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泉州堺の石工活躍の背景 家康・宗薫・政宗 その出会いと連携

2021-02-24 23:53:47 | すずめ踊り

<語り部講座>
   仙臺すずめ踊り 泉州堺の石工活躍の背景 その2


徳川家康 今井宗薫 伊達政宗 その出会いと連携

前田秀一 プロフィール


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 仙台城の石垣造りに馳せ参じ、完成後の移徒式の宴席で踊ったと伝わる泉州堺の石工衆の“粋”(ダイナミズム)に感じて“堺すずめ踊り”の普及活動に取り組み、今年10周年を迎えた。


 

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 図らずも、今年から来年にかけて大坂冬の陣(慶長19年11月)および大坂夏の陣(慶長20年5月)以来400年目を迎えるのを記念して、太閤・秀吉没後の豊臣家や「大坂の陣」についての理解を深める事業「大坂の陣400年天下一祭り」が大坂城公園および周辺地において開催されることになった。

 折しも、30年ぶりの発掘調査の結果、豊臣期大坂城の中枢を占めた重要な石垣の部分が発見され、さらに平成27年(2015年)に向けて全体像が明らかにされる予定である。
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 豊臣期大坂城の石垣の築造は、自然石をそのまま積み上げる「野面積(のづらづみ)」方式と言われているが、これは織田期安土城の築城の際に「穴太衆」が駆使した石垣づくりの工法であり、近世初頭の城郭づくりに活かされ広く普及した。

      
安土城 野面積み石垣          自然石の中には、神仏を否定した信長の命で仏石も使用された


 泉州の石工は、近世に和泉国日根郡、現在の大阪府阪南市、泉南市、泉南郡岬町付近を本拠に全国で活躍した石工集団で、近世初期に同じ近畿地方から出て全国で活躍した。
  

  

     宝永4年(1707)堺絵図 「石屋町」、「北石切町」、「南石切町」    泉州・堺の石工頭領 黒田屋八兵衛墓碑


 近江の穴太衆と異なるのは、近世城郭の巨大な石垣建設のための石組み工事より、むしろ石彫を得意とし石材の細密な加工や細かな碑文の製作も可能で、築城が活発でなくなった近世中期以降にもその足跡を各地に残し活動時期が長かったことが知られている。

 泉州・堺の石工が仙台城で築造した石垣は「野面積」であった。
     仙台市文化財調査報告書 第270号「仙台城址3」平成15年度報告書 詳しくはこちらから

 安土城の築造は、「天下布武」を掲げる織田信長が陣頭に立って進め、豊臣期の大坂城は「天下惣無事」令の威容を表す城として築造された。伊達政宗は関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て青葉山に登り、徳川幕府の「天下普請」に先駆けて仙台城の縄張りをはじめた。
 関東を超えて遠距離にある奥州・仙台への泉州・堺の石工の派遣は、堺の茶人で商人であった今井宗薫によって斡旋されたが、今井宗薫と伊達政宗の出会いの機会がどのように設けられたのか、それがどのように展開して繋がっていったのか、高橋あけみ氏の研究成果(1)の中に経緯を追ってみた。
 

                                                                                                                               「交流経緯」拡大版はこちらから                                                                                      
 伊達政宗と今井宗薫の出会いは、天正18年3月1日、豊臣秀吉が東国征伐の第1段として北条氏の小田原城攻めに出陣した時であった。
 政宗は秀吉の東国征伐の本気度に驚き、あわてて小田原に参陣し6月5日に到着したが、遅参を怒った秀吉が会見を拒否し底倉に待機を命じられた。
 6月7日、施薬院全宗ら5名により尋問を受けた後、翌8日に宗薫が施役院全宗とともに千利休の代理で政宗を見舞い、二人が初対面した。
 6月9日、秀吉に対面して釈明した際、政宗は「千利休の茶の湯を拝見いたしたい」と申し出て秀吉のご機嫌をとり、茶の湯に関心があることに免じて酌量され遅参を許された、
 7月5日、小田原の落城後、奥州知行割仕置をすませ、豊臣秀吉が名実共に天下統一を果たして帰洛する際、8月12日付けで宗薫から政宗宛に手紙が送られ、両者間の初めての文通となった。
 以後、慶長4年から6年の間、天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)を挟んで集中的に宗薫と政宗間の手紙の交換が行われた(表‐1)。確認できたものとして、宗薫と政宗の間には終生計46通が交換され、それらの内、宗薫⇒政宗13通、政宗⇒宗薫33通あった。
 これらのうち、特に注目をひくのが、慶長4年正月、徳川家康の命を受け宗薫が家康の第六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫との婚約を仲介したのを機会に、政宗から宗薫へ家康への誓詞や伝言を含めて手紙が送られるようになり、慶長5年(1600)9月25日には、早々とその内容に関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)や戦後処理のことも含まれるようになった。
 慶長5年(1600)12月24日、政宗は徳川家康の許しを得ていち早く青葉山に登り仙台城の縄張りをはじめた。
 慶長6年(1601)4月21日付の宗薫に宛てた政宗の手紙(6)には、

 「豊臣秀頼は、江戸か伏見か、家康様のおそばにおいて、おとなしく成人させ、無事成人の暁には家康様のご分別でしかるべく取り立てるのがよい。・・・現在のように大坂にふらりと置いておくと、世にいたずら者どもが現れ、秀頼様を大将にまつりあげ、謀反を起こすことにもなりかねない。そのために秀頼様が切腹なされるような事態にでもなれば、それこそ太閤殿下の亡魂に対して申し訳が立たない。」

と13年後の大坂の陣を洞察した内容を書き送り徳川家康の重臣・本多正信への進言を依頼した。


 松平忠輝と五郎八姫は慶長11年(1606)に結婚するが、宗薫は大坂方に睨まれ、慶長19年(1614)11月大坂冬の陣が起こると関東に通じているとして大坂方に捕えられ、家財や茶器などを没収され、大坂城内に監禁された。

 幸いにして織田有楽のとりなしで命拾いした宗薫は高野山に追放となるが、大坂夏の陣では家康のもとで再び政宗のもとへ情報を送っている。


 元和の時代になっても、宗薫は家康と政宗の政治的な連絡役として活躍し、政宗は宗薫に一目置いていたと見られる。
 しかし、宗薫の晩年は、大坂方に家財と茶器を没収されており、今井家秘伝の茶の湯書の元本を仙臺藩士に書写させるなど、当初の勢力はなく息子・平左衛門とともに政宗邸を訪れ茶会にも加わり政宗を頼っている様子がうかがえた。
 
 大坂の陣で灰燼に帰した大坂城は、元和5年(1619)に幕府直轄領(天領)に編入され、翌元和6年(1620)から2代将軍徳川秀忠によって再建が始められ3期にわたる工事を経て寛永6年(1629)に完成した。
 徳川幕府の目的は、特に伊勢と越中を結ぶ線より以西の大名計65家を対象に、温存されている勢力を削ぐ一策として、西国大名を天下普請と称し大規模な大坂城公儀普請に駆り出し、その財政を逼迫させることにあった。


 徳川期大坂城は、豊臣期大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだため豊臣期大坂城の遺構は地中に埋もれてしまった。
 大坂城の城郭の大きさは豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守はその高さも総床面積も豊臣期のそれを越える規模のものが構築された。

 特に、堀の掘削と石垣構築は過酷とも言える負担として諸大名に割り当てられ、二重に廻らせた堀割は江戸城をしのぐ規模となった。                    

 大量の巨石を積み上げ、しかも石材間の噛み合わせ密にして精度よく築いていた石垣積みの技術(「打込接ぎ」、「切込接ぎ」、「算木積み」)は当時としては最高出の来栄えで、各藩を競わせた成果でり、要した工期10年間はむしろ短期の工期とも言える。

 

 徳川期大坂城石垣の一部には、廃城となった伏見城の石材が、約1/3程度使用されている。
 残りについては、良質な花崗岩の産地であった瀬戸内海の多数の島々から尼崎港や西宮港に陸揚げされ、兵庫県では芦屋や御影近辺、そして生駒山の日下や石切辺りから切り出され運ばれた。
 江戸城の場合は、将軍の居城と言うことで見えるところには刻印は打てなかったが、大坂城の場合は以下の理由で多数の刻印(右図事例)が打たれている。
    1.良質の石を算出する石丁場の確保、印つけ
        -大名家の家紋、担当家臣の印、石工の符丁
    2.石垣を積む担当丁場の区分の明確化
        -石垣普請と言う“いくさ”の戦績誇示
    3.工程表示

 大坂城は、石垣の規模が格段に大きいだけでなく、堅くて良質の花崗岩からなり、しかも要所には、比類のない巨石が多く使われており、従来の築造技術よりは飛躍的に高度化し全国の城郭のなかでも抜きんでた存在である。

<まとめ>

 泉州堺の石工が馳せ参じた経緯と豊臣期および徳川期の大阪城築城の状況を勘案すると、戦国時代の当時にあって茶人として政治的な地位を得ていたとはいえ、今井宗薫の斡旋で泉州堺の石工が仙台城築城に関わったのは特異なケースと言える。
 さらに今井宗薫はかつて豊臣方から嫌疑をかけられており、そのため、石工たちは仙台城が完成しても秘密保持のため留めおかれ、群雄が割拠している関西(堺)へは帰ることを許されなかったと考察する。

 一方、大阪城普請の場合は、いずれも、時の戦略家(武将)が縄張りを担当し、諸大名に公儀普請を負わせた。
    豊臣期大阪城  縄張り 黒田官平衛   天下惣無事
    徳川期大阪城  縄張り 藤堂高虎     天下普請
 当時城下町ではなかった堺の商人や石工衆(その背景には堺の寺院がある)との直接的な支配関係があったのかどうかは
不明である。
 場合によっては、時の天下人(為政者)による大号令の取り組みであったことを考えると、人海戦術的に駆り出されて参加していたかもしれない。

 

<引用文献>
1.高橋あけみ「今井宗薫と伊達政宗-宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義-」
        2003熊倉功夫編『茶人と茶の湯の研究』294頁 思文閣出版
2.津村晃佑「現代に生きる伝統芸能-すずめ踊りの人類学的研究」
             2003『東北人類学論壇』第2号 39頁(東北大学文学研究科文化人類学研究室)
3.天野光三、左崎俊治、落合東興、川崎勝己、金谷善晴、西川禎亮
        「徳川期大坂城の石積み施工技術に関する考察」1996『土木史研究』第16号 619頁
4.菅野良男2011『刻印で楽しむ三大名城の石垣物語』
5.ウィキペディア フリー百科事典「安土城」、「大坂城」、「仙台城」、「泉州石工」
6.市指定文化財「伊達政宗自筆書状」(河内長野市・観心寺所蔵)
http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/date-base/isan-date/city/shi72.html 

 

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