シリア中部に位置し、「騎士の砦」を意味する名城クラック・デ・シュバリエは、
海抜750メートルの丘の上にあり、厚さ20mの二重壁と、厚さ約10mの7つの守備塔を
配置したことで難攻不落の城とも言われています。
エジプト・アイユーブ朝の創始者でイスラムの英雄であるサラディーンさえも
一時攻略を諦めたといわれるほどの城砦が、現在でもその美しさを保ち、
訪れるものを中世の世界へと誘います。
9世紀半ば、イタリアの都市国家・アマルフィの商人が、
エルサレムに巡礼者用の宿泊施設兼療養所と修道院を建設しました。
その後、これらの施設はフランス人騎士ジェラール・タンクらが継承し、
巡礼者に対する慈善活動だけでなく巡礼路の保安も目的とされました。
第1回十字軍でヨーロッパ勢がエルサレムを征服した後の1130年、
時のローマ法王パスクワーレ2世はこの修道組織を
「聖ヨハネ騎士団(聖ヨハネ病院騎士団)」として正式に認可しました。
キリスト教勢とイスラム勢が武力で争奪しあったパレスチナの地において、
聖ヨハネ騎士団は医療奉仕と貧者への施しを続けながらも、
次第に「聖地を守るキリストの戦士」という側面が強まりました。
堅固な城塞として知られるクラック・デ・シュバリエ等を保有して、
テンプル騎士団やチュートン騎士団など他の騎士団と共に、
パレスチナにおける武力勢力としての力を伸ばしていきました。
元々は1031年にシリア北部のアレッポの領主によって建築された
クラック・デ・シュバリエは、第1回十字軍時の1099年に
トゥールーズ伯レイモンにより落城しました。
その後、1144年にキリスト教軍の拠点であるトリポリ伯から
聖ヨハネ騎士団に譲られたことをきっかけとして、
彼らはこの城を要塞化し本拠地としたようです。
大規模な拡張を行い、城には60名以上の騎士と2000名以上の歩兵が
常駐していました。
ホールや礼拝堂を備え、5年間の包囲にも耐えれるように
城内には長さ120mの広大な食糧貯蔵庫、
さらに地下にももう1つの貯蔵庫が掘られました。
そして、秘密の地下通路を造り、いざという時のために備えていました。
彼らが城砦を拡張した時代は、ちょうどヨーロッパでは
ロマネスク建築からゴシック建築への移行期でもありました。
12世紀後半に北フランスで広がったこのゴシック建築は
ヨーロッパだけにとどまらず、中近東へも広がりを見せはじめました。
クラック・デ・シュバリエに残されるゴシック建築は、シリアで最も初期のもので、
当時としては中東ではかなり珍しい建築だったのです。
また、激戦地でもあったため、城壁を二重にするなど
ヨーロッパで建てられていた通常の城砦よりも強固に設計されました。
しかし、これほどまでに頑丈な城砦であっても、
ついにイスラム軍の手中に落ちるときがきました。
1271年4月8日、イスラム軍はこの城の唯一の弱点である南側を攻め、
外側の砦を崩したあと、城を明け渡すように記されたトリポリ領主からの手紙を、
伝書鳩に運ばせて城門を開かせ、そして一気に攻め落とし陥落させました。
後にクラック・デ・シュバリエはイスラム軍により改築され、
礼拝堂だった場所には新たにモスクが造られました。
しかし、騎士団が築き上げたクラック・デ・シュバリエには、
今でも当時の繁栄を思わせるいくつもの空間が残され、
1917年にこの城を訪れたアラビアのロレンスに
「シリアに残る十字軍の城の中で最も美しい」と絶賛させた、
その魅力を今でも我々に伝えてくれます。
(川崎 大地)
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海抜750メートルの丘の上にあり、厚さ20mの二重壁と、厚さ約10mの7つの守備塔を
配置したことで難攻不落の城とも言われています。
エジプト・アイユーブ朝の創始者でイスラムの英雄であるサラディーンさえも
一時攻略を諦めたといわれるほどの城砦が、現在でもその美しさを保ち、
訪れるものを中世の世界へと誘います。
9世紀半ば、イタリアの都市国家・アマルフィの商人が、
エルサレムに巡礼者用の宿泊施設兼療養所と修道院を建設しました。
その後、これらの施設はフランス人騎士ジェラール・タンクらが継承し、
巡礼者に対する慈善活動だけでなく巡礼路の保安も目的とされました。
第1回十字軍でヨーロッパ勢がエルサレムを征服した後の1130年、
時のローマ法王パスクワーレ2世はこの修道組織を
「聖ヨハネ騎士団(聖ヨハネ病院騎士団)」として正式に認可しました。
キリスト教勢とイスラム勢が武力で争奪しあったパレスチナの地において、
聖ヨハネ騎士団は医療奉仕と貧者への施しを続けながらも、
次第に「聖地を守るキリストの戦士」という側面が強まりました。
堅固な城塞として知られるクラック・デ・シュバリエ等を保有して、
テンプル騎士団やチュートン騎士団など他の騎士団と共に、
パレスチナにおける武力勢力としての力を伸ばしていきました。
元々は1031年にシリア北部のアレッポの領主によって建築された
クラック・デ・シュバリエは、第1回十字軍時の1099年に
トゥールーズ伯レイモンにより落城しました。
その後、1144年にキリスト教軍の拠点であるトリポリ伯から
聖ヨハネ騎士団に譲られたことをきっかけとして、
彼らはこの城を要塞化し本拠地としたようです。
大規模な拡張を行い、城には60名以上の騎士と2000名以上の歩兵が
常駐していました。
ホールや礼拝堂を備え、5年間の包囲にも耐えれるように
城内には長さ120mの広大な食糧貯蔵庫、
さらに地下にももう1つの貯蔵庫が掘られました。
そして、秘密の地下通路を造り、いざという時のために備えていました。
彼らが城砦を拡張した時代は、ちょうどヨーロッパでは
ロマネスク建築からゴシック建築への移行期でもありました。
12世紀後半に北フランスで広がったこのゴシック建築は
ヨーロッパだけにとどまらず、中近東へも広がりを見せはじめました。
クラック・デ・シュバリエに残されるゴシック建築は、シリアで最も初期のもので、
当時としては中東ではかなり珍しい建築だったのです。
また、激戦地でもあったため、城壁を二重にするなど
ヨーロッパで建てられていた通常の城砦よりも強固に設計されました。
しかし、これほどまでに頑丈な城砦であっても、
ついにイスラム軍の手中に落ちるときがきました。
1271年4月8日、イスラム軍はこの城の唯一の弱点である南側を攻め、
外側の砦を崩したあと、城を明け渡すように記されたトリポリ領主からの手紙を、
伝書鳩に運ばせて城門を開かせ、そして一気に攻め落とし陥落させました。
後にクラック・デ・シュバリエはイスラム軍により改築され、
礼拝堂だった場所には新たにモスクが造られました。
しかし、騎士団が築き上げたクラック・デ・シュバリエには、
今でも当時の繁栄を思わせるいくつもの空間が残され、
1917年にこの城を訪れたアラビアのロレンスに
「シリアに残る十字軍の城の中で最も美しい」と絶賛させた、
その魅力を今でも我々に伝えてくれます。
(川崎 大地)
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