庭の烏瓜、頂いた石榴を素材にハガキ絵を描いてみました。
さて、構図、デッサン、彩色、どれがいいですかね。
そういえば、石榴坂の仇討、よかったな。浅田次郎の話は様式美にかなっているから映画にも馴染みやすいのかな。あんな風に人間の美を追求するかのような話が自在に描けるのだから参る。
さて、構図、デッサン、彩色、どれがいいですかね。
そういえば、石榴坂の仇討、よかったな。浅田次郎の話は様式美にかなっているから映画にも馴染みやすいのかな。あんな風に人間の美を追求するかのような話が自在に描けるのだから参る。
またまた老いて手すさび。
先駆けてオレンジ色の曼珠沙華
一点を雨に煙らせ藤袴
ゆらゆらと二対さまよう秋の蝶
雨を受け大葉に隠る酔芙蓉
雨の日の紫苑を囲む傘も花
土砂降りの雨の中から秋晴れ間
雨止みて二重の虹の橋架かる
佇めばみるみる増える蜻蛉かな
集いては良夜を待てり秋明菊
秋桜の僅かばかりの咲き始め
秋の蚊やあてどころなく寄る辺なく
虹の空をおまけに。かすかに上にも虹がかかっているのが見えるでしょうか。
先駆けてオレンジ色の曼珠沙華
一点を雨に煙らせ藤袴
ゆらゆらと二対さまよう秋の蝶
雨を受け大葉に隠る酔芙蓉
雨の日の紫苑を囲む傘も花
土砂降りの雨の中から秋晴れ間
雨止みて二重の虹の橋架かる
佇めばみるみる増える蜻蛉かな
集いては良夜を待てり秋明菊
秋桜の僅かばかりの咲き始め
秋の蚊やあてどころなく寄る辺なく
虹の空をおまけに。かすかに上にも虹がかかっているのが見えるでしょうか。
鮎を描いてみました。少し太めです。
魚といえば、芥川龍之介 俳句
「こがらしや 目刺にのこる うみのいろ」を思い出しますね。
龍之介の海はどんな海だったのか。ああ凩の海か!
魚といえば、芥川龍之介 俳句
「こがらしや 目刺にのこる うみのいろ」を思い出しますね。
龍之介の海はどんな海だったのか。ああ凩の海か!
どうもお見せするのもためらわれますが、気まぐれ俳句のおじさんしてます。
夕暮れの親父の居場所ビール置く
ミンミンや鳴いて魂置いてゐぬ
悔しさはバネに変えよと秋茜
秋風に夕餉をふふみ路地の裏
ミンミンの鳴き疲れてや生き倒れ
叱る親どこも一様夏過ぐる
夏休み孫外泊を企てる
夏草や語れば疼く頬の傷
目覚めては首筋の汗拭う閨
妻の留守冷やし中華の具の余る
秋麗や浅瀬の音の色めけり
遅蝉の未練に鳴くも力無し
ビリシャリと蝉の骸を潰しけり
迂闊にも青虫出でて蟻の餌に
虫すだく帷に潜む命かな
きっぱりと虫が届ける秋気配
寂しさに歌で紛らす秋の暮れ
久方に冷酒で蕎麦など女房と
秋霖や孫の寝息に耳澄ます
夏盛り孫の昼寝の小鼾か
長雨の止みてここぞとミンミンが
ポッツンと路上に蝉の骸あり
秋の夜の雨のしとどの永かりき
老いて尚燃え立つ盛夏ありにけり
厚顔と数で勝負でした。
夕暮れの親父の居場所ビール置く
ミンミンや鳴いて魂置いてゐぬ
悔しさはバネに変えよと秋茜
秋風に夕餉をふふみ路地の裏
ミンミンの鳴き疲れてや生き倒れ
叱る親どこも一様夏過ぐる
夏休み孫外泊を企てる
夏草や語れば疼く頬の傷
目覚めては首筋の汗拭う閨
妻の留守冷やし中華の具の余る
秋麗や浅瀬の音の色めけり
遅蝉の未練に鳴くも力無し
ビリシャリと蝉の骸を潰しけり
迂闊にも青虫出でて蟻の餌に
虫すだく帷に潜む命かな
きっぱりと虫が届ける秋気配
寂しさに歌で紛らす秋の暮れ
久方に冷酒で蕎麦など女房と
秋霖や孫の寝息に耳澄ます
夏盛り孫の昼寝の小鼾か
長雨の止みてここぞとミンミンが
ポッツンと路上に蝉の骸あり
秋の夜の雨のしとどの永かりき
老いて尚燃え立つ盛夏ありにけり
厚顔と数で勝負でした。
たまには面倒なことも!
問題解決型の思考
隣国との問題において、真実とか正義とかが前面に出、主張が平行線に終わるが、それは、いずれもが正当性の根拠として正義や真実を重視するからである。だが、大抵は互いに批判するばかりで水掛け論で終わる。その実態をなすのはメンツである。
考えるに、本来、何故正義や真実が問題になるかといえば、自己正当化のためである。そして何故自己正当化するかといえば、それが正義であり真実と信じるからである。しかし、本当に一義的な正義や真実といったものが、立場の違う関係の中にあるのだろうか。あるとすればそれはアウフヘーベンである。
そこで、問題解決型の思考からいえば、どちらに正義があるかではなく、如何したら互いに仲良く平和に暮らすことができるかが問題なのである。
その限りで真実や正義が問われるべきなのである。
そういう文脈で言えば、互いに平和のために議論していることを忘れて、非難の応酬となるのは本末転倒な話である。
前向き、ポジティブ、未来志向とは、そのような目的に従って考えていくべきだということを意味する。
歴史を学ぶのは、如何であったかではなく、如何すべきかを知るためである。如何すべきかに資する限りで如何であったかを問題にすれば足りるのである。
これは決して歴史を軽んじているのではない。寧ろ、抗争の具として歪めるなといっているのである。学ぶ意味を履き違えるなといっているのである。
誤解なきことを祈る。
問題解決型の思考
隣国との問題において、真実とか正義とかが前面に出、主張が平行線に終わるが、それは、いずれもが正当性の根拠として正義や真実を重視するからである。だが、大抵は互いに批判するばかりで水掛け論で終わる。その実態をなすのはメンツである。
考えるに、本来、何故正義や真実が問題になるかといえば、自己正当化のためである。そして何故自己正当化するかといえば、それが正義であり真実と信じるからである。しかし、本当に一義的な正義や真実といったものが、立場の違う関係の中にあるのだろうか。あるとすればそれはアウフヘーベンである。
そこで、問題解決型の思考からいえば、どちらに正義があるかではなく、如何したら互いに仲良く平和に暮らすことができるかが問題なのである。
その限りで真実や正義が問われるべきなのである。
そういう文脈で言えば、互いに平和のために議論していることを忘れて、非難の応酬となるのは本末転倒な話である。
前向き、ポジティブ、未来志向とは、そのような目的に従って考えていくべきだということを意味する。
歴史を学ぶのは、如何であったかではなく、如何すべきかを知るためである。如何すべきかに資する限りで如何であったかを問題にすれば足りるのである。
これは決して歴史を軽んじているのではない。寧ろ、抗争の具として歪めるなといっているのである。学ぶ意味を履き違えるなといっているのである。
誤解なきことを祈る。