この様に?民家の間を抜けて行くと、そこは「天皇陵」だった、・・・川端康成か
いくら土地が無いと云っても、天皇陵の横を住宅地にしなくても良いのではないか
この円融天皇【後村上陵】はその中でもちょっと酷過ぎでした・・・先ずは制札から見て下さい
御覧のように・・・右側にも民家が・・正面に拝所が そして左側にも民家が、参道の左角にガレージがありました
別にこの家の人達に文句を云っているのではありません・・・誤解の無いように、では参道を進みましょう
この時代!、藤原摂関政治の絶頂期・・・藤原道長時代との中間に即位した「円融天皇」です
先代の兄「冷泉天皇」はあまりにも奇行が目立ち過ぎて、僅か二年で退位されます
次の天皇の最有力候補の兄である「為平親王」が源氏の娘を娶り、藤原氏から疎まれます
だから突然、弟に天皇の座が・・・僅か11歳で即位されたのが「円融天皇」です
11歳から26歳で「花山天皇」に譲位するまでの15年間、藤原氏内での勢力争いに悩まされます
さて、ここで円融天皇に纏わるお話です・・・「円融寺から竜安寺」にと云うおはなし
今はありませんが、京都に円融寺があったのです・・・名前の通り、円融天皇の勅願寺〈ちょくがん寺〉です
26歳で「花山天皇」に譲位する前年の983年〈永観元年〉、円融天皇の勅願寺として創建されます。
そして、984年〈永観2年〉、円融天皇は譲位して【朱雀院上皇】と称されます
その翌年985年〈寛和元年〉に上皇は出家され、991年〈正暦2年〉に亡くなるまで円融寺に居住しました
この様な事から朱雀院上皇は【円融院】と追号されています
しかし円融天皇【朱雀院上皇】没後の円融寺は次第に衰退し、平安時代末には、同寺址に藤原実能の山荘が建つ
山荘内には、徳大寺と云う寺院が創建された。時代が移り・・・室町時代の1450年〈宝徳2年〉の事
あの応仁の乱を起こした「細川勝元」が徳大寺家から山荘を譲り受けると、同地に【竜安寺】を創建した
これが【円融寺】から【竜安寺】に移り変わるお話です
だから【竜安寺】の裏山が、「朱山七陵」と云われ、後に【一条天皇」や「堀河天皇」等の陵墓が造られるのか
この件については・・・追い追い、第66代一条天皇から第73代堀河天皇の御陵紹介で詳しくね・・・
最後に円融天皇【後村上陵」〈のちのむらかみりょう〉が父「村上天皇陵」の参道手前にあるのは?なぜ
円融寺のあった「竜安寺」に御陵があった方が・・・と思うのですが
父の【村上天皇】の傍が良かったのでしょうか・・・天皇陵の謎は尽きませんね
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