままに文書が作成された」とある。
(8)エステル記1-1には「クセルクセスはインドからクシュに至るまで127の州の支配者であった」としている。この箇所からペルシャ帝国のクセルクセス時代には127の州に区分されていたことが分かる。
(9)ペルシャ時代初期にはユダはユーフラテス対岸のペルシャの州知事の支配下にあったことが以下の二文書から分かる。それはエズラ記5-3には「その時にはユーフラテス西方の総督タテナイシェタル・ホゼナイ、及びその仲間達が彼らの元に来て言った」とある。もうひとつはエズラ記5-6である。そこには「ユーフラテス西方の長官タテナイとシェタル・ボゼナイ及びその仲間であるユーフラテス西方の巡視官たちが」とある。
(10)王の勅令で独立州となったことを次の箇所で述べている。エズラ記2-65、エズラ記5-8。
(11)聖書が描かれた地域にはナイル川やヨルダン地溝帯を流れるヨルダン川、そしてチグリス・ユーフラテスなど多くの河川が存在するが、河川の堆積作用により誕生した「洲」は聖書に描かれていない。また川中島などの洲を描写する箇所は聖書には発見できない。日本列島の急峻な地形、世界有数の多雨地域であることが日本の自然環境の大きな特徴であり「潮満ちて狭き洲の鴨寄り添える」のような風景は乾燥地域である聖書が描かれた地域では数が少ないようだ。少なくとも聖書には川に生成される「洲」は一度も発見できない。聖書に出て来る「州」は国や国の行政単位としての「州」である場合が全てである。