松凬からくり帖

松凬さんが73年の人生と吟道50年からの体験や、これから起こるであろう!未体験談を写真と共にお届け!

天智天皇と天武天皇の間に大友皇子が天皇として名誉回復!

2016-09-22 09:52:36 | 日記

天智天皇と天武天皇の母親が第35代皇極天皇は、我が国第二代目の女性天皇である。

この時代大変に複雑な親子関係、それに兄弟関係が入り乱れていた・・・

第34代舒明天皇〈田村皇子〉の即位は聖徳太子の遺児である山背大兄王と争って勝っての事

その後ろ盾には、あの蘇我蝦夷〈そがのえみし〉・入鹿〈いるか〉親子が控えていた

姪・宝皇女を皇后とした舒明天皇は即位13年目にて崩御・・・この皇后が天智・天武兄弟の母親であり、皇極天皇である

舒明天皇崩御のあと直ちに天皇に即位した皇后は第35代皇極天皇として明日香村に宮を造営する

   

           皇極・斉明天皇陵【越智崗上陵】〈おちのおかのうえのみささぎ〉

しかしながら、蘇我蝦夷・入鹿父子の専横が強まって来ます、・・・・

ついに皇極四年息子の中大兄皇子らが藤原鎌足の助力を得て蘇我親子を討ちます〈乙巳の変〉

この後、皇極天皇の弟、軽皇子が第36代孝徳天皇として即位、しかし在位九年で病没・・・

ここで中大兄皇子が即位するのが普通だが、母親の皇極が重祚して第37代斉明天皇となる〈ホンマにややこしい

斉明七年、百済救援のため中大兄皇子らと筑紫に赴くが急死する、ここでやっと中大兄皇子は即位し・・・

第38代天智天皇となり、斉明の後を継いで百済救援軍の指揮を執ることになる

   

            天智天皇陵【山科陵】〈てんじてんのうやましなのみささぎ〉

しかしこの戦いも泥沼化してついにあの、白村江の戦いへと突入していく・・・結果はほぼ全滅の有様であった

天智天皇には唐の占領軍の受け入れ態勢を整える仕事が課せられた。

一時は難波宮や大和の引き渡しを要求され、占領統治は着々と進んでいたが、予期せぬ出来事が起こる

671年から始まる新羅と唐の戦闘である、これによって日本に駐屯していた唐の占領軍は撤退する事に

天智朝廷は辛くも唐の支配から解放されることになるのだ

この時期、唐に支配されるがままの天智朝廷に激しい憤りを持っていたのが弟の大海人皇子・・・しかも

後継として弟でなくて天智の皇子である大友皇子を押したのには、堪忍袋の緒が切れて、壬申の乱へと・・・

   

            天武・持統天皇陵【檜隈大内陵】〈ひのくまのおおうちのみささぎ〉

此れに勝った大海人皇子は第39代天武天皇として即位する・・・明治維新まではこの通りだったのが

明治3年になって 壬申の乱で大海人皇子に敗れた大友皇子が第39代弘文天皇として追号されたのです

なぜ・・・天武天皇の息子で「日本書紀」を編纂した舎人親王が父親に遠慮してか

大友皇子が即位したことを飛ばして記述したのでした、このために長い間大友皇子の即位が忘れられていた

しかし江戸時代になってからの研究で即位したとする学説が認められ明治三年に明治天皇により

39代目の天皇として弘文と追号されたのです。

現在では近江朝で実権を把握していたことが知られているそうです

   

          弘文天皇陵【長等山前陵】〈こうぶんてんのうながらやまさきのみささぎ〉

まだ天智・天武のお二人には、忘れてはならない・・・額田王〈ぬかたのおおきみ〉のお話もありますが、ひとまずこれにて

 

 

 

 



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