井泉短歌会

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短歌・たんか・タンカ

2006年03月10日 | 過去の誌面より
<リレー評論・短歌の今を考える>

短歌・たんか・タンカ   新畑 美代子

 昨今の短歌の多様化や変容を考えるために 「短歌」 「たんか」 「タンカ」 の三段階に分けてみることにする。 この分け方は誠に大雑把で、 それらの中間的、 両方へ軸足をかけている歌の方が多いと思われる。 また世代、 年齢にも関係なく、それぞれの作者が短歌にむかう価値意識の問題と思われる。

〈 短 歌 〉 内面・主体、 人生派
 近代文学や、 自然主義リアリズムなどの遺産を受け継ぐもの。 「自己の生きる証し」 「経験と人生」 「内面の表白」 「短歌的抒情」 「私 (主体) の確立」 「恵まれない人たちの解放など社会とのかかわり」 などの教養主義文学の価値の影響を継いでいる短歌。
 また、 一九五〇年代、 戦前戦中の短歌への批判として出た第二芸術論への対応として、 塚本邦雄、 岡井隆、 寺山修司をはじめとする前衛短歌が出現した。 「短歌的抒情の排斥」 「虚構の導入による私性の拡張」 「詩的レトリックや喩法の導入」 など私小説的なものや実人生に密着するもののみが短歌ではないことを主張した。 また短歌へ主題を導入し、 連作という方法で文学として成立させるなど、 前衛短歌は、 それ以降の歌人にさまざまな栄養として浸透し、 戦後短歌の基礎となった。 小池光、 三枝昂之、永田和宏たちの世代はこの影響下に出て来た歌人である。
 いま一つ、 一九八〇年代にライトバース旋風をおこした、 俵万智の 『サラダ記念日』 は歌壇外を巻きこんだ大きなブームとなった。 年代的、 世代的にも次の項の〈たんか〉に重なるが 「私小説的」 「実人生派 (生活派)」 の近代文学的な価値の流れの上にあるものとして、 また国民歌人的な歌としてこの項に入れたい。 俵万智について、 浅田彰の当時のコメント (一九八七年 『日経イメージ気象観測』 十月号) を引用しておく。
 ……俵万智現象は〈ナウ〉な言葉遊びの世界の地平を広げるものというよりも、 それに終止符を打つものと言った方がよい。 あるいはまた、それによって言葉遊びの世界が徹底的に大衆化した結果、 言葉と日常生活との落差がほとんど消滅してしまったとも言えるだろう。 もちろんこれは突発的な現象というわけでなく、 パロディ文化が差異のポテンシャルをすり減らして力を失いつつあった傾向を、 最終的に加速するものにすぎない。 (パロディの終焉、 モダンへの回帰) 浅田彰
 これは、 当時の歌壇的評価とはいささかへだたりがあるが、 情況の変化をへた今日の視点でみる時、 近代への回帰という見方は理解できるコメントである。

 ここで次の項の〈たんか〉へ移る前に、 文学にかかわる当時の社会情況の変化について、 簡単にみておきたい。
◇一九八〇年代あたりからの資本主義経済の発達、 バブル期からバブル崩壊の時期をむかえる。 テレビ、 アニメ、 マンガなどの普及により、 サブカルチャーが文学へ流入する。「文学全集」 ではなく、サブカルチャーで育った世代が増えたということだろう。サブカルチャーの流入は、 近代文学の価値の 「内面の深化」 を軽薄化させ 「精神」 を感性化させ、 感覚化させることになった。 大塚英志は 『サブカルチャー文学論』 の中で、 「文学という脆弱なジャンルにサブカルチャーの手口を持ち込むことでこの国の戦後のある時期からの文学の延命を図ってきた」 「そもそもサブカルチャーや風俗流行と無縁の 「純粋文学」 があった時代など、 恐らく近代文学史のどこにも存在しないのだ」 「サブカルチャーの発達の歴史は、 文学の失効の歴史である」 と書いている。
◇一九八九年のベルリンの壁の崩壊から、 東欧、 ソ連共産主義圏の解体により、 これまでの米ソの冷戦構造が終結する。 この事件は、これまでの二項対立的な思考法 (右翼と左翼、 善と悪、 常識と非常識など) で成立してきた文学の 「主体」 (自己同一性) 「内面」 「批評」 を変容させることになった。
◇近年のめざましいテクノロジーの発達は、 これまでのさまざまな分野の価値を挑発している。
 コンピューターやケイタイの発達で世界中どこに居ても即時コミニケーションを取ることができる。 便利になったということだけではすまされない。 人間の距離感覚や時間の概念、 空間、 自分がどこに居るかという場所の概念に変容を来たすことになる。
 テレビの普及でヴァーチャル・リアリティという言葉が云々されるようになったが、 私たちはもうテクノロジーの媒介と編成をへないでは、 現実と接することができなくなってきている。 即ち 「現実」 と 「非現実」 を区別することが困難になっているといえる。
 遺伝子工学や、 バイオテクノロジーの発達は 「人間の生命」 そのものの考え方に変容を迫っている。 クローン技術など 「存在」 「主体」 そのものが危うい。 「人間らしさ」 をどう考えればよいのだろう。
◇情報化社会は、 「内面」 を 「感性化」 させ 「情報化」 させ 「考える」 ことを麻痺させてゆく。
◇一九八〇年以降、 近代思想批判として、 構造主義、 ポスト構造主義などのポスト・モダン思想が海外から日本へ流れ込んだ。 これらは多岐多様にわたり厖大であり、
とてもここで説明することはかなわないが、 社会情況の変化と相乗して 「文学」 に変容を迫ったと言えるだろう。
 前述のような時代の情況の変化が 「ポストモダン」 と呼ばれている。

〈 た ん か 〉 感性・感覚派
 この項には、 ニューウェイブと呼ばれた歌人荻原裕幸、 加藤治郎、 穂村弘、 その影響を受けて出てきた歌人たちを入れたいと思う。
 この歌人たちは、 ポストモダンの影響を受け、 これまでの〈短歌〉の価値から意識的に距離を取っている。 「内面の深化」 というより 「感性」 「感覚」 「イメージ」 が主流となっている。
  まだ何もしてゐないのに時代といふ牙が優しくわれ噛み殺す 荻原 裕幸
 荻原は、 かつて塚本邦雄の門下にいたこともあり、 前衛短歌の世界は熟知した歌人。 それだけにポスト・モダン思想にも敏感だったと思われる。 この歌は、やっとこれから短歌 (文学) を追求しようとしている自分に 「時代という牙」 が優しく自分を噛み殺そうとしているの意。 「時代という牙」 は、 ポストモダン情況、 そして近代文学批判のポスト・モダン思想のことだろう。 ひとつの時代の終りを意識している。 他に、 作品にさまざまの表記記号を持ち込み 「記号短歌」 と言われたが、 ポストモダン情況下の 「言語の位相」 に反応した結果の作品といえるだろう。
  ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで 加藤 治郎
 加藤は、 岡井隆の門下でありアララギから前衛短歌に至る〈短歌〉の世界に精通している。 それだけに今のこの時代情況に似合う表現方法を考えたのだろう。 「口語体は現代短歌の最後のプログラム」 という自説通り、 口語、 会話体を文体とする。 この歌の 「遅れて喩からあがってくる」 のは、 〈短歌〉の価値感をもつ歌人たちを指している。 また加藤は、 情報社会化するテクノロジー, 特にコンピューターの発達には、 恐らく歌壇のなかで最初に意識した歌人ではなかったか。
  「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」      穂村  弘
 穂村は、 俵万智が角川短歌賞を受賞したとき、次席に入選した歌人。 荻原や加藤とは少し位相が異なり、〈短歌〉の遺産をそぎおとして作歌をはじめた感じがする。 意味を重視するのでなく、感性を描写する表現方法、またサブカルチャーの世界を意識的に短歌へ導入したのも穂村であり、 口語体、 会話体で、 一人稱というよりも三人稱的な文体を持つ。 この歌の 「ブーフーウー」 も衆知のアニメの子豚三兄弟。こんなことを言ったら彼女に叩き出されそうな酔っぱらいの役を、 会話体だけで提示している。 穂村の、 意味でなく感性を描写する手法は、 後続の歌人に広く影響を与えたと思われる。
 このニューウェイブの歌人たちの影響を受けたのは、 現在の若手歌人の殆どであろうと思われるが、 千葉聡、 飯田有子、 東直子、 小林久美子などが思い浮かぶ。

〈 タ ン カ 〉  情報派
 この項には、 IT短歌を入れたい。 と言っても私は活字化されたものしか知らないのだが、 そして、 IT短歌といってもいろいろ幅もあるだろうが、 近年インターネットに発表されている短歌を考えている。 短歌のイロハを始めたばかりの作品を云々しても仕方がないと思うが、 数として厖大のようだ。 言えることは、 この年代の若手たちの成長した環境を考えると 「文学全集」 などに接する機会もなく、 ベストセラー小説、 テレビ、 アニメ、 マンガ、 ゲーム、 コンピューターの情報などで育った人たち、 前述したポストモダン情況のなかで育ってきた世代と思われる。
 ここでは斉藤斎藤の歌集 『渡辺のわたし』 を取りあげたい。
  お名前何とおっしゃいましたっけと言われ斉藤としては斉藤とする 斉藤 斎藤
  わたくしの代わりに生きるわたしです右手に見えてまいりますのは
  題名をつけるとすれば無題だが名札をつければ渡辺のわたし
  おまえの世界に存在しない俺の世界のほぼど真中ガム噛んでいる
 この歌集は一冊で自己同一性 (アイデンティティー) にこだわりつづけた 「自己紹介」 といえるだろう。 歌に出てくる固有名詞の斉藤、 斎藤、 渡辺、 鈴木、 タカシ、 あるいは、 わたくし、 わたし、 ぼく、 俺など、 その時の事情によって自己を分散、 解体させる、 結果、 辻褄のあうことなど不可能な自己同一性を歌の中に投げ出してみせる。 大真面目に自己を腑分けするさまは、 自己同一性を疑ったことのない読者にはふざけて映るだろう。 また、 表現方法も 「内面」 や 「感性」 に帰納することのないように、 自己の周囲のできごとや事実を描写するだけの文体、 むしろ 「情報の提示」 のようだ。 昨今、 「内面」 が 「情報」 にすり代わってゆく情況が来ているといわれるが、 そこまで来ればこれまでの 「文学の遺産」 はゼロになったということだろう。
  「文学」 「思想」 「哲学」 などの価値が崩壊した時、 ではどうすればよいのか。「考える」 ということだけは残されている。 斉藤が自己同一性にこだわったように、 何かにこだわって 「考える」 ことしかないのかもしれない。 時代情況などは、 世相の変化ですぐに変わる。 例えば戦争やテロに国家が巻き込まれたら忽ち変わるだろう。その時に過去の失敗を繰り返さないためにも 「考える」 ことにこだわりたいと思う昨今である。


(第7号、2006年1月1日発行)

三月歌会のお知らせ

2006年03月10日 | 歌会のお知らせ
○三月歌会は、
2006年3月12日(日)午後1時~5時、開催の予定です。
「井泉」第八号による合評会を行います。多数ご出席下さい。

○四月歌会は、
2006年4月9日(日)午後1時~5時、開催の予定です。
歌会詠草(2首)による批評会です。
詠草締め切りは4月2日(日)です。お忘れなく。


○新年歌会は、
2006年1月15日(日)午後1時~5時、開催されました(参加者24名)。

○二月歌会は、
2006年2月12日(日)午後1時~5時、開催されました(参加者23名)。

(参加者には詠草のみ提出の方を含みます。)


井泉歌会は、会員以外の方の参加も歓迎しております。
※お問い合わせは管理人(江村)ayayo@f4.dion.ne.jpまで(件名を「井泉問い合わせ」として下さい)。



第八号目次

2006年03月10日 | 目次
「井泉」第八号 目次 (2006年3月)
表紙絵 春日井建

招待作品(川柳)
 春の母・・・樋口由紀子 2

題詠「せい」
 壷屋・・・加藤秀子 4
 冬瓜正座す・・・栗田加壽 5

作品(一)・・・6

リレー小論 わたしが評価する今の短歌
 評論、の外側に・・・黒瀬珂瀾 24
 何が求められているのか・・・森本平 26
 言葉のリアルさと世界への意識と・・・佐藤晶 28
 歌が時代の喩になるところ・・・彦坂美喜子 30

加藤明子歌集『彩片』評ー鋭い感性と深い詩想・・・中野照子 32
加藤明子歌集『彩片』評ー言葉その力・・・大熊桂子 34

作品(二)・・・36

前号歌評(前)・・・江村彩 52
前号歌評(後)・・・小松甲子夫 54

作品(三)・・・56

評伝 春日井建(七)・・・岡嶋憲治 74

いずみ(随筆)
 『風姿花伝』を経営戦略の書として読む・・・平野秋彦 78
 難波新地今昔・・・山根木よしたけ 79
 
連載 現代短歌はどこで成立するか(56)・・・彦坂美喜子 81

井泉大会のお知らせ・・・85

歌会だより・会則・投稿規定・・・86

編集後記