春という季節なヤツの波動は、他の、
夏、秋、冬 の3つの季節なヤツに比べて、
リフレッシュな波動だ。
リフレッシュな波動というのは、どういう波動かと言うと、
どういう波動だ?
と、逆に俺が聞いてみるのはどうよ。
みたいな波動です。
ってぜんぜんわからない。
わからないかなー。
ようするに、言わなくたってみんな知ってるべ。
という波動なのではないかと、思うのだがのリフレッシュ。
人や生き物は、
空気を吸ってはいてーまたすってまたまたはいてーまたすおー。とか。
食ったり飲んだり。またそれを、出したり流したり。
食べて飲んで、うんこしょーべん吐き出すしたり。とか。
立ったりちじんだり、濡れてひらいたり閉じたり。
とにかく、入れては出してぇー、はいー出しては入れるぅー。
みたいなことばっかやりつづけながら生きてるわけです。
なんで?
それが、運動というものだから。
で。それって、エロいべ?
エロくない。と思うヤツは、ようするに、エロくないんだけど、
人間、生き物は、エロい存在で、人間であり生き物である。
と、私は言うのでです。これわ、誰からも教わったことではなく、
私の理論です。本来ならノーベル賞がもらえるほどの理論なのですが、
俺が発見した。ということで、ということだけで、実は、
そんくらいのすごいものだと思う存在がいないのです。
つまり、それは、バカにするなー!なめんなよ!みたいな話を、私が言わないと、
私が解説つーんでしょーかー、もっともっと世間にそれを訴えないと、
それは、つまり、ノーベルな世界なところには、届かないのです。
そんなかったるいこと、俺がするわけがないので、この、ニュートラルからエロが
加算された、どこの物理学の世界よりも進んで新しい、私の新・相対性理論の方程式は、
どこの教科書にものらないのです。
それはしかし、のらなくて良いわけです。
この地球上の物理学などというものは、オリンピックの記録のように、
常に変化、進化していくもので、アインシュタインの理論のように、
それを永遠の真理のようにして、さも偉大で大したものに固定してしまうと、
進化の妨げにもなるのです。
なぁ~んてすんっげ~~~~~めちゃくちゃでっけぇ~口たたくのが、
春の波動です。
それは、なんだか、精神や肉体が、何かに目覚め、
覚醒リフレッシュする季節、または、卒業はすみ、
さーこりから、新学期。ぴかぴかの1年生になったような感じ。
そーいった感じに波動です。
だから、熊でも俺でも。暖かくなって外に出るのが気持ちよい、
みたいなこの雪もとけていく気温、湿度「気」なる空気の、
季節の波動である、
春。
とゆーヤツが毎年やって来てくれるおかげで、
私たちは、運動する存在であり、つまりエロい存在であることを、
続けていくことが出来るのです。
しかし、人間、生き物、私たちは、エロそのものなんだす。
それを、わかりやすく言うとしましょう。
君は男?じゃーぽこちんがあるよね。
君は女?じゃーこーまんがついてるはずだ。必ず。
私たち人間、生き物の肉体には、それぞれ男女異なる「性器」が必ずあるべ。
そんな偉い人にも、男ならソレ。女性にはソレという、性器があって、
それは、どんな働きをするためにあんのだ?
だろ?(笑)。
それは、私たち人間の子孫、種を残すための機能でもあるのだろうけど、
それ以前に、それそのものは、めちゃくちゃエロいべ。
それは、どんな人にだって在る。ということからしてエロいべ、
性器は、私たちが生きていく中で、感覚的に、最も気持ち良い感覚、
快感、オルガスムスを得られるものでもあり、
それは、目の前で露呈するには恥ずかしいものであり、
公衆の面前でそれを見せると逮捕されてしまうものでもあり、
だけど、異性間では、みたいものでもあり触れたいものでもあり、
とにかく。何が、やらしー、エロいのか、という考えは、
この私たち誰もが肉体に持ってる、「性器」というものの存在がなかったら、
果たして、考えつくこともなかっただろーと思えるほどの、つまりが、
エロそのものなる存在なわけだす。
君のそのスカートの奥に秘めたコーマンを、
強引にスカートをまくり上げてパンツーすりーもズリおろし、
私の目の前に剥き出しにしてみたりなんかする。
すると、私はその君のその乱れた服装やらその格好やらなんやらで私に
コーマンを私から強引に露呈され恥ずかしい顔をしてる光景を見て。
僕のポコチンはたっちゃうんだぞ=。それも、Hな気分に高揚し、気が高まって。
この、やらしーやらしーエネルギー。この何とも言えない、
少なくとも、楽しくないわけはない、まして不幸感覚や不快感などの「負」なるものとは、
まったく逆の快い「プラス・せいなるえねるぎー」の「気力」。
しかしエロい。
この、なんとも大衆的であり公平平等的な、
決して優劣的なものではない、人間的でもあるこの、
なんとも素晴らしい力であるこの「気」力、それは、
てめーらでつけてる性器によって起こしてる。
その性器が勃ったり、濡れたりして、生んでいる。
そして、その自分の性器に、そのような現象と起こさせているのは、
私たちの「エロ」なる精神なんじゃな。こりは、黙ってても勝手に肉体が運動する、
自己治癒機能や女性の生理機能という、強制的(護られてる的)な
神さまに定められた的なことよりも、この「エロ」なる力は、自力的なのだす。
だから、私たちは、スケベであって良いわけです。当然なわけです。
エロい気持ち、スケベな気持ちは、その「エロ」なる「力」を生む、
原動力でもあるんだからよ。
でも、今、人間は、主に文明人は、まったくもって、そのエロに未熟で。
つまり「性」に未熟で、そのエロなるエネルギーを、上手く宇宙のエネルギーとして
還元することが出来てないのですわ。
それは、めちゃくちゃ快いもの、気持ちよいもの、であるために、
その力をコントロールすることが出来ず、その力に溢れ振り回されてたりしてる。
今の人間の起こしてる、犯罪は、すべてが性犯罪と言ってもいいくらい、
それは、「性」の未熟さから、起こしてる。
それは、今の人間の社会そのものが、そのエネルギーを、
上手く導きながら、還元、循環させるような「理性」になってない。
なにしろ、それは、このインターネットや新しいものが普及する力となっているのは、
まず、エロなる世界で、それは理解をうみ、普及します。
それはどんな性格や人種でも、その「明るさ・楽しさ」において、
それが一番みんなにわかりやすい共通性を持っているからです。
だから、この今、その未熟さは、わかりやすいものでもあるけど、
それを改善させるにおいては、教育から、社会のシステムからあらゆるものが、
それを困難にしていて、大きな問題でもあるんだに。
だから、今、私は、これだけを言っておきやす。簡単で大切な智慧だす。
エロ。性のエネルギーを、道徳や倫理観や常識感などで捉えるのも悪い事ではないけど、
それは、人を、生命を、決して閉じこめる方向、感情的にさせるような、
「負」のエネルギーではないこと。
エロは、負と正のエネルギーを、ニュートラルという、
まったく偏見のない公平で自然な愛で溶かし、生まれる、磁力。
それはその力の親でもある性器を持つ私たち人間の生命力そのもの。
それは、喩えて言うと、負のような閉じ込める力ではなく、
胃液で溶かし、それをうんこやおしっこのようなものに変換させて
外に吐き出す力でもあり、出せる事で、入れるもの、空気や食物などを、
体内に注入出来る力となって、その膨張と収縮的で、半永久的自動的に
そのもの自体(自己・自分自身)を運動させるもの、つまり、生命を起こすのエロス!
ゆえに、それは、全てオルガスムス的な波動にそって快く自然に溢れ出て、
吐き出し発散させ振りまく「元気」で明るい「性+生」のエネルギーであるということ。
つまり、生涯において、入れる。出す。を自力で反復させ得る自力。人間の力。
ゆえに、エロは人間そのものであり、人間はエロなのだ。
生きているのだ。と。
だから、そのエネルギーを「負」として使用することで、犯罪は起き、
悪霊はよろこぶ。ということ。
これが、今、人間にとって、大きな問題となってるとうこと。
負なるエロは、それは、排斥的で利己的なる自我エロつまり偽エロで、
嫉妬や憎しみがエロに化けたもので、それ自身が機能障害を起こしたものなので、
負のエロに関わると、人をも、機能障害にさせます。生きる気力仕事する気力をを奪い吸い取ります。
だから、エロがいけないんじゃない、エロに化けた負のお化け、「死・闇」が、
生きようとする人間の魂の輝きを奪い、悪さをそそのかせるのです。
だから、私はある時期から、エロを護ろうと思い立ったわけなのでありやすわ。
それ自体が、仕事、職業でもあるという意識・信念がどーしてもあるんで。
悪霊は、エロにヒョウイして、人をストーカーにしたり、幼児を殺害したりして、
そういう人のエロさ生命力をエロに化けてたぶらかせるのです。
これは、大事な話なのです。誤ったオカルト話でもおかしなシューキョーな話でもなんでもない。
しかし、「エロ」の波動は、春のように人を誰も生き生きとさせ、
しかし自分固有の、オリジナルな、精神性なのです。創造性なのです。
自分の人生を、アートでエンターテイメント、楽しく生き抜くための誰もが
楽しく快く気持ち良い波動なのです。「負」の波動を「正」と一緒に溶かし、
1つにして吐き出す力。生命力と創造力の原理そのもの。
ニュートラルそのもの宇宙そのもの、愛そのもの。しかし恋(欲望)でわない。
エロは恋ではなく愛。
そこんとこ1つよろしくぅ。で、そろそろ、もー、
春よ来い!
窓を開けて外の外気を入れて、空気を波動を、
リフレッシュする季節がまたやってきやす。
どーか、みんなわ。本当の意味で、今後ますますエロくなって、
男でも女でも、俺をも勃起させるような魅力的なヤツになってもらい、
俺を思わず射精させてしまうような人間になっておくり。
誰にも迷惑がかからない自由なヤツなら、同じような相手と、
生きてる間、死ぬまで思い切りセックスを楽しめるよな元気なジジーババーになっておくり。
恋人同士や夫婦なら、人間の持つそのエロを、お互い持つその個性、エロを尊重し、
お互いの自由をお互いで護ってあげながら、これからも仲良く共にエロく生きておくり。
でもって気づいたら子供で来ちゃったりして。それがエロパワーだ。
少子化なこの時代にこそ、エロだわなー。まっこと、エロわ今大事なんじゃ、本当のね。
全ての感覚が研ぎ澄まされる季節。
コミュニケーション。快楽。新たなる成長。新しいモノへの感動。新たなる出発。真の愛。
春=スプリンググリーンは、穏やかでいて、パワー漲る季節。色。
春はもう、みんなの目の前に来てるよ Saybow。^ ^
天の気持ちを、感じようとして今まで50年間生きて来た自分の
育んで来た、何よりも大事な私たち人間が生きるためのアンテナでもある、この感覚と智慧を、フル稼働して、その領域に足を踏む入れてみると、
信頼とか、約束とか、そういうものが、微力的なもの、
まっこと「微」なるちーちゃっこい「力」だという事を教えられます。
必ず春も、そして夏も秋も冬も、その個性その役割その意味その信念を持って、やって来てくれちゃうことの、天気、天の気持ちのこの宇宙の愛をどん欲に誰よりも欲張ってニュートラルなる波動となって同調させ感じようとつとめると、まっこと人間の落ち込んだり悲しんだり苦しんだり愚痴ったり、憎んだりあげくは自殺したりするような人の気、気持ち、その今の人類の全体としての波動として見てしまうと、いくら、もとどうりILUとか唄っても、そんなもん微力も微力であって、どうみたってもうその「気」の力は、「大人」聖職者も不在な、修復が不可能な絶望的な「負」なる磁力の方に強く流れ向っているわけだけど、そんな時には、この天気、天の気持ち、そいつらは、あらゆる生命を逞しく賢く強くさせ、つまり活かすために、護るために、裏切らず必ず来てくれる。
という気力の、その信念の力、その愛の光そのものでもある力、たとえばこういう、絶対に逃げず、消えず、裏切らず、生命を活かすための運動・アートにおける作品群たち、それは春だけではなく、四季という構成力の愛の力を感じるための運動を、自分の内で、ばかばかしいものと思わずしてみることも、智慧なんだね。
人間や動物や植物などの生き物たちは、知識で生きているんじゃなくて、例えば喉が渇いたら誰に教わったわけでもなく、自然に水を飲みたくなり、そのからだは、水を飲もうとする行為、水を飲まないと死んでしまうとか誰にも教わらなくても、「自然」にそのように運動を起こす。ということはどういうことなのか。
それは、私たち生命を持ちこの宇宙に行かされてる生き物は、
知識ではなく、他人ではない自分自身の「感覚」に導かれて生きているということ、さらにそれは今あるあらゆる地球上の人間が起こしては何も解決させないまま無責任に放置させて絶望作品を遺したままにしてる人間にとって、それこそとても大事な「感覚」である事。
私はこの、天の気、天気の人間の倶作品とはまったく比べ物にならない、愛と、責任感の物語でもある素晴らしい作品、「四季」という芸術作品に、思いを抱く、とか、何やってんだもっと金になる仕事しろ!とかアホのような仕事。いちおこれでも同じ創造者という立場からして、そういうまさに肌身でその個性の違いが誰にでも知る事のできる感覚そのものの象徴でもあるような「四季」という作品から、「ザ・感覚」を掴むことは、別に見抜くとかな才能でもなんでもなく、神さまの優しさから誰にでも備えさせてくれてる、生き物の当然の機能だすね。
機能障害になってる生き物がぼんぼん増えて来てる。
それは、不自然なる生き方、考え方をしてるものたち、当たり前であり簡単なことをバカにしては、それを知らず行えず、自分を虚飾と気取りや見栄などで誤摩化しては、地球上のどの生き物より不自然というアホな流れにほとんど誰も危機感も警鐘を鳴らさずに生きてるその主犯であるのは、キツいけど、私たち人間なわけで、それは本来当たり前として存在するべき、それに対して危機感をその感覚に感じ、責任でもあり仕事でもある「子供」なものに対してそういう天の気のこととか真の意味で、間違い過ち未熟で幼稚な事に対して、怒るではなく叱れる護る立場であるべき責任を持って生長教育出来る「大人」がいなくなってきてる。という危機感。を感じる事の出来るせっかくの感覚とかが、「暗い」という愚かなあさ~い鈍感なる怠け者たちの大人ではない大人たち、つまり、政治家や教員とかにその責任おしつける傾向性が結構バレてきつつある、私たちに在る。その主犯なる波動わ。とゆー感じだぁ。
政治家やテレビ解説者とかレポーターとかホリエモンとか。
文句言う権利って、本当は私たちにはないということ知らないの。とてもそれは傲慢なのな。みんな私たちがそれをそこまでにさせて来た責任が絶対にあるのに。
春を感じる。四季にヒントを見る。天の気持ちを理解出来れば、
天変地異とか来たって、この世の終わりが来たって、それは自然だから、自然は不自然なるものの存在、動きには、必ず信念でもって、何かしらのメッセージを送ってくれる。という、決して私たちにとって、天の気は、恐怖したり不安にさせたりする怖いものではなく、護る波動。つまり愛という偉大な芸術家の作品であることを人間なら誰にでも備わっている「アート感覚」で受け止める事ができさえすれば、その気と波動を同調させることが出来るわけなので、無様な態度は起こさずにすむ。これが、類は類を呼ぶ、という波長同通の法則。
人間の持つ理解するという1つの愛の力はこの偉大な芸術家の創造した波動の法則から、それを機能的なものに、つまり人や世の中、自然を護り活かすための運動を生む。
つまり「生命」を護り生かし、生産、創造、生誕させてる。
天の気から生まれた「四季」というそれぞれ個性的な4つたちが1つとなったチームで、機能・運動・はたらくヤツらの中で、
「春」は、その性質そのすみやすい季節性からいって人間にいちばん好かれているので、そんな事を私たちに思い考え閃かせる役としては適役で、そういうチームのスポークスマンでもあるのな。
とゆーのわどーだ。(笑)
”四季”を感じられるこの”地”に生まれたことに感謝します。