永遠の呼び声

2011年04月24日 | Weblog
▼2011年4月24日・日曜の未明1時55分、宮城県の南三陸町から帰宅しました。
 4月22日金曜の朝に自宅を出発し、福島第一原発の破壊的な構内に入り、日本復興の拠点を目指す仙台市に泊まり、そして津波の激烈な襲撃を受けた南三陸町を歩くという足かけ3日の行程は、これでひとまずは終了しました。

『生還した』という思いが、ほんのすこしだけ、胸をよぎります。
 それは、ただひとつ切りの命を奪われた、あるいは行方が知れないままの、およそ3万の魂を思えば、あまりに大袈裟な感慨です。
 それを恥じつつ、癌の手術や何やらから退院して間がない体力が、ほんらいの4分の1も戻っているだろうかという現状では、いくらかはそう感じてしまいます。


▼まずは、こころを開いてぼくを迎えてくださった、さまざまなひとびとに、夜明け前の東京から深い感謝を捧げたく思います。

 福島第一原発の、名誉と栄光のためではなく、祈りのためのように黙々と責任を果たされている多くの作業員のかたがた、現場で仁王立ちになり最前線の責任をすべて一身に引き受けている吉田昌郎所長。
 息を呑む津波被害の荒野で、家族を探し続け、またみずからの人生再建のために耐えて戦う生活者のみなさん。
 一筋の光の差すような表情で、深甚な被害を詳しく教えてくれた佐藤仁町長、日本の政治家にも良心というものがあることを感じさせてくれた小野寺五典代議士、小野寺事務所の地元担当として被災者とともにある齋藤不可史秘書。
 ほんものの復興のために日本の役所の何が間違っているかを具体的に語ってくれた、地元の海を望む名門ホテル「観洋」の女将、阿部憲子さん。
 行方不明者のうち157人(4月23日現在)ものご遺体を、頭がくらくらするほどに膨大な瓦礫のなかから取り戻した、陸上自衛隊の第40普通科(歩兵)連隊の自衛官の清潔感あふれる将兵のみなさん。
 その連隊を率いる、こころ温かな中村裕亮大佐(一等陸佐という意味不明の名称ではなく、国際社会の常識のとおりに大佐と呼びます)。
 漁業への変わらない志で、ぼくをむしろ逆に励ましてくれた、宮城県漁協・志津川支所の漁師のみなさん。

 そして、仙台からはぼくに終始、同行してくれた山田亮ディレクター(インターネット・テレビ「青山繁晴.TV」の制作ディレクター)。

 それから、誰よりも何よりも、声も姿も喪ったまま気配でぼくに沢山のことを語ってくれた、死者の魂。

 感謝を捧げ、また、お騒がせしたことを深くお詫びしつつ、ぼくの、ささやかな責務を果たすために一命を捧げ切ることを、あらためて誓います。


▼写真は、もっとも胸に深く刻まれた現場のひとつです。

 ここは、南三陸町の役場があったところでした。
 ふつうの役場と、その隣に「防災庁舎」が建っていました。
 津波が襲来したとき、前出の佐藤仁町長は、およそ30人の職員と一緒に素早く、隣の防災庁舎に退避しました。

 そして防災庁舎の3階から、さらに屋上まで駆け上がりましたが、その高い屋上をも大津波はくまなく襲い、フェンスにつかまっていた職員たちは流され、さらわれて二度と還らず、たまたま高い鉄塔につかまった町長ら8人だけが生き残りました。

 ふつうの役場は、もう何も残っていません。
 コンクリートの土台だけが空しく、剥き出しになっていて、そこには滅茶苦茶に破壊された自動車や、遠い沖合の海から運ばれた漁具や何やかやが乗っかり、それらに女性のワンピースや、男性用のジャンパーなどが絡まりあっています。
 服は、民家のクロセットにあったような衣服だけではなく、着ていた人間から波が脱がせ、人間は裸にしてさらっていったのではないかという気配の服もあります。

 防災庁舎は、壁も窓も床も天井も喪われ、ただ赤い鉄骨だけが残り、そこに波がぶつけた、役場とは無関係のものが数えきれず、ぶら下がっています。

 そうしたさなか、防災庁舎の2階からは、「津波です、津波が来ます、早く逃げてください」と防災無線放送で町民みんなに呼びかけ続ける、若い女性の声がありました。

 南三陸町役場の危機管理課職員、遠藤未希さん、25歳です。
 そして遠藤さんは、そのまま波に呑まれていきました。いまだ還りません。

 ぼくは、強い雨のこの土曜日、その現場を5度、6度と訪れました。
 訪れるたびに、手向(たむ)けられた小さな花束を見つけました。
 そのうちのひとつ、白い花束が、写真の下にあるのが、みなさん、見えるでしょうか。
 遠藤さんの、みずからは逃げずに「早く逃げてください」と呼びかけ続けた声が、あぁ、聞こえるでしょうか。

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