地球浪漫紀行☆世界紀行スタッフの旅のお話し

(株)世界紀行・スタッフのブログです。ブログ・タイトル『地球浪漫紀行』は21年前からの弊社ダイレクトメール名です。

トルコ共和国文化観光省よりお知らせ

2016年07月22日 21時50分03秒 | トルコ

送られてきたので一応貼っておきます。


 

 

各位

【非常事態宣言に関するトルコ共和国文化観光省よりお知らせ(2016722日)】

 2016 年 7 月 21 日より今後3ヵ月間トルコ全土に発令された非常事態宣言は、国民の権利と自由に対する脅威に対し政府が保護介入する目的で、治安対策を強化するため、憲法条令の範囲内で 適用される一連の警戒対策です。 

同警戒対策は、基本的人権と自由を制限する条項を含むものではありません。適用される治安 対策は、トルコ国民の日常生活、トルコへ訪問される旅行者とその休暇に影響を与えるものではなく、国際ツーリズム活動や航空機の運航に関して何ら障害をもたらすものでもありません。 トルコの全てのデスティネーションでお客様が安心して過ごしていただく上で懸念を抱かれる様 な状況はございません。

http://www.tourismturkey.jp/pressrelease/TurkeyNR_20160722.pdf

トルコ共和国大使館・文化広報参事官室

Turkish Embassy Office of The Cultural and Information Counsellor

〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2-33-6

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Nice says メルシー.

2016年07月20日 20時10分23秒 | 海外からのお便り

 

 ニース観光局からメールです。

*********************

皆さんからの数え切れない励ましと愛情をいただき、

私たちは、ニースを以前にもまして、世界一美しい街にすることを心に決めました。

言葉で励ましを伝えていただいた方、文章で寄せていただいた方、

そして想いを寄せていただいた皆様に申し上げます。

ありがとう。

Nice(注1) was struck at its heart by the cowardly, barbaric and unspeakable act which has left a large number of victims and broken destinies, on the Promenade des Anglais(注2) on the evening of Bastille Day(注3).

Since this tragedy, we have received thousands of messages of affection and support from all over the world, some anonymous, others from professionals telling us the special place Nice holds for them in their hearts.

Every one of these messages, every word has touched the heart of the people of Nice, and every word makes us stronger, provides us with a crutch to lean on to get back on our feet and continue to promote this amazing, welcoming city, the symbol of a gentle French lifestyle.

In spite of the pain, anger and sorrow, we are determined, more than ever, to show that Nice remains one of the most beautiful cities in the world.

And for all these messages of affection and support, whether written, spoken or even thought, Nice says MERCI.

(注)

1.もちろん、ナイスnice ではなく、ニース

2.イギリス人の散歩道(ニースの海岸プロムナード)

3.パリ祭

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世界紀行パンフレット「地球浪漫紀行」最新号完成!

2016年07月01日 15時01分11秒 | その他

こんにちは、横倉です。

7月に入り、いよいよ夏到来ですね。

本日は半夏生です。

先日スーパーへ行ったところ、「半夏生」のポスターが大きく掲示され、タコのセールが行われていました。

なぜタコ?と思い調べたところ、このようなお話がでてきました。

'昔は田植えの時期は4~5月ではなく、春の冷えを避け、収穫時期と台風が重ならないよう、夏至~半夏生の間に田植えを行っていました。

そして、田植えが終わった半夏生の頃に、タコの豊作を祈りタコを食べるようになりました。なぜタコなのか、それはタコの足を稲(吸盤は実)に見立てたからといわれています。'

元々は近畿地方の一部での風習と聞きました。日本でも住んでいる地域によって文化・風習が本当に異なりますね。日々勉強、と改めて思いました(近畿地方にお住まいの方、そんなの常識でしょう、とお思いの方、お目汚し申し訳ございません…)。

北海道にはあまりこのような習慣がないから他の地区の習慣が受け入れられ易いのでしょうか。お店に行くと季節の節目毎にそれまでなかったような行事のポスターが掲示されることがここ数年増えている気がします(節分の恵方巻きなど)。

 

話は脱線しましたが、先日、弊社パンフレット「地球浪漫紀行」が完成しました!

 

【新コース】

・10月19日発「アラゴン王国の旅~スペインで最も美しい町とスペインで最も美しい村」 11日間

・11月1日発「世界自然遺産・小笠原諸島の旅」 6日間

・12月3日発「ナガランド『ホーンビル祭』とインパールの旅」 8日間

・10月19日発「コモドドラゴンに出会う フローレス島・コモド島の旅」

 

★日程につきましては、弊社㈱世界紀行ホームページをご覧ください★

http://www.sekai-kikoh.net/

 

また、こちらのパンフレット掲載の8月4日発「トスカーナの優雅な休日」は、既に催行決定となっております(ホームページにも掲載中です!)。

お申込みもまだ間に合いますので、お問合せをお待ちしております!急遽夏休み休暇がとれた、という方必見です!

 

順次発送も行っておりますので、来週には皆様のお手元にもお届けできるかと思います。

催行決定間近のツアーも増えてきておりますので、気になるツアーなどございましたら、お気軽にお問合せください。

 

(横倉)

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モラ展示会のご案内

2016年06月09日 17時35分25秒 | パナマ&モラ

今月末から来月上旬まで、景山先生モラ教室によるモラの展示会が開催されます。

モラとは、何枚もの布を重ねた布に刺繍や穴をあけ、下の布地の色を出し縫い上げていく、パナマの先住民族・クナ族の伝統刺繍です。

クナ族の文化や歴史、自然をモチーフに、一つの作品に様々な手工が施されています。

札幌にお越しの際は、ぜひお立ち寄りくださいませ。

 

 

日時:2016年6月28日(火)~7月2日(土)

時間:10時~17時(最終日は16時まで)

場所:札幌市中央区北1条西3丁目 札幌時計台ギャラリー3階 D・E・F室

入場無料

 

(横倉)

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アラゴン王国の歴史

2016年05月29日 01時15分56秒 | まとめてみました

 

                                            (テルエル/サルバドールの塔)

 

 先週、スペイン・アラゴン州の旅行会社の方が来社されて、

10月に予定している『スペイン・アラゴン王国の旅』の打ち合わせを行いました。

現在、パンフレットを作成中なのですが、その中で、

中世アラゴン王国の簡単な略年表を作成しましたので、下にも記載しておきます。

アラゴン州観光局によると、「アラゴンの魅力は寛容性と多様性」とのこと。

たったこれだけの年表からも感じ取れます。

 

 

714年

わずか3年前にイベリア半島に侵入[711年]したイスラム教徒がピレネー山麓に到達。キリスト教徒はピレネー山中に逃避。

イスラム教徒はアルバラシン、ダローカ、テルエル、サラゴサ、アルケサルにアラゴン地域の拠点に構える。

 

8世紀中頃

キリスト教徒の反撃開始。ピレネー山中のテナ谷などで、モサラベ様式の教会建築が始まる[~11世紀]。

 

1035年

アラゴン北西部にて、ハカを都アラゴン王国が誕生。同時期にアラゴン北東部では、アインサを都ソブラルベ王国が誕生(後にアラゴン王国に併合)。

ハカ、アインサ両市を拠点に本格的レコンキスタ(国土回復運動)の開始。

 

11世紀後半

アラゴン北部でフランスから導入されたロマネスク様式[~15世紀]の建築が始まる (サン・ファン・デ・ラ・ペーニャ、ハカ大聖堂、ロアーレ城など)。

 

1096年

レコンキスタの南下に伴い、ウエスカに遷都

 

1118年

レコンキスタのさらなる南下でエブロ川に到達。サラゴサに遷都

 

12~13世紀

アラゴン王国が最盛期を迎えるシチリアの晩祷事件[1282年]でシチリア王を兼ねるなど゛、ギリシャ・アテネから、南イタリア・ナポリ、シチリア島、サルデーニャ島、南フランス・モンペリエ、プロヴァンス、コルシカ島、マヨルカ島、カタロ-ニャ、バレンシア、ナバーラまでを治めるアラゴン地中海帝国が誕生する。

アラゴン南部に残ったアラブ職人によるムデハル様式の建築が始まる[~15世紀] (テルエル、サラゴサ、ダローカなど)。

 

1479年

カトリック両王の結婚によるアラゴン王国・カスティーリャ王国の統合より、スペイン王国が誕生。

 

 *ムデハル様式*

レコンキスタ(国土回復戦争)の後、12~14世紀にイスラム教徒の装飾技術とキリスト教徒の建築技術が独自に融合した建築様式です。スペイン側の要望に応じて、当時「ムデハル」と呼ばれたキリスト教徒支配地域に残ったアラブ人職人たち(改宗しモリスコと呼ばれました)によってあみ出されました。特にアラゴンではレンガ造りの鐘楼が特徴的で、釉薬をかけた陶製タイルを使い、想像力を駆使して装飾されています。テルエルやサラゴサ等、アラゴン州のムデハル建築群は世界文化遺産に登録されています。

 

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モーリシャスの旅

2016年05月20日 11時55分50秒 | セイシェル・モーリシャス

こんにちは。横倉です。

今年も大通ではライラック祭りが始まりました。

 

さて、3月(もう2ヶ月も前ですね…)はもモーリシャスに行ってまいりました。

最近よくTV番組でも取り上げられています。

 

モーリシャスは16世紀までは無人島でした。

その後、ポルトガル人が『到達』し、オランダ、フランス、イギリスが入ってきます。フランス領時代(イル・ド・フランス)には労働力の確保のために奴隷制度が作られたという悲しい過去もありますが、1992年3月12日に共和国として独立しました。

 

 

 面積は約2045平方キロメートル(東京と同じくらいの面積)。小さな国です。まだあまり日本人の観光客の方がきていない場所ということもあり、ツアー中はバックパッカーの方を含め、日本人とは会いませんでした。

島ということでマリンスポーツをする方向けと思う方も多いかもしれませんが、泳がない方もぜひ訪れていただきたい場所です!

 

まずは、ヘリコプター遊覧。写真はお客様からご提供いただきました。

中央の山は、世界遺産の一つであるル・モーン山です。

 

 

 

シャマロンでは、不思議な地質を持つ、七色の大地へもご案内させていただきました。

場所によって土の色が異なり、お天気によっては七色に見えることからこのように名付けられました。

今はしっかりと管理され、ここかた土を持ち出すことはできないため、実際に試すことはできませんが、研究者の方がこの土の違う色同士を集めて混ぜたところ、数ヶ月経つと、不思議なことに土が分かれ、同じ色同士になったそうです。

同じ敷地内で飼育されているゾウガメ。セイシェルからやってきました。

テーマは『ゾウガメたちの井戸端会議』です。どんなお話をしているのでしょうか。

 

また、ヒンドゥー教の聖地であるグラン・バッサンにも行きました。

私たちが訪れた前の日にヒンドゥー教のお祭りがあったため、周りはまだお祭りの飾りつけの跡が残っていました。

モーリシャスのヒンドゥー教の方にとって、ガンジス川に変わる最も神聖な場所です。

 

モーリシャスは入植者として入ってきたヨーロッパ系の方と労働者として上陸したインド系、アフリカ系の方々の子孫(クレオール)が多いため、信仰している宗教は様々です。

町を歩いたり、通過ですると、だいたいの町にはヒンドゥー教寺院、教会、モスク、仏教寺院の内2つはあります。両施設ともあまり離れてはおらず、モスクの1ブロック先に教会がある、という町も少なくありません。学校も基本的に宗教関係無く通っています。お互いの信仰にはあまり干渉せず、同じ町で暮らしているようです。

 

ポートルイスのショッピング街。傘の飾りつけが可愛らしいです。

また、こちらでは自由時間をお取りさせていただき、ご希望の方でブルー・ペニー博物館のご見学をお楽しみいただきました。

丁度出発の数日前に某TV番組でも取り上げられていた「幻の切手」を見学。写真撮影不可のため写真はありませんが、運よく原本にライトが当たる時間に訪れることができました。

幻の切手は、なんと1枚6億円!日本の切手収集家としても知られる金井宏之さんから寄贈されたものです。

 

さて、来週からウェールズに行ってまいります。

次の旅の報告はもう少し早くアップしたいと思います。

(横倉)

 

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それはオトラルで始まり、それはオトラルで終わった。

2016年05月14日 22時58分25秒 | 砂に埋もれたシルクロードの歴史

ユーラシア大陸征服に挑んだ二人の皇帝と

            シルクロードのオアシス都市オトラルのお話し        ㈱世界紀行添乗員:湯田菜都美

①草原の覇者

 一般に世界史史上の四大遠征と言われるものがあります(やや西洋人の色眼鏡が架かってはいますが)。アレキサンダー大王『東方大遠征』、神聖ローマ皇帝フリ-ドリッヒ・バルバロッサ(赤髭王)イングランド王リチャード獅子心王に代表される『第3回十字軍』モンゴル帝国チンギス・ハン『西方大遠征』、そしてフランス皇帝ナポレオン『モスクワ遠征』です。中でも最も長期間で長距離にわたる遠征が、チンギスハンによる西征です。では、彼のその大遠征はどのようにして始まったのでしょうか。

オアシス都市・オトラル 

 シルダリヤ河中流北岸(現カザフスタン南部)に位置するオトラルには、1世紀から2世紀頃に初期集落が造られ始め、遅くとも8世紀初頭には、城壁に囲まれた広大な街区と、周辺の灌漑農地からなる典型的な中央アジアのオアシス都市が、ソグド人やトルコ系住民を中心に形成されました。唐での呼称はわかっていませんが、古くペルシャでは、パーラーブ、またはヤルサルテスファーラーブと呼ばれており、ソグド人はタールバンドと呼んでいました。ヤルサルテスとはシルダリヤ河のことです。オトラルは12世紀に西遼(カラキタイ)の支配下に組み入れられます。

ホラズムシャー朝と西遼

 ホラズムシャー朝(ホラズム国)は、中央アジア・アラル海の南方・ホラズム地方の首都[旧]ウルゲンチ(=クフナ・ウルゲンチ、現トルクメニスタン)を中心に栄えたトルコ系イスラム教国です。ウルゲンチ(現クフナ・ウルゲンチ)は当時、メルヴに次ぐ中央アジア第2の都市でした。第7代王スルタン・ムハンマドの世に最盛期を迎え、南方では、西アジアの大国アッバース朝の都バグダッドにも攻め込み、アフガニスタンからイラン、ペルシャ湾からカスピ海に及ぶ広大な領土を獲得しました。東方では、1210年、シルダリヤ河を越え、西遼(カラキタイ)からオトラルを奪取し、母方の義弟をオトラル総督(知事)に任じました。その後、アムダリヤ河とシルダリヤ河に挟まれたシルクロードの要地トランス・オクシアナを支配し、首都をサマルカンドに移します。

 12世紀に中国で、女真族金王朝を建国)により滅ぼされた遼朝耶律大石は西天山山脈に逃れて、1132年シルダリヤ河北岸に仏教国・西遼(カラキタイ)を建国します。ホラズム国によるオトラル占領後、オトラルは仏教圏イスラム教圏東ユーラシア民族トルコ民族文化境界線上の街になりました。 

モンゴル帝国の中央アジア進出

 北方では、遊牧民のテムジンモンゴル高原の征服事業をつづけ、1206年、モンゴル族のクリルタイ(大会議)にて、チンギス・ハンの称号を受けます。モンゴル帝国の誕生です。

 モンゴル帝国建国後、チンギス・ハンは1208年に初めて中央アジアに登場しますが、この頃のモンゴル帝国はまだ無名で、主な支配地も辺鄙なモンゴル高原に限られていました。ホラズム王スルタン・ムハンマドは当初、辺境の国モンゴル帝国を軽んじていました。チンギス・ハンは、1203年に、金王朝の都・中都に来ていたホラズム国の交易使節団と会っています。チンギス・ハンはすぐにこの西方の国に興味を示し、使節団を派遣しました。ところが、使節団に謁見したホラズム王スルタン・ムハンマドは、チンギス・ハンに対し自分の家臣になるよう要求を告げたのです。中央アジアの大国ホラズム国の王スルタン・ムハンマドにしてみれば、統一されたばかりのモンゴル帝国は文化後進地帯の、取るに足らぬ新興国の一つに過ぎなかったのです。

 チンギス・ハンは、北東諸民族との抗争が一段落つくと西に目を向け、1218年西遼を併合します。その結果、オトラルはモンゴル帝国ホラズム国国境最前線の街になります。このときホラズム王スルタン・ムハンマドは、初めてこの北方の国に警戒心を持ちました。

オトラル事件

 1218年秋、チンギス・ハンが友好を求めてホラズム王に派遣した450人からなるムスリム商人(イスラム教徒)を中心とする通商使節団が、ラクダ500頭に中国の金、銀、絹を積んでオトラルに入城した時、オトラル総督は、義兄であるホラズム王スルタン・ムハンマドに報告し了解を得た上で、使節団に密偵の嫌疑をかけ逮捕。金品を強奪し、インド人ラクダ使いただ一人を除いて、全員を虐殺してしまいます。これが歴史上重要な『オトラル事件』です。虐殺されたのは、町を通り過ぎていく通常の隊商隊ではありません。モンゴル帝国の正式な通商を求める使節団です。生き残ったラクダ使いの話を聞いたチンギス・ハンの怒りは凄まじく、復讐のため天の助けを得るべく三日三晩、祈祷を続けたとされています。しかし、すぐに復讐に出ることはしませんでした。正規の外交手続きを踏み、オトラル総督の引渡しと賠償金を要求する抗議使節をホラズム王に派遣しました。しっかりと筋を通したのです。しかしこの使節団も、二名を除き殺害されてしまいます。当時の東アジアの国際慣例でも使節は殺してはいけないことになっていました。しかしオトラル総督やホラズム王は使節団の財宝の多さに目が眩んでしまったのだというのが、後の元朝側の記述です。歴史は常に勝者の物語なのですが。

 髭を剃られる辱めを受けて、戻った二名の使節から報告を受けたチンギス・ハンは、遊牧国家の最高政治大会議クリルタイを開催し、「血には血を、牙には牙を。オクソス河をホラズム人の血で真紅に染めよ。」との大命を下しました。オクソス河(オクサス河)とはシルダリヤ河の南、アムダリヤ河のことです。チンギス・ハンは臣下の提言を受け入れ、冬のアルタイ山脈超えを避け、翌夏の出兵を決めます。そしてできた時間を大量の投石器や火砲を作る準備に充てたのでした。いよいよチンギス・ハンの西征が始まります。

 「偶然起きたオトラル事件がチンギス・ハンを仇討のために西へと向かわせた」「このとき、中央アジア、西アジア、そして東ヨーロッパの運命は決まってしまった」「もしも、この事件が起きなければ、チンギス・ハンの中央アジア遠征もなく、歴史は変わっていたかもしれない」「この事件が広大なユーラシア大陸の地図を一変させた」「オトラル総督の所為で、中央アジア、西アジア、ロシア、そして東ヨーロッパまでもがモンゴル軍により徹底的に破壊、征服された」「肥沃の都サマルカンドも、残虐な殺戮と破壊にあうこともなく穏やかで平和な都であり続けたであろう」等々、幾度も幾度も様々な表現で、『モンゴル帝国西方大遠征のオトラル事件原因説』が語られることとなります。

 本当にそうなのかは、さておき、何れにせよ、恐ろしい指導者に率いられた大軍が、西方に向け解き放たれたのです。そこに暮らす人々にとっては災難以外の何ものでもありません。クラコフのラッパ吹きの命運も尽きました。歴史上最大の殺戮歴史上最大の破壊が始まってしまったのです。

ホラズム側から見たオトラル事件

 ホラズムシャー朝(ホラズム国)シルクロード交易の仲介で栄えた国です。富をもたらす交易商人をむやみに殺したりはしません。通商使節団を送るなど表面上は友好的ですし、このときのチンギス・ハンには敵意は感じられないように見えます。ところが、その使節団をオトラル総督は殺害してしまうのです。モンゴル帝国の友好の証を、ホラズム国が踏みにじったです。後に明らかになるモンゴル帝国の圧倒的軍事力を考えたとき、後代の私たちの目には狂気の沙汰に映ります。 

 使節団殺害を実行したオトラル総督は、気骨ある勇敢な人物でした。後のモンゴル軍の包囲戦の際、首都サマルカンドがわずか5日で陥落したのに対し、総督自ら守備隊の将を務めたオトラルは5ヶ月も持ち堪えたのです。兵や市民の絶対的な支持があったからです。逃亡する機会もありましたが、忠実に自らの責務を全うしました。そのような人物が、私利私欲や一時の感情に左右され、使節団を殺したとは考えにくいのです。しかし、ホラズム王スルタン・ムハンマドは使節殺害を命じ、オトラル総督は実行しました。それは、警戒心を抱きはじめていた隣国モンゴル帝国から、使節団として送り込まれた連中が、サルト商人だったからです。団長ただ一人がモンゴル人でした。

 古代より中央アジアのシルクロードを支配してきたのがソグド商人で、彼らが7世紀後半の『ムグ山の戦い』でアラブに破れ、ザラフシャン同盟(ハンザ同盟の西トルキスタン版)の盟主を始め、組織として壊滅的な打撃を受けた後、広範囲にその利権を継承したのがサルト商人でした。サルト人とは主にイラン系イスラム教徒のオアシス定住民のことで、ときにトルコ系住民も含まれます。チンギス・ハンの時代には遊牧民に対するオアシス民の総称としても使われていました。ゾロアスター教からイスラム教への改宗を拒否したソグド商人に対して、サルト商人イスラム教徒であり、中央アジアから西アジアまでイスラム世界の内情にも長けていて、シルクロードを旅する中で、様々な情報を持っていました。それらの情報に基づき、早い段階からチンギス・ハンの将来性を買い、モンゴル帝国に取り入っていたのです。シルクロード商人が長大な東西交易路で儲けるには、山賊対策も含め、交易路の安全を担保してくれる軍事力を持った後ろ盾が必要です。長いシルクロードを安全に往来するには、その軍事力は強大なら強大なほど良いのです。それまで、サルト商人はホラズム国の庇護下で交易を営んでいたのですが、商人の嗅覚がモンゴル帝国を先物買いさせ、チンギス・ハンの取り巻きになったのです。

 チンギス・ハンはシルクロードの交易を保護したことでも知られています。残忍な征服者チンギス・ハンは、実は経済にも通じていました。大帝国は軍事力だけでは築けません。モンゴル帝国は遊牧騎馬民族国家であり原則、牧畜という自給自足経済で成立しています。また騎馬民族なので略奪行為も可能です。金品を手に入れるために、わざわざ隊商を保護する必要はありません。アラブ侵入以前の中央アジアでは、遊牧騎馬民族・突厥とソグド商人の間で隊商の保護絹の献上のような相互依存の関係が成り立っていました。しかし、後述するようにチンギス・ハンは経済には明るくても、金品などの富には無関心だったのです。サルト商人の交易路を保護する代わりに、チンギス・ハンが得ていたものは他国の情報でした。サルト商人は隊商の立場を利用し、各国の各都市で宮殿や城、城主の館などにも入り込み、情報をチンギス・ハンに報告していたのです。チンギス・ハンの軍事作戦は緻密な計画に基づいていました。現代戦にも劣らない徹底した情報収集から始め、情報分析した上で、敵を圧倒する戦力で一挙に攻め入ります。残虐な攻撃性と勇猛さ、騎馬民族の機動性だけで勝利していたわけではないのです。そして、情報収集の手先となって活動したのがサルト商人でした。チンギス・ハンの目となり耳となっていたサルト商人は、まさにモンゴル帝国の諜報機関でした。

 ホラズム国から見れば、寝返ったサルト商人は裏切り者です。しかも同じイスラム教徒なのにです。当然ですがスルタン・ムハンマドは、ソルト商人に対して非常な敵意を持っていました。確かに450名は正式なモンゴル帝国の通商使節団ではありましたが、同時にチンギス・ハンのホラズム征服計画のための大スパイ団でもあったのです。そして、ホラズム国の側も当然それをわかっていました。ホラズム国の取りあえずの選択肢は、全員を永久に逮捕抑留するか、処刑するかしかありませんでした。勾留してチンギス・ハンから釈放の圧力を受け続けるくらいなら、処刑を選ぶしか他に手は残されていなかったのです。使節団を返せば情報が漏洩する、返さなければ攻撃の口実を与えてしまう。チンギス・ハンの王手飛車取りにホラズム国は詰んでいました。以後始まるモンゴル帝国によるユーラシア大陸での大虐殺の責任は、決してオトラル総督にあったわけではありません。スルタン・ムハンマドも、国を破滅させた無能な君主ではなく、義弟オトラル総督と共に的確な危機察知能力を有していたのです。ただ、モンゴル帝国とチンギス・ハンの力を見誤っていたのです。情報さえ漏れなければ、数で圧倒するホラズム軍に戦いを挑まないであろうと。オトラル事件はきっかけには違いありませんが、オトラル事件が起ころうと起こるまいと、チンギス・ハンは広大な西方の国々の征服に挑戦するつもりでした。陸地が続く限り馬を駆り、地の果てまで進むつもりだったのです。

オトラル包囲とホラズム征服

 1219年ホラズム侵攻を始めたモンゴル軍は、9月にオトラルに到達。チンギスは『オトラル包囲戦』を息子たちに任せ、自らはホラズムの中心部、ブハラとサマルカンドの攻略に向かいます。オトラルは5ヶ月の包囲戦の後、陥落します。城壁は破壊され、女子供を問わず住民は斬殺されるか、『ブハラ包囲戦(1220年)』のための「人間の盾」として連行されました。モンゴル帝国の悪名高い大殺戮の始まりでした。進軍を開始したモンゴル軍は、その数15万から20万。迎え撃つホラズム軍の兵力は40万。数ではホラズム軍が圧倒的ですが、何分、質が伴いませんでした。チンギス・ハンに絶対服従と忠誠を誓い、熾烈なモンゴル統一戦争を勝ち抜いたモンゴル軍に比べると、西アジア各国を支配したホラズム軍は混成軍であり、寄らば大樹の陰で集った将兵たちに忠誠心は見られませんでした。捕まったオトラル総督はサマルカンドにいたチンギス・ハンの前に引き出され、溶かした銀を両目両耳に流し込まれて残忍に殺されます。蛮行と言えるこの処刑は、モンゴル帝国の残忍さの象徴になりました。ホラズム王スルタン・ムハンマドは追い詰められ、カスピ海の小島へと逃亡しましたが、肺病で亡くなります。アッバース朝までも打ち破り、カスピ海からペルシャ湾まで領有した強大なホラズム国(ホラズムシャー朝)は、こうして征服され滅びました。 

 1219年のホレズム討伐以後、5年にわたるモンゴル軍の席巻で、中央アジアは徹底的に破壊し尽くされました。サマルカンド、ブハラ、テルメズ、クフナ・ウルゲンチ(『[旧]ウルゲンチ包囲戦(1221年)』)。どの都市も被害は甚大でした。『千夜一夜物語』にも登場する当時の100万都市メルヴ(現トルクメニスタン・マリィ)に至ってはその後、復興することはついにありませんでした。チンギス・ハンのソグディアナ侵出の目的は、オトラル事件に端を発した、ホラズム王への復讐とホラズム国の抹殺ですが、ホラズム討伐後も留まることのない西方遠征が続けられ、遠く遠く東ヨーロッパまで侵攻していきます。遠征の目的は初めから別の所にあったのです。

 『サマルカンド包囲戦(1220年)』では、2万のモンゴル軍以外に、敵のホラズム兵や農民の捕虜5万が「人間の盾」として使われ、この首都はモンゴル軍の包囲から5日目に陥落します。オアシス都市サマルカンドは富裕な都でした。8世紀半ばから紙の製造サマルカンドペーパー)でも有名です。話しは少し逸れますが、紙は中国で後漢時代(1世紀)に蔡倫によって発明されました。東アジアに定着した手漉き紙の文化は、唐とアラブが戦った『タラス河畔の戦い(751年)』で捕虜になった、唐の紙漉き職人によりサマルカンドにもたらされ、そこで羊皮紙(パーチメント)の文化交差します。毛筆用ではなく、羽根ペンで文字が書けるサマルカンドペーパーの誕生です。それは「シルク・ペーパー」とも評されました。欧州近代製紙のルーツであるこの紙は、8世紀のアラブを経由して12世紀にスペインにまで渡ります。そして明治時代になると、地球を逆回りして日本でも普及するのです。閑話休題。チンギス・ハンはサマルカンドの城壁や宮殿だけではなく、製紙産業や紙漉きの文化も破壊しました。そこから得られる富などには関心がなかったのです(現在、サマルカンド近郊のシオブ河が流れる水車の村・コニギルにて、サマルカンドペーパーの伝統復興活動JICAの支援の下、日本のNPO法人により行われています)。

 モンゴル軍は、馬のもつ機動性に物をいわせ、疾風のように襲い、今必要なものだけを略奪し、再び疾風のように立ち去りました。事前の情報分析は近代的なのに、実戦の戦闘方法は極めて原始的でした。チンギス・ハンは富や財宝には興味はありませんでした。領土にも執着せず、略奪も目的ではなく征服を実感するための手段に過ぎません。本来、チンギス・ハンはステップ(草原地帯)以外の領土拡張は考えていなかったようです。彼は、征服し、敗北者たちを見て、達成感を味わっていました。権威や権力を誇示したいがために他国を征服した訳でもありません。『征服』そのものがチンギス・ハンの目的、そして生き甲斐だったのです。もっとも後の彼の一族が、全てそうだったわけではありません。中世最大の旅行家イブン・バトゥータ「三大陸周遊記」には、モンゴル帝国の後継国家のひとつ、キプチャク・ハン国の首都サライ(現カスピ海北方)で、中国やインドから届いた莫大な財宝に囲まれて、豊かな暮らしを送るチンギス・ハンの末裔たちの姿が記述されています。チンギス・ハンの金朝征服戦争(1212-1215年)では、北の金朝と南の南宋を合わせて5000万人いた中国の人口が900万人にまで減少していますが、後の元朝を中国式の王朝に変容させ、都市に富を集めたのも子孫たちです。

 モンゴル軍を率いるチンギス・ハンは生涯、草原の民に終始しました。終生、外国語は学ばず、艶やかな中華文明やペルシャ文明、仏教やイスラム教など都市文化には全く関心を持たず、常に天を敬い、遊牧騎馬民族の伝統的シャーマニズムに徹していたのです。蒼き狼は、都市の堕落した文明を嫌っていました。征服された都市はつぎつぎと破壊されていきました。住民の虐殺と文化の抹殺を伴って。

②オアシスの覇者

 オトラルはその後、モンゴル帝国の支配下で再興し、キプチャク・ハン国に引き継がれ、係争の後、チャガタイ・ハン国によって奪取されます。そしてティムール朝時代に200年の時を経て、再び歴史の表舞台に登場します。ティムール帝最後の場所として。

鉄の名を持つ男  

 チンギス・ハンの第2子チャガタイは、1227年、中央アジアのアルマリク(唐代の「弓月城」、現新疆イーニン近郊)を都に遊牧国家チャガタイ・ハン国を建設します。この国はイスラム系・トルコ系を受け容れながら東西貿易の要路を地盤として栄え、オアシス地域を支配していきましたが、100年後に東西分裂を起こし、天山地方(現新疆ウイグル)を中心に東チャガタイ・ハン国西トルキスタン(現ウズベキスタンとカザフスタン南部)を中心に西チャガタイ・ハン国として勢力を分けます。西チャガタイでは内紛が絶えず、しばしば東チャガタイの攻撃を受けたため、その勢力は弱体化していきます。

 その頃、中央アジア・サマルカンドの南方に、トルコ系モンゴル人の分枝であるバルラス部という部族がいました。イスラム教を受容した貴族であり、先祖はチャガタイに仕えた将軍とされています。14世紀にはこの一族も衰え、2、3人の家臣を持つにすぎない小貴族になっていましたが、1336年、ケシュ(現シャフリサブズ)近郊でこの貴族からある男の子が誕生します。これがティムールです。バルラス部とチンギス・ハンの祖先は同じ、とする伝承があり、チンギス・ハンの子孫をティムール本人も名乗ったとされていますが、事実はチャガタイ・ハン国に仕える小貴族の出身です。

 しかし彼がチンギス・ハンを意識し、チンギス・ハンの征服事業を超える偉業を目指し、モンゴル帝国に並ぶイスラム世界帝国を築くことを理想としていたことは、後の業績から疑いありません。ティムールとはを意味していて、強い武将のイメージですが、チンギス・ハン同様に人心の掌握にも長け、君主としての高い適性を持っていました。

チンギスは破壊し、ティムールは建設した。

 若い頃には家畜の略奪などを行っていたティムールは、次第に軍事的政治的才能を現し、1369年、西チャガタイ・ハン国の混乱に乗じてサマルカンドを獲得します。このころ、軍事・交通の要衝であったオトラルの街は復興していました。1376年、ティムールは西チャガタイ・ハン国の支配下にあったオトラルを征服します。その後、東西チャガタイ・ハン国を統合し、またイル・ハン国やキプチャク・ハン国といったかつてのモンゴル帝国の分枝の旧領を次々と支配下に治めていきます。サマルカンドを都とするティムール朝はこうして誕生し、中央アジア全域を治める帝国になりました。今のオトラル遺跡には、14世紀の浴場跡や、中央アジア一帯で『シャハリスタン』と呼ばれる貴族居住地区の城壁跡(14~15世紀)などが残り、ティムール時代の建造とも言われています。

 ティムールは、1398年の『北インド遠征』によりデリー・スルタン王朝に打撃を与え、1402年には『アンカラの戦い』オスマン・トルコに勝利します。こうしてティムール朝は、一代で中央アジアから西アジアに及ぶ大帝国となりました。オスマン朝との戦闘の際、ダマスカス街の丸屋根を見て新しい建築のアイデアを得たティムールは、多くのイスラム建築家たちをダマスカスからサマルカンドへと連行し、ティムール好みに円蓋が膨らんだ、ティムール朝独特のドーム建築文化を、首都サマルカンドを中心に花開かせます。

 外征だけではなく国内政策にも注力し、首都サマルカンドを整備、人口集中を行い大都市に造り上げます。サマルカンドは中央アジアにおける政治・経済・文化の中心地となり繁栄しました。ティムールの戦争はほぼ全勝に近く、卓越した軍事的才能を持っていましたが、「チンギスは破壊し、ティムールは建設した。」と言われるように、彼は偉大なる都市建設者でもありました。特にその建築文化は、5世代後の彼の子孫で、若き日をサマルカンドで過ごしたバーブルにより、ムガル朝建国と同時にインドに持ち込まれます。そして第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代にタージマハルの屋根のフォルムに結実します(19世紀中頃、イギリスに征服されるまでティムール王朝はインドで続いていました)。サファヴィー朝イスファハンもその文化的影響下で造られた都市ですし、ロシアにおいてはビザンチン様式のクーポラ(円蓋)と融合し独特のネギ坊主に昇華します。アグラのタージマハルも、イスファハンのイマーム・モスク(王のモスク)も、モスクワ赤の広場のワシリー寺院も、全てティムールがダマスカスの建築家たちを連行したことが起因であると考えると、一般に思われている以上にティムールは、後世に大きな影響を残している人物なのです

オトラルに死す

 ティムール時代のティムール朝は、モンゴル帝国の伝統要素も取り入れたイスラム国家で、チンギス・ハンの血を引く家系から王妃を迎えて、血統的にも帝国の支配をより強固なものにしていました。ティムールは、チンギス・ハンと同族の名家の子孫との噂が領民からも湧き起こるぐらい、最もチンギス・ハンに近い男とされていました。

 チンギス・ハンの偉業を継承し、それを超える業績を残そうとしたティムールの次なる標的は東アジアです。中国にはティムール朝と同時期の1368年に建国された明王朝がありました。モンゴル帝国の旧領土すべての獲得を目指していたティムールは、1404年11月、明討伐のためにサマルカンドを出発します。そして、20万の軍勢を帝国各地からオトラルに召集します。かつて、東アジアと中央アジアの境界であったオトラルこそ、東方遠征の出陣に相応しい土地です。明王朝はモンゴル帝国の後継国家元朝を滅ぼしただけでなく、内実は歴史上の中国征服王朝と同じく明朝も漢化していたとしても、形式上の国名は、イスラムにとっての邪教ゾロアスター教(拝火教)の流れを汲むマニ教に由来しています。マニ教は中国で明教とも表示し、とは、「光と闇の二元論」光の意味です。『明』という国号はこれに由来します。明朝を建てた白蓮教徒たちも火を崇拝していました。当然、ティムールとしては絶対に倒さなければならない相手です。しかし明朝打倒の夢かなわず、翌1405年2月、ティムールはオトラルに当時いくつかあった宮殿の一つで病に倒れました。寒さからきた肺炎だったようです。チンギス・ハンの偉業を超えるユーラシア大陸征服の夢はここに潰えました。「二度目は茶番」だったのでしょうか。いいえ、チンギス・ハンとは異なり、彼は偉大な都市文化を花開かせて逝ったのです。

 アレキサンダー帝国やモンゴル帝国のように、一人の天才によって築かれた大帝国は、彼らの死後必ずや、後継者争い、相続や領土分割に国力を割かれ、領土拡張をやめてしまいます。ティムール朝もその例に漏れず、後継者たちは中国遠征を放棄してしまいました。

オトラルの衰亡

 ティムールが没した後もオトラルは、15世紀末にはウズベク族シャイバーニー朝の、16世紀にはカザフ・ハン国の支配下で、再び繁栄しますが、17世紀後半、『最後の遊牧帝国』といわれるジュンガル帝国によって破壊され、18世紀にはこの地方におけるオトラルの重要性は大きく低下していました。18世紀末には40家族が暮らすだけとなり、19世紀初頭まで数十人が居住していたようです。その後、オアシスの水源が枯渇し、衰亡し放棄され廃墟となったとされています。

 今のオトラルは、カザフスタン第3の都市『草原の都市』を意味する街シュムケント(旧チムケント、もとはオアシス都市サイラムのためのキャラバンサライの集落でしたが、やはりここもモンゴル軍によって破壊されました)の北西、シルダリヤ河右岸の草原にある廃墟となった遺跡です。現在、モスク跡、宮殿跡、浴場跡、シャハリスタンなどが見つかっていますが、大部分は未だテペ(テパ)と呼ばれる丘の下に埋もれていて、今も発掘が続けられています。

 「チンギス・ハンは破壊し、ティムールは建設した。」という言葉は、オトラルにも当て嵌ります。でもそれは当然でした。草原のゲルで育ち、遊牧騎馬民族として都市文化を嫌い、征服を生き甲斐にしたチンギス・ハンと、オアシス都市出身で、シルクロード、イスラム、ペルシャなど多様な都市文化の中で育ったティムール。彼らの生い立ちが歴史に大きな傷跡と偉大な足跡の両方を刻ませたのです。オトラルは、草原の覇者で、破壊の王チンギス・ハンがユーラシア大陸征服を開始した街であり、オアシスの覇者で、建築の王ティムールのユーラシア大陸征服の夢潰えた街なのです。

* オトラル遺跡へは、8月29日発『大シルクロード・カザフスタンの旅』千歳発着10日間)でご案内します。

 

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日本・ブータン国交樹立30周年

2016年05月13日 11時53分35秒 | ブータン

こんにちは。

今日は昨日と打って変わってとても暖かくなりましたね。

急に暖かくなると何を着ていいかわからなくなります・・・・。

 

さて、一時期、国王と夫人が来日した際に美男美女すぎる!と話題になったブータンですが、実は今年は日本とブータンの国交樹立30年という記念の年なのです。先日、東京で「ブータン・日本親善オファー」のミーティングが行われました。

ブータン経済大臣のノルブ・ワンチュク氏が来日し、「日本とブータンの外光樹立30周年の今年は、ブータンにとっても特別な年」と述べ、2016年、ブータンは「火の雄の申年」で、それは聖人グル・リンポチェが生まれた年の干支だとされる。また、ブータンの国家統一を成し遂げたシャプドゥンがブータンに到着して400年という記念の年。さらに、待望の王子が生まれる年ということで全国民が期待しているそうです。ノルブ・ワンチュク氏は「ブータンにとって、日本はとても大事な国、大事な人々。今まで30年にわたって協力してくれた。日本の救急車がブータンで患者を運び、日本の耕運機がブータンの農家を助け、日本の支援で電線が敷設され、日本の先生が教育を援助してくれる。すべてのブータン人が日本のことをよく知っている。特別な年に、日本にお礼するため、今回のオファーを企画した。このオファーを使ってぜひブータンに来てほしい」と語っています。

ブータンへ旅行するには、必ず現地もしくは日本の旅行会社を通して手配しなければならず、ブータン政府は旅行の品質安定のため「公定料金」を定めており、個人旅行でも団体旅行でも、最低限決められた公定料金を支払わなければなりません。そのため、少し他のアジアの国々に比べてご旅行代金がお高めだったのですが、今回30周年を記念して、6月から8月の間でこの公定料金を撤廃することが決定しました。

弊社では国交樹立30周年企画として、

6/22(水)発 8日間 初夏に訪ねるヒマラヤの王国・緑のブータンの旅

8/17(水)発 13日間 6つの峠を越える東西ブータン横断の旅

を企画しております。

どちらも公定料金が撤廃されることを受け、通常よりお手ごろな料金設定となっておりますので、この機会にぜひ、幸せの国ブータンを訪れてみませんか?

世界紀行

(湯田菜都美)


 

震災の年に、ブータン国王夫妻が来日されました。そのときの国会でのスピーチを、以下に添付いたします。

天皇皇后両陛下、日本国民と皆さまに深い敬意を表しますとともにこのたび日本国国会で演説する機会を賜りましたことを謹んでお受けします。衆議院議長閣下、参議院議長閣下、内閣総理大臣閣下、国会議員の皆様、ご列席の皆様。世界史においてかくも傑出し、重要性を持つ機関である日本国国会のなかで、私は偉大なる叡智、経験および功績を持つ皆様の前に、ひとりの若者として立っております。皆様のお役に立てるようなことを私の口から多くを申しあげられるとは思いません。それどころか、この歴史的瞬間から多くを得ようとしているのは私のほうです。このことに対し、感謝いたします。
 妻ヅェチェンと私は、結婚のわずか1ヶ月後に日本にお招きいただき、ご厚情を賜りましたことに心から感謝申しあげます。ありがとうございます。これは両国間の長年の友情を支える皆さまの、寛大な精神の表れであり、特別のおもてなしであると認識しております。
 ご列席の皆様、演説を進める前に、先代の国王ジグミ・シンゲ・ワンチュク陛下およびブータン政府およびブータン国民からの皆様への祈りと祝福の言葉をお伝えしなければなりません。ブータン国民は常に日本に強い愛着の心を持ち、何十年ものあいだ偉大な日本の成功を心情的にわかちあってまいりました。3月の壊滅的な地震と津波のあと、ブータンの至るところで大勢のブータン人が寺院や僧院を訪れ、日本国民になぐさめと支えを与えようと、供養のための灯明を捧げつつ、ささやかながらも心のこもった勤めを行うのを目にし、私は深く心を動かされました。
 私自身は押し寄せる津波のニュースをなすすべもなく見つめていたことをおぼえております。そのときからずっと、私は愛する人々を失くした家族の痛みと苦しみ、生活基盤を失った人々、人生が完全に変わってしまった若者たち、そして大災害から復興しなければならない日本国民に対する私の深い同情を、直接お伝えできる日を待ち望んでまいりました。いかなる国の国民も決してこのような苦難を経験すべきではありません。しかし仮にこのような不幸からより強く、より大きく立ち上がれる国があるとすれば、それは日本と日本国民であります。私はそう確信しています。
 皆様が生活を再建し復興に向け、歩まれるなかで、我々ブータン人は皆様とともにあります。我々の物質的支援はつましいものですが、我々の友情、連帯、思いやりは心からの真実です。ご列席の皆様、我々ブータンに暮らす者は常に日本国民を親愛なる兄弟、姉妹であると考えてまいりました。両国民を結びつけるものは家族、誠実さ、そして名誉を守り個人の望みよりも地域社会や国家の望みを優先し、また自己よりも公益を高く位置づける強い気持ちなどであります。2011年は両国の国交樹立25周年にあたる特別な年であります。しかしブータン国民は常に、公式な関係を超えた特別な愛着を日本に対し抱いてまいりました。私は若き父とその世代の者が何十年も前から、日本がアジアを近代化に導くのを誇らしく見ていたのを知っています。すなわち日本は当時開発途上地域であったアジアに自信と進むべき道の自覚をもたらし、以降日本のあとについて世界経済の最先端に躍り出た数々の国々に希望を与えてきました。日本は過去にも、そして現代においてもリーダーであり続けます。
 このグローバル化した世界において、日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。世界は常に日本のことを、大変な名誉、誇り、規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民、知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。これは神話ではなく現実であると謹んで申しあげたいと思います。それは近年の不幸な経済不況や、3月の自然災害への皆様の対応にも示されています。

 皆様、日本および日本国民は素晴らしい資質を示されました。他の国であれば国家を打ち砕き、無秩序、大混乱、そして悲嘆をもたらしたであろう事態に、日本国民の皆様は最悪の状況下でさえ静かな尊厳、自信、規律、心の強さを持って対処されました。文化、伝統および価値にしっかりと根付いたこのような卓越した資質の組み合わせは、我々の現代の世界で見出すことはほぼ不可能です。すべての国がそうありたいと切望しますが、これは日本人特有の特性であり、不可分の要素です。このような価値観や資質が、昨日生まれたものではなく、何世紀もの歴史から生まれてきたものなのです。それは数年数十年で失われることはありません。そうした力を備えた日本には、非常に素晴らしい未来が待っていることでしょう。この力を通じて日本はあらゆる逆境から繰り返し立ち直り、世界で最も成功した国のひとつとして地位を築いてきました。さらに注目に値すべきは、日本がためらうことなく世界中の人々と自国の成功を常に分かち合ってきたということです。
 ご列席の皆様。私はすべてのブータン人に代わり、心から今お話をしています。私は専門家でも学者でもなく日本に深い親愛の情を抱くごく普通の人間に過ぎません。その私が申しあげたいのは、世界は日本から大きな恩恵を受けるであろうということです。卓越性や技術革新がなんたるかを体現する日本。偉大な決断と業績を成し遂げつつも、静かな尊厳と謙虚さとを兼ね備えた日本国民。他の国々の模範となるこの国から、世界は大きな恩恵を受けるでしょう。日本がアジアと世界を導き、また世界情勢における日本の存在が、日本国民の偉大な業績と歴史を反映するにつけ、ブータンは皆様を応援し支持してまいります。ブータンは国連安全保障理事会の議席拡大の必要性だけでなく、日本がそのなかで主導的な役割を果たさなければならないと確認しております。日本はブータンの全面的な約束と支持を得ております。
 ご列席の皆様、ブータンは人口約70万人の小さなヒマラヤの国です。国の魅力的な外形的特徴と、豊かで人の心をとらえて離さない歴史が、ブータン人の人格や性質を形作っています。ブータンは美しい国であり、面積が小さいながらも国土全体に拡がるさまざまな異なる地形に数々の寺院、僧院、城砦が点在し何世代ものブータン人の精神性を反映しています。手付かずの自然が残されており、我々の文化と伝統は今も強靭に活気を保っています。ブータン人は何世紀も続けてきたように人々の間に深い調和の精神を持ち、質素で謙虚な生活を続けています。
 今日のめまぐるしく変化する世界において、国民が何よりも調和を重んじる社会、若者が優れた才能、勇気や品位を持ち先祖の価値観によって導かれる社会。そうした思いやりのある社会で生きている我々のあり方を、私は最も誇りに思います。我が国は有能な若きブータン人の手の中に委ねられています。我々は歴史ある価値観を持つ若々しい現代的な国民です。小さな美しい国ではありますが、強い国でもあります。それゆえブータンの成長と開発における日本の役割は大変特別なものです。我々が独自の願望を満たすべく努力するなかで、日本からは貴重な援助や支援だけでなく力強い励ましをいただいてきました。ブータン国民の寛大さ、両国民の間を結ぶより次元の高い大きな自然の絆。言葉には言い表せない非常に深い精神的な絆によってブータンは常に日本の友人であり続けます。日本はかねてよりブータンの最も重大な開発パートナーのひとつです。それゆえに日本政府、およびブータンで暮らし、我々とともに働いてきてくれた日本人の方々のブータン国民に対するゆるぎない支援と善意に対し、感謝の意を伝えることができて大変嬉しく思います。私はここに、両国民のあいだの絆をより強め深めるために不断の努力を行うことを誓います。
 改めてここで、ブータン国民からの祈りと祝福をお伝えします。ご列席の皆様。簡単ではありますが、国の言葉、ゾンカ語でお話したいと思います。
「(ゾンカ語での祈り)」
 ご列席の皆様。いま私は祈りを捧げました。小さな祈りですけれど、日本そして日本国民が常に平和と安定、調和を経験しそしてこれからも繁栄を享受されますようにという祈りです。ありがとうございました。

 

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催行決定ツアー

2016年05月09日 15時48分50秒 | その他

こんにちは。

ゴールデンウィークが終わりましたが、皆様はどのようなゴールデンウィークをお過ごしになりましたか。弊社では、ゴールデンウィーク号といたしまして、新しいパンフレットを作成しましたが、皆様のご自宅には届きましたでしょうか。

また、夏にかけて催行決定のツアーがいくつかございますので、ご紹介いたします。

6/ 1発 隠岐諸島4島巡りの旅 6日間

6/18発 レンソイスの白砂漠とイグアス・フルムーンウォーク~ブラジル大自然 11日間

7/ 1発 チロル・お花畑ハイキングとドロミテ最奥の村 13日間

7/ 1発 ケルトの国・アイルランド周遊の旅 14日間

8/18発 動物天国マサイマラ国立保護区滞在とヌーの大移動の旅 11日間

その他、催行決定間近のコースもございますので、お気軽にお問合せください。

 

また、長濱榮子写真展が8日無事に終了しました。

沢山のご来場誠にありがとうございました。

 

私は15日から中国に入って参ります。久しぶりの中国です。

新しいパンフレット、次回のパンフレットには中国を含めアジア方面も多く掲載予定です。

ご興味がありましたらぜひご参加ください。

(湯田菜都美)

 

 

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ゼーフェルト

2016年04月22日 16時58分31秒 | オーストリア

こんにちは、前田です。

札幌は連日の暖かさでコートも必要なくなり、春といった感じで気分も軽くなりましたね!

今日は、出発間近のツアーをご紹介させていただきます。

 

(ゼーキルヒル)

インスブルックの北西、ドイツとの国境にほど近いゼーフェルトの町は、西をホーエ・ムンデ、東をカーヴェンデル、
北をドイツとの国境を形成しているヴェッターシュタイン山系により、三方を山に囲まれた海抜1,180m、人口2,800人のリゾート地です。

車から解放された町の中心地は牧歌的なメルヘンの世界。
駅前から真直ぐにのびる並木道は絵のように美しく、オーストリアの軽井沢とも呼べる雰囲気を持った町です。
歩行者ゾーンには80以上の店舗、ワインセラー、ビアホール、レストランなどが軒を連ね、
また、カジノ・ゼーフェルトはオールマイティーのショッピングセンターとなっています。

「ゼーキルヒル」と呼ばれる小さなチャペルはゼーフェルトのシンボルであり、夏には村人たちの結婚式の舞台となります。

今年も7月1日初の『チロル・お花畑ハイキングとドロミテ最奥の村』の旅でご案内いたします。

あと一歩で出発決定ですので、お問合せお待ちしております!

世界紀行

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『カンプィルテパ』 アレキサンドリア・オクシアーナと大乗仏教北伝の謎

2016年04月20日 23時20分49秒 | 砂に埋もれたシルクロードの歴史

 現在のテルメズから西に20km離れたカンプィルテパは、古代においてインドと中央アジア・バクトリアを結ぶルートがアムダリヤ河を越える地点に造られた要塞都市です。カンプルテパ、またはカンピルテペとも記載します。紀元前4世紀、中央アジアに侵攻したアレキサンダー大王もここで大河アムダリヤを渡りました。ここから彼は、後に『アレキサンダーの道』として知られるようになったルートを通り、インドへと向かいます。大王はアムダリヤ河越えの場所に都市を建設し、それを『アレキサンドリア・オクシアーナ(オクサスのアレキサンドリア)』と名付けたとされていますが、一部の研究者によるとそれがこのカンプィルテパだともされています。オクサス(オクソス)は、アムダリヤ河の古代名です(中国では烏滸河[おこが]と呼ばれました)。近年、ウズベキスタンの考古学者たちはクシャン朝時代に起源を持つシタデル(要塞)の基礎構造のさらに下から、古代ギリシャの伝統的様式で造られた巨大な城壁や、当時の硬貨や陶器を含む文化層[遺物包含層]を発掘しています。 

 住民たちは幾度も街を再建することはせずにアムダリヤ河の大洪水により一斉に街を放棄したため、カンプィルテパは他の古代都市と異なり数メートルの高さで土の層に覆われ、後の時代の生活層が形成されませんでした。そのおかげで考古学者たちは、紀元前2世紀の初頭に遡るクシャン朝時代の住居群のさらに下に、アレキサンダー時代の都市の輪郭を発掘することに成功しました。20ヘクタールに及ぶ発掘の結果、中央アジアにおける都市集住、シタデルなど軍備防衛、集積・交易市場など複雑な都市の形成が中世の遥か以前に成されたことが証明されました。住宅地は幅1.5mから2.2mの 通りで区分され、全ての通りには邸宅の他に倉庫、公共の宗教施設、公民館などが配置されていました。また、これによりシルクロード時代の西トルキスタンの都市設計のモデルが古代の伝統にルーツがあることも証明されました。発掘されたエジプト・ペルシャ・レバノン・インド・中国からの文物は外国との大規模な文化交流と交易を示しており、特にパルティア語が刻まれた印章青銅製の聖杯、女性や鳥が描かれた象牙の櫛、コインなどが学者たちの注目を集めています。

 

カンプィルテパの発掘とアムダリヤ河北岸の歴史文化的研究の結果、古代ゾロアスター教の水の女神・アナーヒターは、アムダリヤ河の象徴[カラクム・キジルクム両砂漠における大河アムダリヤ信仰]であると認められるようになりました。アナーヒターは、のちに西方世界でアッシリアのイシュタル神や、ギリシャの愛と美の女神アフロディーテと習合し、特にエフェソスで崇拝された女神アルテミスとは同一視されるようになりました。一方、東方世界では、ヒンドゥー教の水と豊穣の女神サラスヴァティーや、我々日本人に仏教を身近に感じさせてくれる、水や川に関係の深い観世音菩薩弁財天の起源となります。カンプィルテパ発掘の貢献により、アムダリヤ信仰と仏教の菩薩や天部の習合など、大乗教がいかに変容を遂げていったのか、大乗仏教北伝の謎が今、少しずつ解き明かされつつあります。  (湯田菜都美)

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シルクロードの都市共和国『ポイケント Poykent 』

2016年04月20日 16時28分16秒 | 砂に埋もれたシルクロードの歴史

 ポイケントPoykentは、アムダリヤ河支流ザラフシャン河下流域カラクム砂漠にかつて栄えた古代オアシス都市で、現在のウズベキスタン・ブハラの南西55kmに位置しています。パイカンドPaykandパイケントPaykentパイケンドPaykendとも発音、記載されたりもします。昭武九姓には数えられていませんが、ソグド人の植民都市として諸外国から認識されており、中国名は畢国(ひこく、発音は「」)です。

 考古学的研究によるとこの街は、紀元前4世紀に小さな村落として誕生し、後に北のウラル山脈・北コーカサス・ヴォルガ流域やホラズム地方と、南のバクトリア・インド・ペルシャとを結ぶ交易の中心地となり城壁が形成されました。大シルクロード時代になると、貿易センターとしてのみならず、ソグディアナ西部国境の重要な軍事拠点にもなりました。シルクロードの発展とともに要塞化されたこの街は、隣接する2つの集落を併合し「古代都市ポイケント」が造られました。その結果、中国の絹と地元の特産品を取り扱っていたソグド商人全盛の時代『パンジケント[ペンジケント]・サマルカンド・ポイケント回廊』と呼ばれるシルクロードの主力ルートの一翼を担うようになります。当時のポイケント商人の足跡は、日本・ベトナム・セイロン(スリランカ)にまで及びました。また、ポイケントのバザールには、唐・ペルシャ・インド・アラブの商人のみならず、ヨーロッパからも商人が集まってきました。当時のポイケントの高名は、バグダッドのバザールでブハラから来たキャラバンたちも、自らをポイケントの隊商隊と名乗るほどでした。隊商の都市であるために、男性は留守になりがち。そのため、街の防衛には弓や乗馬を習得した女性たちがあたりました。ポイケントの女性の力は強く、夫が隊商で長期にわたって不在なこともあり、都市誕生の初期には一妻多夫制がとられていました。

 隋唐時代の史書によると、ポイケントは安国(ブハラ)の支配下にあった畢国の中心地とされていますが、それ以前、6〜7世紀のこの町は、知事も存在せず、隊商たちの議会によって統治されており、自治という面からみて言葉の完全な意味での共和制都市国家でした。

ソグド人の目の部分が描かれたフレスコ(ポイケント博物館) 

 

1981年からのロシア国立エルミタージュ美術館とウズベキスタンの考古学者たちの20年以上にわたる発掘と研究の結果、要塞内からはゾロアスター教寺院群、宮殿、9世紀のモスク、同じく9世紀の中央アジア最大のミナレットの土台(直径9m)などが、街の内側では、城壁、城門、道路、居住地区、中央アジア最古の薬局跡[西暦に直すと790年にあたる年号が記載されたガラスの薬品鉢が発見されています]などが、街の外部では陶器製作の窯、キャラバンサライ[隊商宿]が発見されています。また、6世紀の仏像頭部なども見つかっています。現存する中央アジア最大のミナレット[塔]は、ブハラのカラーン・ミナレット(11世紀)ですが、ポイケントのミナレットはそれを上回る大きさでした。しかし、日干しレンガで造られていたため、残念ながら風化により崩壊してしまい、その歴史を参考にしたカラーン・ミナレットの建築家は焼きレンガを用いています。ポイケントの繁栄は、8世紀のアラブの侵入の際に、アラブ軍の指揮官が街にあったたくさんの黄金仏を溶かし、金の延べ棒にして部下に配ったという逸話からも伺い知れます。

 近年の調査よると、ザラフシャン河の水位の低下により、9世紀中頃に街は消滅したと考えられています。そしてこの歴史的都市は、今から800年前に流砂の下に埋もれてしまいました。現在、隣接する博物館で出土品の見学ができます。 [ユネスコ世界遺産情報照会暫定リスト]  (横倉小百合)

 

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古テルメズの歴史 History of ex-Termez

2016年04月20日 16時25分15秒 | 砂に埋もれたシルクロードの歴史

  ウズベキスタン最南部の街、現在のテルメズから数キロ東に位置していた古テルメズは、今から2500年以上前に都市が建設されたとされていますが、その詳細は不明です(フランスの考古学チームが近くのカンプィルテパ遺跡から2500年以上前の遺品を発掘しています)。少なくとも前6世紀にはアケメネス朝ペルシャの人たちに、中央アジア・バクトリア地方のテルメズの街の存在は知られていました。

  元前329年、当時、アムダリヤ河における唯一の「渡し」機能を持っていた場所、テルメズ近郊30kmのカンプィルテパにて、全軍を6日間かけて渡河させたアレキサンダー大王はテルメズを征服し、ギリシャ人たちはここをギリシャ語で「暑い土地」を意味した「テルメズ」と命名しました。のちに、この地方におけるアレキサンダーの後継国家グレコ・バクトリア王国の第4代国王デメトリオス1世により、デメトリスと改名されます。

  デメトリオス1世はインドのマウリヤ朝滅亡後のガンダーラ地方にその支配区域を広げ、アレキサンダー時代に決まった東西世界の自然の境界線を消滅させてしまいます。そのため、逆に後代、北西インドに勃興したクシャン朝によるバクトリア征服も容易になり、テルメズもまたその支配下に置かれます。その結果カニシカ王時代になるとクシャン朝の仏教文化が中央アジアに流れ込み、テルメズはその中心地となりました。中国では「トゥミ」または「タミ」と発音され、呾蜜怛満といった漢字が当てられました。7世紀の大唐西域記にも「呾蜜国」として表記され、玄奘は伽藍が十余箇所あることを伝えています。7世紀まで仏教はテルメズの主要宗教でした。この時代のものとして、ユネスコ世界遺産情報照会暫定リストカラテパ遺跡[2~3世紀]には僧院跡、仏塔跡、僧坊跡が、ファヤズテパ遺跡[1~3世紀]には三尊仏、僧院跡、2世紀のストゥーパなどが残されています。カラテパは、北の丘、西の丘、南の丘の3つの地区に分かれていますが、このうちの北の丘において、1998年春、中央アジア史家・加藤九祚教授による調査チームが大ストゥーパを発見しています。カラテパでは1938年に玄奘三蔵も言及している仏教施設も発見されています。

ファヤズテパ遺跡 

 

街は5世紀には遊牧国家エフタルの、6世紀にはササン朝ペルシャの支配下に置かれます。7世紀には北方の遊牧騎馬国家突厥の保護の下、地元出身者によるテルメズ王朝の都になりますが、705年、アラブ人の侵略を受け、その後、アッバース朝サマーン朝の時代には、街はバクトリアにおけるイスラム教の中心地となりました。9世紀から12世紀にかけては、カラハン朝セルジューク朝トルコガズニ朝の支配下で、街はイスラム・中央アジア文化の中心地としてだけでなく、シルクロードの一大マーケットとして、さらに工芸の都市として全盛期を向かえ、9つの城門を持つ全長16kmの城壁で囲われていました。

40人の乙女の宮殿(キルク・キズ)

 

  1206年からテルメズを支配したホラズム・シャー朝もとで、イスラム教による偶像禁止が徹底され、仏像が破壊され、1220年チンギスハンの西征(ホラズム征伐)よる2日間の包囲によって街は完全に破壊されてしまいます。オトラル事件を起こしたホラズム王スルタン・ムハンマドの巻き添えです。13世紀後半にはティムール朝の時代、『チンギスは破壊し、ティムールは建設した』との言葉どおり、北方3キロの場所に街は復元され、ティムールの師がこの街の出身者であったこともあり一時的な繁栄を取り戻しはしますが、17世紀になるとサファヴィー朝ペルシャオスマン朝トルコの混乱の下、街は再度破壊され、18世紀後半、この歴史的都市は住民から放棄されてしまいます。現在はかつての古代都市の近くにサラヴァットとパッタケサールという小さな村落が2つ残るのみです。(湯田菜都美)

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写真展のお知らせ

2016年03月23日 14時25分09秒 | その他

お久しぶりです。

しばらくブログを更新せずに申し訳ございませんでした。

そして、もう4月になってしまいますが、今年もよろしくお願いいたします。

さて、写真展のお知らせです。

 

『人生の旅路』 長濱榮子 写真展

4月26日(火)~5月8日(日) ※月曜休館日

09:00~19:00 ※最終日は17:00迄

札幌資料館 ミニギャラリー3、4

札幌市中央区大通西13丁目

℡011-251-0731

地下鉄西11丁目駅1番出口より徒歩5分

 

 

弊社のツアーにご参加いただいた時のお写真を中心に展示していただきます。

お時間がございましたらぜひお越しください。

facebookも始めました!

https://www.facebook.com/%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%B4%80%E8%A1%8C-438221443037621/?notif_t=page_user_activity

よろしければご覧ください。

(湯田菜都美)

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プラハ滞在

2015年08月24日 16時07分31秒 | チェコ

こんにちは前田です!

弊社では現在新しいパンフレット9月号を急ピッチで作成中です。

予定では今月末に完成し、皆様へお届けできるのが9月の初めになるかと思います。

この冬から年明けのツアーが主となっております!

待ちきれない!という方はホームページには既に掲載されているものもございますので、そちらもご覧ください。

 

さて、今日は新しいパンフレットからではなく、5月号に掲載している10/2発「秋のプラハ滞在とボヘミア地方の旅」のご紹介です。

それぞれ世界遺産に登録されている、プラハに4連泊、チェスキー・クルムロフに連泊の8日間で、滞在型の気軽な旅となっております。

 

二つの街とも、旧市街の見どころは全て徒歩圏内に集まっており、ぶらぶら歩きをしていても飽きることなく楽しんでいただけます。

滞在型ならではの自由な時間の使い方ができるのも魅力の一つで、ゆったりした旅だからこそできる夜のバーでの一杯、その足でライトアップを楽しんで帰るといった楽しみ方もお勧めです!

 

 

滞在型とはいえ、主要な見どころはしっかりと日程に組み込ませていただいておりますし、自由行動時には添乗員がしっかりご案内させていただきますので、どなた様も安心してご参加いただけます!

出発もあと一声で決定ですので是非この機会にご検討ください!

 

10/2(金)発~10/9(着) 8日間

「秋のプラハ滞在とボヘミア地方の旅」 ¥325,000

 

世界紀行 

 

 

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