KIND OF BLUE

「苟に日に新たに、日日に新たに、又日に新たなれ」

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苦学の青春――教育者への道程

牧口は明治4年(1871年)6月6日(旧暦)、現在の新潟県柏崎市荒浜に、父・渡辺長松と母・イネの長男として生まれます。父・長松の消息が途絶えたため、6歳で叔母の嫁ぎ先であった牧口善太夫の養子となりました。
14歳のころ、荒浜と交流の深かった北海道に渡ります。小樽警察署の給仕として働きながら時間さえあれば読書・勉強する姿に、署員たちは「勉強給仕」と呼 び親しんだとも伝えられます。18歳で北海道尋常師範学校に入学するまでの苦学の体験は、教育の機会に恵まれない子どもや女性への目を向けさせ、その後の 女性向けの通信教育(大日本高等女学会)や半日学校制度の提唱へと昇華されます。
師範学校の卒業後は、同校付属小学校の訓導をへて、28歳の若さで同師範学校教諭兼舎監に就任。多数の教育論文を執筆し、若くして北海道教育会の評議員に選出、同会幹事になるなど北海道の教育界に将来を嘱望される存在となっていきました。
               
             明治26年、小学校の訓導に(2列目の右から3人目)

略歴・国家権力と対決した創価の厳父

明治4年(1871年)6月6日(旧暦)、新潟生まれ。北海道尋常師範学校卒。同校の教諭兼舎監を経て、約20年間、東京・白金尋常小学校など6校の校長 を歴任。「子どもの幸福」を目的とする慈愛の教育に徹した。1928年(昭和3年)、日蓮大聖人の仏法を知り、1930年(同5年)11月18日に「創価 教育学会」(創価学会の前身)を創立。教育改革、仏法に基づく生活革新運動へと展開した。戦時下、宗教・思想の統制 . . . 本文を読む

名誉会長との運命的な出会い

1947年(昭和22年)の8月14日夜、若き日の名誉会長は、小学校時代の同級生に誘われ、東京・蒲田での座談会に出席しました。胸を病み、体調の悪い中でしたが、“生命哲学の会合”ということに関心を抱き、参加したのです。 そこでは戸田第二代会長(当時は理事長)が『立正安国論』の講義をしていました。講義終了後、同級生から紹介された名誉会長は、第二代会長に「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「南無妙法蓮 . . . 本文を読む

七十五万世帯の誓願

そして翌年春には、事業の整理がなされ、事態に好転の兆しをみた上で、いよいよ創価学会第二代会長に就任することを決意。名実ともに広布の陣頭に立つのです。 会長就任の直前の51年(昭和26年)4月20日には、広布の言論戦のために、機関紙「聖教新聞」を創刊しています。 そして迎えた5月3日、多くの会員の推戴を受けて、第二代会長に就任。そのあいさつで、自身の誓願として、生涯のうちに75万世帯の折伏を達成する . . . 本文を読む

学会再建に奔走

45年(昭和20年)7月3日、第二代会長は、2年におよぶ獄中生活を終え、出獄します。日本の敗戦の1カ月半前のことで、東京は既に度重なる空襲で焦土と化し、悲惨な戦争のために民衆は苦しみにあえいでいました。しかも、軍部政府の弾圧で、幹部の多くが退転し、組織は壊滅状態でした。第二代会長は、ただ一人、初代会長の遺志を継ぎ、広宣流布を固く心に誓ったのです。 そのために、まず学会再建に着手した第二代会長は、 . . . 本文を読む