私のタイムトラベル

ある家の物語・白鷺家の人々
― 道理を破る法あれど法を破る道理なし ―

一周忌を終えて

2017年12月30日 | 3. 介護編

納骨が済み、新盆が終わり、そして今年一周忌が終わった。                                               

その間、両親はこま鼠のようにひたすら休みなく動いた。

かつてその不安定な生活基盤ゆえに、行く末を心配した母に

 「ユキさん、いまいくつ? 60からラクしようというのは それはちょっと横着」

そう言って笑った祖母・松子さんは、今、まさに人生の『林住期』にある両親を

なお、きりきり舞いさせている。

 

 今回で介護編を終わりたいと思います。

 次回から介護の後の出来事、経験を書いていこうと思っています。

 

                      

 

       百歳のお骨 我らを圧倒す 黙して語る いのちの歩み

 

         

          


宴のあとー片付ける日々ー

2017年12月28日 | 3. 介護編

    

 祖母・松子さんはモノを大切にするつつましい人だった。

   (使い終わったロウソク、ボタンたち、タンスの下に敷いてあった古い新聞)

  

      

  松子さんの身の回りにはいつのまにかモノが溢れだした。


    

 ・・・・〇×? 竹子伯母サンお持ち帰り。

   

   

        

  日々片付けに明け暮れる両親・・・・

    

          

             

白鷺家、宴のあと・・・。片づけはまだまだ続く




松子さんが残したもの -宴のあと-

2017年12月23日 | 3. 介護編

  「母は古き良きものを愛し、茶をたしなみ、また大変花を愛する風雅の人でありました。

    それとともに一面、合理的で質実剛健な人でもありました。いまでいうエコな生活・・・3R 、つまり 

   リデュース  "ゴミなど不要なものをできるだけ減らす"、リユース "再使用"、そして リサイクル、

   これをずっと実践しておりました。そばに居る私達としては、そうした母の賢明な生活を通して実に

   たくさんのことを学びました」


祖母・松子さんの葬儀は、ごく内輪で行った。

その折、父は来て下さった人たちを前にこう挨拶した。

 

無駄なものをなるべく買わず、モノを大切にする松子さんが残したモノは膨大だった。

松子さんが亡くなった昨年来、両親は祖父・苔次郎の時から残っているものも合わせてたくさんの不要な品々の

始末に明け暮れている。

 

ところで松子さんとは逆に無駄なものを買うのが好きな竹子伯母は、松子さんのためにと、松子さんの死の直前まで

カットソー、パジャマ、下着、靴下、寝具などのなにかしらを買い続けていた。   

 

母   「お義姉さんたら、またカットソー、買わはって・・・・」

梅子叔母「ふん、そぉやね、竹子さん、おかあちゃんの首回りがどうも気にならはるらしいのね」

母   「このたくさんのパンツ・・・」

梅子叔母「そやね、おかあちゃん、五つも六つもお尻持ってはんね 

母   「えっ・・?

      

 

松子さんが亡くなってしばらくした頃、竹子オバサンはナシの木町にやってきた。

 「もうお葬式やなんやかやでごちゃごちゃになって領収証もないし、これまでの会計報告はしなくていいかなぁ・・

と、父に言い、そしてその月の市民新聞を渡した。市民新聞は当然伯母さん宅と同じ区域の我が家にも配られる。

だが、しかしオバサンがそれをわざわざ持ってきたのには理由があった。


松子さん亡き後の "遺産分割の話し合いに先立って、まずこれを読んで準備をしておけと言うことなのだろう。

市民相談の窓口、つまり法律無料相談のところが鉛筆で大きく囲われていた。

その折、部屋に置いてあるものを吟味して、それらに〇×をつけて帰って行った 

私は呆れ果てた。“〇×オバサン、皮肉を込めて彼女のことをこう呼んだ。

 

〇×オバサンはこのあと一度、梅子叔母と一緒にこの家の不用品の整理処分をしに来た。そして、

先だって〇印をつけたものをはじめ必要なものは、四郎叔父に頼んで自宅に持って帰った。

註:その中にはかつての記事で取り上げた電子レンジも含まれる。(参照記事:電子レンジといのちのスープ

松子さんのベッドについては、あらかじめちゃんと業者に依頼していた。 

 

しかしながら松子さんが2014年に施設に入って以来、こちらで勝手に処分できないために手つかずになっていた

たくさんの食品・・・、期限切れの調味料、古い缶詰、食品の数々。そして、F県から引っ越して来て以来、

松子さんと共に在った日々の、その何十年の歳月をかけて溜まりに溜まった竹子オバサンのガラクタは

まだまだこの家に残っている。


それは、まさに<宴のあと>。 白鷺家の長い歴史の終焉を物語っているかのような光景であった。


 

 


松子さんが残したもの

2017年12月15日 | 3. 介護編

祖母・松子さんは最後まで意識がはっきりしていた。

わたしが<Mの里>に会いに行くと何となく嬉しそうに笑う。ちゃんと私のことを覚えている。

最後に行ったときのこと。声をかけると

「あんた、いまどこにいるの」「ナシの木町だよ」「ああ、・・あの家か」

そう言ってうっすら何かを思い出しているような遠い目つきをする。

 松子さん、なにかわたしたちに言いたいことあるんじゃないかな・・・?

なんて、ついひとの心に期待を寄せてしまう・・・ばかだな。

 

花の好きな松子さんはいっぱいの花に囲まれて、そして庭に咲く水仙の花で作った小さな花束もいっしょに

子供たちや孫、そしてひ孫たちのはじけるように明るい笑いに包まれて旅立った。

こんな幸せなお年寄りは珍しいって 介護施設<Mの里> の人たちは思っているだろう。

そう、傍目にこれほど大切にされ至福の晩年を送った人は少ないと思われていたにちがいない。

2016年2月、祖母・松子さんは大切に大切に育てあげた子供達の間に消えることのない深い諍いの種を残して

100歳3ヶ月の長い生涯を閉じた。

                                                            

 


                       

松子さんは子供たちを連れて祖父・苔次郎の郷里に、戦争が終わった翌年の1年間、疎開した。

その時に松子さんが疎開先から祖父に送った手紙が残っている。

そこには家族の原点ともいうべき愛情豊かで幸せな情景がひろがっている。

 

  “・・・ここに無邪気な話をしませう。 

   ー ナポレオンがその子ローマ王(當時二歳位)のヨチヨチ歩きの有様を皇后とにこやかに眺めてゐる名画を中心にして ー


     竹子 「お母ちゃんダゲ(わたし)もこんな可愛らしい子がゐればよいのにね」

   松子 「ゐるぢやないの、それ 其処に」  

 其の時丁度あたりにメシツブをサンランさせて 無心に飯を喰ふ 梅子を指さして曰く。

   竹子 「いっちゃムゾなか(少しもかわいくない)ドコにムゾカかゴハンどもいっぱいこぼして」

  イチロウ「お母ちゃん ローマ王は御飯は こぼさんぢやったでせうか」

 笑って松子

      「ローマ王は 御飯はたべませんよ。パンですよ そしておつきの人が たべさせてくれるのですよ」

   竹子 「なら ナポレオンの所にはヨカモンが一杯あるやらうな。キャラメルある? チョコレートもある?」

  イチロウ「カライモ(さつまいも)もある?」

 

 子供達の奇怪なる 大真面目な質問は 何時はてるとも しれません。 それを書いておれば 私の手紙も

 いつはてるともしれません。この辺でペンを置きませう。 “さやうなら”  


― 松子さんの祖父への手紙から ―


                       

 

追記:" 無心に飯を喰ふ" 梅子は、長じて梅子オバサンとなった。その昔、母・ユキに “わたしの大好きな本です” と

  『花さき山』の絵本を送ったオバサンは、数十年後、この家をめぐって竹子伯母と共に “情より法よ” と

   人としての優しい感情を次第に忘れていった。そこに介在するものは、個々の理由はどうあれ、たとえ

       <百の理屈>があったとしても、結局のところ<欲>、端的に言えば<お金>であったといえるだろう。 

   

 


施設の中の松子さん

2017年12月12日 | 3. 介護編

歩行もままならないような状態で祖母・松子さんは施設に入所した。

松子さんは歩行車もしくは車いすが自力では使えない。

だだっぴろいロビーは家のようにつかまって歩ける場所がない。入所当初、松子さんはしょっちゅう転倒し怪我をした。

施設の床はじゅうたんや畳の敷いてある家とはちがう。転んだら当然怪我をする。


また、家にいた頃は入れ歯がなくてもごく普通食、パンもお刺身なんかも十分食べられていた。   

しかし、嚥下力の低下ということで、やがてミキサー食となり次第に固形のものを食べることができなくなり、

いつの間にか自分で食事をとることすらできなくなってしまった。

元気だった松子さんの急速な衰えを目の当たりにして、これが自然なのだろうか?と、つい私は考える。


ところで それまで年に3、4回しか来なかった梅子叔母さんは、松子さんが<Mの里>に入所した2014年

4月以降、毎月ナシの木町の実家に数日間滞在し、松子さんのところに日参するようになった・・・

  施設に入った途端毎月くるなんて・・・。オジサンの体調が悪くて来られないんだとばっかりずっと思ってた。!

 

母屋の鍵は竹子伯母が合いカギを作り 各自に渡している。  

いつのまにか母屋は父の管理を離れていった。


梅子叔母は<Mの里>の松子さんに会うために、ここに来てそして勝手に帰る。

それは自然なことで文句を言う筋合いのことではないかも知れない。

しかし梅子オバサンの逗留はこれまでのいきさつからして気分はざわついてかなり不愉快だった。


8月、お盆を挟んで一週間近くを夫妻で滞在するとメールで伝えてきた時、

心身ともに長年の疲労がピークに達していた父はついに “ おまえのだんなも来るようだが、丁度お盆の時期で、

こちらもバタバタするし、あまり言いたくないが、母が居るときならともかく、なるべく静かにして頂くよう

お願いする。” といった内容のメールをした。


梅子叔母からの返信はたった一行で、

    了解しました。白鷺梅子 と、旧姓で署名されていた。

  なんて梅子オバサンらしい・・・。ゾゾッ・・・

 

なお、梅子叔母サンは松子さんの最後の時まで、毎月定期的にホームを訪れているが、父が幾度勧めても外に宿をとり、

ナシの木町のこの家に泊まることは、その年の8月以後一度も無かった。

T県からの交通費等はむろん松子さんのお財布からである。 

 

体調の良くなかった父はこの年の秋、初期の肺がんが見つかり手術をすることになった。



<Mの里>入所のいきさつ

2017年12月10日 | 3. 介護編

ところで介護施設入所までの経過は、あわただしかった。

2014年に入って、リハビリが目的の老人介護保険施設に1、2か月ほど祖母・松子さんに入ってもらう、

という話が竹子伯母からあった。その時はそこでリハビリをして、また家に帰ってくるというものだった。 

伯母は自分にのしかかる負担を、一般の家事代行サービス、ショートステイの利用、それに介護保険施設の一定期間の

利用などで軽減しようと考えたのだろう。これ以上の協力をこちらに頼まず、かといって他のきょうだいにも協力を

要請しなかった。 

ところが2月はじめ、老人ホームに入れる、パンフレットを見ておいてください、という手紙が突然我が家の

メールボックスにほり込まれた。その手紙は “母が倒れてしまってから受け入れ先を見つけるのは非常に困難だと

聞いている。現状なら申込みだけでもしておけると思う” とあった。


竹子伯母によると今年1月に梅子叔母と或るホームの見学に行った。入居一時金1000万円。月々の費用は

大目に見込んで約40万円程度。交通の便もよく、これまで見たいくつかのホームの中で、いろいろな点で

いい印象を受けたということだった。

父は “そのホームがいいのはわかった、しかしかなり高額だが長くなった場合それでもやっていけると思うか” と訊ねた。 

伯母は

「うーん、足らん分は四郎ちゃんが補填するっていうてくれてるし・・私も貰ったものも少しあるから・・・」と言う。 

父がメールで四郎叔父の意思を確かめると、それでけっこうですと、返信してきた。

しかし、経済的補填を現実的に末弟である四郎叔父ひとりに任せられるわけがない。どこか胡散臭い。 


この時、伯母は「ユキさんが前の時、きっちと細かく書いて下さったから私もそれに倣ったのよ」と、過去3年間の

費目別会計報告を渡した。ところが2011年2月の家族会議での報告以降、この3年間で松子さんの手持ちのお金が

大幅に減っていることが分かった。

 ” ホームの申し込み完了” とのメールが早速竹子伯母からきたが、父は “せっかく申し込んでもらったのになんだが、

経済的に不安だ” と返信した。

3日後、伯母からメールがきた。

  “・・あなたの考えも合わせ いろいろ詳しく再検討した結果、楽観的に考えていて現実問題として、

   難しいことがわかりました。(面接予定日の連絡がある前に)出来るだけ早く断りたいと思います”

 

松子さんの施設への入所という選択が、これまで頭になかった両親は急きょ、地域包括センターのケアマネージャー、

そして伯母が申し込んだという有料老人ホーム、そして法律事務所の3ヶ所をたずねた。

 

 ケアマネジャーの話

「おかあさんは家にかえってこられませんよ。3カ月ほど老健で過ごされて、それから、施設が決まったらそこに

 移られます。おねえさんの御主人が背中の具合が悪くて、手術になって寝たきりになるかもしれないそうです。

 この際、弟さんに代表を代わっていただいたら、と私は勧めていたのですが・・・・」そして

有料老人ホームに関しては自分の管轄外でよく解らないとしながら、

「自分の家を担保にして、入られる例もありますよ」、と竹子伯母にアドバイスしたと言う。

その土地には松子さんの家だけではなく、私たちの家も建っている。彼女は十分にこの家の形態、状況を知っている。

酷い話だ。こういったことを軽率に言うのは控えるべきだ。ケアマネージャーの仕事には思慮深さが求められる。

 

 有料老人ホーム<の家>責任者の話

 「私どもの一番願っていることは、ご本人さまはもとより、ご家族さますべてが納得してここを選んで下さる

   いうことなんです。一度弟さんにもお会いしたいと思っていたのですが、来て頂いてちょうどよかったです・・」

と、竹子伯母が書いた数枚の申込み書類を見せ、申し込みに至るまでのいきさつを丁寧に話してくれた。

そして「今日の朝、おねえさんからお断りの電話を頂きました。土地が売れないからやめますとのことでした」と言った。

その<土地>とは私たちの家が建っているところのことだ!!

 

 弁護士の話

“ 土地があるからそれを担保にしてお金を借りるということが、そう簡単にできるわけではない。また、土地を売る

 売らないに関しては、自分の名義のものは基本的には人には関係ない。母親に判断能力がない場合、たとえ子供全員が

 賛成したとしても、本来は売れない。おかあさんが、年金をはじめ生活できるものを十分にもっていながら、

 それ以上加えて出すかどうかは、子供の自由な判断で決めるもので、おねえさんがやりたいのであれば、自分のお金で

 お母さん孝行としてやればいい。お金が無いから仕方がない(土地を担保にする)という発想自体、間違っている

 

                                 


人間、みな考え方も感じ方もそれぞれ違う。それゆえ行動の仕方も、むろん人によって違う。

しかしこの家の人間がやることは、いつも度外れている。

この3日間の父と母の行動を見て、私は恐怖に近い思いに駆られた。

こうして、松子さんの在宅介護は終わった。

 


松子さん、施設に入る

2017年12月08日 | 3. 介護編

 「わたしはね、介護保険もいっぱい利用したらいいと思ってる、そらぁ、悪法かもしれないよ。

  だけどしかたないでしょう。制度なんだから。それにイチロウちゃんはすぐもったいないとか言わはるけどね、

  私は、おかあちゃんが、持ったはるお金、みなお母ちゃんのために使ってあげたらいいと思ってんのよ 


 「イチロウさんはもったいないとか、そんなケチな事で言ってはるのではないんですよ

  お金に対するそんな傲慢な考え、私はきらいですね」


2011年のきょうだい揃っての話し合いの後も、祖母・松子さんの世話を巡って竹子伯母と両親の間で

絶えず目に見えないバトルが繰り返された。

「これまでの責任とって四郎ちゃんの分も自分がする」と低姿勢だったオバサンはやがて

「あなたたちはふたりだけど、私はひとりで面倒見てる! などと言いだした。


竹子オバサンはすっかり余裕がなくなってきた。

オバサンの当番の時には気が緩むのか、松子さんはトイレや、室内でよく転倒した。

連絡ノートに「転倒しました!」「また、転倒です」と記している。


父が留守で私と母が久しぶりにのんびりと外食を楽しんでいた時のこと。

この時、竹子オバサンは熱い味噌汁をあやまって松子さんの両太腿にぶっかけてしまった。

これはかなりの酷い火傷となった。

通院は定期的な検診以外に時間のかかる整形外科、それに皮膚科も加わった。

こうしたことが介護の負担をさらに大きいものにしていった。

本当はやらなくてもいいことが多かったのが、本当にやらなくてはいけないことがどんどん多くなっていった 

そしてお互い介護することに心身ともに限界に近いものを感じ始めていた。 

しかし、他のきょうだいの定期的な協力はほとんど得られなかった。

ちなみに2013年に梅子叔母が来たのは3月8月11月の3回であり、四郎叔父に至っては一度もなかった。


四郎叔父夫妻の非協力を竹子伯母と梅子叔母はこう擁護して、父を非難した。

 「現役で働いてはる人に1週間来いってそんな無茶な話、現実問題、実際出来ようがないでしょう!


父は四郎叔父にメールを送った。

 ” もともと私は無理なことを要求するつもりはなかった。しかし皆のコンセンサスとして姉貴が言い続けてきた理屈は

  私たちの生活自体を極めて不安定なものとした。人の家庭に大きな影響を及ぼしてまで3人が主張してきたこと

  なのだから、全てをうやむやな形で納めてほしくないと思っている。私はお前に何が何でもやれと言うつもりは

  毛頭ない。しかし今まで3人が言って来たことが、実際、そうした事態になった時には無理であると思ったならば、

  直接その旨を私に伝えるべきではないか。そう努力することが今までの強引な理屈に対して取るべき最低限の責任だ。

  私は現役のおまえにどうしても手伝いに来い、などとは言わない。ただ、筋を通してくれ。

  そしてお前たち一家も白鷺家の一員として、何時でも手伝いに来ると言うほどの気持ちを忘れないで

  持っていてほしいと思っている "

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


竹子オバサンの大きな声が下から私の部屋まで上がってくる。 

それが夜11時くらいの時もあれば真夜中の時もあった。オバサンの声は怒りに満ちていた。

この頃、松子さんは竹子オバサンによく怒鳴られていて、それは大抵松子さんの排便が原因のようだった。


3、4日程度だったショートステイの利用は、やがて、1週間と滞在期間が延びていった。

そして、翌2014年春、3月末の3日間を自宅で私たちと過ごしたのち、緊急ロングステイを経て、

そのまま、松子さんは老人介護施設<Mの里>に入所することになった。

施設への入所は竹子オバサンと梅子オバサンが相談して決めた。

こうして超過保護な我々の介護は実質、6年近くで終わった。


<親の面倒は子供全員で>という竹子伯母が高々と掲げた理想は実行されなかった。

皆が集まって話し合った時の合意に達した約束も守られなかった。

その間松子さんのお世話を巡って母が竹子伯母と交わした介護記録は5冊、血圧ノートは3冊になった。

3月中旬に受け取った竹子伯母からの手紙にはこう書かれていた。

 “ 私の方に緊急事態が起こり、今までのように交代でナシの木町に泊まることが出来なくなり、

  家に居ることが好きな母のリハビリと残っている能力を出来るだけ残そうと頑張ってくださっている

  お二人には大変申し訳なく思っています・・・・”

 

                                                                                               

松子さんが自分は一人暮らし、などと解釈変更しなければ、私たちを呼んだ覚えはない、などと言わなかったとしたら、

あるいは父が松子さんの嘘を糾弾しなかったとしたら、そして我が家の苦境を記した手紙をきょうだいに

出さなかったとしたらどうなっていただろう・・?

松子さんは最後の時まで松子さんらしく自分の家で自分の人生を送っていただろうか。


人の行く末は計り知れない。 人の心も計り知れない。

             


歩行訓練(2)ー軍艦マーチと松子さんー

2017年12月04日 | 3. 介護編

 「松子さんは石橋をたたいて歩くような性格の人なので、それが自力歩行の妨げになっている。

  寝てばっかりじゃなく起きて椅子に座ること、それだけでも筋力がつく、それから足の上げ下ろしの運動を

  1日一回はすること、家では難しいかもしれないけどね。それとも寝たきりにさせるの?」

トイレで転んで圧迫骨折した時かかっていたY整形外科の先生の言葉である。

 

父は祖母・松子さんの状態を少しでも改善しようと当番の週にはよく歩行訓練をした。

そして竹子オバサンに「足がダメになったら もう家ではみられなくなる、歩行訓練してくれ」と、よく言っていた。

たとえば母屋のお風呂は裏庭にある。たとえお風呂に手すりがついていたとしても何メートルかは手すりのないところを

歩いて行かなくてはいけない。だから松子さんがお風呂に入るためには、どうしても自力で歩ける必要がある。

しかし 竹子オバサンも、風邪を引いたりしようものならたとえ夜中であっても2時間おきに体温を測りノートに

記すほどの梅子オバサンも、松子さんの体力維持のための運動に関してはけっこう不熱心だった。

   

であるから、とうぜん松子さんも歩行訓練をまともにする気はない。 

 人間、足から弱って死んでいきますのやろ。そんな鍛えてたら いつまでたっても死なへん


歩行車を持ってきて、父が「やるぞぉー」 と言うと、松子さん、首をすくめてペロっと舌を出す。

しかし やっているうちに次第に調子がのってきて、You Tubeの音楽に合わせ、軍艦マーチ、ふるさと、

仰げば尊しなどを口ずさみながら歩くようになる。  

父は松子さんに話しかける。

 「〇〇さん、おぼえてるか?」

 「ああ、おぼえてるよ」

 「〇〇おばさんは?」と松子さんの2歳上のお姉さん(父の伯母)のことを聞く。

 「そら、イヤいうほど知ってるよ」

こんな会話を交わしながら廊下から座敷一周までの約20メートルを歩く。これを10回程度繰り返す。


そうこうしているうち、最初は3周くらいしか歩けなかったのが、だんだん調子があがってきて15周くらいは

歩けるようになった。この訓練、もしかしたら “やってあげている”という松子さん特有の感覚と、向上心に近い

健康的な感覚とが微妙に松子さんの心の中に混じりあって、それなりに楽しいひとときでもあったように思える


しかしながら、家族会議(参照記事:家族会議 (1)家族会議 (2))の後もきょうだい間のこじれた感情は

いっこうに歩み寄りをみせず、むしろますます悪化の一途を辿って行った。

そして そんななか 竹子伯母の手のかかりすぎる世話の仕方は、次第に破綻をきたしてくるようになった。

 

 


歩行訓練 (1) ー 転ばぬ先の手すり !? ー

2017年12月02日 | 3. 介護編

本来の資質と長年の節制と庭仕事によって鍛えられた身体的能力と知能が並みはずれて優れていた

祖母・松子さんは、硬膜下血腫を患ってから、 “わたしいまいくつ?”   “ああ、わたし、もうそんな歳?” 

 “いまにあんたさん、どなたさんどす、て言いまっせ” が口癖になった。

近くに住む竹子オバサン、そして遠方から時たま来る梅子オバサンの超過保護の結果である。


松子さんの部屋をはじめトイレ、座敷に至る廊下、台所、風呂場、オバサンたち熟考の結晶の <手すり> が

あらゆるところについている。 この取り付けられた手すり、ついついその存在を忘れてしまう。 

急いでいるときなどにたびたび肩をガーンとぶつけては、父はムカッとする。


さて、松子さんの自力歩行能力は、かなり高いのだが、そこここに手すりがついているものだから、

とうぜん松子さんはそれにつたっていかにも頼りなげに歩く。

ところが座敷には手すりはない。

壁を伝い、ふすまに手を添え、背中をまげて、危なげによたよたと歩く松子さんを見た父、

 「そんな用心して何かにすがって歩くようじゃダメ、すぐに弱る!」 と言ったとたん、

 「ハイッ」と言って壁から手を離して背筋を伸ばし、スッス、スッスと歩きだした。

そして仏間に行き、チンと鳴らして仏壇に合掌し、今度は座敷にもどって祖父の写真に手を合わせ、

その前におかれている湯飲みをもってお茶をとりかえるために台所に歩いて行った・・・。


人は歳をとると出来ないふり、知らないふり、忘れたふりが多くなる。

会話の中でも似たようなことがよく起きる。 「あれれ、知ってたんだあ・・・・・

もっともこれは、松子さんが本当はしっかりしていたはずの頃のこと、実際には本格的介護など

必要でなかった時の話しである。


しかし1日寝て暮らすうち、また歳を重ねるうち、そして圧迫骨折を患ったのち、松子さんの歩行はどんどん

危うくなっていった。こんなことがある。一歩を踏み出すとき大きく上にあげた足をなかなか下に降ろせない。

さーてこの足は?と思案するかのようだ。

これまで、何のためらいもなくできている動作、それが出来なくなるということは大変なことなのだ。

もしも、ムカデが足の運びを思案しだしたらどうなるだろう?

 

松子さん、ちゃんと歩行訓練もしなくっちゃあ! !   



32年前の新聞広告 

2017年11月28日 | 3. 介護編

~ ちょっと ひと息 Tea Break   ~


     

 

今日、祖母・松子さんのお部屋の掃除・片付けをしていたら、昔の古い新聞が出てきたと母が持って帰ってきた。

なんとナシの木町に移る1年前の1985年 昭和60年3月15日の新聞!!

昨日のブログ記事との偶然性が面白く、アップしました。

それにしても人生っていつも不思議な偶然=巡り合せが働いている。 

こんな些細なことにもなにか関連性を感じるわたしってちょっとオーバー? なんちゃって。。


ちなみに亡くなった母方の祖母は竹久夢二が好きだった。そしてどことなく夢二描く女性に雰囲気が似ていた。

遊びに来たときにはよく宵待ち草の歌を歌っていたのを憶えている