日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

【特集】日本と亜細亜~大東亜戦争【シリーズ】第三弾「一心一徳貫徹始終~同生共死和平反共建国」①

2017年12月24日 15時45分14秒 | 歴史
昨日12月23日、天皇陛下は84歳の御誕生日をお迎えになりました。
日本国民の一人として天長節を心からお喜び申し上げます。

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日本と亜細亜の闘いの特集第三回は中国である。

近代日本の最初の対外戦争「日清戦争」から日本と大陸の混迷は始まり、「支那事変」から「大東亜戦争」へと進んでいった。
そして、現在大陸の主は「中国共産党」に代わり、中共はチベット・ウイグル・蒙古や少数民族を弾圧し、アジアの覇権確立を目指している。
日中の緊張した関係は昔も今も変わっていない。

しかし、「大陸の虎」と言える中国と「海の龍」と言える日本が手を取り合った時、亜細亜の平和は実現できるのではなかろうか。
それこそが、頭山満先生や宮崎滔天先生、北一輝先生、大川周明先生といった日本民族派の理想であり、韓国の金玉均先生、中国の孫文先生の理想であった。





(日章旗と青天白日旗、どちらも太陽を示している。私は蒋介石から現在に至る国民党の在り方は批判するが、中華革命の象徴、青天白日旗には敬意を表する。)

この理想を歪めた日本の一部の軍人・財閥や中国国民党・中国共産党、亜細亜を食い物にしていた欧米帝国主義こそ全アジア、そして世界の敵である。

そして、現代においてアメリカの占領政府と化した戦後日本政府と大陸に圧政を敷く中共政府、台湾を占拠している国民党政府を倒し真の日中友好を開かなくてはならない。

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【明治維新と辛亥革命】


19世紀後半から、大清帝国は衰え始め欧米列強の植民地にされつつあった。


(麻薬を国家ぐるみで売りつけるマフィア大英帝国による攻撃、アヘン戦争)

同じく、黒船来航によって不平等条約を次々と押し付けられていた日本は明治維新によって封建社会から近代社会への変化を目指し、自主独立のために近代化を図った。

これを見て、連載第二回でも紹介した李鴻章を始めとする清朝宮廷の有力者たちは「洋務運動」という近代化政策を行った。
しかし、洋務運動は西洋の科学技術を取り入れ、鉄道建設や陸海軍を西洋式に改めるだけにとどまり、封建制度には手をつけなかった。

それは連載第一回でも紹介した朝鮮の閔氏政権でも同じであった。
閔氏政権も形だけの新式軍の導入を図ったが、腐敗した王朝政治に変化はなく清に対する事大主義も相変わらずであった。
そこで、政治の革新を目指す金玉均先生が登場した。

清では欧米列強から搾取される分を補うために属国である朝鮮に対する支配を強化しようとしていた。

中朝商民水陸貿易章程

中朝商民水陸貿易章程(英語: China–Korea Treaty of 1882)は1882年(明治15年)10月、清と李氏朝鮮の間で締結された条約である。清による朝鮮『属国』支配の実質化となった。

概要
壬午軍乱終結後の1882年9月13日、清の光緒帝は興宣大院君(朝鮮国王高宗の父)の河北省拘留と呉長慶麾下の将兵3,000名の漢城府(現、ソウル特別市)駐留の命を下した。清国が軍事力を背景に宗主権の強化再編に乗り出したのである[2]。清にすがって国内を統治しようとする高宗とその王妃閔妃一族の閔氏政権の親清政策もこれを助けたが、従来の宗属関係は藩属国の内治外交には干渉しないことを原則としていたので、これは両国を近代的な宗属関係に変質させる意味合いをもっていた。
1882年10月4日、清国と朝鮮は河北省天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書趙寧夏と金宏集(のち、金弘集)、魚允中がこれに署名した。この章程は両国間で締結された近代的形式を踏んだ条約としては最初のものであった。しかし、その内容は清の朝鮮に対する宗主権を明確にしたものであり、清による属国支配を実質化するものであった。

条約
前文に「朝鲜久列藩封」「惟此次所订水陆贸易章程系中国优待属邦之意」と明文化して、朝鮮が清の属国であることが明記された。まず旧来の朝貢関係が不変であることが示され、この貿易章程が中国の属邦を特に「優待」するものであり、それぞれの国が等しく潤うものではないとされた。換言すれば、これは宗属関係に由来する独自の規定であり、他の諸外国は最恵国待遇をもってしても、この貿易章程上の利益にあずかることができないという意味であった。清国は属国朝鮮に恩恵を施す存在であると明記され、朝鮮人が北京で倉庫業・運送業・問屋業を店舗営業できる代わりに、清国人は漢城や楊花津で同様の店舗経営ができるものとした。これは諸外国が朝鮮とむすんだ通商条約にはない規定であり、したがって貿易章程における「属邦優待」とは、清国が朝鮮貿易上の特権を排他的に独占し、清国の内治通商支配を基礎づけるものであった。第一条には、「则详请北洋大臣咨照朝鲜国王转札其政府筹办」とあり、北洋大臣が朝鮮国王と同格であることが規定されている。
清国は1884年2月、同章程第4条を改訂して内地通商権をさらに広げている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E5%95%86%E6%B0%91%E6%B0%B4%E9%99%B8%E8%B2%BF%E6%98%93%E7%AB%A0%E7%A8%8B

朝鮮の維新志士 Kim Ok-gyun

(この頃の清と朝鮮の関係が分かりやすくまとめられている。)

この時、北洋大臣として朝鮮を支配した袁世凱は君主のように振る舞い、朝鮮の大臣たちもまた、国王にするように袁世凱に対して拝礼した。

これを脅威に感じた日本は朝鮮に進出し、日清戦争になった。

結果は、封建制度を改革した日本の勝利に終わり、制度を改革しなかった清は兵士の士気が低く負けた。

そこで、康有為や梁啓超は明治維新に倣って制度の改革を主張し「変法自強」を実行した。


(康有為)


(梁啓超)

私は、この変法自強が成功し清国皇帝の下で議会が開設され中国人の主張も通る社会になれば、その後の軍閥による内戦や国民党と共産党の内戦、共産党による支配もなかったかもしれないと思う。

しかし、国よりも自分の利権が大事な宮廷は改革を妨害し、腐敗は変化しなかった。

同じような大韓帝国は日本に併合され、大清帝国は崩壊への道を歩むことになる。

清国に期待しない孫文らは革命を志向したのである。



孫文は清朝に対する武装蜂起を計画したが失敗し、日本に亡命する。
この時、孫文を匿ったのが宮崎滔天や頭山満といった民族派であった。


(頭山満)


(宮崎滔天)

頭山満はこの以前にも、朝鮮の金玉均を支援していた。

頭山満の生涯と思想については別の機会に触れたいと思う。

孫文は、日本やアメリカ、欧州を行き来して同志や資金を集めていた。
1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人に喜びながら「お前は日本人か」と聞かれた。
その年、日本が日露戦争に勝利したのである。


(二〇三高地)


(日本海海戦)

日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識を高めていたのだ。

これを目にした孫文は中国革命への決心をより強めた。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるのだ。

同年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成。ここで東京に留学中の蒋介石と出会う。

あの蒋介石にしても元々は高潔な志をもった志士であったのである。

後に蒋介石と決別し、対決することになる汪兆銘も中国同盟会の同志であった。

汪兆銘は光緒10年(1884年)、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。光緒30年(明治37年、1904年)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。留学中に孫文の革命思想に触れ、光緒31年(1905年)、革命党に入党した。

汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。

光緒32年(1906年)6月、法政大学速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、清国から離れて革命運動を続けることとした。

やがて清朝からの依頼を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれ、孫文は根拠地をフランス領インドシナのハノイ、ついでイギリス領マレーのシンガポールに移した。孫文の信頼を得ていた汪も、孫文と行動を共にする。孫文がフランスへ去った後、汪はタイ王国以外は欧米の植民地支配下にあった当時の東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注ぐことになる。

宣統2年(1910年)、汪は革命運動を鼓舞するため、清朝要人の暗殺を計画した。汪は北京で写真屋になりすまし、密かに爆弾を用意、醇親王載灃を狙ったが未遂に終わった。清朝政府に逮捕された汪は死刑を覚悟したが、革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆の意向により、終身禁固刑に罪一等を減ぜられることとなった。

革命軍が蜂起し勢力を広げる中、宣統3年(1911年)11月、清朝政府の大赦により、汪は釈放された。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98

1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独立を訴える辛亥革命に発展した。

辛亥革命を支持する外国人も少なからず存在し、特に梅屋庄吉などの日本人による支援が顕著であった。東京で成立した同盟会を初め多くの革命団体が日本で組織・運営され、北一輝を初めとする日本人も同盟会に参加し、武装蜂起に参加した日本人にも多くの死亡者が出ている。

当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争ったが、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって孫文の到着に熱狂し、翌1912年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。

民国元年(1912年)1月1日に中華民国が成立したが、この成立宣言の文章を起草したのは汪である。この年汪は、革命運動の同志になっていた陳璧君と結婚した。


(汪兆銘と陳璧君)

孫文が中華民国臨時政府の大総統に就任すると、頭山は犬養とともに中国に渡って会見し、長年の苦労をねぎらった。

【裏切りの男、袁世凱】

しかし、この辛亥革命は未完の革命に終わってしまう。

先に紹介した北洋大臣として朝鮮に圧政を敷いた北洋軍の首領である袁世凱が清を裏切り、中華民国大総統の地位を譲る条件に宣統帝愛新覚羅溥儀の退位を約束してきたのだ。

袁世凱は以前にも裏切りの「前科」がある。

先述の康有為らによる「変法自強」運動が行われた時、袁は最初変法派に属していたが、裏切って西太后の側について光緒帝を幽閉し変法派を弾圧したのである。
とても、信用ならない男であった。


(袁世凱)

しかし、成立したばかりの共和国から内戦や外国軍隊の介入を未然に防止する観点から、孫文は中国の統一と袁世凱を首班とする共和政府の樹立に同意してしまった。

袁世凱に大総統の座を譲った孫文は、大正2年(1913年)の春に前大総統として来日し各地で熱烈な大歓迎を受け、福岡の玄洋社や熊本の宮崎滔天の生家にも立ち寄った。このとき既に頭山は袁世凱の動向を強く懸念していた。

1913年3月、国会議員選挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が結成された。国民党は870議席の内401議席を獲得した。

変法派を裏切り、清朝を裏切ってきた袁世凱は今度は孫文を裏切って、国民党を攻撃した。

これに伴い、同年7月、袁世凱打倒の第二革命がはじまる。
しかし、軍事力を握る袁に軍事力を持たない孫では敵わず、孫文と蒋介石は再び日本に、汪兆銘はフランスに亡命した。

中国民族派の闘いはまだ続いていくのである。

(続く)



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