太 極 拳 最 高 

健 康 を デ ザ イ ン す る

太極拳は健康への道しるべ

2010-10-30 10:27:23 | 太極拳
 あのラーメンで有名な喜多方市は、市民こぞって太極拳と取り組んでいます。健康維持もあるのでしょうが、健康が市の財政に及ぼす影響もあるのでしょう。少し古い資料で恐縮ですが、国民の医療費は2003年で、年間31兆円に達し、一人当たりでは25万円、国民所得に対する割合は8.6%になっています。
 国民の健康に対する関心はテレビ番組にも表れています。さまざまな健康法、健康的な食事法など、これらの番組が、一日として登場しない日はありません。
 太極拳は、ことによると、日常の世界から非日常の世界へタイムスリップする事への期待なのかも知れません。毎日が戦場のように仕事に追われ、家事に追われ、育児に追われ時間に追われている生活では、頭が休まる暇もなく、ゆとりを感じる暇さえもなく、ただただストレスは溜まるばかり。
 たまには時間を止めて、自分を振り返る時間が欲しいと思っても、なかなか叶うことがないのが実情です。そんなとき、ホッとできるのが太極拳で、体の声を聞くために工夫された動作だけに、ムダがありません。
 こんな情報もあります。人間というのは動物ですから、動いている状態が当たり前の状態です。体を動かす時には筋肉を使います。筋肉が伸びたり縮んだりして、動作が成り立ちます。この筋肉の動きに対する情報です。前後の動きは、呼吸器系、生殖器系、神経系に関与し、左右の動きは消化器系に、捩じりの動きは泌尿器系に関与するというものです。
 太極拳を舞っているときに恍惚感を感じますが、これはインナーマッスルと脳、特に脳幹部分との情報のやり取りではないかと思っています。つまり筋肉も脳もお互い深層部分同士のやりとりで、脳幹に刷り込まれた気持ちのいい状態の再現、ではないかと思っています。
スポーツでこの恍惚感を味わうことができるとしたら、マラソンのゴール間近で味わうランナーズハイか、登山家が、頂上付近で感ずる達成感のようなクライマーズハイ位しかないでしょう。ところが太極拳では24の型を舞い終わる5分ほどで、それを味わうことができるというのは本当に幸せなことです。
 ストレス解消には最適な太極拳、さあご一緒に舞いましょう。

狛江太極拳&PC同好会開催

2010-10-26 20:42:13 | 太極拳
 今日は、狛江市民センターで月一回の掲記開催日でした。肋骨にひびが入ったおかげで、会員の方に失礼ではありましたが、先月に引き続き椅子に腰かけたまま、口頭で太極拳の先導をするはめになりました。
 今日、新たに男性が一人入会されたので、流石に坐って見ているわけにいかず、少し手直しをしました。
 今日の命題は「放鬆」。いかに体の力を抜くかを、中間のインターバルで臥功を行い実践しました。体に力を込めるのは簡単にできるのですが、体の力を抜くという行為は、そうおいそれとできるものではありません。
 太極拳では、姿勢を整える調身、呼吸を整える「調息」、心を整える「調心」の三調によってからだ全体を調えていきます。心が調うと脳波は自然にアルファ波を発します。入眠状態の8~13ヘルツです。α波の中には、発明発見の脳波といわれているミッドアルファ波もあります。
 いってみれば太極拳は、このアルファ波を発するために行うといっても、言い過ぎではないと思います。膝を少し曲げて腰を落とし、その姿勢で二十四式を舞いますと、体幹を維持しているインナーマッスルが刺激され、その刺激によって脳が刺激されて脳波がα波を発することになります。当然ながら、吐く息を長くすることによって、副交感神経が刺激されることも、関係していますが。

人間は案外便利にできている

2010-10-24 18:15:33 | Weblog
 私は今、肋骨にひびが入って痛みをこらえています。最初、左の腋の下辺りだったのですが、次いで前の一番下の辺りが痛みだしています。人間というのは、痛みが二か所ある場合には、どちらか強いほうの痛みを感じ取るようで、二か所一遍に痛みを感じることはないようです。これで助かっているのですが。
 整形外科の医者の、三週間もすれば治るでしょうという言葉に期待していたのですが、
もう九週目に入ろうとしているのに、一向に痛みが引く気配がありません。
 そのようなわけで、寝る時も右を下にして寝るか、仰向けで寝るしかありません。無意識で寝がえりを打とうとすると痛んで目が覚めます。一時間おきくらいに目が覚めるため、熟睡することもできず、仰向けに寝る機会が多くなっているお陰で、背中の筋肉がパンパンに張って鉄板を背負っているようです。
 朝寝ざめも悪く、頭がボーッとしている状態が続いています。ですから、午前中に一回、午後に一回昼寝をすることになります。眠れないと言いながら、結構寝ているようです。
 二か所の痛みと同じようなことが、痛みと、睡眠です。先頃までは痛みが勝っていましたから、つい目を覚ましていましたが、最近では睡眠が不足している所為か、痛みよりも睡眠の方が勝って、多少の痛みよりも睡眠が優先しているようです。

人生とはままならぬもの

2010-10-17 21:14:32 | Weblog
 弱り目に祟り目とか、泣きっ面に蜂とか、一難去ってまた一難というように、とかく浮世は儘ならない。
 今年の三月、体調が思わしくないので医者に行った。血液検査をしたが、原因が分からないまま凡そ二カ月、四種類の抗生物質を代わる代わる飲んだが回復の兆しはなかった。町医者もさじを投げ、近くにある大学の付属病院を紹介してくれた。
 六月の末、検査のための入院をし、前立腺がんが見つかった。その後アイソトープで骨への転移を確認したり、手術をするときの輸血用に、自分の血を採血したりする。一回に400cc、二週間の間隔を置いて二度にわたって800ccの採血したりと、八月下旬の手術に向けて準備していた。
 その頃、普段経験をしたことのない胸やけがして、食事をした後でもないのにゲップが出るし、刺激物を飲み込むと食道の辺りがカッとしたりして、テレビで見ていたサザンオールスターズの桑田さんと同じような症状なので、大学の付属病院で胃カメラの検査をすることにした。
 手術が終わって一週間もすれば検査ができるだろうと思い、9月10日に予約したが、入院中に肋骨を痛めてしまい、それ所ではなくなってしまった。検査日を一カ月伸ばし10月14日に胃カメラを飲んだ。
 その結果ポリープが見つかった。人生はいいことばかりではないということを、いましみじみと味わっている。

「こころ」と「からだ」をゆるめる

2010-10-13 18:15:38 | 太極拳
 心を緩めることを「鬆(しょう)」といい、体を緩めることを「静(せい)」といいます。更に意味合いを深めるために、鬆に同じような意味の放を付けて「放鬆」、静の方には入を付けて「入静」と熟語します。心と体を緩めることを「鬆静」といいます。
 これが太極拳の極意です。これができたら太極拳などやる必要はありません。太極拳ではこの鬆静を実現させるために、いろいろな格言を用意しています。それだけ難しいということです。
 例えば虚と実をハッキリ分けなさいという「虚実分明」。このときの虚は鬆と同じ緩めることを期待しています。また「上虚下実」上半身の力を抜いて虚にして、下半身に力を込めて実にしなさいとか。あるいは肩の力を抜くために、肩を沈めるようにという「沈肩」など、体を緩めるための格言が用意されています。
 スポーツでも「肩の力を抜きなさい」と指導されますが、なかなか抜けないのが肩の力です。肩の力が簡単に抜けていたら、すぐにでもイチロー選手のように一流になれるでしょう。
 体の力を抜くというのは、できにくいものですが、力を入れる方は簡単にできます。現に、肩ですが、肩を沈めるのは難しいですが、肩を上げて「聳(しょう)肩(けん)」にすることは、いとも簡単にできます。日常生活では自分では気がつかないうちに、この聳肩になっています。この聳肩が曲者で、ストレスの元凶です。
 肩は下げておくに限ります。

酒を酌むなら

2010-10-11 16:07:19 | Weblog
 どうせ酒を酌み交わすなら、こんな飲み方が最高ではなかろうか。

酒を飲むなら
  大丈夫(おとこ)と飲みゃれ
    十年かけた読書に勝る

 この句は一夕(いっせき)、竹中半兵衛と黒田如水が酒席を共にした時、半兵衛が扇子にこの句をしたためて如水に贈ったものといわれている。出典は明末(みんまつ) (1630頃) に陸紹(りくしょう)珩(こう)が編纂した酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)巻十二倩(せん)に収録されているもので、その原典は二程 (程(てい)明堂(めいどう)・程(てい)伊川(いせん)の二人のこと) 全書巻十九に「古人云、共君一夕話、勝読十年書」 古人いわく、君とともにする、一夕のわは、十年かけた読書に勝る、とある。また陳継儒の「書蕉」、それから西暦1000年頃の宋時代に著された「魏(ぎ)野(や)」の一節に「間聴一夕話、勝読十年書」とあるので、中国では古くから言い習わされていたのかも知れない。
 先の句に、巻けず劣らずの句がある。琵琶記に見えるこの句である。

 酒 知己に逢はば 千鐘も少なし
   話 機に投ぜされば 半句も多し

 会心の友と盃を傾ければ尽きることを知らないが、次元の違う奴との酒席では、話をするのも、いまいましいということになる。知己というのは、士は己を知る者のために死すという言葉の通り、自分と同じくらいに自分を知ってくれている人のことで、それはごく限られた人に過ぎない。そうした人と酒を酌み交わせば、鐘(おおがね)に千杯飲んでも尽きることはないが、波長の合わない奴と飲んだところで、話が弾むはずもない。

のんべえのたわごと

2010-10-10 21:01:57 | Weblog
 私は無類の酒好きである。人後に落ちない。その私が手術のため入院する前日から、酒を止め、今日で50日になる。こんなに長い期間酒を飲まなかったのは、私が社会人になってからの人生で初めての出来事である。
 こんなに長い期間酒を飲まずにいると、酒、酒と目の色を変えていた頃の自分が、異人種のように思えてくる。
 中国では、陶淵明(とうえんめい)は無類の酒好きとして知られ、「酒仙」と呼ばれるほどの人であったし、白(はく)居(きょ)易(い)は酔吟(すいぎん)といわれるほどの人であった。また王(おう)陽(よう)修(しゅう)は号を酔翁と付けるほどの人であった。杜甫、李白、白楽天なども酒好きにかけては人後に落ちない酒客(しゅかく)であった。これらの人物から酒を取り上げてしまったら、おそらく後世にその名を止めていなかったであろうし、唐詩選も極めて味わいの薄い作品になったであろうことは想像に難くない。またわが国でも、若山牧水や吉井勇が酒を飲まなかったとしたら、彼らの詩集はできあがらなかったかもしれない。
 江戸時代中期の儒者で文人画家でもあった柳沢淇園は「ひとりね」のなかでこういう。 「酒というものほどかはりし物はなし。一つ二つ三つまでいとおもしろくのみなし、はや七つ八つのと続けざまにのみなしぬれば、いか成る底なしといはるる人にても、酒がうまふて呑むものにもあらず。少しも人より多く呑みて、なんともないけしきじまんにするものなれば、脾胃のつよふ、肺のたしかなる人ならでは呑む事もならぬもの也」。と。
 酒というのは、始めのうちは味わって飲んでいるが、そのうちに勢いで飲むようになり、さらに飲む量の多いことを自慢するために飲んでいるようなものだといっている。
 「酒は百薬の長」ということわざの通り、酒は薬といわれ、現代医学でも酒を全然飲まない人より、一日一合ほど飲む人のほうが長生きできる臨床結果がでている。だから飲んだほうがいいというつもりは、さらさらない。
 私の人生には、これまでに数多くの酒席があった。酒を飲み始めたころは、こんなもののどこがいいのかと思っていたものだが、付き合いで飲んでいるうちに、酒の味が分かるようになり、三十路に入るころにはもう一人前の酒飲み気分で、日本人の体質がそうさせるのか、いつのまにか日本酒党になっていた。これまでのウン十年の間に飲んだ酒量はおそらく50石・1万リットルを下らないと思う。この飽くことなく愛飲した酒に敬意を表した次第である。

友を選ぶ

2010-10-09 11:39:50 | Weblog
 まだ若いころ、友を選ぶ基準に付いて資料を集めていた頃に出合った、仏教の始祖である釈迦の警句集ともいえる法句経にこんな言葉があります。

あやしき友と交わるなかれ
 いやしき人を侶(とも)とせざれ
こころ清き友と交わるべし
 まされるを侶とせよ

 ここで、悪しき友とか卑しき友といっているのは、必ずしも客観的な基準があるわけではない。また、心清き友とか優れる友とあるのも、基準があるわけではない。仮に「優れる」というのを、頭脳のこととしてみると、自分より頭のいい人を友にした方はいいが、その友達の方は、自分より頭の悪い人間を友に持つことになる。
 だから、どんな人間でも必ず持っている良い点、少なくとも自分には欠けていて、相手が持っているような長所を見出し、それとは逆の欠点に影響されなければいいわけである。
 我が国に「朱に交われば赤くなる」という格言があるが、一体、朱というのはだれなのかという問題が出てくる。世間の親がよく口にする「うちの子に限って」という発言は、うちの子は悪いことはしていない、だから悪いのは他所の子だと聞こえる。今も昔も、親が子を可愛がるのに変わりはないが、その悪いことをした友達にとって、自分の子は果たして良い友人であったのかどうか。
 頭のいい人間はとかく心が冷たいし、エゴイスティックが通り相場である。顔のきれいな人で優しい人は例外であるし、心がきれいな人は外見はあまりパッとしない。金持ちはケチン坊と相場が決まっている。というように、天は二物を与えないが、一物だけは与えられている。
 こうした実情からすると、全てが長所だけ、あるいは全てが短所だけという人間はこの世に存在しない。だから、相手の長所だけを学び、自分の短所を押し付けず、自分の長所を伸ばすようにすれば、共によい友人を持つことになるのではなかろうか。
人はそれぞれ、その人なりの生き方、考え方があり、本人はそれを最高のものと信じているから、第三者に干渉されたり、心の中に土足で踏み込まれたりすると、心外と感じるものである。
 相手の気持ちや立場を尊重し、あくまでその人に尽くす思いやりがなければならないと思う。見せかけだけのリップサービスだけで接するのではなく、心底からの真心と優しさによって接するのが、友、本来の姿勢ではなかろうか。

無気力

2010-10-06 17:25:49 | Weblog
 今、何もする気になれないでいる。私の人生で初めての経験なので戸惑っている。
 立っていても、坐っていても、横になっていても胸が痛むのだから致し方のないことだが、好きな本も読む気にはなれず、あれほど好きだった酒を飲む気にも全くなれない。
 医者から、上体を使うことを禁じられているので、太極拳をすることもかなわず、できるのは立禅だけ。
 一番困るのは、腹を切った所為と胸をコルセットで締め付けているので、腹式呼吸ができず、酸素の供給量が少ないことです。これでは脳への酸素の供給量が少なく、満足な思考回路が確保されません。

血液検査

2010-10-05 16:51:20 | Weblog
 今日手術後初めての血液検査をしてきました。お陰様で異常はありませんでした。ただ、寄る年波の所為か肋骨のひびがなかなか治りません。上半身にひねりが加わると痛むので、歩くのも覚束なく、よちよち歩きでは余り外に出る気にもなれません。もうしばらく、おとなしくしています。

人を憎む

2010-10-01 18:26:33 | Weblog
 論語陽貨編に、子貢が孔子に「仁愛深い君子でも、人を憎むことがあるのでしょうか」と問いかけたときの返事があります。下記の四つです。
1.人の悪を称する者を憎む。
  人の悪い所をあげつらう者を憎む。
2.下流にいて上を謗る者を憎む。
  下の地位にいるものが、上に入る人を悪く言って名誉を傷つける者を憎む。
3.勇にして礼なき者を憎む。
  勇ましいが礼義を弁えない者を憎む。
4.果敢にして窒(ふさ)がる者を憎む。
  事を行うに果断で、テキパキと処理するが、物の道理を弁えない物を憎む。

心はひろやかに

2010-09-30 14:45:30 | Weblog
 菜根譚にこんな言葉があります。

愛情豊かな人は 心がひろやかである
だから その幸運が何時までも続く
何事を行うにも 寛容な精神を貫いてゆくから
心の卑しい人は 考え方がこせこせしている
何となれば 幸運に恵まれることが少ないから
何事を行ったとしても せっかちな気分に支配されてしまう

仁人心地寛舒     仁人は心地寛舒(かんじょ) (心が広くて思いやりがある) なり
便福厚而慶長     便(すなわ)ち福厚くして慶長く
事事成個寛舒気象  事々個の寛舒の気象を成す
鄙夫念頭迫促     鄙夫(ひふ) (心が狭く卑しい人) は念頭迫促(はくそく) (差し迫る) なり
便禄薄而沢短     便ち禄(ろく) (さいわい) 薄くして沢(たく) (めぐみ) 短く
事事得個迫促規模  事々個の迫促 (差し迫る) の規模を得

念ずれば花ひらく

2010-09-28 06:20:44 | Weblog
 私は、坂村眞民さんのこの詩が好きである。

 念ずれば
  花ひらく

 苦しいとき
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしもいつのころからか
 となえるようになった
 そうして
 そのたびに
 わたしの花が
 ふしぎと
 ひとつ
 ひとつ
 ひらいていった

 心に深く思うとき、何事も、なし得ないことはないという気概が籠められていて、思いを深くすれば、成らないことはないという気がしてくる。
 一念岩をも通すという言葉があるが、切り花でも愛情を籠めて話しかけてあげると、長持ちするといわれているように・・・

自然界の三法則

2010-09-25 09:20:40 | Weblog
 自然界には法則と言われるものが三つある。同質、循環、相対である。
1.同質
 類は友を呼ぶという、あれである。群れを作ることである。動物に限らず植物でも、同じたぐいの生物をそばに置いておきたいのは、自然界の常であり、摂理である。それは植物の群生を見てもわかるとおりである。
2.循環
 循環というのは、地球の公転、自転によって発生する。超高速で自転し公転する地球の速さは、目にもとまらぬ速さで回転し、移動し、それを繰り返している。目にもとまらぬ速さというのは、こうである。
 今、地球上で最も早い乗り物は、マッハ3の戦闘機であるが、地球の運行速度はとてもそんなものに例えられるものではない。公転速度を見てみると、秒速29㎞、マッハに直したら優に80を超える。回転速度は緯度0°で時速約1,700㎞である。
 歴史は繰り返すといわれているそれも循環である。また仏教の輪廻転生という言葉のとおり、生まれ変わり生き変わりすることである。水が雨によって大地に注がれ、蒸発してまた空に還るようなものである。
 流れもこの循環に属していて、水は低きについて流れるというとおり、自然界の物事はすべてこの現象に左右されている。気圧にしても高気圧から低気圧に流れ、人も易きについてながれるという。
3.相対
 関係のある他の物と一緒に考えたときに当てはまることのことである。内にあるものは他にもあるとする考え方である。
 自然は万物に公平で、万物をはぐくみ万物を浄化させる化身だといわれている。古いものは新しいものを育て、新しいものは古いものを養っていくうちに進化発展し、この世を形成してきた。
 私たちの生命も、自然界の三つの法則の恩恵によって支えられてきた。

石(せき)霜(そう)の七去(しちこ)

2010-09-23 13:38:07 | Weblog
 休し去れ、歇(かっ)し去れ、冷湫(しゅう)々地にし去れ、一条白練にし去れ、寒巌枯木にし去れ、古廟香炉にし去れ、一念万年にし去れ

「休し去れ」
 妄想の紛起を休止せしめよ。
「歇し去れ」
 妄想を放擲(ほうてき)せしめよ。
「冷湫(しゅう)々地にし去れ」
 妄想の熱悩を冷却し尽くせ。湫は涼しいという意味、地は助字で意味はない。
「一条白練にし去れ」
 心を一条の練り絹の如く淨白にせよということ。
「寒巌枯木にし去れ」
 心を冷たい巌や枯れ木の如く、冷やかに保ちなさいということ。人におだてられて喜び、けなされて怒るというような、毀誉褒貶に左右されてはならないということ。
「古廟香炉にし去れ」
 古い祠堂で、お参りする人が誰もいないから、線香を立てる香炉が欠伸をしている。香の煙が立っていない古廟は、淋しいには淋しいが、これはこれでまた幽(ゆう)𨗉(すい)な趣きのあるものである。この寂静(じゃくじょう)の心境を得なさいということ。寂静(じゃくじょう)はこの世の人間的な欲望や悩み、苦しみなどから離れて悟りを開いた境地のこと。
「一念万年にし去れ」
 悟りを開きなさいということ。妄想が紛起することなく心が冷静になり、純情無垢となれば、一念心において十世古今を観ずることができる。十世をして十世たらしめ、古今をして古今たらしめる所以のものが分かる。つまり悟りが開ける