「近代名士之面影」と公文書にみる、海軍中将 江頭安太郎

2017年05月14日 | 雅子妃の系譜


大正初期に発行された「近代名士之面影 第壱集」(矢部信太郎編 竹帛社 大正3年)という本があります(画像の出典 国立国会図書館デジタルライブラリー)。

文字通り、明治期に活躍し亡くなった各界名士の人生とその肖像写真を掲載したもので、伊藤博文や小村寿太郎、乃木希典をはじめ様々な分野で世に貢献した人物の生涯が描かれています。

当時は一般にまだ紙質が悪く、このような上質本は貴重で、特に歴史的人物の写真が多数掲載されていることから、この本自体がそのまま「日本名家肖像事典6」となっています。

この本に、雅子妃の曾祖父の江頭安太郎氏も掲載されています。



(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/967109/147)
(「舊佐賀藩士」、「舊藩主鍋島侯」の「舊」は「旧」の旧字体です。)




文中には、旧佐賀藩士に生まれ、旧鍋島藩主に選ばれて(鍋島侯爵の貢進生)上京、攻玉社から海軍兵学校に進み主席卒業、入省後の昇進、数々の要職歴任と、その48年の生涯が記されています
最後に、「病気危篤の旨、天聴に達するや、特に勲二等瑞宝章を授けらる
とありますが、この「天」というのは大正天皇のことですね。


この最期の叙勲の際の海軍省、内閣、宮内省の各公文書を公文書館のデジタルアーカイブで見つけることができました。
首相は桂太郎、海軍大臣は斎藤實
(以下の公文書画像の出典は、国立公文書館アジア歴史資料センター)




特に印象的なのは、江頭氏危篤に際しての斎藤海軍大臣から桂首相への文書で、



江頭氏について、
頭脳明晰 志慮周密にして海軍兵学校及海軍大学校ノ卒業成績は洽(あまね)く斎輩(同級生、同輩)に超絶し 夙(つと)に俊秀をもって聞ゆ」とあり、行政上の文書で、これほどの表現はちょっと珍しいな、と思いました。「斎輩に超絶し」ですからね。

また、「海軍制度整理の要衝に當り」「その激職を全うして貢献する所多く功績顕著なるを認」ともかかれており、制度改革の要職に就いていたこともわかります。


実は、まだこの方が若い大尉時代の公文書(明治29年)に、肺のご病気で転地療養のための休養を上司の山本権兵衛に願い出たものがあり、あまりお丈夫ではなかったはずですが、そうした持病がありながらも、その後も全く昇進や出世に響かず要職を歴任し続けているのには驚かされます。

(江頭氏が、更に研究・学問においてもその頭脳明晰ぶりを発揮している別の公文書を見つけたので、またそれは別途書きたいと思います。)

(※参照:明治33年、江頭安太郎中佐の「天皇機関説」?


江頭氏は若いころから、海軍大将はもちろん海軍大臣も確実と言われた逸材でした。
上記の書籍や資料からも、そうした貴重な人材を40代の若さで失ったことを惜しむ様子がうかがえます。

江頭氏については、多くの官報や公文書は言うに及ばず、その立場上当然のことですが、当時の新聞や名士を集めた人名録等にも記事や写真を見つけることができます。

現代人名事典 明治45年刊 古林亀治郎編 中央通信社 国立国会図書館)


(軍人であることへの配慮があったとはいえ、上記の「近代名士之面影」などは、当時を代表する有名な本ですし、明治大正期の書籍や公的資料もあるのですから、ご成婚の際、本来もっと引用・紹介されてしかるべきものです。)



それから、この方の兄の範貞氏も、近代司法草創期の判事(裁判官)として奉職なさっています。明治期の官報や官員録(司法省)の記載から、主に東北各県を中心に地方裁判所の裁判官を務めておられたことがわかります。

範貞氏も、物故者名鑑の「大正過去帖」(東京美術発行)によれば、
「大正5年3月17日午前11時、東京広尾の自邸に逝去。」とあり、兄も50代ではありますが、弟同様、早逝と言っていいかもしれません。



この方々は、土着の故郷を遠く離れて都会で進学や就職、そして命じられた赴任地で家庭生活を営み生涯を終える、という現代的なライフサイクルを、一般平均よりも2世代から3世代早く迎えています。
秩禄処分後、旧藩の後援などを受けて上京できた優秀な士族の子弟の典型例なのでしょうが、広い世界への雄飛とはいえ、苦労も多かったはずです。
江頭安太郎氏が上京して、攻玉社で寮生活を始めるのは10代半ばですからね。

いろいろ古い資料を見てみましたが、職務内容や任地が記載されている公文書を読み、官報の「叙任及辞令」の欄に小さな文字で記された役職と氏名を発見・確認するたびに、その方の人生の風雪が偲ばれ、とても厳粛な気持ちになりました。