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(田山幸憲プロを偲んで…かつてのネグラを訪問)
レトロなパチンコファンならば、良くご存知であろう故・田山幸憲プロ。
2001年の7月4日(ナナシーの日)に、残念ながら病により逝去されたが、氏のライフワークともなった「パチプロ日記」は、飾らない実直なスタイルで非常に魅力溢れる文体だった。
さて、この田山プロにまつわる「裏話」を、過日、さる方のブログで読む機会があった。
この「さる方」であるが、実は東上野の「パチンコ博物館」の館長氏である。現在は残念ながら閉館しているとの事だが…。
館長氏は、おそらく日本で一番パチンコ実機や歴史に通じておられるであろう、まさに「生き字引」として、私の尊敬している方である。
で、この(元)館長氏のブログで、田山プロについての興味深いエピソードが語られていた。
館長氏の語るエピソードと、自分が知る田山氏の話を重ね合わせると、次のようになる。
館長氏が高校生の時分、東京・三軒茶屋の某・パチンコ店で打っていた時期があった。で、その店の常連に、通称「3バカトリオ」と呼ばれる50過ぎのおっさんグループがいた。
彼らは、いっぱしのパチプロ気取りで、そのくせいつも負けてばかり…。挙句の果てに「電圧がどうたら」「コンピューターで操作された」云々の言い訳を、いつも飲んだくれて言い合っていたという、ただのパチンコ中毒だった。
で、その三軒茶屋のパチ屋(U楽)に、ある時田山プロが来たことがあった。実は田山プロ、事情で地元だった池袋を離れねばならず、新たなネグラを求めて新居から近い三茶をチェックしに来ていたのだ。平成5年(1993年)1月13日のことであった。
田山氏は、この「U楽」の羽根モノコーナーで釘の開いたビッグシューターを見つけ、見事に打ち止めまで持っていった。そして、条件的に悪くないこの店を新たなホームグラウンドにしようと期待した矢先、不意に背後から声を掛けられた…。
(C)橋野健志郎、伊賀和洋、小池書院
上の画像は、「田山幸憲パチプロ日記」という劇画のワンシーンである。悪態をついて田山プロを追い出そうとする、性質の悪い「U楽」の常連が描かれている。この男、必勝ガイドの読者だったのか田山プロのことを知っていて、自分のテリトリーに入らせまいと理不尽な言動を浴びせてきたのだ。
そしてなんと、実はこの劇画に登場する「酷い常連」こそ、パチンコ博物館の館長氏が高校時代に出会った、例の「3バカトリオ」のリーダーだった…というのだ。実に意外なエピソードである。
田山プロは、新しい地で優良店を発見したにもかかわらず、「人でなし」のような輩に邪魔された結果、三茶からの撤退を余儀なくされた。その後、二子玉川や用賀などの地を巡り、最終的に落ち着いたのが「溝の口」だった…。
田山氏に難癖をつける三茶の常連の話は、私も劇画を読んで知っていた。その酷い常連を、館長氏が高校生の当時からご存知だったとは、ホント驚きである。そして、「3バカトリオ」にまつわる裏話…他では絶対に知る事の出来ない、貴重なエピソードであろう。
まぁ、しかし、田山氏がこの一件で三茶のパチ屋をあきらめ、後に訪れた溝の口をネグラにした為に、「コウさん」という女性との哀しくも運命的な出会いがあった訳で…「人生のアヤ」というのは判らないものである。
只、あんときは今にしたら懐かしい思い出です。
近場の白鳥も逝きました
遊◯は私もパチンコで凌いだ初期に使わせて頂いたお店で大変残念でした。
花火の高設定を一週間据え置きとかのおみせ でした、当時7枚でしたが。
また田山プロはスーパーコンビを探してる途中に生前の田山プロを用賀のヒーノで目撃しましたわ
石原裕次郎がかけるようなグラサンをかけてナナシーを打ってました(笑)
かなり老けて見えたのが印象深いです。
合掌