飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

天皇陛下は断罪の対象とはなり得ない

2017-03-29 09:57:39 | 日本論と宗教論
ヤコブさんのコメントへの返信第二弾です。

>どうして非常に高い地位にあるのか?具体的に答えていない。。

この世の隠された本当の支配者の力の源泉としては、

(1)世界最古かつ世界最大規模の秘密諜報組織を配下に従えていること

(2)そのような秘密諜報組織の忠誠心の固さを維持する要素を余すところなく所有すること。例えば、

A. 人類発祥以来意識的に維持管理されて来た血統

B. 何万年も前から組織的に採集、保管、運用されて来た、にもかかわらず一般には隠匿されている莫大な量の金

C. 深い人間理解及び宇宙理解に基づく体系的な密儀の独占的な継承

など多くのものを上げることができます。詳しくはこのブログ内の記事『「三人の天皇」を検証する』を参照して下さい。既に具体的かつ体系的に論述しています。

>昭和天皇を断罪していない。明仁も同じだ。

昭和天皇を個人として捉えることが仮に許されたとして、その個人としての昭和天皇が、個人である限り絶対に従わなければならない道徳法則に反する行為を犯していたことが確認された場合に限って、昭和天皇は断罪されなければなりません。しかし、先ず私には、昭和天皇の犯した罪の確認がまだありません。だから、断罪もできません。更には、そもそも、天皇陛下のことを我々と同列の個人として把握する感性がありません。従って、昭和天皇の犯した罪という発想そのものもない訳です。

今の天皇家は、イエスを起源とする本来の天皇家を乗っ取ってできたものである。本来の天皇家に忠義を抱く者としては、昭和天皇のことは是が非でも断罪せざるを得ない。

あなたはこのように仰っていると思います。しかし、私があなたの立場なら、昭和天皇の断罪に拘ることはしないと思います。やるべきことはただひとつ。天皇位奪還の計画とその実行です。昭和天皇の断罪は、天皇の権威そのものの否定に繋がるばかりか、断罪の主体に対する周囲の評価の凋落をも招くことになり、天皇位奪還実現のためには著しく不都合となる筈です。私ならそんなこと念頭に浮かぶことすらないと思います。念頭にあるのは天皇位奪還の強力な意志だけになる筈だからです。

それから、私の研究では、イエスとその弟子たちを起源とする家系及びイエスを生み出した家系の勢力は、天皇家となる資格のある家系ではあっても、天皇家となる資格を独占する家系ではないのかも知れないということになっています。それを端的に象徴すると私が考えるのは、以下の四点です。

(1)イエスの誕生に東方のマギ達が関与したと聖書に明記されていること(マギは、ペルシャあたりの宗教として一般には漠然と認知されているゾロアスター教やミトラス教、マニ教などの神官のことです)。

(2)イエスの生涯の聖書における記述がミトラスの生涯のペルシャ文献における記述と酷似している上に、生涯の記述がミトラスの生涯のペルシャ文献における記述と酷似した人物が、イエス以外にも世界中に多数確認できること。

(3)イエスが公生涯を開始するまでそこに属し、その流儀に従って修行を重ね、更にはその独自の密儀によって公生涯を開始したと聖書に明記してあるエッセネ派が、イスラエルやユダヤには本来なかった、終末思想をはじめとする東方起源のいくつかの要素をユダヤに持ち込んだ教団であり、かのクムランではユダヤの中枢の大規模な参画も得ながら活動していたことが、学問的に証明されていること。

(4)「主」のみを崇め、収穫の十分の一の捧げ物という行為を「主」に対してしか行なわないはずのイスラエルがメルキツェデクなる者を「主」と呼び、崇め、収穫の十分の一の捧げ物という行為の対象にしたことが、聖書の中に明記してあること。このメルキツェデクが天皇家の起源と関係あると考えられること。

「私は平和を齎すために来たのではない」

2017-03-28 13:32:09 | 日本論と宗教論
コメント有難うございます。返信の第1弾を記事として上げさせていただきます。

>平和をもたらすためには来ないと言っている。

あなたが念頭に置いているのは、以下の文章のことでしょう。

「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、私は今強く願っている。とは言え、わたしには、受けねばならない洗礼(バプテスマ)もある。それが終わるまで、わたしは大いに苦しむことになる筈だ。わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っているのではないか?そうではない。言っておくが、私がこうして世に出ることで齎されるのは、平和ではなく、むしろ分裂なのだ。一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と。母は娘と、娘は母と。しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと。それぞれが皆、対立して分かれる」

この文章における「平和」の対義語は「戦争」ではありません。明確に「分裂」と言っています。私が思うに、イエスの存在によってひとりひとりが、自分の頭で考えるようになる。既存の価値に無批判に寄りかかった行動を取らなくなる。そのことによって既存の秩序が大きく崩れ、混乱が齎される。甘いことを考えて油断していてはいけない。気を引き締めてこの混乱に備えておくことだ。この混乱の中から君達が、新しい秩序を作って行かなければならないのだ。これがこの文章の趣旨になっています。

次のような文章も念頭にあるでしょう。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためなどと思ってはならない。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ。わたしは人と人を敵対させるために来た。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに敵対させるためにだ。私について来る者には、自分の家族が敵となる。わたしよりも父や母を愛する者は私にふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も私にふさわしくない。私に従うと言いながら自分の十字架を担おうとしない者は私にふさわしくない。 私故に命の危険に晒された時、自分の『命』を優先する者は命を失い、私のために『命』を失う者は、 かえって命を得る」

この文章に記述された「剣」とは紛れもなく暴力のことであり、自分の敵にその剣を向けて戦うことを要求しているかのように感じられるかもしれません。しかし、それは違います。よく読んで下さい。この剣は敵からこちらに向けられるものであって、こちらから敵に向けられるものではありません。主の祈りでは「我らが人に赦す如く我らの罪を赦し給へ」とも表現されます。どんな人にも、如何なる暴力も、こちらから仕掛けることは許されていません。そうではなく「迎え入れようとせず、耳を傾けようともしない家があったら、そこを出ていくときに、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」とも指導されています。「私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。こんな言葉もあります。更には、洗礼者ヨハネによる次のような言葉も。

「パリサイ人やサドカイ人が大勢バプテスマを受けに来るのを見た時、ヨハネは彼らに言った。『まむしのすえたちよ、だれが差し迫った神の怒りをのがれるように教えたのか。怒りをまぬがれたいなら、改心にふさわしい実を結べ。『われらの先祖はアブラハムだ。』などと驕り高ぶってはならない。言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのだ。斧はすでに木の根元に置かれてる。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれる」


私は、これらの言葉に成る程と納得し、この言葉に成る程と納得する、そんな自分の理性に従いたいと思っています。

日本国の本体

2017-03-21 23:38:51 | 日本論と宗教論
日本が国際社会において発言力を持つためには軍事力が必要である。再軍備に反対するのは余りにも認識不足ではないか?

このような疑問が、Blue Lagoon というペンネームの読者から私に、投げかけられました。これは、そのコメントの中で私に投げかけられた幾つかの疑問のふたつ目です。今回は、この疑問に答えてみることにします。

発言力が軍事力を背景とした発言力とならなければならないのは、国際社会が経済的に非常に偏った依存関係になっている時に限られます。生産せざる国家(遊牧民)が生産する国家(農耕民)を支配下に置き、唯々諾々と自分の意志に従わせ、収奪し続けようとする時の手段のひとつとして、軍事力が必要になるのです(例えば、スキタイやトラキアがその典型例。枚挙に暇がない)。

あるいは、別の生産せざる国家がこの生産せざる既得権益国家を追い払って自分がその生産国家の新しい支配者になろうとする時(他国の征服)の手段としても、軍事力は必要になってきます。

註:侵入される側の国家の「国民」が既得権益国家に強い愛着を示し、この侵入に対する抵抗に参加してくるなどの特殊な場合においてのみ、「国民」への攻撃は限定的に行われるのであって、一般的には現実として、そのようなことが行われる必然性が全く考えられません。従って、無差別絨毯爆撃や原爆投下が世界中で行われたあの第二次世界大戦は、戦争としては極めて特殊なものだったと言えるわけです。

ですから、さらに、既得権益国家側がこの侵入国家に対抗しようとする時(防衛)の手段のひとつとしても、軍事力が必要になってくることになります。すなわち防衛とは、「他国の侵略から自国民を守る」ということなどではなく、ある非武装生産国家に対する自分の既得権を他の武装国家から守るということでしかなかったのです。生産する国民は、土地と共に、支配者にとっては財産以外の何者でもないのです。それは、侵入者にとっても全く同じです。それどころか、その侵入の動機のひとつですらあります。「この国は我々国民のものである」という私達が普通に何の疑問もなく行っている言い方は、この場合、ほとんど意味のない言い方になることがわかるはずです。

さらには、地球上の様々な領域をそれぞれに支配している非生産武装国家の集まり(国際社会)においても、その集まり全体の方向性を決める時の発言力の背景として、軍事力が意識されることでしょう。そもそも軍事力のない国家には、この集まりに加わり、発言力をたとえ少しであっても持つことすら許されないのです。

註:ここで私は国家という言葉を、人間集団による一種の系統的で組織的な継続的行為を表す言葉として用いています。この意味での国家は、組織性の緩い国家と組織性の極めて緊密な国家に分けられ、通常は後者が、軍事力を多くの手段のひとつとして保有し、前者を支配することになります。メルカトル図上で国境線に括られる形で表現された領域内に、ある程度の共通性を持った多くの人間がお互いに協力し合って生きる状態という通常の国家観は、今の考察には有効でないので放棄しています。ここで私が採用している国家観からこの列島での国家の状態を記述すれば、この列島では複数の武装国家が、一定の関係を互いに結んで共存しながら、幾つかの非武装生産国家を支配しているといった感じになります。また、被支配非武装生産国家という意味では、企業体連合も国家なのです。

私の研究では、人類の歴史上、国際社会がこのような暴力による搾取の関係を基本としていなかったことなど、本質的な意味では一度もなかったと考えています。ただ、ここでは、この考え方の是非は留保しておいて、現在の日本がどんな意味での国家であるかに問題を集約しなければなりません。

一般的に現在の日本は、被支配非武装生産国家と考えられています(アメリカと同盟を結んだ一種の独立国というもっと一般的な捉え方は最早、私の頭にチラリとも浮かんで来ません)。工業の点では、極めて優秀な生産国家であると言われています。しかし、農業生産の点では、質量ともに極めて優秀な潜在力を持っているにも拘らず、支配国家であるアメリカの意向に沿ってその能力の発揮を大幅に抑制された状態にあると言われます。天然資源については、重要なものがほとんどなく、常に大部分を輸入に頼らなければならなくなっているとされます。

ところで、民が勤勉で忍耐強く、農業生産が盛んで天然資源も豊かな国が工業生産にもその力を発揮した場合、いざとなった時に、非常に強い国になってしまう可能性があります。このような国なら、平時からプロの武装集団を小規模な形でも抱え訓練してさえいれば、戦時に突入しそうになった時に、それを短期間で、その優秀さをほぼ損なうことなく、大規模な軍団にまで拡大することが可能なのです。

註:そもそも、平時においても変わらず戦時と同じような大規模な軍団を維持していくのは、富の浪費以外の何物でもないばかりか、生産せざる生活に染まり切った厄介な一大勢力としてそれが機能し始め、多くの弊害を生み出してしまいかねないわけですから、必ずしも好ましい方策とは言えないのです。

ですから、生産せざる武装国家が生産する非武装国家をその支配下に入れようとする時は、それぞれの生産手段を別々の国に割り当て、ひとつの国に生産手段が集中するのを回避しようとするでしょう。その上で、各国間の貿易を主導コントロールしつつも、各国間の結び付きが緊密になりすぎてひとつの国家のようになってしまわないよう、紛争も適度な頻度で起こるよう演出することになるでしょう。

このように考えると、被支配非武装生産国としての日本は、現在、他の幾つかの被支配非武装生産国家との組み合わせの中で主に工業生産を割り当てられた国となっているようです。我々一般の国民はこの被支配非武装生産国家としての日本国の一員なのです。例えば、何処かの企業に就職して生活するとは、この被支配非武装生産国家の国民として支配を受け入れて生活するということを意味しているのです。

ところが、よく考えてみると、事はそう単純ではありません。軍事力を持たない単なる被支配生産国家であるなら、どうしてこの日本国は、国際社会において、武装国家しか加わることのできないはずの中枢グループの一員でいるのでしょうか?「核兵器も持っていない」のにです。この中枢グループの中での発言力の相対的な弱さということは、ある程度は言えるかもしれませんが、この中枢グループに加わることの許されない他の多くの国々に比べて発言力は、遥かに強いのではないでしょうか?とするとこれは、何故なのでしょうか?アメリカ軍の基地が各地にあって守ってもらっているからでしょうか?ところが、アメリカ軍の基地があるのは、この日本だけではなく、韓国やアフガニスタンなど、他にも結構あるのです。

参考:アメリカ軍の配置されている国や地域

米国本土 172万人
イラク 15万人
ドイツ 10万人
ハワイ 7万人
日本 7万人
韓国 6万人
アラスカ 3万人
イタリア 2万人
プエルトリコ 2万人
英国 2万人
アフガン 1万人

1万人以下:スペイン、バーレン、アイスランド、トルコ、ベルギー、ポルトガル、オランダ、キューバ、グアム、北マリアナ、サモア、ギリシャ、シンガポール、グリーンランド、マーシャル、ペルー、エジプト、インドネシア、パナマ、オマーン、ノルウェー

ということは、日本国が国際社会において単独ではないにしろ比較的強い発言力を持っている理由として、アメリカ軍に守ってもらっていることを上げるわけにはいかないのです。経済大国だからというのも、理由としては余りにも弱すぎます。何故なら、軍事力を背景にしないと国際社会で発言力を発揮できないどころか、中枢グループの一員にすらなれないというのが、ここでは大前提として確認されているからです。従って、その理由として上げられるのはただひとつ、日本が実際はもう既に武装国家であるということしか考えられません。

実は、マスコミや学校教育を通して形作られてきた日本像とは違う、支配武装非生産国家としての日本が歴然として存在しているのです。よく見ると、被支配非武装生産国家としての姿に重なるようにして、支配武装非生産国家としての姿もちゃんと見えているのです。例えば自衛隊は、あらゆる観点から見て適度な規模をした、極めて強大な軍隊です。平和憲法があるからと言っても、今の日本に他国を侵略する必然性など全くありませんが、逆に、他国から侵略を受けそうになった時には一瞬にして、どこの国の軍隊にも引けを取らない、他国の軍隊と本質的に何の違いもない、紛れのない軍隊となり得るのです。もし今、仮に、中国や韓国、北朝鮮、ロシアの内の何処かに侵略されても、アメリカ軍の助けなどなくても、極めて効果的に撃退できるのではないでしょうか?先制攻撃も実際は、全く躊躇なく行われるはずです。その際にそれを、平和憲法に照らして糾弾すると言ったって、実際に誰がどういう手続きで糾弾できるというのでしょうか?全くあり得ない話です。平和憲法など別の目的で設けられているだけであって、自衛隊が戦時に軍隊としてその能力を発揮するのに何かの妨げにもなるはずがないのです。

アメリカ軍の基地の存在は、どう考えたらいいのでしょうか?それは、ひょっとしたら、日本を外敵から守るためにアメリカの助けを借りているといった性質のものだけではなく、自衛隊を軍事力として所有している支配武装非生産国家としての「日本」と並存する形で、もうひとつ別の支配武装非生産国家が、この列島に分布しているだけのことなのではないでしょうか?兵数24万人に対して7万人ですから、制圧もそれ程難しくないでしょう。恐らく自衛隊には、そのシミュレーションもちゃんとあるのではないでしょうか?

自衛隊員は平和ボケのせいで兵士の戦闘能力が比較的弱いからということがよく言われます。しかし、それも本当でしょうか?誰が何を根拠にそう言っているのでしょうか?私の聞いている話では、武士道精神を受け継いだ極めて優秀な精鋭部隊が幾つかちゃんとあって、戦後も、報道がされないだけで何回も、実際に敵国との小さな戦闘を繰り返し、その度に撃退し続けているということです。

核兵器についても実は、持ち込ませないどころか、アメリカ軍が持っているものより遥かに高性能なものを自国でちゃんと製造し、配備しているのだという信憑性の高い情報があります。しかも、核兵器を遥かに凌駕するような最新の兵器も既に実用化され、配備されているという人すらいるのです。私も恐らくそれは、本当なのだろうと考えています。

確かに、我々が通常意識しているような被支配非武装生産国家としての日本もちゃんとあるし、我々は紛れもなくその国民です。にも拘らず、我々の意識から巧妙に隠されたところで日本は、紛れもなく、武装大国のひとつとなっているのです。つまり、ふたつの日本国があるのです。背後に隠れた日本国Aがアメリカ国Aの自領内における存在を一部認めながら、表にある日本国Bの非武装支配層を従属させ、日本国B全体を支配しているのです。日本国Aは軍事力を保有している以上、アメリカ国Aに単に従属しているということはできません。協力し合っているかあるいは逆に、日本国Aにアメリカ国Aが従属的に依存している可能性すら考えておく必要があるでしょう。日本国Bを直轄領とする日本国Aが君臨する下にアメリカ国Aや韓国A、中国A、東南アジア諸国Aなどが従属して、それぞれアメリカ国Bや韓国B、中国B、東南アジア諸国Bなどの統治を委任されているという構図が現実として成り立っている可能性が高いということです。日本国Aをかくも特別にしているものは何かというと、幾つかある中でまず思いつくのは、国民の自然な勤勉さや忍耐性、高い生産性です。

アメリカにはかつてプロテスタント風の勤勉があり、それが新興国としてのアメリカの勃興を支えていました。その勤勉もしかし、開拓すべき「無垢の大自然」がなくなり、豊かになったら消えてしまうくらいの強さしかない、根の浅い勤勉だったのです。

現在のアメリカは天然資源は比較的多く、農業生産も規模だけは大きいが、労働者一人ひとりに自然な勤勉さも、ましてやプロテスタント的勤勉さもなくなってしまっているために、工業全般においては自力で何も生産できないようになってしまっているようです。にも拘らず、大規模な常備軍が世界中に配備されている。この費用は、支配下にある各A国家群からの上納だけではなく、通貨発行権の独占をベースにした金融上の様々なトリックによる資金の捻出などで賄われているだけで、破綻の日は遅かれ早かれ必ずやってくるというのが一般的な見方となっています。

しかし、それは本当でしょうか?これらは全て、アメリカ国Aが一身に担ってやっていることなのでしょうか?ひょっとしてアメリカ国Aはダミーで、その本体はもっと上の次元にあるのではないか?その本体は日本国Aと限りなく一体なのではないか?国民一人ひとりの根っからの勤勉さや、忍耐性、生産性と、高度に集約された適度な規模の軍事力、さらには我々にはまだ窺い知ることもできないような特別な力を背景に、A国家群の中でも極めて特別な地位にある日本国A。その直轄領だからこそ、日本国Bの一見頼りなく見える表向きの政府も、その頼りなさとは裏腹に国際社会である程度の発言力を維持できているのではないか?その地位の特別さ故に表に現れることを自ら制限しなくてはならないので、実質のない議会と民主主義と政府と自衛隊を存続させ、代理として表で活動せしめているのではないか?議会や民主主義や政府や自衛隊がどこか情けなく見えるのも、そのくせ日本にある程度の発言力があり、日本経済も他国に比べて遥かに恵まれた状態にあるのは、通常は何とも理由の分かりにくい話ですが、今私が詳述したような日本観を導入すれば、少なくとも矛盾はなくなるのではないでしょうか?

この日本観は、確証はありませんが、心証は極めて高いのではないかと思っています。色んなことの辻褄があってくると思うのです。この観点から世の中の様々な事象を調査し、それらの事象を従来より深く認識するとともに、この観点の信憑性がどこまで維持できるか試験してみるというのが、私の立場です。

ここで、Blue Lagoon さんの質問に対する私の答えを纏めると、次のようになります。

(1)「日本国に軍事力は必要だ」という考えには、宗教的な理想としては、最も高い次元では、反対です。人殺しを決して許容しない部分を人間はどこかで、維持し続けていくのでなくてはならない。

(2)現実として日本は、もう既に軍事大国であり、世界的に非常に高い地位にあることを見逃してはならない。

(3)今度の自民党政権がそれにも拘らず「再軍備」と主張する時、そこにはもっと奥行きがあって言われている。その奥行きの中で、韓国や中国、北朝鮮、アメリカを巻き込んだ形での紛争が、国民の利益とは全く無関係なところで、支配層内部での力関係の再構築を動機として演出されようとしている。何処かが侵略しようとしているから国民と国民の財産を守るために、それに備えてということではなく(国民が財産を所有しているのではなく、実は、国民が何者かの財産である)、ある目的を叶えるために戦争が必要だからどこかの国が侵略しようとしつつあるという雰囲気を全方向に創り出して、戦争を起こそう。その際財産としての国民がある程度犠牲になっても仕方ない。このように目論む向きがある。このことをしっかりと認識しておくべきだ。

(4)この目論見に対して国民が諸手を挙げて賛成するのは、従って、ほとんど滑稽でしかない。しかし、反対して立ち上がるのも国民の分をはみ出すことで誰も幸せにはならないことだから、それにも乗りにくい。できるのは、現実をまざまざと詳細に認識して、溜息をつき、白い目を向けつつも、心を静めて祈り、自分の義務を黙々と果たし続けていくことだけだ。過酷な運命の中でどこまでも尊厳ある人間であり続けることだけだ。

これが Blue Lagoon さんのふたつ目の質問に対する、私の回答です。