地球浪漫紀行☆世界紀行スタッフの旅のお話し

(株)世界紀行・スタッフのブログです。ブログ・タイトル『地球浪漫紀行』は21年前からの弊社ダイレクトメール名です。

イランへ行ってきました!

2016年11月18日 15時52分20秒 | イラン

ご無沙汰しております。横倉です。

すっかりブログの更新が止まっておりました。。。

 

さて、先日、イランへ行ってまいりました!

 

イランは世界でも少ない、シーア派を信仰する方が多いお国。治安面も問題なく、安心してまわることができるお国です。遺跡も多く残っております。

中東三大遺跡の一つとも言われる、ペルセポリスでの一枚。

 

アケメネス朝の石窟墓・ナグジェロスタム

 

また、イランを訪ねたお客様からよく聞くのは、'親切な方、きさくな方が多くて驚きました'というお声です。

イスラム圏ではございますが、写真を撮ることに関して寛容です。むしろ、'撮って!!'というふうに声をかけられることが多いです。すれ違うたびに'ハロー'と声をかけられ、まちのバザールでも気さくに声をかけられ…学生さんからは黄色い声援が飛び…スターになった気分でした。

 

路上でざくろを売っていた店主さん(中央)とまちの方々。最初は店主さんだけの写真だったのですが、自分も写りたい、とやってきて、気づけば3ショットになりました。

 

シラーズのハーフェズ廟にて。幼稚園(3歳クラスでした)の課外授業での集合写真。皆さん緊張しています。

集中力が切れて、足をもじもじさせたりお喋りを始める子供たち、そしてそれを注意する先生…どのお国も同じですね。

 

イスハファンのチェヘル・ストゥーン宮殿近くの公園にも、課外授業中の子供たちがいました。こちらの3歳クラス。先生から手遊びを習っていました。

 

同じくシラーズにあるエラム庭園では、大学生がかつての宮殿のスケッチをしていました。

 

シラーズにある『ローズモスク』ことナスィーロルモルク・モスク。

陽の光が当たり、とにかく美しい。お薦めの時間帯は午前中です。

 

ヤズドでは、ヤズド名物のお菓子'GAZ(ギャズ)'の専門店にも行きました。

中はガラス張りになっており、GAZを切ったり、個包装にしている様子も見えました。

 

今回は14日の予定でしたが、乗継ぎした空港のトラブルにより飛行機を乗り継げず、ドバイで1泊。振り替えた飛行機の出発時間まで時間があったので、簡単なドバイ観光もお楽しみいただきました。

ブルーモスク

 

ヨットの帆のような形が印象的な5つ星ホテル「バージュ・アル・アラブ」。

 

世界一高いタワー(828m)「ブルジュ・ハリファ」

 

また来年以降、イランのツアーを発表予定です。

完成しましたら、弊社のホームページに掲載しますので、ぜひご覧ください。

 

そして!!!!

弊社パンフレット「地球浪漫紀行」11月号が完成しました!

来週明けから皆様のお手元にお届けできるかと思います。

気になるツアーなどございましたら、お気軽にお問合せください!

 

(横倉)

 

 

 

 

 

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マヤ最大の遺跡『エル・ミラドールEl Mirador』

2016年08月28日 03時06分36秒 | まとめてみました

世界最大のピラミッド『ラ・ダンタ神殿』を擁する マヤ文明最大の遺跡 《 エル・ミラドール

 

The cradle of Maya civilization ~ 発見

エル・ミラドールは、1926にメキシコ国境に近い低地グァテマラ北部・ペテン地方のジャングルで偶然発見されたマヤ遺跡です。1930年には航空写真でも撮影されましたが、一般に知られることはなく、30年代には大西洋単独無着陸飛行のチャールズ・リンドバーグを含め、たくさんのパイロットたちがこの上空を飛行しましたが、皆それを石灰岩の低地に出現した火山かと思い、驚きの報告をしています。あまりにもうっそうとした密林の奥深くに、しかもペテン低地地方の中でもさらに低い湿地帯(のちにミラドール低地帯と名づけられます)に位置していたため、1962年にハーバード大学のイアン・グラハムが部分的な発掘を行い、大ピラミッドをはじめ、この古代都市の輪郭が朧げにわかってきて地図が作られるまでは、ほとんど人々の関心を集めませんでした。エル・ミラドールは、ティカル観光の拠点フローレスの北100㎞の距離ですが道路は整備されておらず、現在も徒歩で2日間かけて、チクルの木(天然ゴム)や、マヤ古典期に貴重な栄養源だった高さ45mにも及ぶラモンの木(ブレッドナット)が生い茂り、メガネフクロウ、オオハシ(大嘴)、シマクマゲラ、クモザル、ホエザルたちが暮らす熱帯雨林を越えて行かなければなりません。

 遺跡の年代決定は研究者たちを悩ませました。当初はマヤ古典期の遺跡と考えられていました。問題は古典期(後250年~900年)の中でもそのいつ頃なのかということだったのです。古典期に先行する先古典期(前3000年~後250年:当時は形成期と呼ばれていました)には高度な神殿や洗練された建造物は造られていないというのが定説でした。グラハムたちは1970年にエル・ミラドールで集めた土器を調べ、その大部分がチカネル土器[注1]という先古典期を代表する土器であることは確認していました。しかしどうしても、パイロットたちが火山と間違えてしまうようなマヤ文明の記念碑的偉業ともいえる大建築群が古典期最盛期よりも700年から1000年も前に造られたということを信じることはできませんでした。それまでのマヤ研究40年の歴史において、先古典期の建造物として知られていた唯一の神殿は、1920年代にティカルの北部でカーネギー研究所が発見したワシャクトゥンの方形錐台ピラミッド(高さ8.3m)だけだったからです。1956年にティカル遺跡の初期の層を発掘していたペンシルベニア大学のコー教授は、その複雑さに戸惑い、「マヤ文明の形成はそれほど単純ではない。もっと遺跡の造形に注意を払うべきである。」と学会に警告を発していましたが注目はされませんでした。先古典期にその起源を持つマヤ古典期都市では、先古典期の建造物が全て神殿の下に埋め込まれ、基壇の築造や石材に利用されていたことがわかるまでにはまだまだ時間が必要でした。グラハムたちの悩みはその後、9年間続きます。そんな昔にマヤは組織的、芸術的、技術的頂点を達成していたというのか。何者かがどこからか先古典期の土器をこの低地帯に運びこんだのではないだろうか。結論は出ませんでした。

*[注1] 赤、黒、オレンジの単色スリップ土器。スリップとは、陶土に水を加えてトロトロに溶かした状態の粘土のことで、それを口の小さなジョウロみたいなものから流し出して絵を描く装飾法で作られた土器です。前300年から後150年頃に作られました。口縁部が大きく外反しているものが多いのも特徴です。

 1978年から約5年間にわたり詳細な調査が開始されました。1979年3月、エル・ミラドールの西のグループにある大ピラミッド「エル・ティグレ」の麓にあるジャガーの鉤爪の神殿を、古典期の建造であることと前提にして発掘を行っていたアイダホ州立大学のリチャード・ハンセンは、石膏で固められた神殿の基礎層にたどり着きました。そしてそこに床一面、何世紀にもわたって残されていた多数の壷の破片を見つけたのです。車輪を持たなかったマヤの人たちは移住する際に祭祀用の品と種子などを除き、ほとんどのものをその場に残して行くのです。それはチカネル土器でした。そして色と光沢の種類からすぐに紀元前2世紀のものだと判り、ついにジャガーの鉤爪の神殿が前2世紀にはすでに存在していたことが確認されたのでした。この瞬間、経済史、文化史、社会史、全ての面でマヤ文明の発展モデルは全体として間違っていたとハンセンは確信しました。マヤはゆっくりと段階的に洗練されていったという従来の考え方は誤りでした。「そのとき、私がこの事実を知っている世界で唯一の人間だと思った。」と後日、ハンセンは語っています。

巨大な建造物を持つこの都市が、ティカル、コパン、パレンケ、チチェン・イツァのような大都市誕生期とされるマヤ古典期のものではなく、それらよりも数百年も昔の先古典期のものだったというこの発見は考古学者たちを驚愕させました。このときの調査で、エル・ミラドールを中心に、現在ミラドール低地帯と呼ばれるエリア(グァテマラ・ペテン県北部とメキシコ・カンペチェ州最南部の一部。6410㎢。関東地方のおよそ2倍の面積。)に紀元前1000年から紀元後300年の間に、小規模のものを含め、少なくとも30の宗教都市遺址が存在していたことが確認されました。そこは《先古典期》の都市遺跡が集中して《低地》にあったことから、『マサ文明の揺りかご』と呼ばれるようになりました。

2003年から、アイダホ州立大学を中心に世界各地の52の大学や研究機関から約350人のスタッフが集められ、学術的な調査と保全対策が開始されました。資金集めに時間を取られ思うようにレポートをまとめられない中にあっても、その成果は、2008年8までに、474の報告書と168の学術論文として発表されました。この発表により、有名なティカルが(その起源は先古典期まで遡るとしても)最盛期は古典期後期の紀元後8世紀で、人口も6万程度だったことに比べ、エル・ミラドールが最盛期を迎えたのは紀元前3世紀であり、人口も20万を超える先古典期の大都市であったこと、そしてそこに古典期の全ピラミッドを凌ぐマヤ文明最大のピラミッドが存在したことが、欧米のテレビメディアによって大々的に取り上げられ、世界各地に大きな反響を呼び起こしました。現在までに、ハンセンが探査し位置を確定し発掘したミラドール低地帯の古代遺址は51に及びます。 

☆マヤ文明略史

先古典期前期・中期 [3000年~前400] 小都市の誕生、王権の成立。

先古典期後期 [400年~後250] 大都市建設、人口集中、大建造物の登場、三神殿型ピラミッド。代表都市:エル・ミラドール、ワシャクトゥン

古典期前期 [250年~600] マヤ文化の開花期(とされていた)、階段式ピラミッド神殿、マヤ長期暦、テオティワカンの影響。代表都市:ティカル、コパン、カラクムル

古典期後期 [600年~900] マヤ文化の絶頂期(とされている)、彩色土器など。代表都市:パレンケ、ウシュマル、キリグア、チチェン・イツァ

後古典期 [900年~1524]  衰退期。代表都市:トゥルム

 

 How old is Mirador ? ~ 歴史 

 エル・ミラドールの起源はわかっていません。炭素測定の結果、エル・ティグレから見つかった陶器(前1480年)や、近くのプエルトアルトゥーロ湖で見つかったトウモロコシ(前2700年)の報告もありますがどれも不確かです。少なくとも紀元前10世紀頃から人が住み始め、紀元前6世紀頃から都市として繁栄し始めています。そして30以上の都市から構成され、合わせて100万以上の人口が推測されるミラドール低地帯都市群の首都として、紀元前3世紀から紀元後1世紀にかけて最盛期を迎えました。特に建設のピークは前300年から前200年の間と考えられています。大建造物のその規模と広がりから必要とされた労働人口を基に判断すると、家族も含めた最盛期の総人口は約20万人と推定されています(テオティワカンの最盛期[4~5世紀]の推定最大人口をも上回ります)。当時の名称はカン王朝といいました。カンはマヤ語でを意味します。しかし、建設活動はその後、中断し、先古典期末期から数世代にわたり都市は放棄されました。時代を経てマヤ古典期後期になり、再び人が住み始め建設も再開されています。最終的にエル・ミラドールが廃墟となったのは、9世紀の終わり頃です。直径約6kmの市街区は、高さ10mから71mの幾つもの大建造物を含め、数千に及ぶ施設で覆われていました。ステラ(石碑)は数多く残されていますが、マヤ長期暦が刻まれていないため、絶対年代は特定できていません。

人口数のこの驚異的な上昇の鍵は、この地方にたくさんある窪地の存在です。それは雨季には沼地となります。熱帯雨林の土壌は雨によって洗い流されてしまうため、粘土質でほとんど栄養分を含んでいません。そこでミラドールの人たちは栄養分の豊富な数千トンの腐葉土を窪地から運び出し、人工的な農耕棚を造りました。この手法は、マヤ古典期における段々畑にも応用されています。トウモロコシ、カボチャ、豆、カカオ、綿、ヤシ、瓢箪など作物によって、加える石灰の量を変えて、アルカリの度数を調整する知恵も持っていました。栄養分が枯渇すると、また新たな腐葉土を運び込み、畑を再生しました。これらの方法で、先古典期のミラドール低地帯では生産性が高く持続可能な農業が実現していました。沼地が古代マヤ人をミラドール低地帯に呼び寄せたのです。

古代五大文明は、チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、黄河、インダス川、アムダリヤ川など大河の流域で生まれ、川の氾濫に対する土木工事の必要性が文明の成立の要件とされますが、もう一つその治水による大規模定住農業の成立余剰生産物の発生(生産力の向上)が欠かせない条件です。ミラドール低地帯では、窪地が大河の役割を果たしました。余剰生産力を持ったマヤ先古典期は、すでに部族制、首長制の社会から、階級制度や国家宗教を持つ複雑な社会へと発展していました。大ピラミッドのような歴史的記念碑的な建造物や洗練された都市構造だけでなく、文字、職業の分化、社会組織に至るまで大きな飛躍を見せていたのです。特に洗練された技術には目を見張るものがありました。金属工具を使わずに巨大な石灰岩の塊を切り出し、それを車輪なしに採石場から建築現場まで移動させる技術(古典期同様にエル・ミラドールでも金属器、及び車輪は存在していませんでした)。屋根を利用した雨水の貯水池や水槽への蓄積。柱、石材、漆喰を使い建てられた家々。解読が進んでいる古典期の神聖文字とは異なり、未だにほとんど解読できていませんが、かつては先古典期には存在しないといわれていた文字もあり、その文字や記号を使い、やはり未だに不可解なその歴史と文明を石碑に記録し、暦に時を刻みました(長期歴は未だ発見されていません)。

ミラドール低地帯に存在しない黒曜石、玄武岩、御影石などは外部から輸入していました。歯には翡翠や茶褐色の鉄分を含んだ石のインレーを詰めていました。カリブ海や太平洋岸で採れた貝殻でアクセサリーも作りました。耽美的であること優美であることは先古典期のマヤの人にとってたいへん重要なことでした。マヤの人たちは、大きな神殿から広場、家の床に至るまで、どこにも石膏を使いました。長い時間を掛けて石膏を厚く厚く塗り重ねました。殊に石膏に関して彼らは浪費や贅沢の誘惑に勝てませんでした。現代でいうところの見栄消費虚勢消費背伸び消費を繰り返していたのです。余剰のある高水準の文明ともいえますが、過剰消費は後にこの古代都市のウィークポイントになります。

 

 EL MIRADOR (The Lookout) ~ オリオン座のピラミッド

ミラドール低地帯には、巨大な階段状の基壇の最上部にさらに3つの頂上ピラミッド神殿をセットで持つ《三神殿型ピラミッド》[注2]と呼ばれる複合建築が数多く分布しています(推定36基)。その36基の中でも、特に巨大なものが、エル・ミラドールに3つ集中しています。東のグループにあるラ・ダンタ神殿、西のグループのエル・ティグレロス・モノスです。

「LA DANTA ~ 世界最大のピラミッド」

「ラ・ダンタ」とは、動物のバク(獏)の意味で、最も高い主神殿ピラミッドは71mに達し、ティカル4号神殿の65mを超えてマヤの遺跡の中では最も高く最大の建造物となります。それはアメリカ大陸で最も高いピラッミドであることを意味します。第1基壇(幅310m、奥行き590m)のアクロポリスの東側に第2基壇(幅190m、奥行き240m)があり、その広場のさらに東に第3基壇として三神殿型ピラミッドが配置されています。第3基壇の上に3つのピラミッド型神殿がある形で、4層構造を成しています。総体積は280万立方メートルで、質量的には、エジプト・ギザの大ピラミッド(クフ王のピラミッド)の1.15倍となり、世界で最も大きなピラミッドです。多くの考古学者たちが、ラ・ダンタの1.8ヘクタールに及ぶ人工的なこの第1基壇も計算に含めて、ラ・ダンタ神殿をピラミッドとしてだけではなく、世界最大の単独古代建造物として認めています。切り石の重量、及び発掘された9ヶ所の採石場との距離から計算して、この神殿をもし1年で造るなら、運搬だけで毎日最低41000人以上の労働力が必要となります。

                                              [ラ・ダンタ神殿]

化粧漆喰は残っていませんが、石材の表面には左右の耳飾りを付けた大きな仮面の彫刻が見てとれます。また小神殿の側面にはジャガーやハゲタカの頭部の彫刻が残っています。東側の急な側面に片持ち梁の木製の階段がつけられており、71m の最上部まで登れます。頂上からは360度、地平線まで広がるジャングルの緑が見事です。視界に恵まれれば遠くにナクベやカラクムルの遺跡が眺望できます。

「 EL TIGRE ~ 巨大な生贄祭壇」

「エル・ティグレ」は、の意味です。かつては支配者たちが人間や動物を神への生贄として捧げる祭壇として利用していたと考えられています。西のグループで最大の建造物で、西の端に位置します。本来は西のグループ全体がエル・ティグレの第1基壇を成しているのですが、サッカー場三面分以上の面積があり、考古学的な常識を遥かに越え、あまりにも広大過ぎる為、便宜上、本来の第2基壇をエル・ティグレの第1基壇とし、広大な本来の第1基壇は西のグループの都市域としています。エル・ティグレの第1基壇(本来の第2基壇)は、幅140m、奥行き145mで、全体の高さは55mです。この本体部分はラ・ダンタの第3基壇から上とほぼ同じサイズの3層構造です。ラ・ダンタ同様にその最高部はジャングルの木々の上に頭を見せています。ラ・ダンタの建造は丘の斜面も利用できたため、より高く作られていますが、建築上はエル・ティグレの方がより高度な技術が使われています。エル・ティグレとラ・ダンタ神殿とは東西に位置し、互いに正面を向かい合わせて建てられ、サクベ(白い道)で繋がっています。

エル・ティグレ本体下部に隣接するジャガーの鉤爪の神殿には巨大な仮面の漆喰彫刻があります(仮面がジャガーの鉤爪の耳飾りをしているため、「ジャガーの鉤爪の神殿」と呼ばれています)。ボーイング社から派遣された技術者が、ジャガーの鉤爪の神殿で最も繊細なこの仮面の漆喰彫刻を保護するため、紫外線を遮断し、雨を避ける通気性ポリカーボネートの屋根を設置しています。

 エル・ティグレの東側にある中央アクロポリスは、マヤ文明の全ての公共建築物の中で最古の中心市街地[ダウンタウン]です。広大な都市域に比べて小さな建物に囲まれ狭くなっていますが、本来は第1基壇上の建築群であることを考慮すべきでしょう。エル・ティグレの南に位置する「ロス・モノス」は、猿たちの意味で、この地区にたくさん集まるホエザルに因んで名付けられました。あまり知られてはいませんが、高さ48mでやはりたいへん大きい三神殿型ピラミッドです。西のグループの北の部分には「エル・レオン(ライオン・ピラミッド)」があります。エル・ミラドールとは、スペイン語で展望台(見晴し台)を意味していますが、それがマヤ時代の名称「カン王朝」とは異なるように、ラ・ダンタ、エル・ティグレ、ロス・モノス、エル・レオンすべて親しみを込めて付けらえたスペイン語での愛称です。

[注2] 三神殿型ピラミッド Triadic pyramid[トライアディック・ピラミッド]

単一の大きな階段状(ピラミッド状)の台座の上に、大きな主神殿ピラミッドと併せて、主神殿の前面2つの内側を向いた左右対称の神殿ピラミッド(脇神殿)が併設されている合計三基の神殿ピラミッド・セットを頂上に持つ二重構造のピラミッドマヤ文明先古典期後期にその多くが建設されました。代表的なものが、ティカル[注3]、ワシャクトゥン、パレンケ、ナクベなどに残されており、現在メソアメリカ[注4]全体で合計88基確認されています。最大のものがエル・ミラドールのラ・ダンタ神殿で、総体積ではあのティカル4号神殿の6倍ものサイズです。88基のうちの36基がミラドール低地帯にあります。2番目に大きなものはミラド-ル低地帯のエル・ティンタルです。現在のところ、紀元前300年よりも古い三神殿型ピラミッドは確認されていません。

現代のマヤのシャーマンたちからの聞き取り調査により、研究者たちは、この三点配置は「創造の火」を囲む天体の囲炉裏を表していると考えています。マヤの創世神話にでてくる、第4の世界の始めに古の神々が3つの「石」をおいて宇宙の囲炉裏を創ったという伝説です。マヤの人たちは、オリオン座の三つ星ベルトの下のM42オリオン大星雲を囲炉裏の火と考え、そして三つ星(ゼータ星、カッパ星、リゲル)を囲炉裏の周りの3つの炉床石と考えていました。この三神殿型ピラミッドもオリオン座そのものを表しいると考えられています。

      『エル・ティグレ』

       階段ピラミッドの最上部に主神殿ピラミッド1基と脇神殿ピラミッド2基の計3期が配置されています。

 *[注3]ティカルでは北のアクロポリスの奥の部分が紀元前2世紀に建造された三神殿型ピラミッドです。古典期にグランプラザ側に4基の塔が建てられネクロポリスに変わりました。先古典期にはこの三神殿型ピラミッドから『失われた世界』大神殿までその幅49mのサクベ(白い道)がありました。失われた世界の下にも先古典期の遺跡が眠っています。

エル・ミラドールのほとんどの建造物が切石で外面を覆われ、さらにマヤ神話の神々を描いた化粧漆喰で飾られました。また、あるグァテマラ人考古学者によれば、神殿など重要な建造物は、都市建設初期から、偶然とは考えられないほどに太陽の軌道に応じて配置されていて、最初の住民たちは当初から、聖域の重要性も考慮した都市計画を持っていたと思われます。

 [注4] 『メソアメリカ Mesoamerica 』  メキシコ中南部・中央アメリカ北西部において、共通的な特徴を持つ農耕民文化壮麗な神殿ピラミッドなどを現在も残す高度文明(オルメカ文明、サポテカ文明、テオティワカン文明、マヤ文明、アステカ帝国など)が繁栄した文化領域を指します。地理的には、北はメキシコ中部から南はコスタリカ北部太平洋岸までですが、各時代で自然地理的な領域は変動しています。

 

SACBEOB (The Causeways) ~ 白い土手道

  さらにエル・ミラドールのもう一つの特徴を挙げると、先古典期に建設された“道”の質の高さとその規模の大きさです。湿地を避けるために石で2~6mの高さにまで嵩上げされ、漆喰で舗装された“道”が、エル・ミラドール内部では重要な建造物同士を結び、外部ではミラドール低地帯の他の主要都市と繋がっていました。道幅は20mから広い場所では50mにも及びます。この“道”は、マヤの言葉で『サクベ(白い道)』と呼ばれ、マヤ古典期のものがよく知られていますが、地面を均し漆喰で舗装しただけの古典期の簡易舗装のようなものに比べ、ミラドールにおける先古典期のサクベは湿地帯に石を積みあげて浸水対策も行う大土木工事を伴うものでした。

現在、エル・ミラドールから12kmに位置する姉妹都市ナクベ(前1400年~前100年頃)までのサクベや、エル・ミラドールから20km離れた姉妹都市エル・ティンタル(前300年~前150年が最盛期。高さ44mの三神殿型ピラミッドを持つ。)までのサクベ、さらには、エル・ティンタルとナクベを結ぶ20kmのサクベが確認されています。エル・ミラド-ルからエル・ティンタルを経てナクベに至る計40kmのこのサクベは、屈折してはいますが同時期に同じサイズで造られており、これが現在までにメソアメリカで発見・発掘されている全サクベで最長のものです。ラ・ダンタ神殿とエル・ティグレの間も1kmの直線のサクベで結ばれ、平らにする為に1mから3mの高さに嵩上げされていました。ミラド-ル低地帯には世界初の高速道路(フリーウェイ)システムがありました。

舗装材はサスカブと呼ばれる漆喰で、細かくふるいにかけた乾燥粘土、有機化合物、石灰、粉砕石灰石を原料としています。そしてその比率はミラドールのどのサクベもほぼ同じで、明確な組織やルールのもとで“道”が造られていたことがわかります。ミラドールも車輪は持っていない社会でしたが、それでも“道”を造り続けました。より広くより長く、そして何重にもサスカブを塗り重ねて。

 

POPOL VUH (Original Maya myths)  ~ 水路の創世神話

 エル・ミラドールの建物の屋根や広場は、貯水池に雨水を集めるように設計されていました。そのため街の至るところに水路が張り巡らされ、エル・ミラドールの人たちは、その水路の側面も帯状の化粧漆喰で装飾していました。熱帯雨林地帯のミラドール低地帯は旱魃とは無縁に思えますが、1月から5月にかけては雨がほとんど降りません。膨大な人口を維持するには水がいつも不足がちだったのです。2008年にアイダホ州立大学の考古学の助教授、兼メソアメリカ調査研究所上級研究員になっていたハンセンはチームを率い、熱帯雨林における水回収ステムの調査に入りました。翌2009年、クレイグ・アーガイルという考古学専攻の学生が、中央アクロポリスで、マヤの神話、歴史、伝統を物語る『ポポル・ヴフ』が2枚の漆喰パネルに描かれた、前200年頃の水路を発見しました。ポポル・ヴフは、冥神との球技(ペロータ)で首を失った彼らの父、フン・フンアフプーを復活させるために冥界に旅立った神秘的な才能を持つ双子の兄弟の冒険譚です。これは、ナクベの石碑やサン・バルトロの壁画[注5]と並んでマヤ創世神話が描写された最古のものです(この2件も共にミラド-ル低地帯の遺跡ですが、エル・ミラドールで発見されたポポル・ヴフと比べて、描かれている内容がはっきりしたものではありません)。個人的な借金をしてまでミラドールの研究にのめり込んでしまったため、妻(元考古学者)と子供たちによって、修士論文が燃やされてしまったハンセンの情熱がここに実りました。「下水道でモナリザを見つけたようだった」というハンセンのコメントは当時話題になったので覚えていらっしゃる方も多いかもしれません。描かれているのは、ポポル・ヴフの主人公で、父の敵討ちを果たしジャガーの頭飾りを被って泳いで冥界から帰る英雄の双子・フンアフプー(兄)イシュバランケー(弟)です。フンアフプーは父親の首を背中に背負っています。その上には、「怪鳥巨人」悪神ブクブ・カキシュとおぼしき人面鳥獣のレリーフも見られます。ハンセンらが発掘したのは水路に沿って横に長い帯状の化粧漆喰パネルの一部(8m弱)であり、残りの部分は未だ土の下に埋もれていて、次回の大規模な発掘調査を待っているところです。現在、漆喰を雨から保護するために天井シェルターが作られています。

                                                  [フンアフプー]

[注5]放血儀礼などを描いたマヤ最古の壁画が発見されています。2001年の年代測定の結果、前100年頃のものとわかっています。フンアフプー(らしき人物)、トウモロコシ、怪鳥の図象や、文字が書かれていますがストーリーは不明ですし、ポポル・ヴフではないという意見も見られます。文字はほとんど解読されていません。

 ポポル・ヴフ神話がマヤ語で書籍化されたのは紀元後16世紀頃と考えられていますが、それよりも1800年も前にエル・ミラドールでは、その内容が後世と一致するポポル・ヴフ神話が芸術的にも素晴らしい漆喰彫刻で作られていたことになります。このことは、それまでのマヤ神話に対する一般的な見解を覆すものでした。マヤ創世神話「ポポル・ヴフ」と、旧約聖書をはじめとした旧大陸の創世神話の数々とでの類似性が認められるため、スペインのアメリカ征服以降、マヤ神話は、カトリック教会・スペイン人司祭たちの布教過程でキリスト教によって、ストーリーに手が加えられオリジナルから汚染されてしまっており、そもそもマヤ神話をスペイン人に語ったマヤの人たちに既にキリスト教が広がっており、その影響を受けてしまっていたと考えられていました。長い間、ポポル・ヴフ創世神話はオリジナルではないと教科書は教えていました。スペインの征服者コンキスタドールたちがやってくる1700年も前から、現在と変わらぬポポル・ヴフがあったという発見は、マヤ人の天地創造の記録のオリジナリティーに信憑性を与えてくれることになりました。

 

Death of Bayos ~ 大量消費社会の終焉

 エル・ミラドールとミラドール低地帯の街々は、紀元前300年頃から紀元前後にかけて大いに繁栄しましたが、考古学的調査によれば、紀元後150年頃までには低地帯の全ての都市が明らかに放棄されてしまっています。先古典期末期、ミラドール低地帯の都市群が放棄されるその少し前に、エル・ミラドールの西のグル-プは、北面、東面、南面に高さ3〜8m、長さ1200m以上の大きな壁を建築しています。これがマヤ最古の城壁と思われます。さらに西側部分は、高さ18.3mの外壁で囲みました。何らかの政治的または軍事的な脅威が迫っていたことが示唆されています。ハンセンのチームは、エル・ティグレの上部で、黒曜石のやじりが肋骨に刺さった骸骨を発見しています。都市崩壊時の外敵に対する最後の抵抗者の一人であった可能性があります。

都市放棄のもうひとつの要因が、森林伐採による土壌の流出です。マヤの人たちは、建物や、家や床に漆喰を使うことが大好きでした。そして前述したように道路建設にも必要以上に大量に漆喰を使いました。土器さえも化粧漆喰で飾りました。漆喰を塗ると表面が滑らかになり、装飾が容易になります。化粧漆喰を使い、マヤの人たちは驚くほどに美しい文物や、滑らかな壁のピラミッド、そして“よく舗装された”道を造ったのです。しかし良い面ばかりではありませんでした。漆喰の生産と消費が適度に保たれている間はよかったのですが、ある時期からそれは大量生産、大量消費へと移行してしまいます。漆喰の元になる石灰を作るには、石灰石を加熱加工するため、大量の木材を必要とします。計算によれば石灰1トンの生産には、石灰石5トンと木材5トンが必要でした。石灰石を加熱処理するには、一定の温度を保って焼く必要がありました。乾いた木材では急激に温度が上がり過ぎるのです。水分を含んだ成長中の木を燃料にするのが最良の方法でした。マヤの人たちは、枯れ木は使わずに利用可能な緑の木々をことごとく切り倒していきました。

ミラドール低地帯の窪地とその周辺の調査により、森林伐採の影響が明らかになっています。遅くとも紀元後100年頃から、木々が消え始め、土壌が緩み、地盤の粘土層が雨季に雨で流され窪地に流入してしまっていたのです。農耕棚で利用していた栄養豊かな腐葉土は、痩せた粘土の数メートル下に埋葬されてしまったのでした。持続可能だったはずの農耕はこうして終焉を迎えました。それはエル・ミラドールに飢餓をもたらし、エル・ミラドールの社会を崩壊させました。広いメソアメリカの中で、極度にミラドール低地帯にのみに集中してしまった人口と建築が森林破壊を早め、飢饉を誘発してしまったのです。先古典期末期の壁の建設も、食料を巡る争いが理由だったのかもしれません。

ミラドール低地帯の住民たちは、ここを離れた後、まずカリブ海沿岸に移住し、その後、再び内陸に戻りエル・ミラドールの北(現在のメキシコ・ユカタン半島最南部)に、後6~7世紀に都市国家カラクムルを築いたと推測されています。カラクムルはエル・ミラドールの南にあるティカルの強力なライバルになりました。エル・ミラドールは先古典期にカン王朝として知られていました。古典期カラクムルの正式な名称はチイク・ナアブですが、カラクムルの歴代の王たちは自らを「チイク・ナアブの君主」とは名のらずに、「カンの君主」と称していました。栄誉ある太古の称号だけ利用したのか、それとも血統的にもミラドールの後継者なのかは不確かではありますが、カラクムル最大の一号建造物が同時期のティカルの神殿群よりもミラドールのラ・ダンタ神殿に類似していることも興味深いところです(かつてはテオティワカン文明の影響ということだけで片付けられていました)。

古典期後期、紀元後700年前後に再び、エル・ミラドールの一部に人が住み始めます。しかしその人口規模は小さく、活発な建築活動は行われず、先古典期の巨大な遺跡の間に小さな建物をいくつか建てただけでした。最大のものでも高さ8mに満たない大きさです。先古典期の建物の多くは破壊され、建築資材や石灰の原料として利用されました。しかしながら、古典期後期のエル・ミラドールの人たちの芸術的才能は注目に値します。クリーム色の下地に黒い線で神話や歴史上の出来事が描かれた《写本土器》と呼ばれる彩色土器がたくさん見つかっています。エル・ミラドールでの再定住の時代は長くはなく、900年頃までには都市は再び放棄され無人となり、それ以降、二度と人が住むことはありませんでした。

 

Classical Antiquity ~古典古代としてのエル・ミラドール

 サクベがマヤ全体で道路網として整備されたことは歴史上なかったので、マヤには一度も統一国家の要素はなかったと21世紀になっても書いている人がまだいますが、この意見は完全に否定されました。古典期の2大都市・ティカルとカラクムルの間にサクベがなかったこと(対立抗争関係にあったのですから当然といえば当然ですが)を理由にマヤ文明は統一した国家を持たなかったという以前の定説の根拠は完全に崩れました。エル・ミラドールは、45以上のミラドール低地帯の都市群を統合し、メソアメリカだけにとどまらず西半球において組織的な統治機構を持った最初の国家だった蓋然性が高いとハンセンは考えています。それは今まで考えられていた時期よりも1000年も前ということになります。限定された産地の産物を求めて都市間交易が活発になったのも古典期の特徴の一つとされていました。古典期ティカルの交易品として黒曜石、ケツァールの羽根、翡翠、蜂蜜などが知られていますが、ミラドールで見つかっているものとほとんど変わりがありません。

一般的にもエル・ミラドールを『マヤ発祥の地』と評することも多くなってきました。“マヤ文明の揺りかご”というミラドール低地帯の枕詞はそれを象徴的に示しています。以前は先古典期の期間を、マヤ文明の最盛期(マヤ古典期)を準備した時期として、マヤ形成期と呼んでいましたが、エル・ミラドールの発見以降、古典期(マヤ文明最盛期)から見た『古典の時代』にあたる期間として肯定的な評価に変わりました。「先古典期」という概念は、古典期に先んじた助走期ではなく、古典期にとってさらに規範となる時代「古典期から見た古典古代」という意味に変容してきています。ですが、ただそれだけなのでしょうか。

 徐々にわかってきた上述の内容を整理し、エル・ミラドールの特徴を列挙すると、

農地棚を造り、土地の滋養を高める手法(古典期の段々畑に引き継がれている)。

石灰の製法やそれを利用した土地改良など科学的知識。

大ピラミッド広大な基壇など古典期を凌駕する建築群。

天体に関する知識とそれに基づく都市建設、神殿建築。

⑤大規模な集水システム

金属を使わずに巨大な石を切り出す技術と車輪なしで大きな石材を運搬する技術(この技術が完成していたがために古典期になっても金属器や車輪が発明されなかったと推測される)。

⑦古典期を上回る大規模で高水準なサクベ(白い道)。及び、そのネットワーク

⑧太平洋岸など遠方との交易

⑨芸術への強い志向と過剰消費

⑩質の高い化粧漆喰。水路も全て覆うなど古典期よりも徹底したその利用。

⑪聖域の配置を意識した都市計画やサクベのネットワーク化などから推測される高度な統治機構の存在。

⑫ある程度、体系化されていたと考えられるマヤ創世神話

文字(古典期の神聖文字と類似する部分もある)の使用と(長期暦は今のところ無い)の作製。

といった点があげられます。

 1960年代までは古典期以前を、マヤ文明の形成期と呼び、文字の発明を古典期の始まりとしていましたが、上述の事実により、現在は共に取り消されています。そうすると一つの仮説が成り立ちます。まず、建造物その他の規模から考えて、エル・ミラドールの方が古典期の各都市よりも社会的経済的に強力であったことが推測されます。長期にわたり大土木工事に取り組める統治組織の存在とそれを実行できる経済的な基盤があったわけで、(低地帯内関連都市群を含め)エル・ミラドールこそがマヤ文明の一つのピークであったと考えることができます。トウモロコシの品種改良が最初に成されたのが起源前3000年頃の中米で(これが先古典期の始まりですが)、カボチャやマメの栽培とともに比較的に短時間で中米各地から南米各地に広まりました。同様にコロンビアやエクアドルなど南米北部で同じ頃、作られるようになった土器も南米各地、中米各地に瞬く間に広がります。必要とされる文化の伝播は想像以上に早いのです。しかし後にアンデス地方で始まったラマやアルパカなどラクダ科動物の家畜化=牧畜文化は、ついに先古典期のマヤに取り入れられることはありませんでした(熱帯雨林の特性として下草が少ないということもありますが近くには乾燥したグァテマラ高地地方があります)。これは先古典期のマヤが余剰食料を抱える高い生産力を持っていたことの逆説的な裏づけになります。そしてエル・ミラドールの崩壊により、サクベやピラミッドの建造の技術、段々畑の農業の知識などを持った人々が、神話や装飾などマヤ文化を携えて、グァテマラ各地やメキシコ南部・ユカタン半島に散らばって行き、カラクムルから最終的にはコパンやチチェン・イツァで、いわゆる「古典期」と呼ばれる時代を築いていったとも考えられます。

古典期各都市の経済規模はエル・ミラドールに比べるとやや小ぶりであったため、ピラミッドやサクベのサイズも少し小型化し、エル・ミラドールを超えることはありませんでした。一方、エル・ミラドールのような一極集中ではなく、いくつもの都市が並立していた古典期は、競合だけでなく必然的に交流も生まれ、そこから新たな文化も生み出していきました。長期暦はその代表ですが、そこで刻まれている破滅と再生には、エル・ミラドール崩壊の民族としての記憶が重ねられているのかもしれません。フンアフプーとイシュバランケー神話の後日譚であるトウモロコシ再生の物語も(後日譚であることも含めて)暗示的です。古典期におけるピラミッドの形態の変質に関しては、テオティワカン文明の影響が以前から指摘されているとおりです。古典期神聖文字や長期暦以外の主だったマヤ文化を生み出したエル・ミラドールという大都市文明の崩壊が、メソアメリカにマヤ文化領域を拡大させるという形をとり、各地方での地域性を育みながら古典期は開花しました。分散しているのですから当然、交易も活発になります。マヤ古典期は気候に恵まれ徐々に経済発展していったのでもなく、もちろん自然発生的に突如として各地に現れたのでもなく、エル・ミラドールという「マヤ世界帝国」が崩壊した結果として出現した乱世の文明期=小国乱立の戦国時代であった、このように考えると合理的に説明がつきます。先古典期当時は小規模であったとしてもエル・ミラドールの時代から存在してきた伝統国家・ティカルと血統の正当性を主張するカラクムルの二大都市が、合従連衡を繰り返し、覇権を争った時代、それが古典期だったようにも見えてきます。両都市がエル・ミラドールの南北にそれぞれ隣接していることも示唆的です。これはあくまで素人の机上の空論ですので、実際には研究者にお任せしましょう。

 

 カラクムル

高さから見たマヤのピラミッドTOP10

1:エル・ミラドール / ラ・ダンタ神殿(71m)        6:ティカル1号神殿(51m)

2:ティカル4号神殿(65m)                          7:カラクムル1号建造物(50m)

3:ティカル5号神殿(57m)                          8:エル・ミラドール / ロス・モノス(48m)

4:エル・ミラドール / エル・ティグレ(55m)        9:カラクムル2号建造物(45m)

5:ティカル3号神殿(54m)                         10:エル・ティンタル[ミラドール低地帯](44m)

*ミラドール、ティカル、カラクムルのエル・ミラドール周辺3地区でTOP10を占めてしまいます。ユカタン半島勢がでてきません。このことからもミラドールの発見前と後で、どれだけマヤ文明の俯瞰図が変わったのかがわかります。(参考:テオティワカンの「太陽のピラミッド」は65m )

  

Preservation & Conservation ~ 研究者たちの取り組みとエル・ミラドール観光

 考古学者たちはティカルでの遺跡修復の失敗に学び、エル・ミラドールでは神殿群を覆う木々を除去しないことを決めています。昼夜の大きな気温差からくる石の衰弱を 最小限に迎えるため、日陰を残す必要があるからです。また、遺跡内部に根を張った植物の成長も止めなければいけません。

現在、ミラドール低地帯の26遺跡で保全措置がとられ、うち14遺跡のみが研究対象となっています。ハンセンのチームはラ・ダンタ神殿の壁の崩壊を防ぎ安定化させるために3年の時間を費やしました。ミラドールの考古学者たちは文明の過去に光を当てる仕事よりも、崩壊から遺跡を維持する作業にもっぱら時間を取られてしまいます。25(未発見のものを考えるとそれ以上)の遺跡が放置されています。保全措置がとられる頃には、もうすでに遺跡泥棒たちにより略奪されてしまっている可能性があります(現在もブラックマーケットでミラドールの彩色土器が高値で取引されています)。2003年以来、カリフォルニアに本拠地を置く非営利団体グローバル・ヘリテージ・ファンドが、エル・ミラドールをコロンビアのロスト・シティ、東トルコのカルス、カンボジアのバンテアイ・チュマール、リビアのキュレネ、インドのハンピなどとともに、『危機に瀕している12の世界的遺産』にリストアップし、貴重な古代都市の保護活動に取り組んできました。

ハンセンたち考古学者は、略奪を物理的な力で防ぐのではなく、農民たちの暮らしの向上に努めることにより解決しようとしています。そのためには、ミラドール低地帯におけるシステム全体を保存が必要だと考えています。ハンセンや世界の自然保護論者たちは、ミラドール全体を道路のない自然な状態で維持する宣言をグァテマラ政府がしてくれることを期待しています。住民が密漁や遺物の略奪、決して長くは継続できない森林伐採などで生活するのではなく、この古代都市がエコツ-リズムを誘致してくれることを期待しているのです。産業化は短期的には利益をもたらしてくれるかもしれませんが、長期的には道路建設や牧草地化などにより野生生物の生息地の破壊が引き起こされ、生態系が損なわれてしまいます。外国からの木材の需要が高いのは確かですが、森林の伐採よりも大きな経済的利益の可能性に期待しています。経済的にメリットがあり、環境も保全される方法が必要なのです。道路を造らず自然のままにしておくことを政府が宣言さえれば、車で遺跡まで直行するのではなく観光客は地域社会に依存した旅行をせざるを得なくなります。彼らは地元の工芸品、サンドイッチ、ソフトドリンク、ビールを買い、小さな宿屋で睡眠をとり、地元のガイド、コック、ラバを雇うでしょう。ハンセンたちは、オールスパイス(百味胡椒)、フラワー・アレンジメントで使うテーブルヤシ、バスケット用の籐、チューインガムの原料のチクルの木など再生可能な植物産品の収穫によって、持続可能なミラドールの森の利用も支援しています。かつての遺跡泥棒たちをも遺跡の警備員として雇い、発掘のために雇われた住民には文字教育を行い、パソコン教室も用意しました。地元住民の観光ガイドとしてのトレーニングも進めています。ミラドール低地帯の将来は、最終的には地元の人々や地域社会に依存していると考えているからです。これが、エル・ミラドールには道路がなく、観光するにはキャンプ泊をしながら大人の足で徒歩片道二日(5泊6)のジャングル・ハイキングが必要な理由なのです[注6]。

いくつかの基金がハンセンたちの活動をサポートしており、俳優のメル・ギブソンも数億円の資金を拠出しています。エル・ミラドールは現在、北部グァテマラ熱帯雨林21000㎢のほんの一部であるミラドール=リオ・アズール国立公園に含まれています。国立公園に指定され保全環境を整え、2010年、初めてエル・ミラドールは一般に公開されるようになりました。現在、年間の訪問者数はおよそ2000人から3000人の間です。

しかし残念ながら、この国立公園もメキシコ国境沿いの狭い帯状のエリアのみで、51を数えるミラドール低地帯古代都市遺址の内、せいぜい4つをカバーしているだけです。またミラドール低地帯には、多様な蘭を含む300の植物種、5種類の山猫など多くの絶滅危惧種を含む200の動物種が現在、確認されており、かつての「マヤ文明の揺りかご」は現在、メソアメリカの「生物多様性の箱舟」になっています。古代遺跡の保護はその自然の保全と平行して進められています。

*[注6] 密林のハイキングは、旅らしい旅とも言えますが、時間的にも体力的にも困難を伴います。弊社のツアーではヘリコプターで片道30分日帰りでエル・ミラドール(ラ・ダンタ神殿、エル・ティグレ、ポポル・ヴフの帯状石膏パネル、ジャガーの鉤爪の神殿など)の見学へご案内します。ペリコプター費用のうち200ドルがミラドール保全基金に回されます。

(注:英語版ウィキペディアも少し参考にしましたが、ウィキペディアでは、エル・ミラドール単体[狭義のエル・ミラドール]とミラドール低地帯および低地帯内の先古典期諸都市も含めた広義のミラドールを混同している記述が多く、また本来の第1基壇にあたる中央アクロポリスも含めたエル・ティグレ(西のグループ)と、第2基壇からのエル・ティグレ神殿本体も同様の混乱した記述となっているため、かなり注意が必要です。また、ウィキペディア上で数多くあった明確な間違いは分かる限り訂正していますが、ウィキペディアに引きずられ、不正確になってしまった部分があるかもしれませんことご了承ください。各種文献で未だ該当する日本語が無い地理用語、歴史概念、歴史用語については、研究者ならば英語、スペイン語の表記をそのまま使うところですが、なにぶん素人のため最も適当と思われる日本語を勝手に当て嵌めております。)

© ㈱世界紀行 文:湯田菜都美

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もう一つのプリトヴィツェ 『ラストケ Rastoke』

2016年07月25日 00時20分40秒 | クロアチア・スロベニア

クロアチア中央部・スルーニ市の古い地区は『ラストケ』と呼ばれ、保存状態の良い水車群とスルニチツァ川の絵のような滝で知られている村です。「スルニチツァ川」はここで、プリトヴィツェを水源とする「コラナ川」と合流しています(プリトヴィツェから33km)。

マラ・カペラ山脈を水源とする「イェセニツァ川」は、わずか6kmだけ地表を流れ、その後、地底に潜り、カルスト台地の下を20kmにわたり流れた後で、スルーニ郊外6.5kmの場所で、「スルニチツァ川」と名前を変えて地上に現れます。スルニチツァ川はコラナ川と合流する場所で、幅500m、長さ200mにわたり、石灰棚の自然のダムを形成しています。ここがラストケ村です。印象的なこの石灰層は、スルニチツァ川が地下を流れているときに蓄えられた大量のカルシウムの堆積物です。ラストケもプリトヴィツェ国立公園と同じく、堆積した石灰によって形成された自然のダムが幾つもの滝をつくっています。そのためラストケは、しばしば「小プリトヴィツェ」と呼ばれています。両者はコラナ川によって繋がっています。

ラストケの石灰棚は、上ラストケ下ラストケに分けられます。石灰棚には、様々形状の小さな滝、急流や滝つぼがあり、特に「下ラストケ」には、スルニチツァ川からコラナ川に落差10~20mで流れ落ちる「23の滝」があります。中でも有名な滝は、ブク滝フルヴォイェ滝ヴィリナ・コサ滝(妖精の髪の滝)などです。 

プリトヴィツェと比較したとき、ラストケの特徴的な点は、まずその『自然環境』です。冷たいスルニチツァ川と暖かいコラナ川の大きい水温の差で常に霧が発生するこの土地は、コケ、キノコ、ポプラ、柳など植生も豊富で、かつてはアナグマやカニの姿も見られました。は古くから有名です。現在でも石灰棚の穴にカワウソが棲息しています。ラストケのレストランでは、オドヤクと呼ばれるローストポークや、ヤニェティナと呼ばれるラム肉など地元料理の他に、スルニチツァ川で獲れたばかりの鱒も提供しています。

2つ目が、その『素晴らしい自然と人類の文化・技術との共生』です。代表例が、スルニチツァ川とコラナ川の合流点に作られた、数世紀の歴史を持つ数々の水車です。全ての家々や水車はこの地域の独特なスタイルで、石灰棚に沿って建てられています。住居は、その高い部分は木材でできていますが、下の方は高濃度な石灰岩を利用して造られているため、川の水位が上昇しても浸水の心配がありません。水車は最盛期には22を数えました。最古のものは17世紀にまで遡ります。住宅が建設されたのが19世紀末なのにです。各水車にはそれぞれ所有する粉ひき屋の名前がそのまま付けられました。そして現在は、水車があるそれぞれの滝も同じ名称で呼ばれています。水車には複数の石臼があり、最上級の臼は白トウモロコシや小麦の粉ひきに、それ以外の臼で、黒トウモロコシやライ麦を挽き、また羊毛の毛布を生産し、この地区の経済発展に貢献してきました。水車の動力は洗濯にも利用されました。自然と人間の文化が共生しているラストケは、美しい風景だけではなく、文化人類学的にも貴重な場所となっています。

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トルコ共和国文化観光省よりお知らせ

2016年07月22日 21時50分03秒 | トルコ

送られてきたので一応貼っておきます。


 

 

各位

【非常事態宣言に関するトルコ共和国文化観光省よりお知らせ(2016722日)】

 2016 年 7 月 21 日より今後3ヵ月間トルコ全土に発令された非常事態宣言は、国民の権利と自由に対する脅威に対し政府が保護介入する目的で、治安対策を強化するため、憲法条令の範囲内で 適用される一連の警戒対策です。 

同警戒対策は、基本的人権と自由を制限する条項を含むものではありません。適用される治安 対策は、トルコ国民の日常生活、トルコへ訪問される旅行者とその休暇に影響を与えるものではなく、国際ツーリズム活動や航空機の運航に関して何ら障害をもたらすものでもありません。 トルコの全てのデスティネーションでお客様が安心して過ごしていただく上で懸念を抱かれる様 な状況はございません。

http://www.tourismturkey.jp/pressrelease/TurkeyNR_20160722.pdf

トルコ共和国大使館・文化広報参事官室

Turkish Embassy Office of The Cultural and Information Counsellor

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2-33-6

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Nice says メルシー.

2016年07月20日 20時10分23秒 | 海外からのお便り

 

 ニース観光局からメールです。

*********************

皆さんからの数え切れない励ましと愛情をいただき、

私たちは、ニースを以前にもまして、世界一美しい街にすることを心に決めました。

言葉で励ましを伝えていただいた方、文章で寄せていただいた方、

そして想いを寄せていただいた皆様に申し上げます。

ありがとう。

Nice(注1) was struck at its heart by the cowardly, barbaric and unspeakable act which has left a large number of victims and broken destinies, on the Promenade des Anglais(注2) on the evening of Bastille Day(注3).

Since this tragedy, we have received thousands of messages of affection and support from all over the world, some anonymous, others from professionals telling us the special place Nice holds for them in their hearts.

Every one of these messages, every word has touched the heart of the people of Nice, and every word makes us stronger, provides us with a crutch to lean on to get back on our feet and continue to promote this amazing, welcoming city, the symbol of a gentle French lifestyle.

In spite of the pain, anger and sorrow, we are determined, more than ever, to show that Nice remains one of the most beautiful cities in the world.

And for all these messages of affection and support, whether written, spoken or even thought, Nice says MERCI.

(注)

1.もちろん、ナイスnice ではなく、ニース

2.イギリス人の散歩道(ニースの海岸プロムナード)

3.パリ祭

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世界紀行パンフレット「地球浪漫紀行」最新号完成!

2016年07月01日 15時01分11秒 | その他

こんにちは、横倉です。

7月に入り、いよいよ夏到来ですね。

本日は半夏生です。

先日スーパーへ行ったところ、「半夏生」のポスターが大きく掲示され、タコのセールが行われていました。

なぜタコ?と思い調べたところ、このようなお話がでてきました。

'昔は田植えの時期は4~5月ではなく、春の冷えを避け、収穫時期と台風が重ならないよう、夏至~半夏生の間に田植えを行っていました。

そして、田植えが終わった半夏生の頃に、タコの豊作を祈りタコを食べるようになりました。なぜタコなのか、それはタコの足を稲(吸盤は実)に見立てたからといわれています。'

元々は近畿地方の一部での風習と聞きました。日本でも住んでいる地域によって文化・風習が本当に異なりますね。日々勉強、と改めて思いました(近畿地方にお住まいの方、そんなの常識でしょう、とお思いの方、お目汚し申し訳ございません…)。

北海道にはあまりこのような習慣がないから他の地区の習慣が受け入れられ易いのでしょうか。お店に行くと季節の節目毎にそれまでなかったような行事のポスターが掲示されることがここ数年増えている気がします(節分の恵方巻きなど)。

 

話は脱線しましたが、先日、弊社パンフレット「地球浪漫紀行」が完成しました!

 

【新コース】

・10月19日発「アラゴン王国の旅~スペインで最も美しい町とスペインで最も美しい村」 11日間

・11月1日発「世界自然遺産・小笠原諸島の旅」 6日間

・12月3日発「ナガランド『ホーンビル祭』とインパールの旅」 8日間

・10月19日発「コモドドラゴンに出会う フローレス島・コモド島の旅」

 

★日程につきましては、弊社㈱世界紀行ホームページをご覧ください★

http://www.sekai-kikoh.net/

 

また、こちらのパンフレット掲載の8月4日発「トスカーナの優雅な休日」は、既に催行決定となっております(ホームページにも掲載中です!)。

お申込みもまだ間に合いますので、お問合せをお待ちしております!急遽夏休み休暇がとれた、という方必見です!

 

順次発送も行っておりますので、来週には皆様のお手元にもお届けできるかと思います。

催行決定間近のツアーも増えてきておりますので、気になるツアーなどございましたら、お気軽にお問合せください。

 

(横倉)

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モラ展示会のご案内

2016年06月09日 17時35分25秒 | パナマ&モラ

今月末から来月上旬まで、景山先生モラ教室によるモラの展示会が開催されます。

モラとは、何枚もの布を重ねた布に刺繍や穴をあけ、下の布地の色を出し縫い上げていく、パナマの先住民族・クナ族の伝統刺繍です。

クナ族の文化や歴史、自然をモチーフに、一つの作品に様々な手工が施されています。

札幌にお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいませ。

 

 

日時:2016年6月28日(火)~7月2日(土)

時間:10時~17時(最終日は16時まで)

場所:札幌市中央区北1条西3丁目 札幌時計台ギャラリー3階 D・E・F室

入場無料

 

(横倉)

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アラゴン王国の歴史

2016年05月29日 01時15分56秒 | まとめてみました

 

                                            (テルエル/サルバドールの塔)

 

 先週、スペイン・アラゴン州の旅行会社の方が来社されて、

10月に予定している『スペイン・アラゴン王国の旅』の打ち合わせを行いました。

現在、パンフレットを作成中なのですが、その中で、

中世アラゴン王国の簡単な略年表を作成しましたので、下にも記載しておきます。

アラゴン州観光局によると、「アラゴンの魅力は寛容性と多様性」とのこと。

たったこれだけの年表からも感じ取れます。

 

 

714年

わずか3年前にイベリア半島に侵入[711年]したイスラム教徒がピレネー山麓に到達。キリスト教徒はピレネー山中に逃避。

イスラム教徒はアルバラシン、ダローカ、テルエル、サラゴサ、アルケサルにアラゴン地域の拠点に構える。

 

8世紀中頃

キリスト教徒の反撃開始。ピレネー山中のテナ谷などで、モサラベ様式の教会建築が始まる[~11世紀]。

 

1035年

アラゴン北西部にて、ハカを都アラゴン王国が誕生。同時期にアラゴン北東部では、アインサを都ソブラルベ王国が誕生(後にアラゴン王国に併合)。

ハカ、アインサ両市を拠点に本格的レコンキスタ(国土回復運動)の開始。

 

11世紀後半

アラゴン北部でフランスから導入されたロマネスク様式[~15世紀]の建築が始まる (サン・ファン・デ・ラ・ペーニャ、ハカ大聖堂、ロアーレ城など)。

 

1096年

レコンキスタの南下に伴い、ウエスカに遷都

 

1118年

レコンキスタのさらなる南下でエブロ川に到達。サラゴサに遷都

 

12~13世紀

アラゴン王国が最盛期を迎えるシチリアの晩祷事件[1282年]でシチリア王を兼ねるなど゛、ギリシャ・アテネから、南イタリア・ナポリ、シチリア島、サルデーニャ島、南フランス・モンペリエ、プロヴァンス、コルシカ島、マヨルカ島、カタロ-ニャ、バレンシア、ナバーラまでを治めるアラゴン地中海帝国が誕生する。

アラゴン南部に残ったアラブ職人によるムデハル様式の建築が始まる[~15世紀] (テルエル、サラゴサ、ダローカなど)。

 

1479年

カトリック両王の結婚によるアラゴン王国・カスティーリャ王国の統合より、スペイン王国が誕生。

 

 *ムデハル様式*

レコンキスタ(国土回復戦争)の後、12~14世紀にイスラム教徒の装飾技術とキリスト教徒の建築技術が独自に融合した建築様式です。スペイン側の要望に応じて、当時「ムデハル」と呼ばれたキリスト教徒支配地域に残ったアラブ人職人たち(改宗しモリスコと呼ばれました)によってあみ出されました。特にアラゴンではレンガ造りの鐘楼が特徴的で、釉薬をかけた陶製タイルを使い、想像力を駆使して装飾されています。テルエルやサラゴサ等、アラゴン州のムデハル建築群は世界文化遺産に登録されています。

 

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モーリシャスの旅

2016年05月20日 11時55分50秒 | セイシェル・モーリシャス

こんにちは。横倉です。

今年も大通ではライラック祭りが始まりました。

 

さて、3月(もう2ヶ月も前ですね…)はもモーリシャスに行ってまいりました。

最近よくTV番組でも取り上げられています。

 

モーリシャスは16世紀までは無人島でした。

その後、ポルトガル人が『到達』し、オランダ、フランス、イギリスが入ってきます。フランス領時代(イル・ド・フランス)には労働力の確保のために奴隷制度が作られたという悲しい過去もありますが、1992年3月12日に共和国として独立しました。

 

 

 面積は約2045平方キロメートル(東京と同じくらいの面積)。小さな国です。まだあまり日本人の観光客の方がきていない場所ということもあり、ツアー中はバックパッカーの方を含め、日本人とは会いませんでした。

島ということでマリンスポーツをする方向けと思う方も多いかもしれませんが、泳がない方もぜひ訪れていただきたい場所です!

 

まずは、ヘリコプター遊覧。写真はお客様からご提供いただきました。

中央の山は、世界遺産の一つであるル・モーン山です。

 

 

 

シャマロンでは、不思議な地質を持つ、七色の大地へもご案内させていただきました。

場所によって土の色が異なり、お天気によっては七色に見えることからこのように名付けられました。

今はしっかりと管理され、ここかた土を持ち出すことはできないため、実際に試すことはできませんが、研究者の方がこの土の違う色同士を集めて混ぜたところ、数ヶ月経つと、不思議なことに土が分かれ、同じ色同士になったそうです。

同じ敷地内で飼育されているゾウガメ。セイシェルからやってきました。

テーマは『ゾウガメたちの井戸端会議』です。どんなお話をしているのでしょうか。

 

また、ヒンドゥー教の聖地であるグラン・バッサンにも行きました。

私たちが訪れた前の日にヒンドゥー教のお祭りがあったため、周りはまだお祭りの飾りつけの跡が残っていました。

モーリシャスのヒンドゥー教の方にとって、ガンジス川に変わる最も神聖な場所です。

 

モーリシャスは入植者として入ってきたヨーロッパ系の方と労働者として上陸したインド系、アフリカ系の方々の子孫(クレオール)が多いため、信仰している宗教は様々です。

町を歩いたり、通過ですると、だいたいの町にはヒンドゥー教寺院、教会、モスク、仏教寺院の内2つはあります。両施設ともあまり離れてはおらず、モスクの1ブロック先に教会がある、という町も少なくありません。学校も基本的に宗教関係無く通っています。お互いの信仰にはあまり干渉せず、同じ町で暮らしているようです。

 

ポートルイスのショッピング街。傘の飾りつけが可愛らしいです。

また、こちらでは自由時間をお取りさせていただき、ご希望の方でブルー・ペニー博物館のご見学をお楽しみいただきました。

丁度出発の数日前に某TV番組でも取り上げられていた「幻の切手」を見学。写真撮影不可のため写真はありませんが、運よく原本にライトが当たる時間に訪れることができました。

幻の切手は、なんと1枚6億円!日本の切手収集家としても知られる金井宏之さんから寄贈されたものです。

 

さて、来週からウェールズに行ってまいります。

次の旅の報告はもう少し早くアップしたいと思います。

(横倉)

 

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それはオトラルで始まり、それはオトラルで終わった。

2016年05月14日 22時58分25秒 | 砂に埋もれたシルクロードの歴史

ユーラシア大陸征服に挑んだ二人の皇帝と

            シルクロードのオアシス都市オトラルのお話し        ㈱世界紀行添乗員:湯田菜都美

①草原の覇者

 一般に世界史史上の四大遠征と言われるものがあります(やや西洋人の色眼鏡が架かってはいますが)。アレキサンダー大王『東方大遠征』、神聖ローマ皇帝フリ-ドリッヒ・バルバロッサ(赤髭王)イングランド王リチャード獅子心王に代表される『第3回十字軍』モンゴル帝国チンギス・ハン『西方大遠征』、そしてフランス皇帝ナポレオン『モスクワ遠征』です。中でも最も長期間で長距離にわたる遠征が、チンギスハンによる西征です。では、彼のその大遠征はどのようにして始まったのでしょうか。

オアシス都市・オトラル 

 シルダリヤ河中流北岸(現カザフスタン南部)に位置するオトラルには、1世紀から2世紀頃に初期集落が造られ始め、遅くとも8世紀初頭には、城壁に囲まれた広大な街区と、周辺の灌漑農地からなる典型的な中央アジアのオアシス都市が、ソグド人やトルコ系住民を中心に形成されました。唐での呼称はわかっていませんが、古くペルシャでは、パーラーブ、またはヤルサルテスファーラーブと呼ばれており、ソグド人はタールバンドと呼んでいました。ヤルサルテスとはシルダリヤ河のことです。オトラルは12世紀に西遼(カラキタイ)の支配下に組み入れられます。

ホラズムシャー朝と西遼

 ホラズムシャー朝(ホラズム国)は、中央アジア・アラル海の南方・ホラズム地方の首都[旧]ウルゲンチ(=クフナ・ウルゲンチ、現トルクメニスタン)を中心に栄えたトルコ系イスラム教国です。ウルゲンチ(現クフナ・ウルゲンチ)は当時、メルヴに次ぐ中央アジア第2の都市でした。第7代王スルタン・ムハンマドの世に最盛期を迎え、南方では、西アジアの大国アッバース朝の都バグダッドにも攻め込み、アフガニスタンからイラン、ペルシャ湾からカスピ海に及ぶ広大な領土を獲得しました。東方では、1210年、シルダリヤ河を越え、西遼(カラキタイ)からオトラルを奪取し、母方の義弟をオトラル総督(知事)に任じました。その後、アムダリヤ河とシルダリヤ河に挟まれたシルクロードの要地トランス・オクシアナを支配し、首都をサマルカンドに移します。

 12世紀に中国で、女真族金王朝を建国)により滅ぼされた遼朝耶律大石は西天山山脈に逃れて、1132年シルダリヤ河北岸に仏教国・西遼(カラキタイ)を建国します。ホラズム国によるオトラル占領後、オトラルは仏教圏イスラム教圏東ユーラシア民族トルコ民族文化境界線上の街になりました。 

モンゴル帝国の中央アジア進出

 北方では、遊牧民のテムジンモンゴル高原の征服事業をつづけ、1206年、モンゴル族のクリルタイ(大会議)にて、チンギス・ハンの称号を受けます。モンゴル帝国の誕生です。

 モンゴル帝国建国後、チンギス・ハンは1208年に初めて中央アジアに登場しますが、この頃のモンゴル帝国はまだ無名で、主な支配地も辺鄙なモンゴル高原に限られていました。ホラズム王スルタン・ムハンマドは当初、辺境の国モンゴル帝国を軽んじていました。チンギス・ハンは、1203年に、金王朝の都・中都に来ていたホラズム国の交易使節団と会っています。チンギス・ハンはすぐにこの西方の国に興味を示し、使節団を派遣しました。ところが、使節団に謁見したホラズム王スルタン・ムハンマドは、チンギス・ハンに対し自分の家臣になるよう要求を告げたのです。中央アジアの大国ホラズム国の王スルタン・ムハンマドにしてみれば、統一されたばかりのモンゴル帝国は文化後進地帯の、取るに足らぬ新興国の一つに過ぎなかったのです。

 チンギス・ハンは、北東諸民族との抗争が一段落つくと西に目を向け、1218年西遼を併合します。その結果、オトラルはモンゴル帝国ホラズム国国境最前線の街になります。このときホラズム王スルタン・ムハンマドは、初めてこの北方の国に警戒心を持ちました。

オトラル事件

 1218年秋、チンギス・ハンが友好を求めてホラズム王に派遣した450人からなるムスリム商人(イスラム教徒)を中心とする通商使節団が、ラクダ500頭に中国の金、銀、絹を積んでオトラルに入城した時、オトラル総督は、義兄であるホラズム王スルタン・ムハンマドに報告し了解を得た上で、使節団に密偵の嫌疑をかけ逮捕。金品を強奪し、インド人ラクダ使いただ一人を除いて、全員を虐殺してしまいます。これが歴史上重要な『オトラル事件』です。虐殺されたのは、町を通り過ぎていく通常の隊商隊ではありません。モンゴル帝国の正式な通商を求める使節団です。生き残ったラクダ使いの話を聞いたチンギス・ハンの怒りは凄まじく、復讐のため天の助けを得るべく三日三晩、祈祷を続けたとされています。しかし、すぐに復讐に出ることはしませんでした。正規の外交手続きを踏み、オトラル総督の引渡しと賠償金を要求する抗議使節をホラズム王に派遣しました。しっかりと筋を通したのです。しかしこの使節団も、二名を除き殺害されてしまいます。当時の東アジアの国際慣例でも使節は殺してはいけないことになっていました。しかしオトラル総督やホラズム王は使節団の財宝の多さに目が眩んでしまったのだというのが、後の元朝側の記述です。歴史は常に勝者の物語なのですが。

 髭を剃られる辱めを受けて、戻った二名の使節から報告を受けたチンギス・ハンは、遊牧国家の最高政治大会議クリルタイを開催し、「血には血を、牙には牙を。オクソス河をホラズム人の血で真紅に染めよ。」との大命を下しました。オクソス河(オクサス河)とはシルダリヤ河の南、アムダリヤ河のことです。チンギス・ハンは臣下の提言を受け入れ、冬のアルタイ山脈超えを避け、翌夏の出兵を決めます。そしてできた時間を大量の投石器や火砲を作る準備に充てたのでした。いよいよチンギス・ハンの西征が始まります。

 「偶然起きたオトラル事件がチンギス・ハンを仇討のために西へと向かわせた」「このとき、中央アジア、西アジア、そして東ヨーロッパの運命は決まってしまった」「もしも、この事件が起きなければ、チンギス・ハンの中央アジア遠征もなく、歴史は変わっていたかもしれない」「この事件が広大なユーラシア大陸の地図を一変させた」「オトラル総督の所為で、中央アジア、西アジア、ロシア、そして東ヨーロッパまでもがモンゴル軍により徹底的に破壊、征服された」「肥沃の都サマルカンドも、残虐な殺戮と破壊にあうこともなく穏やかで平和な都であり続けたであろう」等々、幾度も幾度も様々な表現で、『モンゴル帝国西方大遠征のオトラル事件原因説』が語られることとなります。

 本当にそうなのかは、さておき、何れにせよ、恐ろしい指導者に率いられた大軍が、西方に向け解き放たれたのです。そこに暮らす人々にとっては災難以外の何ものでもありません。クラコフのラッパ吹きの命運も尽きました。歴史上最大の殺戮歴史上最大の破壊が始まってしまったのです。

ホラズム側から見たオトラル事件

 ホラズムシャー朝(ホラズム国)シルクロード交易の仲介で栄えた国です。富をもたらす交易商人をむやみに殺したりはしません。通商使節団を送るなど表面上は友好的ですし、このときのチンギス・ハンには敵意は感じられないように見えます。ところが、その使節団をオトラル総督は殺害してしまうのです。モンゴル帝国の友好の証を、ホラズム国が踏みにじったです。後に明らかになるモンゴル帝国の圧倒的軍事力を考えたとき、後代の私たちの目には狂気の沙汰に映ります。 

 使節団殺害を実行したオトラル総督は、気骨ある勇敢な人物でした。後のモンゴル軍の包囲戦の際、首都サマルカンドがわずか5日で陥落したのに対し、総督自ら守備隊の将を務めたオトラルは5ヶ月も持ち堪えたのです。兵や市民の絶対的な支持があったからです。逃亡する機会もありましたが、忠実に自らの責務を全うしました。そのような人物が、私利私欲や一時の感情に左右され、使節団を殺したとは考えにくいのです。しかし、ホラズム王スルタン・ムハンマドは使節殺害を命じ、オトラル総督は実行しました。それは、警戒心を抱きはじめていた隣国モンゴル帝国から、使節団として送り込まれた連中が、サルト商人だったからです。団長ただ一人がモンゴル人でした。

 古代より中央アジアのシルクロードを支配してきたのがソグド商人で、彼らが7世紀後半の『ムグ山の戦い』でアラブに破れ、ザラフシャン同盟(ハンザ同盟の西トルキスタン版)の盟主を始め、組織として壊滅的な打撃を受けた後、広範囲にその利権を継承したのがサルト商人でした。サルト人とは主にイラン系イスラム教徒のオアシス定住民のことで、ときにトルコ系住民も含まれます。チンギス・ハンの時代には遊牧民に対するオアシス民の総称としても使われていました。ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否したソグド商人に対して、サルト商人イスラム教徒であり、中央アジアから西アジアまでイスラム世界の内情にも長けていて、シルクロードを旅する中で、様々な情報を持っていました。それらの情報に基づき、早い段階からチンギス・ハンの将来性を買い、モンゴル帝国に取り入っていたのです。シルクロード商人が長大な東西交易路で儲けるには、山賊対策も含め、交易路の安全を担保してくれる軍事力を持った後ろ盾が必要です。長いシルクロードを安全に往来するには、その軍事力は強大なら強大なほど良いのです。それまで、サルト商人はホラズム国の庇護下で交易を営んでいたのですが、商人の嗅覚がモンゴル帝国を先物買いさせ、チンギス・ハンの取り巻きになったのです。

 チンギス・ハンはシルクロードの交易を保護したことでも知られています。残忍な征服者チンギス・ハンは、実は経済にも通じていました。大帝国は軍事力だけでは築けません。モンゴル帝国は遊牧騎馬民族国家であり原則、牧畜という自給自足経済で成立しています。また騎馬民族なので略奪行為も可能です。金品を手に入れるために、わざわざ隊商を保護する必要はありません。アラブ侵入以前の中央アジアでは、遊牧騎馬民族・突厥とソグド商人の間で隊商の保護絹の献上のような相互依存の関係が成り立っていました。しかし、後述するようにチンギス・ハンは経済には明るくても、金品などの富には無関心だったのです。サルト商人の交易路を保護する代わりに、チンギス・ハンが得ていたものは他国の情報でした。サルト商人は隊商の立場を利用し、各国の各都市で宮殿や城、城主の館などにも入り込み、情報をチンギス・ハンに報告していたのです。チンギス・ハンの軍事作戦は緻密な計画に基づいていました。現代戦にも劣らない徹底した情報収集から始め、情報分析した上で、敵を圧倒する戦力で一挙に攻め入ります。残虐な攻撃性と勇猛さ、騎馬民族の機動性だけで勝利していたわけではないのです。そして、情報収集の手先となって活動したのがサルト商人でした。チンギス・ハンの目となり耳となっていたサルト商人は、まさにモンゴル帝国の諜報機関でした。

 ホラズム国から見れば、寝返ったサルト商人は裏切り者です。しかも同じイスラム教徒なのにです。当然ですがスルタン・ムハンマドは、ソルト商人に対して非常な敵意を持っていました。確かに450名は正式なモンゴル帝国の通商使節団ではありましたが、同時にチンギス・ハンのホラズム征服計画のための大スパイ団でもあったのです。そして、ホラズム国の側も当然それをわかっていました。ホラズム国の取りあえずの選択肢は、全員を永久に逮捕抑留するか、処刑するかしかありませんでした。勾留してチンギス・ハンから釈放の圧力を受け続けるくらいなら、処刑を選ぶしか他に手は残されていなかったのです。使節団を返せば情報が漏洩する、返さなければ攻撃の口実を与えてしまう。チンギス・ハンの王手飛車取りにホラズム国は詰んでいました。以後始まるモンゴル帝国によるユーラシア大陸での大虐殺の責任は、決してオトラル総督にあったわけではありません。スルタン・ムハンマドも、国を破滅させた無能な君主ではなく、義弟オトラル総督と共に的確な危機察知能力を有していたのです。ただ、モンゴル帝国とチンギス・ハンの力を見誤っていたのです。情報さえ漏れなければ、数で圧倒するホラズム軍に戦いを挑まないであろうと。オトラル事件はきっかけには違いありませんが、オトラル事件が起ころうと起こるまいと、チンギス・ハンは広大な西方の国々の征服に挑戦するつもりでした。陸地が続く限り馬を駆り、地の果てまで進むつもりだったのです。

オトラル包囲とホラズム征服

 1219年ホラズム侵攻を始めたモンゴル軍は、9月にオトラルに到達。チンギスは『オトラル包囲戦』を息子たちに任せ、自らはホラズムの中心部、ブハラとサマルカンドの攻略に向かいます。オトラルは5ヶ月の包囲戦の後、陥落します。城壁は破壊され、女子供を問わず住民は斬殺されるか、『ブハラ包囲戦(1220年)』のための「人間の盾」として連行されました。モンゴル帝国の悪名高い大殺戮の始まりでした。進軍を開始したモンゴル軍は、その数15万から20万。迎え撃つホラズム軍の兵力は40万。数ではホラズム軍が圧倒的ですが、何分、質が伴いませんでした。チンギス・ハンに絶対服従と忠誠を誓い、熾烈なモンゴル統一戦争を勝ち抜いたモンゴル軍に比べると、西アジア各国を支配したホラズム軍は混成軍であり、寄らば大樹の陰で集った将兵たちに忠誠心は見られませんでした。捕まったオトラル総督はサマルカンドにいたチンギス・ハンの前に引き出され、溶かした銀を両目両耳に流し込まれて残忍に殺されます。蛮行と言えるこの処刑は、モンゴル帝国の残忍さの象徴になりました。ホラズム王スルタン・ムハンマドは追い詰められ、カスピ海の小島へと逃亡しましたが、肺病で亡くなります。アッバース朝までも打ち破り、カスピ海からペルシャ湾まで領有した強大なホラズム国(ホラズムシャー朝)は、こうして征服され滅びました。 

 1219年のホレズム討伐以後、5年にわたるモンゴル軍の席巻で、中央アジアは徹底的に破壊し尽くされました。サマルカンド、ブハラ、テルメズ、クフナ・ウルゲンチ(『[旧]ウルゲンチ包囲戦(1221年)』)。どの都市も被害は甚大でした。『千夜一夜物語』にも登場する当時の100万都市メルヴ(現トルクメニスタン・マリィ)に至ってはその後、復興することはついにありませんでした。チンギス・ハンのソグディアナ侵出の目的は、オトラル事件に端を発した、ホラズム王への復讐とホラズム国の抹殺ですが、ホラズム討伐後も留まることのない西方遠征が続けられ、遠く遠く東ヨーロッパまで侵攻していきます。遠征の目的は初めから別の所にあったのです。

 『サマルカンド包囲戦(1220年)』では、2万のモンゴル軍以外に、敵のホラズム兵や農民の捕虜5万が「人間の盾」として使われ、この首都はモンゴル軍の包囲から5日目に陥落します。オアシス都市サマルカンドは富裕な都でした。8世紀半ばから紙の製造サマルカンドペーパー)でも有名です。話しは少し逸れますが、紙は中国で後漢時代(1世紀)に蔡倫によって発明されました。東アジアに定着した手漉き紙の文化は、唐とアラブが戦った『タラス河畔の戦い(751年)』で捕虜になった、唐の紙漉き職人によりサマルカンドにもたらされ、そこで羊皮紙(パーチメント)の文化交差します。毛筆用ではなく、羽根ペンで文字が書けるサマルカンドペーパーの誕生です。それは「シルク・ペーパー」とも評されました。欧州近代製紙のルーツであるこの紙は、8世紀のアラブを経由して12世紀にスペインにまで渡ります。そして明治時代になると、地球を逆回りして日本でも普及するのです。閑話休題。チンギス・ハンはサマルカンドの城壁や宮殿だけではなく、製紙産業や紙漉きの文化も破壊しました。そこから得られる富などには関心がなかったのです(現在、サマルカンド近郊のシオブ河が流れる水車の村・コニギルにて、サマルカンドペーパーの伝統復興活動JICAの支援の下、日本のNPO法人により行われています)。

 モンゴル軍は、馬のもつ機動性に物をいわせ、疾風のように襲い、今必要なものだけを略奪し、再び疾風のように立ち去りました。事前の情報分析は近代的なのに、実戦の戦闘方法は極めて原始的でした。チンギス・ハンは富や財宝には興味はありませんでした。領土にも執着せず、略奪も目的ではなく征服を実感するための手段に過ぎません。本来、チンギス・ハンはステップ(草原地帯)以外の領土拡張は考えていなかったようです。彼は、征服し、敗北者たちを見て、達成感を味わっていました。権威や権力を誇示したいがために他国を征服した訳でもありません。『征服』そのものがチンギス・ハンの目的、そして生き甲斐だったのです。もっとも後の彼の一族が、全てそうだったわけではありません。中世最大の旅行家イブン・バトゥータ「三大陸周遊記」には、モンゴル帝国の後継国家のひとつ、キプチャク・ハン国の首都サライ(現カスピ海北方)で、中国やインドから届いた莫大な財宝に囲まれて、豊かな暮らしを送るチンギス・ハンの末裔たちの姿が記述されています。チンギス・ハンの金朝征服戦争(1212-1215年)では、北の金朝と南の南宋を合わせて5000万人いた中国の人口が900万人にまで減少していますが、後の元朝を中国式の王朝に変容させ、都市に富を集めたのも子孫たちです。

 モンゴル軍を率いるチンギス・ハンは生涯、草原の民に終始しました。終生、外国語は学ばず、艶やかな中華文明やペルシャ文明、仏教やイスラム教など都市文化には全く関心を持たず、常に天を敬い、遊牧騎馬民族の伝統的シャーマニズムに徹していたのです。蒼き狼は、都市の堕落した文明を嫌っていました。征服された都市はつぎつぎと破壊されていきました。住民の虐殺と文化の抹殺を伴って。

②オアシスの覇者

 オトラルはその後、モンゴル帝国の支配下で再興し、キプチャク・ハン国に引き継がれ、係争の後、チャガタイ・ハン国によって奪取されます。そしてティムール朝時代に200年の時を経て、再び歴史の表舞台に登場します。ティムール帝最後の場所として。

鉄の名を持つ男  

 チンギス・ハンの第2子チャガタイは、1227年、中央アジアのアルマリク(唐代の「弓月城」、現新疆イーニン近郊)を都に遊牧国家チャガタイ・ハン国を建設します。この国はイスラム系・トルコ系を受け容れながら東西貿易の要路を地盤として栄え、オアシス地域を支配していきましたが、100年後に東西分裂を起こし、天山地方(現新疆ウイグル)を中心に東チャガタイ・ハン国西トルキスタン(現ウズベキスタンとカザフスタン南部)を中心に西チャガタイ・ハン国として勢力を分けます。西チャガタイでは内紛が絶えず、しばしば東チャガタイの攻撃を受けたため、その勢力は弱体化していきます。

 その頃、中央アジア・サマルカンドの南方に、トルコ系モンゴル人の分枝であるバルラス部という部族がいました。イスラム教を受容した貴族であり、先祖はチャガタイに仕えた将軍とされています。14世紀にはこの一族も衰え、2、3人の家臣を持つにすぎない小貴族になっていましたが、1336年、ケシュ(現シャフリサブズ)近郊でこの貴族からある男の子が誕生します。これがティムールです。バルラス部とチンギス・ハンの祖先は同じ、とする伝承があり、チンギス・ハンの子孫をティムール本人も名乗ったとされていますが、事実はチャガタイ・ハン国に仕える小貴族の出身です。

 しかし彼がチンギス・ハンを意識し、チンギス・ハンの征服事業を超える偉業を目指し、モンゴル帝国に並ぶイスラム世界帝国を築くことを理想としていたことは、後の業績から疑いありません。ティムールとはを意味していて、強い武将のイメージですが、チンギス・ハン同様に人心の掌握にも長け、君主としての高い適性を持っていました。

チンギスは破壊し、ティムールは建設した。

 若い頃には家畜の略奪などを行っていたティムールは、次第に軍事的政治的才能を現し、1369年、西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じてサマルカンドを獲得します。このころ、軍事・交通の要衝であったオトラルの街は復興していました。1376年、ティムールは西チャガタイ・ハン国の支配下にあったオトラルを征服します。その後、東西チャガタイ・ハン国を統合し、またイル・ハン国やキプチャク・ハン国といったかつてのモンゴル帝国の分枝の旧領を次々と支配下に治めていきます。サマルカンドを都とするティムール朝はこうして誕生し、中央アジア全域を治める帝国になりました。今のオトラル遺跡には、14世紀の浴場跡や、中央アジア一帯で『シャハリスタン』と呼ばれる貴族居住地区の城壁跡(14~15世紀)などが残り、ティムール時代の建造とも言われています。

 ティムールは、1398年の『北インド遠征』によりデリー・スルタン王朝に打撃を与え、1402年には『アンカラの戦い』オスマン・トルコに勝利します。こうしてティムール朝は、一代で中央アジアから西アジアに及ぶ大帝国となりました。オスマン朝との戦闘の際、ダマスカス街の丸屋根を見て新しい建築のアイデアを得たティムールは、多くのイスラム建築家たちをダマスカスからサマルカンドへと連行し、ティムール好みに円蓋が膨らんだ、ティムール朝独特のドーム建築文化を、首都サマルカンドを中心に花開かせます。

 外征だけではなく国内政策にも注力し、首都サマルカンドを整備、人口集中を行い大都市に造り上げます。サマルカンドは中央アジアにおける政治・経済・文化の中心地となり繁栄しました。ティムールの戦争はほぼ全勝に近く、卓越した軍事的才能を持っていましたが、「チンギスは破壊し、ティムールは建設した。」と言われるように、彼は偉大なる都市建設者でもありました。特にその建築文化は、5世代後の彼の子孫で、若き日をサマルカンドで過ごしたバーブルにより、ムガル朝建国と同時にインドに持ち込まれます。そして第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代にタージマハルの屋根のフォルムに結実します(19世紀中頃、イギリスに征服されるまでティムール王朝はインドで続いていました)。サファヴィー朝イスファハンもその文化的影響下で造られた都市ですし、ロシアにおいてはビザンチン様式のクーポラ(円蓋)と融合し独特のネギ坊主に昇華します。アグラのタージマハルも、イスファハンのイマーム・モスク(王のモスク)も、モスクワ赤の広場のワシリー寺院も、全てティムールがダマスカスの建築家たちを連行したことが起因であると考えると、一般に思われている以上にティムールは、後世に大きな影響を残している人物なのです

オトラルに死す

 ティムール時代のティムール朝は、モンゴル帝国の伝統要素も取り入れたイスラム国家で、チンギス・ハンの血を引く家系から王妃を迎えて、血統的にも帝国の支配をより強固なものにしていました。ティムールは、チンギス・ハンと同族の名家の子孫との噂が領民からも湧き起こるぐらい、最もチンギス・ハンに近い男とされていました。

 チンギス・ハンの偉業を継承し、それを超える業績を残そうとしたティムールの次なる標的は東アジアです。中国にはティムール朝と同時期の1368年に建国された明王朝がありました。モンゴル帝国の旧領土すべての獲得を目指していたティムールは、1404年11月、明討伐のためにサマルカンドを出発します。そして、20万の軍勢を帝国各地からオトラルに召集します。かつて、東アジアと中央アジアの境界であったオトラルこそ、東方遠征の出陣に相応しい土地です。明王朝はモンゴル帝国の後継国家元朝を滅ぼしただけでなく、内実は歴史上の中国征服王朝と同じく明朝も漢化していたとしても、形式上の国名は、イスラムにとっての邪教ゾロアスター教(拝火教)の流れを汲むマニ教に由来しています。マニ教は中国で明教とも表示し、とは、「光と闇の二元論」光の意味です。『明』という国号はこれに由来します。明朝を建てた白蓮教徒たちも火を崇拝していました。当然、ティムールとしては絶対に倒さなければならない相手です。しかし明朝打倒の夢かなわず、翌1405年2月、ティムールはオトラルに当時いくつかあった宮殿の一つで病に倒れました。寒さからきた肺炎だったようです。チンギス・ハンの偉業を超えるユーラシア大陸征服の夢はここに潰えました。「二度目は茶番」だったのでしょうか。いいえ、チンギス・ハンとは異なり、彼は偉大な都市文化を花開かせて逝ったのです。

 アレキサンダー帝国やモンゴル帝国のように、一人の天才によって築かれた大帝国は、彼らの死後必ずや、後継者争い、相続や領土分割に国力を割かれ、領土拡張をやめてしまいます。ティムール朝もその例に漏れず、後継者たちは中国遠征を放棄してしまいました。

オトラルの衰亡

 ティムールが没した後もオトラルは、15世紀末にはウズベク族シャイバーニー朝の、16世紀にはカザフ・ハン国の支配下で、再び繁栄しますが、17世紀後半、『最後の遊牧帝国』といわれるジュンガル帝国によって破壊され、18世紀にはこの地方におけるオトラルの重要性は大きく低下していました。18世紀末には40家族が暮らすだけとなり、19世紀初頭まで数十人が居住していたようです。その後、オアシスの水源が枯渇し、衰亡し放棄され廃墟となったとされています。

 今のオトラルは、カザフスタン第3の都市『草原の都市』を意味する街シュムケント(旧チムケント、もとはオアシス都市サイラムのためのキャラバンサライの集落でしたが、やはりここもモンゴル軍によって破壊されました)の北西、シルダリヤ河右岸の草原にある廃墟となった遺跡です。現在、モスク跡、宮殿跡、浴場跡、シャハリスタンなどが見つかっていますが、大部分は未だテペ(テパ)と呼ばれる丘の下に埋もれていて、今も発掘が続けられています。

 「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した。」という言葉は、オトラルにも当て嵌ります。でもそれは当然でした。草原のゲルで育ち、遊牧騎馬民族として都市文化を嫌い、征服を生き甲斐にしたチンギス・ハンと、オアシス都市出身で、シルクロード、イスラム、ペルシャなど多様な都市文化の中で育ったティムール。彼らの生い立ちが歴史に大きな傷跡と偉大な足跡の両方を刻ませたのです。オトラルは、草原の覇者で、破壊の王チンギス・ハンがユーラシア大陸征服を開始した街であり、オアシスの覇者で、建築の王ティムールのユーラシア大陸征服の夢潰えた街なのです。

* オトラル遺跡へは、8月29日発『大シルクロード・カザフスタンの旅』千歳発着10日間)でご案内します。

 

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日本・ブータン国交樹立30周年

2016年05月13日 11時53分35秒 | ブータン

こんにちは。

今日は昨日と打って変わってとても暖かくなりましたね。

急に暖かくなると何を着ていいかわからなくなります・・・・。

 

さて、一時期、国王と夫人が来日した際に美男美女すぎる!と話題になったブータンですが、実は今年は日本とブータンの国交樹立30年という記念の年なのです。先日、東京で「ブータン・日本親善オファー」のミーティングが行われました。

ブータン経済大臣のノルブ・ワンチュク氏が来日し、「日本とブータンの外光樹立30周年の今年は、ブータンにとっても特別な年」と述べ、2016年、ブータンは「火の雄の申年」で、それは聖人グル・リンポチェが生まれた年の干支だとされる。また、ブータンの国家統一を成し遂げたシャプドゥンがブータンに到着して400年という記念の年。さらに、待望の王子が生まれる年ということで全国民が期待しているそうです。ノルブ・ワンチュク氏は「ブータンにとって、日本はとても大事な国、大事な人々。今まで30年にわたって協力してくれた。日本の救急車がブータンで患者を運び、日本の耕運機がブータンの農家を助け、日本の支援で電線が敷設され、日本の先生が教育を援助してくれる。すべてのブータン人が日本のことをよく知っている。特別な年に、日本にお礼するため、今回のオファーを企画した。このオファーを使ってぜひブータンに来てほしい」と語っています。

ブータンへ旅行するには、必ず現地もしくは日本の旅行会社を通して手配しなければならず、ブータン政府は旅行の品質安定のため「公定料金」を定めており、個人旅行でも団体旅行でも、最低限決められた公定料金を支払わなければなりません。そのため、少し他のアジアの国々に比べてご旅行代金がお高めだったのですが、今回30周年を記念して、6月から8月の間でこの公定料金を撤廃することが決定しました。

弊社では国交樹立30周年企画として、

6/22(水)発 8日間 初夏に訪ねるヒマラヤの王国・緑のブータンの旅

8/17(水)発 13日間 6つの峠を越える東西ブータン横断の旅

を企画しております。

どちらも公定料金が撤廃されることを受け、通常よりお手ごろな料金設定となっておりますので、この機会にぜひ、幸せの国ブータンを訪れてみませんか?

世界紀行

(湯田菜都美)


 

震災の年に、ブータン国王夫妻が来日されました。そのときの国会でのスピーチを、以下に添付いたします。

天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。このことに対し、感謝いたします。
 妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。
 ご列席の皆様、演説を進める前に、先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的にわかちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。
 私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。
 皆様が生活を再建し復興に向け、歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実です。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟、姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ、そして名誉を守り個人の望みよりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代においてもリーダーであり続けます。
 このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。世界は常に日本のことを、大変な名誉、誇り、規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。

 皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。
 ご列席の皆様。私はすべてのブータン人に代わり、心から今お話をしています。私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。その私が申しあげたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうということです。卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がそのなかで主導的な役割を果たさなければならないと確認しております。日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。
 ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々の間に深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。
 今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手の中に委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。ブータン国民の寛大さ、両国民の間を結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々のブータン国民に対するゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝えることができて大変嬉しく思います。私はここに、両国民のあいだの絆をより強め深めるために不断の努力を行うことを誓います。
 改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。ご列席の皆様。簡単ではありますが、国の言葉、ゾンカ語でお話したいと思います。
「(ゾンカ語での祈り)」
 ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれど、日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験しそしてこれからも繁栄を享受されますようにという祈りです。ありがとうございました。

 

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催行決定ツアー

2016年05月09日 15時48分50秒 | その他

こんにちは。

ゴールデンウィークが終わりましたが、皆様はどのようなゴールデンウィークをお過ごしになりましたか。弊社では、ゴールデンウィーク号といたしまして、新しいパンフレットを作成しましたが、皆様のご自宅には届きましたでしょうか。

また、夏にかけて催行決定のツアーがいくつかございますので、ご紹介いたします。

6/ 1発 隠岐諸島4島巡りの旅 6日間

6/18発 レンソイスの白砂漠とイグアス・フルムーンウォーク~ブラジル大自然 11日間

7/ 1発 チロル・お花畑ハイキングとドロミテ最奥の村 13日間

7/ 1発 ケルトの国・アイルランド周遊の旅 14日間

8/18発 動物天国マサイマラ国立保護区滞在とヌーの大移動の旅 11日間

その他、催行決定間近のコースもございますので、お気軽にお問合せください。

 

また、長濱榮子写真展が8日無事に終了しました。

沢山のご来場誠にありがとうございました。

 

私は15日から中国に入って参ります。久しぶりの中国です。

新しいパンフレット、次回のパンフレットには中国を含めアジア方面も多く掲載予定です。

ご興味がありましたらぜひご参加ください。

(湯田菜都美)

 

 

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ゼーフェルト

2016年04月22日 16時58分31秒 | オーストリア

こんにちは、前田です。

札幌は連日の暖かさでコートも必要なくなり、春といった感じで気分も軽くなりましたね!

今日は、出発間近のツアーをご紹介させていただきます。

 

(ゼーキルヒル)

インスブルックの北西、ドイツとの国境にほど近いゼーフェルトの町は、西をホーエ・ムンデ、東をカーヴェンデル、
北をドイツとの国境を形成しているヴェッターシュタイン山系により、三方を山に囲まれた海抜1,180m、人口2,800人のリゾート地です。

車から解放された町の中心地は牧歌的なメルヘンの世界。
駅前から真直ぐにのびる並木道は絵のように美しく、オーストリアの軽井沢とも呼べる雰囲気を持った町です。
歩行者ゾーンには80以上の店舗、ワインセラー、ビアホール、レストランなどが軒を連ね、
また、カジノ・ゼーフェルトはオールマイティーのショッピングセンターとなっています。

「ゼーキルヒル」と呼ばれる小さなチャペルはゼーフェルトのシンボルであり、夏には村人たちの結婚式の舞台となります。

今年も7月1日初の『チロル・お花畑ハイキングとドロミテ最奥の村』の旅でご案内いたします。

あと一歩で出発決定ですので、お問合せお待ちしております!

世界紀行

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『カンプィルテパ』 アレキサンドリア・オクシアーナと大乗仏教北伝の謎

2016年04月20日 23時20分49秒 | 砂に埋もれたシルクロードの歴史

 現在のテルメズから西に20km離れたカンプィルテパは、古代においてインドと中央アジア・バクトリアを結ぶルートがアムダリヤ河を越える地点に造られた要塞都市です。カンプルテパ、またはカンピルテペとも記載します。紀元前4世紀、中央アジアに侵攻したアレキサンダー大王もここで大河アムダリヤを渡りました。ここから彼は、後に『アレキサンダーの道』として知られるようになったルートを通り、インドへと向かいます。大王はアムダリヤ河越えの場所に都市を建設し、それを『アレキサンドリア・オクシアーナ(オクサスのアレキサンドリア)』と名付けたとされていますが、一部の研究者によるとそれがこのカンプィルテパだともされています。オクサス(オクソス)は、アムダリヤ河の古代名です(中国では烏滸河[おこが]と呼ばれました)。近年、ウズベキスタンの考古学者たちはクシャン朝時代に起源を持つシタデル(要塞)の基礎構造のさらに下から、古代ギリシャの伝統的様式で造られた巨大な城壁や、当時の硬貨や陶器を含む文化層[遺物包含層]を発掘しています。 

 住民たちは幾度も街を再建することはせずにアムダリヤ河の大洪水により一斉に街を放棄したため、カンプィルテパは他の古代都市と異なり数メートルの高さで土の層に覆われ、後の時代の生活層が形成されませんでした。そのおかげで考古学者たちは、紀元前2世紀の初頭に遡るクシャン朝時代の住居群のさらに下に、アレキサンダー時代の都市の輪郭を発掘することに成功しました。20ヘクタールに及ぶ発掘の結果、中央アジアにおける都市集住、シタデルなど軍備防衛、集積・交易市場など複雑な都市の形成が中世の遥か以前に成されたことが証明されました。住宅地は幅1.5mから2.2mの 通りで区分され、全ての通りには邸宅の他に倉庫、公共の宗教施設、公民館などが配置されていました。また、これによりシルクロード時代の西トルキスタンの都市設計のモデルが古代の伝統にルーツがあることも証明されました。発掘されたエジプト・ペルシャ・レバノン・インド・中国からの文物は外国との大規模な文化交流と交易を示しており、特にパルティア語が刻まれた印章青銅製の聖杯、女性や鳥が描かれた象牙の櫛、コインなどが学者たちの注目を集めています。

 

カンプィルテパの発掘とアムダリヤ河北岸の歴史文化的研究の結果、古代ゾロアスター教の水の女神・アナーヒターは、アムダリヤ河の象徴[カラクム・キジルクム両砂漠における大河アムダリヤ信仰]であると認められるようになりました。アナーヒターは、のちに西方世界でアッシリアのイシュタル神や、ギリシャの愛と美の女神アフロディーテと習合し、特にエフェソスで崇拝された女神アルテミスとは同一視されるようになりました。一方、東方世界では、ヒンドゥー教の水と豊穣の女神サラスヴァティーや、我々日本人に仏教を身近に感じさせてくれる、水や川に関係の深い観世音菩薩弁財天の起源となります。カンプィルテパ発掘の貢献により、アムダリヤ信仰と仏教の菩薩や天部の習合など、大乗教がいかに変容を遂げていったのか、大乗仏教北伝の謎が今、少しずつ解き明かされつつあります。  (湯田菜都美)

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シルクロードの都市共和国『ポイケント Poykent 』

2016年04月20日 16時28分16秒 | 砂に埋もれたシルクロードの歴史

 ポイケントPoykentは、アムダリヤ河支流ザラフシャン河下流域カラクム砂漠にかつて栄えた古代オアシス都市で、現在のウズベキスタン・ブハラの南西55kmに位置しています。パイカンドPaykandパイケントPaykentパイケンドPaykendとも発音、記載されたりもします。昭武九姓には数えられていませんが、ソグド人の植民都市として諸外国から認識されており、中国名は畢国(ひこく、発音は「」)です。

 考古学的研究によるとこの街は、紀元前4世紀に小さな村落として誕生し、後に北のウラル山脈・北コーカサス・ヴォルガ流域やホラズム地方と、南のバクトリア・インド・ペルシャとを結ぶ交易の中心地となり城壁が形成されました。大シルクロード時代になると、貿易センターとしてのみならず、ソグディアナ西部国境の重要な軍事拠点にもなりました。シルクロードの発展とともに要塞化されたこの街は、隣接する2つの集落を併合し「古代都市ポイケント」が造られました。その結果、中国の絹と地元の特産品を取り扱っていたソグド商人全盛の時代『パンジケント[ペンジケント]・サマルカンド・ポイケント回廊』と呼ばれるシルクロードの主力ルートの一翼を担うようになります。当時のポイケント商人の足跡は、日本・ベトナム・セイロン(スリランカ)にまで及びました。また、ポイケントのバザールには、唐・ペルシャ・インド・アラブの商人のみならず、ヨーロッパからも商人が集まってきました。当時のポイケントの高名は、バグダッドのバザールでブハラから来たキャラバンたちも、自らをポイケントの隊商隊と名乗るほどでした。隊商の都市であるために、男性は留守になりがち。そのため、街の防衛には弓や乗馬を習得した女性たちがあたりました。ポイケントの女性の力は強く、夫が隊商で長期にわたって不在なこともあり、都市誕生の初期には一妻多夫制がとられていました。

 隋唐時代の史書によると、ポイケントは安国(ブハラ)の支配下にあった畢国の中心地とされていますが、それ以前、6〜7世紀のこの町は、知事も存在せず、隊商たちの議会によって統治されており、自治という面からみて言葉の完全な意味での共和制都市国家でした。

ソグド人の目の部分が描かれたフレスコ(ポイケント博物館) 

 

1981年からのロシア国立エルミタージュ美術館とウズベキスタンの考古学者たちの20年以上にわたる発掘と研究の結果、要塞内からはゾロアスター教寺院群、宮殿、9世紀のモスク、同じく9世紀の中央アジア最大のミナレットの土台(直径9m)などが、街の内側では、城壁、城門、道路、居住地区、中央アジア最古の薬局跡[西暦に直すと790年にあたる年号が記載されたガラスの薬品鉢が発見されています]などが、街の外部では陶器製作の窯、キャラバンサライ[隊商宿]が発見されています。また、6世紀の仏像頭部なども見つかっています。現存する中央アジア最大のミナレット[塔]は、ブハラのカラーン・ミナレット(11世紀)ですが、ポイケントのミナレットはそれを上回る大きさでした。しかし、日干しレンガで造られていたため、残念ながら風化により崩壊してしまい、その歴史を参考にしたカラーン・ミナレットの建築家は焼きレンガを用いています。ポイケントの繁栄は、8世紀のアラブの侵入の際に、アラブ軍の指揮官が街にあったたくさんの黄金仏を溶かし、金の延べ棒にして部下に配ったという逸話からも伺い知れます。

 近年の調査よると、ザラフシャン河の水位の低下により、9世紀中頃に街は消滅したと考えられています。そしてこの歴史的都市は、今から800年前に流砂の下に埋もれてしまいました。現在、隣接する博物館で出土品の見学ができます。 [ユネスコ世界遺産情報照会暫定リスト]  (横倉小百合)

 

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