日本祖国戦線

愛国社会主義(National Socialism)による日本及び世界の再建を模索する研究会です。

フォルクスワーゲン「大衆車」開発の志(VW指導部は労働者目線に帰れ)

2015年10月08日 00時58分13秒 | NSDAP ヒトラー
VW、投資計画を全面的見直し…従業員に説明会

読売新聞 2015年10月07日 16時13分

 【ベルリン=井口馨】独フォルクスワーゲン(VW)のマティアス・ミュラー最高経営責任者(CEO)は6日、排ガス不正問題を受けて、投資計画を全面的に見直す考えを表明した。

 VWが発表した声明によると、ミュラー氏は従業員向け説明会で、今後の経営について、「財政面などでの見通しがまだ不透明。緊急性のない事業は延期するか、中止する」と述べた。「再生には痛みを伴う」とも発言した。

 ミュラー氏は、不正ソフトウェアを使用せずに、通常走行時の排ガスの有害物質を低減させることについて、「技術的な問題は解決できる」との見解も示した。

 説明会は本社のあるドイツ北部ウォルフスブルクの工場で開かれ、2万2000人以上の従業員が出席した。


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さて、問題となっているフォルクスワーゲンですが、このフォルクスワーゲンは元々NSDAP(国民社会主義ドイツ労働者党)とヒトラー総統が労働者のための車として開発したものでした。

☆「大衆車」の必要性を説いたヒトラー総統







そもそも、「フォルクス・ワーゲン」とは「大衆車」(国民車)という意味です。

ヒトラー総統は労働者でも買える大衆車を作りたいと熱望していました。

1933年2月11日にベルリンでモーターショーが開催されました。

その開幕式でヒトラーは「国民のための車を持つべきだ」と演説しました。倹約を行なっている人々に安価に車を提供することが目標でした。


「これからの国家の評価は鉄道ではなく、高速道路の長さで決まる。自動車が金持ちの階級のものである限り、それは国民を貧富の二階級に分ける道具にしかならない。

国家を真に支えている多くの国民大衆のための自動車であってこそ、文明の利器であり、素晴らしい生活を約束してくれる。我々は今こそ『国民のための車』を持つべきである。」


今でこそドイツは「自動車大国」ですが、ヒトラーが政権を取った時代は自動車保有台数も他の国々と比較して少なかったのです。

1930年
アメリカ・ドイツの人口比:2対1 アメリカ・ドイツの自動車保有台数:2300万台・50万台
この年のイギリスの自動車保有台数は100万台(人口比はドイツ3、イギリス2)



当時、アメリカでは世界に先駆けて大衆自動車が製造されていました。
フォード社が車の大量生産に成功し、今までの価格(1700ドル)の半分以下、850ドル(当時の価値)で車が買えるようになっていました。
これは、アメリカの一般労働者でも十分に手が届くものでした。




(量産車「T型フォード」)

フォードはドイツにも工場を作り、ドイツの自動車市場を席巻していました。

しかし、ドイツの労働者の賃金では、まだフォード車を買うことができませんでした。

それを見ていたヒトラーは「ドイツでも車が庶民の手に届くようにならなければならない。週末には家族でドライブができるようにならなければならない。」と思ったのでした。

☆ヒトラーとポルシェ

丁度、その頃、ヒトラーは若き技術者ポルシェと出会い、ある相談を持ちかけられます。


(フェルディナント・ポルシェ)

「小型大衆車を作りたいので、政府に支援してもらえないだろうか?」

という相談でした。

ヒトラーはこう答えました。

「よろしい。大衆小型車は国家的要請でもある。どんな援助でもしよう。しかし、この車はどんな車よりも性能が良く、頑丈で、しかも安くなければならない。」

スポーツカーブランドの「ポルシェ」を立ち上げたフェルディナント・ポルシェは、北ボヘミアの職人の家庭に生まれ、少年時代から電気技術に興味を持ち、大人になってからは最先端の産業である自動車メーカーに就職しました。

ポルシェはパリ万博で賞をもらったり、ソ連に招かれて技術指導を行うなど、名の知れた技術者でしたが、企業家としては未知数でした。

そのポルシェに対し、ヒトラーは国家的プロジェクトを任せました。

☆革新的だったフォルクスワーゲン

ヒトラーがポルシェに対して示した「大衆車」フォルクスワーゲンの条件は以下の通りです。

・最高時速100㎞
・100㎞走るためのガソリン消費は7リットル以下
・4~5人乗車可能
・空冷式
・価格は1千マルク以下


このとき提示された基本性能は、当時の車としては型破りの内容でした。

世界のモータリゼーションに革命的なインパクトを与えたアメリカのT型フォードは、安価をあくまでも追求した結果、機構的には極めて単純でした。

しかし、フォルクスワーゲンは、安価が第一の目標だったのに、機構的には極めて高級でした。

例えば「全輪独立懸架」(左右の車輪(車軸)を独立して上下させる機構)。そのころ「全輪独立懸架」の市販車などは、ほとんど見かけることはありませんでした。

このヒトラーの「フォルクスワーゲン(VW)計画」は、大戦後の世界の車作りを一変させることになります。


(ヒトラーが実際に描いたラフスケッチ)

ヒトラーはドイツの自動車工業のあり方や理想のエンジンについて独自の考えを持っていました。

参考までに、ヒトラーは側近に対してこう語っています。

「今までの我がドイツの自動車メーカーは、常にニューモデルを発表し、現在あるタイプを改装し改善を加えている。その結果、無数の数と種類のスペアパーツを作らねばならなかった。異なったモデルの部品の互換性がないからだ。 〈中略〉

……(このような事態を避けるために)将来、我々はドイツ自動車工業が、1ダースほどのモデルしか生産しないよう制限を加えるべきだ。

そして、自動車工業の第一の目的は、エンジンの単純化に置くべきである。より高出力な各種の新しい気筒を導入することでなく、標準の気筒の数を増大させて行なわなくてはならない。ダッシュボードもまた単純化すべきである。しかし、最も重要なやり方は、ある1つのエンジンが、病院車にも偵察車にも大砲の重牽引車にも使えるようにすることだ。 〈中略〉

私の考えている理想的なエンジンは、2つの特性を持っていなくてはならない。1つは空冷式でなければならない。2つめは分解と交換が容易でなければならない。後者の特徴は特に重要である。 〈中略〉 また、標準化を高度に進め、この理想のエンジンの生産も単純化することが必要なことも明白である。」


ヒトラーが「国民のための車」を提唱してから2年後、1935年に開かれたベルリン・モーターショーの開幕式で、ヒトラーは「大衆車」の誕生を予告しました。

「私は優れた技術者、ポルシェ博士とそのスタッフの努力により、ドイツの国民車が誕生の運びになったのを喜びたい。従来の中型オートバイより安く、しかも燃費の良い小型車をドイツ国民に贈ることが、将来必ず可能になるものと信じている。」

「フォルクスワーゲン計画」でポルシェ博士に提示した条件のうち、ヒトラーが最も固執したのは「価格」でした。
庶民の手の届く価格(1000マルク以下)であることに強くこだわったのでした。

しかし、1台あたりの販売価格をこれほどまでに抑えることは不可能に思われました。当時最も安い車でさえ1500マルクの時代です。
(このヒトラーの目標価格は、ディーラーの利益を除外した上での単純計算においても、達成困難な価格だった)

しかしそれでも、ポルシェ博士は熱心に仕事を続けました。
自分がずっと胸に描き続けてきた理想の小型車に挑戦できる願ってもない機会だと考えたからでした。

ポルシェと共に開発を進めていた「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」の主要メンバーは、「この条件を鵜呑みにしたならば、予定通りには事が進まない」と公言して、トゲのある冷たい言葉をポルシェに投げかけたのでした。

しかしそれは結果として、ポルシェ博士の情熱に油を注ぐことになりました。
(「RDA」の主要メンバーたちは、一設計者に過ぎないポルシェ博士に大衆車の設計・製作のイニシアティブを握られるという事実を苦々しく感じていました。)

☆入念なテスト

1936年春、ヒトラーのところへ電話がかかってきました。

「できました!」

ポルシェ博士の声です。

「総統のお望み通りの車が完成しました。どんなロード・テストにも耐えるでしょう。たとえ水のなか、吹雪のなか、炎熱の酷暑、どこへ持っていっても故障なし。そしてマス・プロ(大量生産)にすれば、値段もお望み通りのところまできます!」

この自信に満ちたポルシェ博士の言葉を聞いて、ヒトラーは思わず笑みをこぼしたと言われています。



早速完成したばかりの試作車「VW3」の走行テストが入念に行なわれました。


「VW3」の成功を望んでいなかった「RDA」でしたが、「RDA」のメンバーが「VW3」を徹底的にテストした結果、どこにも否定的な問題点を見い出すことができず、むしろ次の段階へと駒を進める必要が生じたのでした。


(5万kmにも及んだ厳しいテストに合格)

翌年、さらに改良を加えた試作車「VW30」が30台完成し、苛酷な走行テストが親衛隊(SS)によって大規模に行なわれました。

総計241万kmに及ぶ「VW30」の走行テストは、NSDAP親衛隊によって昼夜兼行で行なわれました。
これは当時としては異例中の異例とも言える苛酷なテストでした。この走行テストは国家機密とされ、一般人が撮影することは禁止されました。


(親衛隊による試験にも合格)

この苛酷な走行テストについて、日本航空学会会長の佐貫亦男氏は次のように語っています。


(佐貫亦男)

「VW30計画と称するフォルクスワーゲン実用走行試験の総費用は3000万マルク以上、すなわち価格950マルクのフォルクスワーゲン3万台分といわれる。

自動車史上これほどテストに費用をかけた前例はなく、今後もありえないであろう。普通はこの10分の1以下である。フォルクスワーゲンの欠点を除くための費用だけでも、通常の新車開発費に相当したという。」


またある自動車評論家は次のように述べている。

「この走行テストの試乗者は、ナチス親衛隊(SS)から200名が選抜された。わざと素人のドライバーを選んだのは、素人が運転して起こりうべきミスやその他の誤ちにも耐えうるかの試験をするためであった。テスト本部をコルンウェストハイムのSS営舎におき、1937年から1938年の冬にかけて、30台の車が一斉にスタートしたのである。それはまことに壮観といってもいいテストであった。

1台の走破距離が8万470km、従って、このテストでは241万4100kmが試乗されたのである。またこれまでに消費された資金は3000万マルクであった。おそらくこれほど大がかりな自動車テストというものは、古今絶無といってもいいだろう。」


☆技術者の情熱と政治家の情熱

フォルクスワーゲン開発では、ポルシェたち技術者が「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」の嫌がらせにも屈せず、新技術の開発に努めていたのと共に、政治家のヒトラーも情熱を注ぎました。

ポルシェ博士の息子フェリーは、自伝の中でヒトラーについて次のような印象を述べています。

「ヒトラーは一旦、興味を持ち始めると、基本的にもまた、細部についても、彼の理解力は驚嘆に値するほど速かった。

ナチズムそのものは、私の考え方とは真っ向から対立するものだった。けれども、人間の行動という点から公平に言うならば、ヒトラーの“ビヘイビア”(ふるまい)は正確そのものといわざるを得ない。特に、父に対する態度でみるかぎり、そう認めざるを得ないような気がする。

金ピカのにわか将官の側近連中とは違ってヒトラーは決して傲慢な態度をとらなかった。側近の多くはホウロウ材質で表面を幾分似せていたようだが、頭脳の中身はまったく異質のもののようだった。

ヒトラーは、決して、愚問を発したり、的外れの質問をしない。まったく逆だ。勉強には苦労を厭(いと)わないのだった。

だから、一生懸命になって父のフォルクスワーゲンを理解しようと努力していた。技術的に細部にわたって多種多様な質問をしてくるのだった。その質問は全て的を射ていた。ヒトラーは、ある箇所を変更させるつもりだったらしいが、それにもかかわらずメジャー・チェンジを提案しなかった。確かに質問の内容から判断して、技術的に細部にわたって相当研究しているように見えた。

さらに驚くべき点は、彼の記憶力の良さだった。ヒトラーの記憶力は抜群だった。彼の記憶力の良さには父も驚いてしまったほどだ。」


☆「フォルクスワーゲン社」成立と完成

やがて、ヒトラーは「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」の妨害やGM(アメリカ)といった海外企業の影響力を排除するためにポルシェたち技術者を「ドイツ労働戦線(DAF)」(NSDAP指揮下の労働組合統一組織)所属のプロジェクトチームにしました。


(ドイツ労働戦線旗)

そして、国有企業の「フォルクスワーゲン公社」が成立します。

その後も開発は着々と進み、遂に1938年に量産体制も整いました。

「大衆車」提唱から5年のことでした。


(1938年に開かれたベルリン・モーターショーで、「大衆車」の誕生を発表するヒトラー)


(「大衆車」を前にして、喜びをあらわにしながら語り合うポルシェ博士とヒトラー)



ヒトラーは「国民車」に「KdF-Wagen」(KdFワーゲン)という名称を与え、
「ドイツ国民のための全く新しい小型乗用車は、ポルシェ博士ら優れた技術者の英知と努力とによってここに完成した」と宣言しました。




結局、第二次世界大戦勃発によりフォルクスワーゲンの生産より軍用車の生産が優先され、ヒトラー総統の時代に大衆車が国民の手に届くことはありませんでした。

しかし、戦後にその価値を認めたイギリスの支援で民間企業の「フォルクスワーゲン社」となり現在に至っています。

このようにフォルクスワーゲンは政治家と技術者が情熱をかけて開発し、入念な安全試験を経て世に出たものだったのです。

今のフォルクスワーゲン社指導部は営利至上主義に走らず、創建の志に帰って、労働者のための安全な大衆車開発を行うべきです。


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