さて二週間の病院生活の後、順調に回復した祖母・松子さんは、2008年9月9日に退院した。
そして竹子伯母の、今までとはまたちがう、この家と松子さんへの関わり方が始まった。
退院してきた松子さんは竹子伯母の干渉を
「船頭多くして船進まずやな。ユキさんもたいへんや」と、
松子さんらしいなんとも傲慢不遜な言葉は健在だった。
以前、松子さんが「ここが白鷺家かどこの家かわからへんようになった、困ってるのはあんたとことうちだけや・・・
あんたらがここに居はったら、あのひとら(竹子伯母・梅子叔母)きはらへん(来ない)ようになると思うけど」
と言っていった母屋には竹子伯母が松子さんの世話のためにと、入ってくるようになった。
私達の生活はがらりと変わった。
徒然草にいう。
“ ぬし有る家には、すずろなる人、心のままに入りくる事なし。
あるじなき所には、道行き人みだりに立ち入り、狐・ふくろふやうのものも、人げにせかれねば、
所えがほにいりすみ、こたまなど云ふ、けしからぬかたちも、あらはるるものなり。”
主人のいる家にはなんのかかわりあいもない人が勝手に入ってくることはない
主人のいない所には道行く人も、むやみに立ち入り、狐やふくろうのようなものも、人の気配に妨げられないから、
わがもの顔に入って来て住み、コタマなどという奇怪な形もあらわれるものである。
(冨倉徳次郎著 徒然草より)
9月30日 K大病院受診。
11月18日 K大病院受診。経過良好。以後通院の必要なし。
医者の診断結果と松子さんの様子から、物忘れの兆候があったものの、それでも順調に回復し、
以前のような生活を取り戻していくことが可能と思っていた。
しかし、松子さんはだめになってしまった。
いろいろな能力をまだ十分に持ちながらも、松子さんは徐々にそれらを失っていく。
己の生をまるごと他に預けてしまったからである。
2008年という年は、生活能力の全てを喪い、老いの一途を辿っていく
祖母・松子さんの喪失の人生への始まりの年でもあった。
―闘争編・完 ―