「わたしはね、介護保険もいっぱい利用したらいいと思ってる、そらぁ、悪法かもしれないよ。
だけどしかたないでしょう。制度なんだから。それにイチロウちゃんはすぐもったいないとか言わはるけどね、
私は、おかあちゃんが、持ったはるお金、みなお母ちゃんのために使ってあげたらいいと思ってんのよ 」
「イチロウさんはもったいないとか、そんなケチな事で言ってはるのではないんですよ。
お金に対するそんな傲慢な考え、私はきらいですね」
2011年のきょうだい揃っての話し合いの後も、祖母・松子さんの世話を巡って竹子伯母と両親の間で
絶えず目に見えないバトルが繰り返された。
「これまでの責任とって四郎ちゃんの分も自分がする」と低姿勢だったオバサンはやがて
「あなたたちはふたりだけど、私はひとりで面倒見てる! 」などと言いだした。
竹子オバサンはすっかり余裕がなくなってきた。
オバサンの当番の時には気が緩むのか、松子さんはトイレや、室内でよく転倒した。
連絡ノートに「転倒しました!」「また、転倒です」と記している。
父が留守で私と母が久しぶりにのんびりと外食を楽しんでいた時のこと。
この時、竹子オバサンは熱い味噌汁をあやまって松子さんの両太腿にぶっかけてしまった。
これはかなりの酷い火傷となった。
通院は定期的な検診以外に時間のかかる整形外科、それに皮膚科も加わった。
こうしたことが介護の負担をさらに大きいものにしていった。
本当はやらなくてもいいことが多かったのが、本当にやらなくてはいけないことがどんどん多くなっていった 。
そしてお互い介護することに心身ともに限界に近いものを感じ始めていた。
しかし、他のきょうだいの定期的な協力はほとんど得られなかった。
ちなみに2013年に梅子叔母が来たのは3月8月11月の3回であり、四郎叔父に至っては一度もなかった。
四郎叔父夫妻の非協力を竹子伯母と梅子叔母はこう擁護して、父を非難した。
「現役で働いてはる人に1週間来いってそんな無茶な話、現実問題、実際出来ようがないでしょう!」
父は四郎叔父にメールを送った。
” もともと私は無理なことを要求するつもりはなかった。しかし皆のコンセンサスとして姉貴が言い続けてきた理屈は
私たちの生活自体を極めて不安定なものとした。人の家庭に大きな影響を及ぼしてまで3人が主張してきたこと
なのだから、全てをうやむやな形で納めてほしくないと思っている。私はお前に何が何でもやれと言うつもりは
毛頭ない。しかし今まで3人が言って来たことが、実際、そうした事態になった時には無理であると思ったならば、
直接その旨を私に伝えるべきではないか。そう努力することが今までの強引な理屈に対して取るべき最低限の責任だ。
私は現役のおまえにどうしても手伝いに来い、などとは言わない。ただ、筋を通してくれ。
そしてお前たち一家も白鷺家の一員として、何時でも手伝いに来ると言うほどの気持ちを忘れないで
持っていてほしいと思っている "
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
竹子オバサンの大きな声が下から私の部屋まで上がってくる。
それが夜11時くらいの時もあれば真夜中の時もあった。オバサンの声は怒りに満ちていた。
この頃、松子さんは竹子オバサンによく怒鳴られていて、それは大抵松子さんの排便が原因のようだった。
3、4日程度だったショートステイの利用は、やがて、1週間と滞在期間が延びていった。
そして、翌2014年春、3月末の3日間を自宅で私たちと過ごしたのち、緊急ロングステイを経て、
そのまま、松子さんは老人介護施設<Mの里>に入所することになった。
施設への入所は竹子オバサンと梅子オバサンが相談して決めた。
こうして超過保護な我々の介護は実質、6年近くで終わった。
<親の面倒は子供全員で>という竹子伯母が高々と掲げた理想は実行されなかった。
皆が集まって話し合った時の合意に達した約束も守られなかった。
その間松子さんのお世話を巡って母が竹子伯母と交わした介護記録は5冊、血圧ノートは3冊になった。
3月中旬に受け取った竹子伯母からの手紙にはこう書かれていた。
“ 私の方に緊急事態が起こり、今までのように交代でナシの木町に泊まることが出来なくなり、
家に居ることが好きな母のリハビリと残っている能力を出来るだけ残そうと頑張ってくださっている
お二人には大変申し訳なく思っています・・・・”
松子さんが自分は一人暮らし、などと解釈変更しなければ、私たちを呼んだ覚えはない、などと言わなかったとしたら、
あるいは父が松子さんの嘘を糾弾しなかったとしたら、そして我が家の苦境を記した手紙をきょうだいに
出さなかったとしたらどうなっていただろう・・?
松子さんは最後の時まで松子さんらしく自分の家で自分の人生を送っていただろうか。
人の行く末は計り知れない。 人の心も計り知れない。